【憲法と有事法制シリーズその1】
憲法第9条と有事法制
有事法制は憲法「交戦権放棄」条項を最後的に葬るもの
−「後方支援」から一足飛びに「先制的武力行使」が可能に、しかも「領域外」で−

2002年7月3日
アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局


(1)はじめに
 政府が今国会での衆院通過を今なおあきらめない有事法制関連3法案は、日本国憲法の3大原則――平和主義、基本的人権の尊重、国民主権――をことごとく否定し蹂躙するものです。本シリーズでは、有事法制がどのような意味で日本国憲法のこの3つの根本原則を否定し停止させるかを考えたいと思います。第1回目は「憲法第9条と有事法制」です。
 この憲法第9条が、どれほど多くのアジアの民衆の犠牲と辛苦の中から、そして第2次世界大戦での人類の悲惨と惨禍の中から生み出されたのかについてはここでは触れません。しかしこの特異な平和主義条項、希有な戦争放棄条項は、誕生の時だけではなく、誕生後も、制定されたその直後から、政治的対立の中でもみくちゃにされてきました。
 日本国憲法第9条は、少しも古くはなっていません。それどころかブッシュ政権の戦争拡大政策と小泉政権の加担の中でますます輝きを増しています。どこまで空洞化されようと、どれほど否定されようと、私たちは憲法第9条を最後まで守り抜かねばなりません。


(2)「交戦権放棄」条項は有事法制で最後的に葬られることになる。
 日本国憲法の第2章「戦争の放棄」、第9条にはこう書いてあります。まず第1項で、戦争放棄、武力による紛争の解決放棄など平和的手段による紛争の解決を根本精神とし明確に明文化し、その上でその担保として第2項で「戦力の不保持」と「交戦権放棄」の2つの条件を規定しているのです。
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
 有事法制は、何よりもまず、この第1項に真っ向から対立するものです。現政権がやるべきことは、憲法の平和原則に基づき、戦争も、武力による威嚇も、武力行使による国際紛争の解決も否定する断固とした平和外交、一貫した善隣友好政策のはずです。ブッシュ政権に加担して共同で武力行使をすることでも、そのための「戦争国家体制」作りをすることでもありません。「備えあれば憂いなし」という戦争準備自体が憲法違反なのです。
 また有事法制は、第2項の、「交戦権放棄」条項を全面的に否定するものです。前段の「戦力の不保持」はすでに完全に否定されてしまいました。今回の有事法制は後段の「交戦権放棄」までも完全に否定するのです。「交戦権」は、@他国への直接的な武力行使、A国家総動員体制の確立、この2つの要素からなると考えられます。有事法制はこの2つの要素を同時に突破するのです。日本の軍国主義は有事法制によって「交戦権放棄」を全面否定する最後的な段階を迎えたのではないでしょうか
 以下に述べるのは、一方では「交戦権放棄」を否定する空洞化と解釈改憲の歴史ですが、他方ではそれを必死の思いで抵抗してきた反戦平和勢力、護憲勢力の闘いの歴史でもあります。私たちは、憲法の「交戦権放棄」条項をめぐる政治的対立関係を歴史的に捉えることで、有事法制の危険性を浮き彫りにしたいと思います。この条項は、まさにその政治的解釈、憲法的法的解釈をめぐって、生きた政治の中で激しく闘われ、安保と反安保、自衛隊と反自衛隊、基地と反基地、軍国主義と反軍国主義、改憲と護憲、反動と進歩の闘いの中心的争点になってきたのです。


(3)真っ先に掘り崩された憲法第9条第2項「戦力の不保持」条項。
 真っ先に掘り崩されたのは憲法第9条第2項で規定された「戦力の不保持」条項でした。「軍備の放棄」、すなわち「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」の解釈改憲による否定が朝鮮戦争の開戦(1950年6月)の真っ只中で、再軍備のかけ声とともに最初に標的になったのです。「警察予備隊」(陸上自衛隊の前身)という名称でごまかされましたが、人的にも組織的にも装備的にも旧日本帝国軍隊の復活以外の何物でもありませんでした。1950年8月のことです。海上自衛隊の前身である「海上警備隊」が発足したのは1952年4月、これも朝鮮戦争の最中でした。「警察予備隊」と「海上警備隊」を統轄する組織として1952年8月に「保安庁」(防衛庁の前身)が創設され、朝鮮戦争休戦後の1954年7月に防衛庁が発足し、航空戦力を加えて、現在の自衛隊の体制が成立したのです。
 あとは量的質的な拡大と増強の一途。自衛隊は発足以来、憲法に違反して、着実に「軍隊」としての兵力・装備を保持し既成事実を積み重ね、今や軍事費や近代装備の点で世界の3位グループに属するほどに膨張し巨大な存在になりました。しかも本質的には自衛隊は孤立した存在ではなく、様々な共同作戦と指揮命令系統を通じて在日米軍基地や極東をカバーする第7艦隊を中心とするアメリカの前方展開戦力と結合・一体化しており、米日両軍はアジアの脅威の最大の源泉となっているのです。「北朝鮮の脅威」「中国の脅威」を騒ぎ立てるのは因果関係を転倒させた、為にする議論でしかありません。


