『亜空間通信』751号(2004/04/04) 阿修羅投稿を再録

イラクで麻薬密売が急増の情報に拙著『読売新聞・歴史検証』関連箇所を加えて歴史の輪廻の恐怖

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『亜空間通信』751号(2004/04/04)
【イラクで麻薬密売が急増の情報に拙著『読売新聞・歴史検証』関連箇所を加えて歴史の輪廻の恐怖】

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転送、転載、引用、訳出、大歓迎!

 4月1日に創刊号を発行した季刊『真相の深層』の発送作業に追われて、この亜空間通信は、一週間、間引きとなった。まだ、その発送作業は終了していない。事前の予約者が多かったので、これは「嬉しい悲鳴」なのである。

 しかし、本日の以下の阿修羅戦争50掲示板投稿には、一言、いわゆる「コピペ」で、情報を追加しないわけにはいかない。以下、日本も「したなる」阿片謀略の歴史の輪廻の恐怖を、深めて置く。

1)------------------------------------------------------------
イラクで麻薬密売が急増 抵抗勢力の弱体化狙い米などが画策 (日刊ベリタ)ー相変わらず汚い手を使うアメリカ
http://www.asyura2.com/0403/war50/msg/429.html
投稿者 ああ、やっぱり 日時 2004 年 4 月 03 日 22:06:41:5/1orr4gevN/c

イラクで麻薬密売が急増 抵抗勢力の弱体化狙い米などが画策
http://www.nikkanberita.com/

【東京3日=齊藤力二朗】3月30日付のヨルダンの週刊誌アッサビールは、イスラエルとアメリカの機関がイラクのレジスタンスの力を殺ぐためにコカインやハシーシの売買を助長していると報じた。抵抗勢力は、米軍指揮下で麻薬密売業者に手を貸すポーランド、ウクライナ両軍兵士を襲撃する声明を出した。

2)------------------------------------------------------------
http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-6-6.html
『読売新聞・歴史検証』
(6-6)「阿片漸禁」による「専売」で「百六十万円の収入増」立案

「阿片漸禁」による「専売」で「百六十万円の収入増」立案

 さらに重大な問題が、巧みに隠蔽または偽装されたまま、最近まで事実上、アカデミズムに無視されてきた。後藤らは台湾の産業開発に先んじて阿片専売による巨利を企み、成功していたのである。

 阿片の吸飲は日本国内では厳禁だった。中国本土でも禁止運動が広がっていた。それを知りながら、後藤は、台湾では阿片を禁止せずに「漸禁」の専売政策を実施し、「医療用」に専売したのである。「漸禁」の名による阿片許可の政策は、財政目的だけではなくて、現地人を阿片漬けにし、反抗を押さえる目的をも合わせ持っていた。イギリスと中国の阿片戦争の例を引くまでもなく、阿片は歴史的に、植民地支配の根幹としての役割を果たしてきたのである。

 しかも後藤は、実は、一般に流布されている経歴の説明とは違って、いきなり「民政局長」に任命されたのではなかった。その二年前の一九八六年に「台湾総督府衛生顧問」になっていたのである。そうなった理由は、そのさらに前年の一九八五年、内務省衛生局時代に、内務大臣と首相兼台湾事務局総裁という立場の伊藤博文に対して、大変な長文の「台湾島阿片制度施行に関する意見書」を提出していたからであった。

 後藤がまとめた阿片「漸禁」政策は、実は、かれの創意になるものではなかった。すでに台湾総督府の前任者から、阿片を厳禁すると、現地の反抗を押さえられないという意見が上がっていた。

 現地の中国人社会の実情は、本来の台湾人に阿片を売り付けることで成り立っているような、一種の植民地型の経済支配であった。さきに記したように、「地主などの上流層を宴会政治で籠絡した」と表される警察型の支配政策は、現在も日本国内で続いている警察と暴力団の馴れ合いのようなものである。「上流層」には、阿片窟のボスや、暗黒街の帝王などが含まれていたに違いない。

 後藤の上にいた伊藤博文は、権力政治家としても帝国主義者としても、さらに筋金入りの先輩だった。『後藤新平』(1)には、なぜか記されていないのだが、発見できた限りでもっとも古い評伝、『後藤新平論』によると、一九八六年に後藤は、伊藤博文や台湾の二代目の総督、桂太郎らに随行して台湾に渡っている。同年に「台湾総督府衛生顧問」となり、その二年後に、台湾総督府民政局長に任命されるという順序である。

 もう一つ、やはり鶴見の『後藤新平』より古い評伝、『後藤新平一代記』によると、後藤は、台湾の阿片問題以前に児玉の紹介で伊藤と会い、『日本新王道論』と題する政策を提言している。台湾の阿片「漸禁」政策については、大蔵大臣や文部大臣らの有力閣僚の猛反対があった。そこで伊藤が、旧知の内務省衛生局長の後藤の、実務家としての献策を入れるという陣立てで、閣内の反対意見を押さえ込んだというのが、ことの真相なのではないだろうか。

