憲法改悪論議の加速を許してはならない
――「戦争ができる国家」作り、国民の権利制限のための自民党憲法草案を暴露しよう!
――国民投票法案の制定を許すな!
−−前原民主党は自民党の憲法改悪論議に手を貸すな!


はじめに−−小泉圧勝の下での憲法改悪の加速を踏まえてどうするか

 10月28日、自民党は党新憲法草案を決定した。11月22日の自民党結党50年記念大会で正式発表する。私たちは先に自民党が目指す憲法観の反動的転換には2つの方向性があることを示した。第一に、9条改憲による侵略戦争、派兵・武力行使の自由への道。第二に、国民の権利・自由の制限と義務・責務の強制である。
※アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局「憲法改悪と教育基本法改悪に反対する5・1討論集会基調」参照

 今回の草案にも転換の結果は遺憾なく発揮されている。民主党や公明党との妥協を狙って、草案から「自民党らしさ」や「保守色」が消去されたというのは一面の真理に過ぎない。案を詳細にみればその本質は何ら変わっていない。

 憲法改悪ことに9条改悪を持論とする前原誠司を代表とした民主党は、改憲論議に乗り遅れまいと10月31日「憲法提言」を発表した。各マスコミも、衆院総選挙の結果が出るまで一旦下火となった改憲論議に再び火をつけようとしている。曰く「新憲法草案、民主・公明も自民に続け」「国民的議論へ重要なたたき台だ」「国を守る責務は評価する」等々、改憲とそれで政府・支配層が実現しようとする国家像に対する根本的批判は皆無である。

 自民党と与党の衆議院選挙での圧倒的勝利、改憲派前原――鳩山の民主党代表・幹事長への就任と、改憲に向けた動きが一挙に加速する危険な条件は、客観的には十分出揃っているようにも思える。しかし、民主党は改憲の議論を進めれば進めるほど内部の抗争を高め、結果として解党に向かいかねない下でどこまで進もうとするのか、また改憲論議での自民と民主の与野党「大連合」状態で自党が埋没することを恐れる「加憲」の公明党が、どこまで論議の進展を許そうとするのか等、議会内部でさえさまざまな不安定要因が存在する。

 小論は、小泉政権下での憲法改悪論議が一挙に加速する危険性を常にはらみつつ、実際にはどこまで進展するのかを、各党派・各勢力の動きを客観的に分析しつつ、出来うる限り冷静にみきわめようとする所にその目的の一つがある。それは力関係が自民党・与党の側に、さらに改憲を進めようとする財界・支配層の側に圧倒的に有利な中でも、なおかつ彼らの矛盾・弱点がどこに存在するのかを探り、改憲反対運動をいかに構築するかを探る活動の一端である。
 次に自民党憲法改正草案を中心に、発表された限りでの改憲案に対する批判を強化することにある。それは改憲とそれが実現しようとする国家像を暴露し、それらがグローバル資本とそれに巣くう一部の人々に利益をもたらすものでしかなく、広範な日本人民の利益に根本的に反することを理論的に暴露し、反対運動を強化するためである。

2005年11月16日
アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局




【1】「戦争ができる国家」を目指し、国民に義務・責務を強制する自民党新憲法草案

 やはり、というべきである。10月28日自民党が決定した「新憲法草案」は、憲法を「権力を縛る規範」から「人民を縛り支配する規範」へ、という私たちも先に指摘した憲法観の大転換で貫かれている。「保守色を抑えた」だの「他党との協調を優先した」だとの論議は野党を巻き込んで改憲論議を進めたいもののマヌーバーに過ぎない。憲法観の反動的大転換を覆い隠す論議でしかない。しかも、この転換は、2つの方向性、すなわち9条改憲による侵略戦争の自由、海外派兵・武力行使の自由、第二に国民の権利・自由の「公益及び公の秩序」の名の下での制限と義務・責務の強制という形で示された。