(4)政治的焦点は「戦力不保持」から「交戦権放棄」へ。
 日本の保守反動政権は、朝鮮戦争の衝撃で、「戦力の保持」には成功しました。しかし憲法第9条第2項の後段部分、「交戦権放棄」条項を一挙に否定することは非常に困難でした。何よりも、敗戦からまだ5年、10年前後しか経っていませんでした。戦争の犠牲と傷跡は色濃く残っていましたし、厭戦気分は国民全体をまだ支配していました。
 また、歴代自民党政権自身が、誰が考えても違憲の存在でしかない自衛隊を内外の力関係の下で無理矢理認めさせ、その存在を確保するためには、特定の条件と制約を自らに課さなければならなかったのです。「専守防衛」と「集団的自衛権行使の否定」を中心にして、「戦略的攻撃的兵器を持たない」「海外派兵は行わない」「非核三原則の堅持」「文民統制の確保」「核兵器等の保有の否定」「先制攻撃の否定」などがそれです。もちろんこれらの条件や制約は、自民党と自衛隊の側から見れば、「個別的自衛権」を盾にして強引な軍備増強を計るためには必要不可欠だったのです。しかし反戦平和運動の側、護憲運動の側から見れば、闘い取った貴重な成果でした。


(5)PKO法によって、「領域外」問題でも「武力行使」問題でも「交戦権放棄」条項に初めて「風穴」が開けられる。
 確かに自衛隊の行動を規定した「自衛隊法」の「防衛出動」条項は、「日本の領域内」に限ったものとはいえ、武力行使、つまり「交戦権の承認」に道を開きました。けれども憲法の「交戦権放棄」条項を、「専守防衛」なり「個別自衛権」というフィクションと解釈改憲でしか否定できないという状況は、逆に「自衛隊法」の「防衛出動」条項においてもそのまま制約として残り、事実上「交戦権」を二重に封じてきたと言えるのです。
 第一に、日本が攻撃されなければ発動できない、厳密な意味での「防衛出動」しかできないということです。当然ながら「領域外」での「交戦権」は認められないということになりました。
 第二に、「本土防衛」を目的とする「国家総動員体制」を作ることができなかったことです。自民党政権と自衛隊からすれば現実に「交戦権」を保障するには「国家総動員体制」が不可欠です。しかしソ連を仮想敵としていた米ソ冷戦時代、「有事法制」はその研究すら一大政治問題になり、与野党の激しい対立となった経緯があります。そして米ソ冷戦が終焉し1990年代に行って以降、「日本領域内」における「交戦権」は、他国による対日侵攻そのものを想定することさえ非現実的になった結果、一層形骸化したのです。
 この状態は1992年PKO法の成立によって「風穴」が開けられました。私たちもその当時危惧したように、PKO協力法はまさしく戦後初めて「日本領域外」での「武器使用」を認めるものだったのです。しかし湾岸戦争の殺戮と破壊の記憶はまだ生々しく、国会内外で激しい反対運動が展開されました。世論と反戦平和運動の声に押されて、「武器使用」の条件はPKO活動に参加する「隊員個人の自己防衛」だけに極めて厳しく限定され制限されたものとなりました。自民党政権はとにもかくにもPKO活動に自衛隊を参加させるのが精一杯でした。法律を通すために「組織的な防衛や反撃」は「交戦権の行使」に当たると弁解し、「個人的自己防衛」以外の「武器使用」を否定せざるを得なかったのです。
 しかも、PKO法は、大きな枠組みではアメリカの影響力から外れるものではありませんが、あくまでも国連の指揮下の軍事行動であって、米軍の直接の指揮下の軍事行動ではありませんでした。


