聞き書き『爺の肖像』1

●1 愛爺誕生

幼少期

 1937年(昭和12年)1月17日、当時浅野セメント生産課長であった父の赴任先、山口県下関で木村勲の次男として愛爺誕生。

 下関には短期間いただけで、父の生家のあった福岡に戻る。福岡人を自称し、本籍は長らく福岡にあった。

 爺の名「愛二」は、父が『西郷南洲遺訓』の「敬天愛人」より命名。女児なら「愛子」となるはずであったが、また男が生まれてしまったと、「愛」に次男の意の「二」を付けた。長男も「敬天愛人」より敬の字をとって父が命名している。

 1939年に弟、1946年に妹が生まれる。

 1942年に父を追って赴任先の北京に渡るまで過ごしたのは北九州市小倉。八幡製鉄所の近く、到津(いとうづ)川のそば、と記憶しているが、地名としての到津(いとうづ)は存在するが、その地域を流れるのは板櫃川(いたびつがわ)である。「到津川」をネット検索すると「到津川公園」の写真が現われるが、そのサイトに示された地図上の川をgoogleマップと照らし合わせると、やはり板櫃川となっている。板櫃川の別名が到津川である可能性大だが未確認(その後確認。文末追記参照)。

 当時を過ごした家は、父母が働いて建てたものだが、建物疎開で取り壊された。

 父の生家のあった福岡県京都郡豊津町は、犀川町、勝山町と合併し現在みやこ町となっている。

 父・木村勲(1903年‐1989年):5人兄弟妹の長男。次男はブラジルに渡り、三男は伯父に当る征矢野半弥の養子となる。

 戦前の旧制の帝国大学時代に九州大学工学部に学び、旧・浅野セメントに入社、中途、半官半民の北支那開発株式会社に出向し、敗戦後、現・日本セメントに戻った。下関工場の生産課長から本社の生産課長として退職するまで、セメント工学の技術部門の職を歴任し、定年退職後に嘱託として付属研究所に通って研究を続け、九州大学工学部で博士号を取得し、鹿児島大学に工学部が出来た直後、主任教授として赴任した。当時の弟子が、その後、日本セメントの本社生産課長を継いだ。

 祖父の長兄は、福岡日々新聞(現西日本新聞)の「中興の祖」とされる征矢野半弥。板垣退助らの自由民権運動に共鳴し、自由党の代議士にもなった。自由民権運動一憲政実現のために白刃の修羅場をくぐった人物である。「天皇は薩長の傀儡」というのが、木村‐征矢野家の先祖伝来の教えであった。

 征矢野家は元小倉藩、小笠原家の家臣であり、長州征伐で豊津藩に逃げ込んだと伝えられる。(文末追記参照)

 祖父が諸般の都合で、征矢野家の家臣筋の木村家の養子となり、以来木村姓となる。

 愛爺の筆名の一つ、征矢野仁は祖父の旧姓に由来する。

 母・木村タツノ(旧姓・徳永、1906年‐1996年):父は小学校校長。自身も師範学校卒業後女学校の教員(家庭科)をしており、教育熱心であった。母の旧姓徳永は筆名徳永正樹に使われている。

 父の母(祖母)は武士の家系で誇り高く、長男である兄を可愛がった。兄は男児としては色白くおとなしく、祖母の目には武家の血を継ぐ由緒正しい跡継ぎと映ったようである。引き換え次男は色黒く野生的で、「(母の)百姓の血筋を引く」と、祖母からは疎まれたと愛爺は記憶する。母の生家は、庄屋といえども百姓である、と祖母は見なし、嫁姑争いに子供をまきこんだ形になったのかもしれない。

 その分愛爺は祖父木村源次郎に可愛がられた。その祖父は愛爺が中国に渡る前に亡くなったが、仏前で幼い愛爺は、「(意地悪な)おばあさんが死んで、(優しい)おじいさんが生き返りますように」と熱心に唱えたのを記憶している。勿論祖母は「恐ろしい子だ」と激怒した。

 祖母ヨネは戦後父が引き取って1962年に亡くなるまでずっと杉並の家で一緒に暮らした。

2020.4.21追記:亜空間通信736号より
なお、わが家の祖先は、江戸時代、幕府の譜代、現在の福岡県の小倉に城を構える小笠原家、小笠原藩の家臣であった。幕末、長州征伐の先陣を命じられ、武運拙く、逆に長州に攻め込まれ、小倉城に自ら火を放って、粛々と撤退し、山の中の豊津に引き籠もり、豊津藩として明治維新を迎えた一族は、「天皇は薩長の傀儡である」と言い伝えてきたのである。

2019.3.6追記:新修百科辭典より
「いたびつがわ(板櫃川)福岡県小倉市の西方にある川。一に至津川……」とある。

聞き書き『爺の肖像』2 幼年時代