 言うまでもなく、9条が最大の争点である。マスコミ等でも9条改憲が大きく取り扱われている。もちろん改憲派の最大の狙いがそこにあり、おそらく野党をも巻き込んで進行するかもしれない改憲論議はそこが焦点になるかもしれないことは否定できない。
 しかし、9条だけに目を奪われるのではなく、自民党が「新憲法草案」として改憲の姿をトータルに示した以上、私たちの批判も憲法の条文全体(少なくとも自民党が改悪した部分)に及び、改憲戦略そのもののトータルな批判が必要となることは言うまでもないが、ここではその批判を、自民党による最も本質的で最も反動的と思える条文に絞ることとする。一つは9条、二つ目は「人権の制約」に関する問題、そして「信教の自由」に関する問題である。これらに必要な条文(前文)についてその都度触れていくことにする。


1)米軍と自衛隊を融合・一体化させ、アメリカと一体となって世界中に軍事介入を行う保証としての9条改憲
 新憲法草案9条にはいくつもの問題点が含まれている。第一に、現行憲法9条1項の(平和主義)を置いたままでの「自衛軍」保持の規定の欺瞞。第二に、自衛軍の任務の中で「国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動」と規定された、結局は米・米軍と一体となって世界中で侵略戦争・介入戦争を行うことの宣言。第三に、「自衛軍の組織及び統制に関する事項」を別の法律にゆだねるという規定。

 第一の問題について。現行憲法9条1項で示された「国権の発動たる戦争」と「武力による威嚇または武力の行使」の放棄の規定、すなわち「平和主義」は、第2項の「戦力不保持」「交戦権の否定」と一体の規定であり、この第2項によって第1項は強力に担保されていたのである。「自衛軍」=軍隊を持った上での戦争と武力行使の否定とは、これほどの欺瞞、嘘っぱち、空文句はない。現に自衛隊は戦地イラクへの派兵にまで及んでいる。最近の『中間報告』と日米基地再編、日米同盟のグローバル軍事介入同盟への質的飛躍などを踏まえれば、このような9条改憲は、無制限の海外派兵という危険な方向に道を開くのは明らかだ。自民党は戦後50年間に国民の間に定着した1項「平和主義」をわざと残すことによって煙幕を張り、それを2項以降に表される露骨な軍事力、軍国主義=よろい、海外派兵を隠ぺいする衣にしようとしているのである。

 自民党憲法草案は、自民党政権が戦後60年間一貫して憲法を蔑ろにし、ある時は恣意的解釈、ある時はまったく無視をして、軍隊の保有・増強から始め、その活動想定範囲も日本国内に限られたものから、極東アジアへと拡大し、実際の活動もPKOによって海外各地へ、「テロ特措法」ではインド洋まで、ついには「戦地」イラクにまで「復興支援」を名目に拡大したこと、「武器の使用」も無制限に拡大していったことを背景に作られている。今や米・米軍と一体となってイラク戦争のような侵略戦争を進めることを憲法上で明言するに至ったのである。
 自民党こそが憲法と「現実」の乖離を進めた張本人である。その張本人が、今度は憲法の側に、「現実」に合わなくなった、米と一体となった日本帝国主義・日本軍国主義の海外派兵やグローバル軍事介入の、米国が作り出す「現実」に追従せよというのである。

 第二の問題はまさにそういうことである。9条2項の3「国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動を行うことができる」は、人権侵害を根絶する、圧制から民衆を解放するといった名目で武力行使を公然と行う米国型の侵略・介入戦争に参加する道を拓く内容である。これはまた自民党憲法草案の「前文」とも完全に一致している。現行憲法には「平和的生存権」と言われてきた権利が明記されている。すなわち、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」という部分である。自民党草案はこのような思想・精神をすっぽり欠落させた。そして残ったものは「圧制や人権侵害を根絶させるために、不断の努力を行う」である。何のことはない、これは小泉がイラク派兵の際に現行憲法の「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」をつまみ食い的に使用したように、「国際貢献活動」と称した武力行使に道を拓いたということである。現行憲法の「平和的生存権」は、平和的な手段で「専制と隷従、圧迫と偏狭」を除去する努力を惜しまないと言っているのだが、それが消えているということは、自民党に言わせれば「平和」も「安全」も結局武力でしか生まれない、武力でしか創れないと、米国が行ってきたような「先制攻撃」をも含む武力行使に同調することを意味する。