(6)「周辺事態法」で初めて朝鮮半島有事、台湾海峡有事を想定した「領域外」での対米支援が可能になる。
 1999年の「周辺事態法」の成立で「交戦権」問題は新たな段階を迎えました。「周辺事態法」は、「日本領域外」での米軍の侵略戦争への参加・軍事協力に道を開き、そのことで自衛隊そのものによる「交戦権」を直接問題にしたのです。しかしここでも国内世論と反戦平和運動の声を恐れた政府与党は曖昧な対応でごまかそうとしました。
 第一に、「周辺事態」概念の解釈をめぐる訳の分からない答弁です。「周辺」とは何か。「事態」とは何か。結局、今なお政府与党の誰もがこの質問にまともに答えられないのです。しかし「周辺事態」とは朝鮮半島有事、台湾海峡有事のことであり、東アジアでの米の侵略戦争と軍事脅迫を念頭に置いた「日本領域外」での侵略戦争に加担することは明らかです。
 第二に、対米軍事協力の内容と性格をめぐる対立と論争です。政府与党は「戦闘地域」と「後方地域」、「戦闘」と「後方支援」をあえて人為的に区別し、自衛隊は「戦闘行動」には加わらず、もっぱら「後方支援」のみ行う、と弁明したのです。憲法の「交戦権放棄」条項は、ある意味で死に、ある意味で生きていることがここでも分かります。政府は批判を恐れたのでしょう。「戦闘に巻き込まれれば後方支援を中断し待避する」と答え、実際には不可能な「待避シナリオ」で国内世論の批判を回避しようとしたのです。「交戦権放棄」条項そのものの否定には踏み込めなかったのです。


(7)「テロ対策特措法」で対米軍事協力の「領域外」範囲を一挙にインド洋にまで拡大する。
 日本の「周辺」を大きく離れ、「日本の防衛」と全く関係のない地域の全く関係のない事態に対して自衛隊の海外派兵を可能にしたのは、昨年11月の「テロ対策特別措置法」が初めてでした。実際、艦船の補給・輸送については、インド洋(ペルシャ湾を含む)とその上空、ディエゴ・ガルシア島、オーストラリアの領域、インド洋の沿岸と日本の領域からこれに至る地域に所在する経由地・燃料等の積卸地となる国の領域にまで一挙に拡大されたのです。航空機の輸送についても、グアム島とそれに係る米国の領海の上空、ディエゴ・ガルシア島、インド洋の沿岸と日本の領域からこれに至る地域に所在する経由地などに拡大されました。しかもアメリカによる無法な対アフガニスタン侵略戦争という「戦時下」において自衛隊が出動するのも戦後初めてのことでした。
 ところがこの段階でもなお自衛隊の活動は「後方支援」が中心で、いわば兵站業務が基幹任務でした。同法は「米国等の軍隊等の活動に対して協力支援活動を実施する」と称して、(ア)補給:艦船による艦船用燃料等の補給、(イ)輸送:艦船による艦船用燃料等の輸送、航空機による人員及び物品の輸送、(ウ)その他:修理及び整備、医療、港湾業務という「後方支援」に協力業務を限定することが決められました。
 「武力行使」は部隊や艦船の「自衛」の範囲に限定されました。要人警護の任務につくことさえできなかったのです。その意味でまだ直接的な武力行使には公然と踏み込めなかったと言えます。
 日米安保条約の上でも、このような「周辺事態法」や「テロ対策特措法」のような野放図な脱法行為は、本来的には許されないことです。「日本防衛」に対して日米が共同対処することが許されているのは第5条ですが、この条文はあくまでも「日本防衛」に限定しているのです。日本周辺における紛争への対処は第6条が該当するのですが、この条項では日米共同軍事行動は禁じられており、ただ基地提供が許されているだけなのです。この意味で安保条約そのものがすでになし崩し的に破棄されているのです。
★日米安全保障条約 第五条(共同防衛)
1 各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。
2 前記の武力攻撃及びその結果として執った全ての措置は、国際連合憲章第五十一条の規定に従つて直ちに国際連合安全保障理事会に報告しなければならない。その措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全を回復し維持するために必要な措置を執つたときは、終止しなければならない。
★日米安全保障条約 第六条(基地の許与)
1 日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持の寄与するため、アメリカ合州国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。
2 前記の施設及び区域の使用並びに日本国における合州国軍隊の地位は、千九百五十二年二月二十八日に東京で署名された日本国とアメリカ合州国との間の安全保障条約第三条に基づく行政協定(改正を含む。)に代わる別個の協定及び合意される他の取極により規律される。
 以上の歴史的経緯を見れば分かるように、この段階までは、「交戦権放棄」条項の否定は、主としてその適用領域をめぐるなし崩し的拡大の形で先行して進みました。「領域内」から「領域外」へ、「周辺」から「インド洋」へ。しかし「武力行使」の性格と内容についてはあくまでも米軍への「後方支援」(兵站)に限定されてきました。しかし日本国憲法の原理原則「国の交戦権は、これを認めない」という「交戦権放棄」規定は、いよいよ皮一枚のところまで来ました。残るは「直接的な武力行使」そのものを認めるか否かにまで事態が突き詰められたのです。