 伊藤博文(一八四一~一九〇九)は、長州閥の長老であるが、一八八二年にドイツ帝国統一以前のプロイセンで憲法や諸制度の調査に当たっている。その点でも後藤の先輩である。伊藤は、首相として日清戦争を推進し、元老として日露戦争をバックアップした。韓国統監府の初代統監として保護国化、併合を強行し、ハルビン駅頭で韓国の独立運動家、安重根に撃たれて死んだ。安重根は、現在の南北朝鮮で最高の英雄として尊敬されている。拡張主義者の伊藤が後藤の献策を入れる形で、台湾の阿片「漸禁」政策を強引に決定したという経過の裏には、日露戦争の戦費をユダヤ財閥のロスチャイルド家に仰いだような、日本帝国主義の戦争経済の懐勘定が潜んでいたという疑いが濃厚である。

 阿片問題は、台湾支配のための政策、および財源として決定的な重要性を持っていた。『後藤新平』(1)には、ご都合主義の持ち上げであるが、非常に詳しい記述がある。「台湾の阿片問題」の項は、二四頁にもおよんでいる。当人側の基本資料にさえ、それだけの材料があるのに、なぜか類書には阿片問題が記されていないことが多いので、その点を、ここで厳しく指摘しておく。

 たとえば『岩波講座/近代日本と植民地』(3)では、後藤が台湾に渡る以前に『台湾統治救急案』をまとめていた経過を記している。さらには、後藤の植民地経営の根本に「社会資本整備」があったことを、その後の満鉄経営、東京市長としての都市計画などとの関連で考察している。だが、そこには、「阿片」問題ばかりではなく、「文装的武備」論の指摘も皆無である。これでは到底、批判的研究とはいいがたい。非常にアカデミックに見える岩波書店編集の「講座」にも、江藤総務庁長官流の「いいこともした」放言を許す「官学」の限界が、典型的に見られるのである。

 短い記述にもかかわらず、後藤と阿片専売の関係を明確に指摘しているのは、在野の研究者、木元茂夫がまとめた『「アジア侵略の一〇〇年/日清戦争からPKO派兵まで』(社会評論社)である。同書では、さきに記した長文の「台湾島阿片制度施行に関する意見書」を、つぎのように要約紹介している。

「阿片輸入税は、八十万円にものぼるもので、その需要の巨額なことがわかる。これを政府の専売とし、禁止税の意味で、この輸入税額に三倍の価格を加え、阿片特許薬舗で、政府より発行の通帳持参の者に、喫烟用として売渡すことにすれば、漸次その需要者を減らし、青年子弟をして、その悪習に陥ることを防ぐことに効果があり、国庫はさらに百六十万円の収入を増加することができる」

 当時の台湾で消費されていた阿片は、ほとんどが輸入品であった。そこで「阿片輸入税」によるピンハネ増大の案を練ったわけである。後藤の案では、この収益は、すべて医療関係に役立てるべきであって、他の行政費に回せば「弊害を生ずる」となっていた。だが、その原則が守られたかどうかは保障の限りではない。

 最近の例を引けば、湾岸戦争への拠出金の場合にも、日本が出した分は軍事目的ではないという趣旨の国会答弁があった。国力と釣り合わない軍事費を支出する独裁国への「平和産業向けODA」供与についての疑問もある。元来、貨幣とは、あらゆる商品と交換できるからこそ貨幣なのである。実際の行財政の財布は、どの国でも、どの植民地でも、一つである。子供だましの答弁が押し通せるのは、議会と称する議論なしで時代遅れの芝居小屋の中だけにしてほしいものである。

 しかも後藤は、その後、日本国内でも阿片の原料が採れるケシの栽培を試みている。『戦争と日本阿片小史』(すばる書房)は、「阿片王」と呼ばれた二反長音蔵の息子で、児童文学者の二反長半が執筆し、「いまわの際」に校正までを終えたという痛恨のドキュメントである。そこには、「後藤の後援で、日本では殆ど栽培不可能とされたケシ栽培阿片製造に成功」した経過が描かれている。

 後藤らが創始した日本の「阿片漸禁政策」は、台湾から満州、蒙疆(内蒙古)、中国本土、東南アジアへと広がった。そこでの阿片収入は、医療関係どころか、ほぼ公然と軍の機密費、占領地の行政費にまで充当された。「専売」の制限も無視された。蘆溝橋事件の際の現地軍参謀、池田純久が書いた『陸軍葬儀委員長』には、「阿片の商標日の丸」という項がある。日本人の「一旗組」が「治外法権を楯に日の丸の国旗を掲げて公然と阿片を売って」いたので、現地の中国人が「阿片の商標」だと思い込み、憎くつき阿片屋の旗を焼き捨てたっつもりで、国際紛争が頻発したというのである。この間の事情および原資料は、『日中アヘン戦争』(江口圭一、岩波新書)に詳しい。

 一〇年間の台湾統治で評価を高めた後藤は、八年後の一九〇六年、南満州鉄道株式会社(満鉄)の初代総裁に就任した。こちらも日本の植民地経営の事業としては、当時最大の規模のものであった。後藤は、台湾、満州と、相次ぐ難関の植民地経営で実績を挙げたことになる。
 [後略]

以上。


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