 第三の問題。自民党憲法草案は「自衛軍の組織及び統制に関する事項」を別の法律で定めるとしている。どうやら民主党と同じ様なことを考えて「安全保障基本法」のような別の法律に委ねるということである。このようないわゆる「委任立法」ほど危険なものはない。憲法による委任を名目に時の政府が好き勝手な法律を作り出すことができるからである。徴兵制だってこの法律では可能となる。

 最後に現行憲法の平和主義に関わって指摘しておくべきことがある。それは、現行憲法の平和主義、ひいては憲法そのものが、「自衛権」を名目に日本はもとより、アジア太平洋諸国や連合国に途方もない人的物的被害を出して終わった侵略戦争の惨禍を二度と繰り返さないという、痛切な反省を制定の根拠にしているということである。そして侵略戦争を起こさないということは同時に、帝国憲法下で制限・侵害されていた人民の自由を保障することだとして「わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し」と規定したのである。しかし、自民党の前文には以上すべての表現が消し去られている。要するに戦争とそれをもたらした自由の制限に対する反省に立って、民主主義的な憲法を制定するという歴史的認識・精神・思想が全く欠落しているのである。
 その上で残ったものは、「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概を持って自ら支え守る責務を共有」せよとの「愛国心」の上からの押し付けである。結局、自民党憲法草案は、戦争の反省や過去の日本の侵略戦争と植民地支配という歴史的認識を欠如させたままで、平和的生存権や9条2項を削除しているのである。この憲法に残されたものは、米軍と一体となって自衛軍を海外に派兵し武力行使によって帝国主義的「国益」の実現を図るという帝国主義的侵略国家・軍国主義国家への道でしかない。


2)現憲法で保証された「基本的人権」理念を覆し、「公益」「公の秩序」で制約する12条
 自民党憲法草案は、現行憲法の「公共の福祉」という文言をすべて「公益及び公の秩序」に置き換えている。また、現行憲法第12条に相当する規定の表題を「国民の責務」とし、自由及び権利の行使に関して「責任及び義務」による制限を設けている。「近代憲法の理念を覆すような重大な改変」である。
※「市民の権利 憲法理念を覆す人権の制約」(大山勇一 「週刊金曜日」第580号 自民党「新憲法案」批判)参照
 自民党憲法改悪の方向性の一つ、国民の権利・自由の制限と義務・責務の強制、の問題に関しては主に三つの問題がある。一つは軍事的要請をも含めた国家秩序全般を指すとしか思えない「公益及び公の秩序」という規定の問題、第二に、保守反動の自民党がなぜ「新しい人権」を憲法に盛り込もうとするのかという問題、第三に「新しい人権」を重視することでこれまで保障されてきた権利が軽視されるのではないかという問題、である。

 第一の問題。現行憲法においても国民の基本的人権は「公共の福祉」による制約を受けている。しかしここにいう「公共の福祉」とは、ある人権が他人の人権と矛盾・衝突する場合の解決を図る公平の原理であるときわめて限定的に理解されてきた。つまり、「人権に必然的に内在する制約」なのである。
 ところが自民党案はこれを「公益及び公の秩序」とすべて言い換えている。新しく創設するとされる「自衛軍」の活動には「公の秩序の維持のための活動」(第9条の2第3項)が含まれていることを考えると、自民党案のいう「公益及び公の秩序」は軍事力の発動、あるいは軍事の要請も含めた国家が求める秩序全般を指すとしか考えられない。この言葉でもって「人権の外部にあって人権を制約する国家利益を憲法上認めさせようとしている」に他ならない。このような「公共の福祉」概念の改変は、憲法が国家の権力行使を縛る「制限規範」だという近代憲法理念を蔑ろにする議論である。