(8)遂に有事法制で「後方支援」から「直接的武力行使」へ踏み込む。しかも一挙に「先制攻撃」も可能に。
 今回の「武力攻撃事態法案」、つまり有事法制は、まさにこの最後の皮一枚、「直接的武力行使」にあからさまに踏み込んだのです。最後の一線を突破したと言えるでしょう。そしてまるでタガが外れたように、どんな状況下でも、どんな地域でも、どんな戦闘行為も可能になるかのようなめちゃくちゃな法律をどさくさ紛れに策定し提出したのです。
 第一に、すでにインド洋にまで拡大された「領域外」行動は、有事法制では「行動範囲」をめぐる何の制約も限定もなくなりました。「領域内」はもちろん、「領域外」のどこででも活動できるようになったのです。
 第二に、戦後初めて「武力行使」を可能とする法律です。自衛隊の行う戦闘行為に何の制約も付けていません。当然といえば当然です。「日本が攻撃された場合」というフィクションを前提にこの法案を組み立てているのですから。どんな反撃でも出来るという訳です。同法にはこうあります。「武力攻撃が発生した事態においては、武力攻撃を排除しつつ、その速やかな終結を図らなければならない。この場合において、武力の行使は、事態に応じ合理的に必要と判断される限度においてなされなければならない。」と。
 第三に、同法の発動要件がことごとく曖昧にされ、首相と時の内閣が自らの思惑と判断で勝手に開戦できるようになっているのです。実際には米政府とペンタゴンの判断が決めるのですが。この点で特に危険なのは先制攻撃です。同法は「わが国に対する武力攻撃」だけではなく、「武力攻撃のおそれのある場合」や「武力攻撃が予測されるに至った事態」を法案に盛り込んでいますが、国会審議の中で明らかになったように、実はこれは先制攻撃を可能にする恐ろしい条項なのです。もちろんこれも米の先制攻撃戦略に忠実に呼応するものなのですが。
★その実例の一つは、国会審議の中で明示されました。福田官房長官は北朝鮮がミサイルに燃料注入を始めるなど「日本への攻撃の意図が明らかな場合は先制攻撃が可能である」と答弁したのです。(しかし燃料注入の情報を独占しているのは米軍だけ。米の謀略や政治的軍事的判断一つで日本が動くことになるのは目に見えています)。更に安倍官房副長官はそれを核弾頭付きのミサイルで攻撃しても憲法に違反しないと畳みかけて公言しました。他国を核攻撃しても「自国の防衛」というのです。もうこれは“侵略の論理”以外の何物でもありません。「専守防衛」も「先制攻撃の否定」も「非核三原則の堅持」も「集団自衛権行使の否定」も全て一挙にかなぐり捨てるものなのです。
★もう一つ国会答弁の中で繰り返された危険な発言があります。公海上の日本の自衛艦、船舶に対する「組織的、計画的攻撃は、日本に対する攻撃とみなす」というものです。トンキン湾事件ですでに知られているようにアメリカのベトナム戦争をはじめ他国に対する侵略戦争は自国の軍艦への発砲を口実に行われてきました。まさにこれもまた“侵略の論理”なのです。しかも、「計画的、組織的かどうか」を判定し、武力攻撃事態を宣言するのは首相の独断なのであり、その政治的思惑ひとつで戦争が始められることになるのです。
★福田官房長官や安倍官房副長官らのように、他国への「先制攻撃」を「専守防衛」と言いくるめることは、安保条約そのものの重大な変更でもあります。彼らが主張するのは、日本による他国への先制攻撃も、アメリカによる他国への先制攻撃も、「日本の防衛」=「5条事態」ということになるのです。従って、例えばアメリカが勝手に北朝鮮を先制攻撃する場合、「日本を攻撃する準備中の基地を攻撃した」と解釈すれば「日本防衛」だということになり、日米の共同軍事行動、共同の侵略戦争が可能になることになる訳です。こんな考え方がまかり通れば「5条事態」と「6条事態」の区別も必要なくなります。とにかく好き勝手に振る舞えるわけですから。

