特別寄稿:「ホロコ-スト」の内容は二転三転している

投稿:西岡昌紀(aml ML)

 今日(1月30日)は、「マルコポ-ロ」廃刊事件から5周年に当たります。この日に当たって、何も書かないのは不本意です。

 山崎カヲル先生は、御忙しいのでしょうか。今日までのところ、沈黙しておられます。先生の御答えはもちろん聞かせていただきますが、ただ御答えを待っているだけでは能が無いと思います。今日は、別の問題点を取り上げようと思います。

(山崎先生への質問は、絶対にあいまいにしませんので、山崎先生が御戻りになられたら(笑)、質問した事柄には必ず答えて頂きます)

 今日ここで私が取り上げようと言う問題は、「ホロコ-スト」の内容に一貫性が無いと言う事です。即ち、連合国やそのメディア、それにイスラエル寄りの「歴史家」たちが戦後語って来た「ホロコ-スト」の内容は、実は、過去に何度も変わっているのです。それも、ちょっとやそっとではありません。救い様が無いまでに、内容が二転三転しているのですが、これは、一体どういう事なのでしょうか?

 一例を挙げます。皆さんは、アンネ・フランクが何処で死んだか御存知でしょうか?

 アンネ・フランクが死んだのは、ドイツ北部にあったベルゲン・ベルゼン(Bergen=Belsen)収容所です。

 彼女は、一度はポ-ランドのアウシュヴィッツ収容所(広義)に移送されたものの、そこでは殺されず、戦争末期に再度西方に移送され、ドイツ本国に在ったベルゲン・ベルゼン収容所に収容され、そこで病死しています。

 彼女の悲劇は私達に多くの事を考えさせてくれます。

 その一つは、もちろん、当時のドイツがユダヤ人に対してとった差別政策のひどさであり、私は、言うまでも無く、彼女の死に憤りを持つ人間の一人ですが、今ここでお話ししたいのは、彼女の死因です。それは、「定説」によれば病死とされているのであり、例えば、この様に述べられているのです。

 ---アンネとマルゴットは、10月28日にベルゲン=ベルゼンへ輸送された。(中略)リューネブルグ原野にあったこの収容所には、実はガス室はなかったが、生活諸条件はそこではとりわけ最後の数か月には非常に悪く、数万人の人々が死んだのである。---(ウィリ-・リントウェル著 酒井府+酒井明子訳「アンネ・フランク最後の7か月」徳間書店より)

 言うまでも無く、これは、見直し論者の本ではなく、「ホロコ-スト」に関する「定説」側の本なのですが、この個所に御注目頂きたいのです。

 ・・・この収容所には、実はガス室はなかったが・・・

 つまり、アンネの死は、もちろん悲劇ですけれど、彼女や他の多くのユダヤ人がこの収容所で死んだ理由は、「ガス室」ではなかったのです。

 アウシュヴィッツやトレブリンカに「ガス室」が有ったかどうかは後で論じます。今ここで私が言っている事は、アンネ・フランクが死んだこの収容所(ベルゲン=ベルゼン収容所)に関する限り、「ホロコ-スト」に関する「定説」側の歴史家も、そこに「ガス室」が無かった事は認めていると言う事なのです。

 ところが、戦後間も無い頃、或る歴史家は、その同じベルゲン=ベルゼン収容所について、こんな「歴史」を書いていたのです。

 ---ベルゼンでは、クレーマー[西岡注:同収容所司令官]が、子供たちが母親から引き離され、生きたまま焼かれるのを眺める間、オ-ケストラにウィ-ン風の音楽を彼の為に弾かせ続けた。ガス室で、毎日、何千人もの人々が殺されていたのである。

[In Belsen, Kramer kept an orchestra to play him Vienese music while he watched children torn from their mothers to be burnt alive. Gas chambers disposed of thousands of persons daily.]

(Francis.T.Miller A History of World War II, 1945 p.868 訳:西岡)

 これは、私が自分で国会図書館で調査し、見つけてコピ-をとった記述ですが、御読み下さい。こう書かれてあるではありませんか。

 ---ガス室で、毎日、何千人もの人々が殺されていたのである。---

[Gas chambers disposed of thousands of persons.]

 もう一度言いますが、今日、他の収容所はともかく、このベルゲン=ベルゼン(Belgen=Belsen)収容所に「ガス室」が在ったとはされていません。ところが、戦争直後には、そのベルゲン=ベルゼン収容所での「ガス室大量殺人」が、この様に「ありありと」描写されていたのです。

 話が、変わっているではありませんか。ベルゲン=ベルゼンだけではありません。他にも、こういう例が有るのです。

 例えば、ドイツ南部にあったダッハウ収容所は、かつては映画などでも取り上げられた有名な収容所です。そして、ここでは、戦争末期に、多くの被収容者が衛生状態の悪化から病死すると言う悲劇が起きました。しかし、そこで「ガス室」による殺人は行われたのでしょうか?

 この点について、「定説」側の歴史家の一人、Jonatshan Webblerは、こう書いています。

 ---ダッハウにガス室は無かった---(訳:西岡)

[there were no gas chambers in Dachau.](Jonathan Webbler:Personal Reflections on Ausvhwitz Today in [Auschwitz:A History in Photographs]

 つまり、ここで「ガス室による殺人」は行われていなかった、と「定説」側の歴史家が認めている訳です。

 ところが、このダッハウ収容所に関しても、戦後しばらくの間は、自分は、そこ(ダッハウ)で「ガス室」による大量殺人が行われるのを見た、等と言う「証言」が堂々と語られ、映画や出版物でもそうした光景の描写が使われていたのです。

 ---おかしいとはお思いにならないでしょうか?

 もう一度言いましょう。今日、「定説」側の歴史家たちは、アウシュヴィッツに「ガス室」が有ったとは言っても、このダッハウでガス室が使われていたとは言いません。未完成だったとか、色々な事を言いますが、とにかく、ダッハウでは、アウシュヴィッツと違い、「ガス室」による殺人が行われていなかった、と言うのです。

 それなのに、戦後しばらくの間は、例えば、ブラ-ハと言う人物の「証言」がそうですが、そのダッハウで「ガス室大量殺人」を目撃、とか言う「証言」が、大手を振って語られていたのです。

 つまり、話が変わっているのです。先程お話した、アンネ終焉の地ベルゲン=ベルゼンもそうですが、このダッハウについても、戦後間も無い時期に語られていた「事実」と今日書かれている「事実」が食い違っているのです。「ホロコ-スト」の内容が二転三転している、とは、こういう意味なのです。

 山崎カヲル先生、先生は、この様に「ホロコ-スト」の内容が、戦後実は二転三転している事をどう説明なさるのですか?

 お聞かせ下さい。

 以上。


➡『アウシュウィッツ「ガス室」の真実』 本当の悲劇は何だったのか?