 国家秩序による制約を広く認めることは、現行憲法の規定を字面では多く残した第三章の人権規定全般に計り知れない悪影響を与える。後で見る「新しい人権」をいくら付加したところで「公益及び公の秩序」による制約が広範に認められることになれば、人権保障はないに等しいものになってしまう。
 例えば憲法改悪後「自衛軍」の活動を批判する言論活動はどういう目に合うか。本来ならば表現活動の自由として保障されなければならないところを「軍事上の機密保持」「国家秩序の維持」などといった「公益」が強調され、何ら他人の人権を侵害していなくとも報道規制、集会規制等が行われる可能性も出てくる。この間、イラク派兵をめぐるビラ配布をめぐり「立川テント村」事件をはじめ不当逮捕・起訴が相次いだが、そのような事態が合憲として憲法改悪後はまかり通ることになってしまう。

 第二の問題。自民党案は「障害」による差別の禁止、「自己についての情報に関する保障」(プライバシー権)、「国政上の行為に関する説明の責務」、「環境権」、「犯罪被害者の権利」、「知的財産権」といった新しい人権を定めている。しかし、これら新しい権利とされるものは、明文の規定こそないが、憲法制定から60年にわたる人権闘争、人権擁護の闘いの中で、憲法条文の解釈によってそれぞれ憲法上の根拠が与えられてきた。プライバシー権は幸福追求権(第13条)等から、知る権利は表現の自由(第21条)から、環境権は13条と25条から、というように。あえて憲法に新しい人権と明文規定を設ける意義はないのである。
 そもそも自民党ほど、従来「新しい人権」に否定的どころかそれを蔑ろにしてきた政党はない。環境権については、大企業を優遇しそれらが垂れ流す汚染した大気、水、騒音などの規制を一貫して怠ってきた。生態系を破壊し、公共事業や米軍基地建設を今なお強行しようとしている。プライバシー権などあらばこそ、通信内容を公的機関が傍受することを認める盗聴法を成立させるわ、住基ネットで住民の個人情報は丸裸にするわ、至る所に設置した監視カメラで市民生活の監視を常態化させるわ、人権蹂躙を繰り返してきたのである。そんな党が何を今更「新しい人権」か。
 目的は一つである。自民党が「新しい人権」を持ち出すのは、「時代に即した新しい権利を確立すべきだ」という世論調査における高い支持を利用し、それに訴えかけ、さらに「新しい人権」にご執心の民主党や「加憲」の公明党を巻き込んで、九条を最大のターゲットとした改憲の世論・気運を高めようとする戦略・方便にすぎないのだ。

 第三の問題について。そもそも憲法に明文化されていなければ、いかなる人権も人権として認められないのかという問題があるが、さらには「新しい人権」のみを重視すると、これまで保障されてきた他の権利が軽視される恐れがある。例えばプライバシー保護を口実に、先に述べた「立川テント村」弾圧事件がそうであったように、各戸へのビラ配りなどの市民運動、政治活動の取り締まりは確実に強化される。報道機関による取材や報道に今以上に不当な規制が及ぶ。また、犯罪被害者の権利についても、これを強調しすぎると、そもそも刑事裁判とは無罪の発見にあり適正手続きによって被告人・被疑者の権利を保障するという刑事司法の本来の本質をあやうくしかねない。「障害」による差別禁止についても、そもそも「障害」という用語が適切かどうかという問題に加えて、「障害」者としての扱いが固定化してしまう危惧もある。環境権についても規定されているが、これは国の努力義務を定めたプログラム規定・精神規定に止まっている。具体的な立法を待たなければ、実質的な環境保護は望めない。

 自民党案の人権に関わる部分をこうして見てくると、本来権力を縛るものであった憲法の意義を180度転換させ、国家が国民生活を「公益」の名の下に容易に統制できる社会作りを目指すものであることが暴露される。9条改悪による軍国主義国家作りと一体となった国内治安体制作り、警察国家作りである。