 このように「交戦権」の規定と対米軍事協力は、今回の有事法制によって、「後方支援」から「直接的武力行使」へ、更には「先制武力攻撃」へ一挙にエスカレートする非常に危険な状況になってしまいました。私たちはここで踏ん張らねばなりません。有事法制の成立を許せば、憲法第9条は、その「交戦権放棄」条項は名実ともに最後的に葬られるのです。


(9)「三矢研究」以来タブーの「国家総動員体制」作りの法律化に一挙に踏み込む。
 前述したように、「交戦権放棄」条項は、2重の条件によってかろうじて維持されてきました。@「交戦そのもの」「武力行使そのもの」を認める法律の欠如、A実際に戦争を遂行するための「戦争国家体制」「国家総動員体制」の法的制度的保証の欠如です。そして有事法制こそ、この2重の条件を両方ともクリアする法律であるということも述べました。
 ここでは2番目の条件について少し立ち入って問題にしたいと思います。有事法制の危険はこの第2の条件にも戦後初めて手を付け、現に戦争を遂行できるように国家体制を整えるところにあるからです。有事法制は、アメリカが引き起こす侵略戦争に「国をあげて」協力するために「関係諸機関」や「地方自治体」、更には国民、市民の一人一人にまで「協力」という名の義務と服従を強いることであり、そのための国内治安弾圧体制を合法化する法律なのです。「包括法」である今回の「武力攻撃事態法」関連3法案が可決され、その下に2年間をかけて「個別法」ができれば、日本が侵略戦争を遂行する法的制度的保証がが全て完成することになるのです。
 小泉首相は「備えあれば憂いなし」としらっと簡単に言い切っていますが、戦争準備を露骨に進めることなどこれまでは許されませんでした。「有事研究」すら非難ごうごうの中でやっと進められるという状況だったのです。
−−有事法制の研究は1953年、朝鮮戦争の真っ最中に、保安隊を自衛隊へと改組して行く段階ですでに開始されていました。もちろん一般国民の知らないところで、旧軍人たち、自衛隊制服組の秘密作業でした。
−−この密室での有事法制研究の実態が、初めて国会で暴露され国民に衝撃を与えたのは、いわゆる「三矢研究」でした。1963年のことです。それは戦術核兵器の使用可能性を明記するとともに、「非常事態措置法令」(国家総動員体制の確立等)の整備までを網羅する非常に恐ろしいものでした。
−−1978年、ソ連ミグ戦闘機による函館空港強制着陸事件の際、当時の栗栖統合幕僚会議議長は、奇襲攻撃を受けた時どうするかとの質問に「そのときは第一線指揮官の判断で超法規的に行動するしかない」と答え、国民世論と反戦平和勢力の側の総反発を受け辞職させられました。ところが、これを逆手にとって当時の福田首相は「有事立法研究」の促進を公然と指示したのです。その背景には、1981年のレーガン政権誕生を控え、米ソ冷戦が新しい緊張激化の段階に向かう軍事情勢の変化がありました。「日米防衛協力のためのガイドライン」作りが錦の御旗になりました。
−−それから約20年が経過し、1996年の「日米安保共同宣言」、「日米安保再定義」を皮切りに、1997年に日米ガイドラインが改定(78年版の改定)されました。1999年に国会で成立した「周辺事態法」は、この日米新ガイドラインの根幹部分が法制化されたものであり、「有事法制」がもう一つの根幹部分として別途法制化が残されることになったのです。
 このように、いずれにしても「有事法制研究」は、これまでは国家総動員体制、国内治安弾圧体制の「研究」として政治問題化してきた経緯があります。ところが、「周辺事態法」を経て、今回は「有事法制」を一気に法制化し、本格的な「戦争動員体制」作りに突き進もうというのです。「有事法制」が法律の形で国会上程されたのも、法律成立後に直ぐにその制度化を進めると断言するのも初めてです。何としても有事法制を阻止しなければなりません。小泉政権をそのまま放置すればどこまで暴走するか分かりません。



シリーズ 有事法制:討論と報告