『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』終章2

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近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦

バントゥの思想

 バントゥ語の基本文法と、バントゥ哲学とは、わたしの推理が当っていれば、すでに紀元前8000年頃に確立されていた。わたしは、この推理の材料が出揃った時に、愕然とした。

 だが、同質のおののきの予感は、すでに早くから、ベルギー人のカトリック神父たちをも、襲っていた。神父たちは、ザイール(コンゴ)に布教におもむき、そこでバントゥ哲学に出会い、当惑した。神父のひとり、プラシード・タンペルは、1949年に、つぎのような告白をした。

 「われわれは子どもたち、『大きな子どもたち』を教育しているのだと思っていた、そしてこの仕事はらくな仕事だと思っていた。しかし、われわれはいまや突然、一人前の、自分の知恵を自覚し独特な普遍救済の哲学につらぬかれた一種の人間を相手にしていることを知る。そしてわれわれの足下で大地がずり落ちていくのを感じる」(『アフリカの過去』、P.302~303)

 誇り高いカトリックの伝導者に、このような虚脱感を覚えさせたバントゥ哲学とは、どのようなものだったであろうか。それは、得体の知れぬ、神秘的な魔力を持つものだったのであろうか。

 そうではない。バントゥ哲学は、まさに普遍的で、一般的で、平明そのものであった。それは、まことに人間的であり、むしろ、神秘を否定したものですらあった。バントゥは、人間のみが持つ力を、確信をもって位置づけていた。思想は、決して頭の中だけでつくられるものではない。それは、人間と自然とのかかわり合い、人間と人間との相克を通じて、つまり、行為を通じて形成されるものである。それゆえ、わたしは、以下に紹介するバントゥ哲学のような思想は、人類文化の基本的な要素を、みずから開発し、発展させた人々によってしかきずかれえなかった、と確信する。

 それ以後の、古代・中世の思想のすべては、神を絶対者とし、人間の価値を低めようとした。階級社会の混乱は、思想の混濁を生んでいた。

 バントゥ哲学と比較しうるものは、近代になって確立された科学的な、経済学の体系以外にはない。もちろん、バントゥ哲学には、「資本」、「流通過程」、「剰余価値」または「余剰生産」という概念はない。それは、自家生産・自家消費の経済を反映した思想である。また、たしかに、「神」が含まれている。しかし、それは近代科学以前の思想としては、当然のことである。むしろ、その位置づけの軽さ、抽象性に注目したい。

 さて、文化人類学者の阿部年晴は、ルワンダ人の学者、アレクシス・カガメの『バントゥ哲学』の研究を、つぎのように要約紹介している。

 まず、バントゥ語で、「ントゥ」とは、力である。そして、存在するものはすべて力であり、それは必ず、つぎの四つのカテゴリー(範疇)のいずれかに属する。

 (1) ムントゥ。知性を与えられた力というべきもので、神々や人間がこれに属する。
 (2) キントゥ。いわゆる《物》であり、動植物や鉱物がこれに属する。《眠れる力》あるいは《凍れる力》とでも言うべきもので、それ自体では活動を開始することができず、ムントゥの働きかけがあるときにのみ、目覚めた力として活動するのである。
 (3) クントゥ。いわゆる様式や観念の有する力であり、言葉やリズムはその代表的なものである。ムントゥのみがこの力を操作することができる。ムントゥはこの力を用いて凍れる力、キントゥに働きかける。
 (4) ハントゥ。時間と空間。これも一種の力であり、事物を生起させ、配列する。
(『アフリカの創世記神話』、P.19)

 この「ムントゥ」を人間、「キントゥ」を資本、「クントゥ」を人間のみがもつ労働力、「ハントゥ」を労働期間と生産期間におきかえてみると、まず最初のおどろきが生まれてくる。

 たとえばマルクスは、資本を「死んだ労働」とよんだ。そこには人間の過去の労働が、死んだ形、つまり「凍った力」として眠っている、と考えた。そして、その「死んだ労働」は、人間だけがもつ労働力が働きかけることによって、はじめて生きかえり、新しい生産物の中によみがえるのだ、と説明した。マルクスはまた、生産期間を、工場の中の作業工程としてだけではなく、農作物の種まき、栽培、収穫などの期間としても位置づけた。