3)首相の靖国参拝を可能にする20条
 日本国憲法がそもそもこれほどまでに厳格な政教分離の原則を要請するのは、戦前・戦中、神道が国家と結びついて国民から信教の自由を奪い、天皇崇拝を通して侵略戦争や植民地支配を正当化したということに対する痛切な反省からである。従ってこの規定は現行憲法の三原則、平和主義、国民主権、基本的人権の尊重と深く関わった規定である。
 しかし、今回の自民党案は、政教分離原則は維持すると見せかけた上で、国や自治体が宗教的活動等をしても憲法違反にならない例外を認めた。「社会的儀礼又は習慣的行為の範囲」を超えない宗教的活動は宗教的活動でもないというのである。
 なぜこのような例外的規定、「緩和」を狙ったのか。まず明白なのは首相の靖国神社参拝を合憲化することである。現行の政教分離規定に基づいて起こされた訴訟の中ではしばしば靖国参拝について、大阪高裁はじめ違憲判断が下されたことを、さすがの小泉も自民党も無視できない。小泉が五度目の参拝をきわめて簡略な形で行い、私的参拝だと強弁するのもはっきり自分が違憲行為を行ってきたことを自覚しているからに他ならない。秋の例大祭初日とはいえ特別な日でもないときに神社に出かけ、ポケットから賽銭を取り出して拝殿からはるか本殿を眺め普通に手を合わすことは、「社会的儀礼」「習慣的行為」のうちではないかということである。改悪された憲法下では、今回の小泉参拝は合憲と言いたいのである。こうして地方の護国神社に自衛隊の制服組が参列して玉串料を納めて拝礼することも、殉職自衛官が護国神社に合祀されることも、すべて「社会的儀礼」「習俗的行為」ということで合憲となってしまうのである。

 新たな憲法で軍国主義化が目指されている時、政教分離原則をゆるがせにすることは特別な意味を持つ。戦前・戦中の靖国神社が「英霊」を祀る場所として軍国主義を鼓舞したように、新たな戦死者を祀る場所が政教分離原則の「緩和」によって確保されるような事態は軍国主義を復活させる危険きわまる策動という他ない。



【2】自民党と同じ国家作りを目指す民主党案

 民主党は、今夏あたりは「憲法改正は、次の総選挙で政権をとってから、具体的に作業すればいい」(幹部)と改憲に対してどちらかというと高をくくったような態度を取り、自民党が改憲に向けて作業を進める中でも改憲論議が進むことを警戒し、7月都議選、総選挙でも改憲が争点になることは得策でないとの判断に立っていたようである。しかし、総選挙での敗北、その後の改憲論者前原――鳩山の執行部就任、自民党からの改憲草案の発表等は改憲論者、「対案」論者、前原を焦らせた。自民党案発表からわずか三日後の10月31日「憲法提言」なる箇条書き文書を急遽発表した。

 まず初めに改憲ありきという自民党が設定した土俵に、乗り遅れまいと焦る民主党の姿勢そのものに問題ありということもさりながら、民主党案の危険性は、その土俵上で自民党案に飲み込まれかねない、いやもっと言えば民主党の側がむしろ率先して自民党が易々と憲法改悪を行える地ならしというべき役割を含む内容が表明されていることにある。その端的な例を憲法9条、すなわち平和主義の問題、「新たな人権問題」に限ってみていきたい。

1)軍隊を持ち、海外派兵を認める点で同じ。「国連」を隠れ蓑にするだけ。
 なんら実態の無くなる「平和主義」を掲げ、「自衛権」=軍隊を持ち、「国際活動」を名目とした武力行使をも含む海外派兵を認めるという意味では、民主党案と自民党案の本質は同じである。違いは、誰の指揮下で軍事行動、海外派兵を行うかという点だけだ。自民党案が、海外派兵を米軍の指揮下で行うと明け透けに語るところを、民主党案は国連の指揮下で行うという。しかし日米軍事一体化の既成事実の積み重ねから、また国連における米国の決定的影響力からして、日本の軍事行動が結局米国や米軍の指揮下でしかでき得ないことを隠蔽しているという意味では民主党案はより悪質である。