 つぎなる驚異は、この思想体系がバントゥ語族の、すべての文法をつらぬいている事実である。わたしの手元には、スワヒリ語の簡単な文法書しかない。だが、当面はこれだけあれば、基本的な問題点はよくわかる。そして、わたしがそういえることさえ、バントゥ語族、またはバントゥ文化圏の、驚異のひとつなのである。

 あの広大な地帯に、なぜ同一語族の人々がひろがっているのだろうか。しかも、スワヒリ語が、共通の国際語として通用するのは、なぜだろうか。スワヒリ語は、東海岸でアラブ語の単語を若干とりいれはしたが、基本的にバントゥ語である。そして、中世のアラブ商人は決して、内陸にはいりこまなかった。わずかに旅行者が見聞をのこしているだけである。ところがスワヒリ語は、ザイールの西海岸でも通用する。それはなぜだろうか。

 わたしは、最初に、広大な中世帝国の役割を考えた。しかし、西アフリカを例にとると、そこには、何種類もの国際語がある。つまり、歴史的な諸帝国、諸王国の領域や通商圏のひろがりを反映して、いくつかの地方別に、国際語がわかれている。ところが、バントゥ語族の領域は、あまりにも広すぎる。

 スワヒリ語の歴史がどれほど古いものかについては、具体的に書かれたものがない。しかしわたしは、はるか先史時代からの歴史を考えている。スワヒリ語の基本となった言語は、後世になって国際語となったものではなくて、最初からの共通語であったのだ、と考える。なぜそう考えるのかといえば、それは、スワヒリ語の、またはバントゥ語族の文法が、その歴史を語っているからだ。

 スワヒリ語の名詞は、接頭辞によって、単数、複数を表わす。しかし、その接頭辞の発音が、つぎの部類に、明確にわけられている。

 (1)「人間」部類、……「ムントゥ」
 (2)「樹木」部類、……「キントゥ」の中の植物。
 (3)「果物」部類、……「キントゥ」の中の収穫物、または生産物。
 (4)「事物」部類、……「キントゥ」の中の鉱物、または無生物。
 (5)「動物」部類、……「キントゥ」の中の動物(その他を含む)。
 (6)「抽象」部類、……「クントゥ」にかかわりある状態(その他を含む)。
 (7)「動作」部類、……「クントゥ」がはたらいている状態。
 (8)「場所」部類、……「ハントゥ」の中の空間。

 以上の分類のうち、「動物」と「動作」だけは、わたしが部類名をおぎなった。また、スワヒリ語は、本来のバントゥ語よりも、すこし簡略化されているらしい。つまり、部類の数がへっている。

 さて、なぜこのような文法が発生したのであろうか。これが不思議である。インド・ヨーロッパ語の名詞は、おおむね、男性・女性、中性となっている。これは、男女の分業にもとづくもの、と説明できる。おそらく、戦士型の牧畜民族が、古くからあった母系制の農耕社会を征服した時に、父系制の伝統をきずいたことに起因するのであろう。では、バントゥ語の文法の原理は、どういう社会、どういう経済の上に成り立ったものであろうか。それはまた、いつごろのことだったのだろうか。

 わたしがこの疑問を、つきつめて考えたのは、本書の、おおむねの結論をまとめたのちであった。つまり、農耕・牧畜・金属文化の起源地を、バントゥ文化圏にさだめることに、確信を抱いたのちであった。そして、このバントゥの、力ある人々の王国から、どのようにして、新しい文化がひろがり、人々が移住し、各地の狩猟・採集民を同化していったのであろうか、という想像をめぐらしていた。

 その時、突如として謎がとけた。コトバであった。力ある人々は、コトバを持っていた。それは彼らの生活を通じて、新しく秩序立てられたコトバであった。

 だが、そのコトバとともに、新しい文化を受けとった人々にとっては、コトバは、はじめから存在していた。

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