 民主党案は「平和主義」にあたる「より確かな安全保障の枠組みを形成するために」(もはや事柄は平和主義ではない、「安全保障」である)の中で、まず現行憲法の「平和主義」は「深く国民生活に根付いており、平和国家日本の形を国民及び海外に表明するものとして今後も引き継ぐべき」であると宣する。しかしこれは自民党案のように9条の1項だけをつまみ食いして2項以降を改悪した姿勢となんら選ぶところはない。なぜなら民主党案にも9条1項を実際的・具体的に担保するものとしての武力の放棄もなければ、交戦権の放棄もない。あるのは「制約された自衛権」と称される軍隊・武力集団の存在である。民主党は日本国家が武力保持を正当化する理屈として国連憲章第51条に記された「自衛権」、すなわち、国連の集団安全保障活動が作動するまでの間の、緊急避難的な活動に限定されているものを持ち出す。その上でこれは「専守防衛」の考えに重なるというのである。専守防衛に徹する自衛隊ならばこれに一切手をつける必要はない、ということである。

 それにしても今国連憲章51条を持ち出すほどむなしいことはない。現在国連の集団安全保障活動は機能するどころか、世界で最大の力と軍隊を有する米・米軍が時には国連と対立しながら、時には「多国籍軍」「有志連合」に国連のお墨付きを無理やり取り付けて、自国の利害(石油・資源の確保、軍事覇権、核独占体制維持等々)のためにわがまま一杯に振る舞っているのが世界の現状なのである。米の先制攻撃、明らかな侵略・介入攻撃に対して、もし国連と国連憲章がまともに機能するならば、米のイラク侵略に対して「制約された自衛権」を発動するのは、現に起こったこととは逆にイラクの側であり、懲罰されるのは米国自身であるはずである。「国連の集団安全保障活動」は結局多くは米のためのものというのが現実なのである。

 民主党の「平和主義」も自民党のそれと選ぶ所のないのは、いわゆる「国際活動」「集団安全保障活動」の問題でも表れている。民主党案は「国際社会の平和を脅かすものに対して、国際社会の国際活動と協調してこれに対処していく」と述べる。「国際社会の平和を脅かすもの」とは一体どういったものが念頭に置かれているのだろう。国際テロ組織?テロ組織に物心両面の支援を行いかねないテロ支援国家?核開発を進めるイラン、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)?それとも軍事の近代化を進める中国?こんな認識では自民党ともいや米国の情勢認識とも何の区別もできない。しかも民主党は憲法に何らかの形で、国連が主導する集団安全保障活動への参加を位置付け、明確な規定を設けるという。これにより、国際連合における「正当な意志決定に基づく安全保障活動とその他の活動を明確に区分し、後者に対しては日本国民の意志としてこれに参加しないことを明確にする」という。日本国憲法の厳密な解釈は、国際連合の正当な意志決定に基づくものであっても安全保障活動への参加は許されないということであろうが、「その他の活動」とは一体何のことであろう。例えば民主党は自衛隊のイラク派遣についてはどう考え、どういう態度を取るのだろうか。いずれにしても民主党は「現状において国連集団安全保障活動の一環として展開されている国連多国籍軍の活動や国連平和維持活動(PKO)への参加」を認め、「それらは、その活動の範囲内においては集団安全保障活動としての武力の行使をも含むものであるが、その関与の程度については日本国が自主的に選択する」という。「自主的」というのが、何に対しての「自主的」なのか理解に苦しむが、「自主的」でありさえすれば「武力行使」にも参加するという。民主党はイラク「多国籍軍」に所属する自衛隊の活動を認めるのだろうか、さらにその武力行使まで認めるのだろうか。「国連の集団安全保障活動」を隠れ蓑にしているだけで、結局民主党は日本の軍隊の無際限の海外派兵と武力行使を認めるということである。

 いや、一歩進んで武力行使について民主党はこれを公然と認めた。それも「自衛権」についても、「国連主導の集団安全保障活動への参加」においても「必要最小限の武力の行使」、武力行使は「強い抑制的姿勢の下に置かれるべきである」というのである。まったく反吐が出るような表現である。軍事や軍隊とは無縁で無知な、戦争マニアの青二才が書いた「作文」としか思えない。「必要最小限」「強い抑制的姿勢」の下の武力行使とは、実際の軍隊の論理や戦争の論理を知らない者の発言であり、「武力」を弄ぶ危険極まるものである。

 民主党案が自民党案と強い類似性を持つのは、「安全保障基本法」等「附属法」「委任法」を別に設けようとしているところにも表れている。これは先に指摘したように、その立法意図はともかく、その時々の政府が恣意的に定めることのできる法律が合憲として、憲法に根拠を持って立てられるということである。これほど危険なことはない。

 以上概観しただけでも民主党「憲法提言」の現行9条関連の部分は危険に満ちたものである。このような議論をベースにしておれば自民党は喜んで民主党との協議に応じ9条改憲に突き進むだろう。むしろ自民党に率先して民主党が悪い議論をリードする可能性を含む提言である。自民党は左うちわで鷹揚に民主党案を受け入れるだろう。そのような本質の案なのである。


2)同じく「新しい人権」で自民党案とすりあわせできる。
 「新しい人権」を考える前提として、民主党は人権あるいは環境についてこれを良好に維持するために「国民の義務」という概念に代えて「共同の責務」という考えを提示する。地域(国)や世代の対立を超えて、「責務」を共同で果たし、互いに権利を思いやりながら暮らしていける社会の実現を目指すというのである。それはまた、<国家や個人の対立>や<社会と個人の対立>を前提に個人の権利を位置付ける考えに立つのではなく、国家と社会と個人の協力の総和が「人間の尊厳」を保障することを確認するという。
 ここではおよそ人権や人間の諸権利というものが、絶対主義国家、専制主義国家等と個人との厳しい対立・闘争を通じて勝ち取られ、それが近代憲法上にも普遍の価値として明文化されたという人類の歴史さえ踏まえられていない。
 民主党が自己の憲法観をいくら「そもそも憲法とは、主権者である国民が、国家機構等に公権力を委ねるとともに、その限界を設け、これをみずからの監視下に置き、コントロールするための基本ルール」だと強弁したところで、人権を語る部分で、はしなくも結局は自民党と異ならない憲法観・国家観を持っていることを暴露したということである。自民党の「憲法改正草案大綱」(2004年11月)は言う。「二一世紀における現代憲法は、国家と国民とを対峙させた権力制限規範というにとどまらず、『国民の利益ひいては国益を護り、増進させるために公私の役割分担を定め、国家と地域社会・国民とがそれぞれに協働しながら共生する社会をつくっていくための、透明性のあるルールの束』としての側面を有することに注目すべきである」と。これと民主党案の「共同責務」論のどこが異なるというのであろう。
※自民党「憲法改正草案大綱」http://www.kyodo-center.jp/ugoki/kiji/jimin-souan.htm

 このような憲法観・国家観を持つ党がいくら「新たな人権」を語ったところで、その人権は「国益」や、より大きな「秩序」の前に出れば引っ込むようなものでしかないものは目に見えている。現に民主党は「曖昧な『公共の福祉』」を再定義せよ、としている。ことに財産権に関連してであるが、その財産の性質によっては「公共の福祉」に服すべき場合がより強く想定されるものについては、「その制約原理や基準を憲法上明確に」せよと要求している。人権の制約原理や基準をより厳しく明文化せよというのである。

 さらに、民主党のいう「新しい人権」は驚くほど自民党案のそれと似通っている。曰く、「国民の知る権利」「プライバシー権」「知的財産権」それに加えて「犯罪被害者の人権」。いつでも「新しい人権」を通じて自民党と憲法協議に入れそうである。

 平和主義、人権の尊重という現日本国憲法の根幹に関わる部分の改憲要求だけを見ても民主党案と自民党案の類似性は簡単に見て取れる。それは結局憲法観・国家観を同じくするものの案であるからに他ならない。危険なのは何でも「対案路線」を打ち出した改憲確信犯・前原、鳩山がはしゃぎ回って憲法改悪論議の先鞭を付けようとすることである。決してないとはいえない可能性に私たちは警戒を怠ってはならない。



【3】自公民合意で改憲手続きを狙う国民投票法案の現在

1)早期制定で一致するも各論ではバラバラの対応
 9月22日、衆院本会議で憲法「改正」手続きを定める国民投票法案を審議するための憲法調査特別委員会が設置された。自公は国民投票法案を一旦は特別国会に提出することで合意していたが、実際開催された特別委員会内の論議では、各党、各委員の思惑、対応はバラバラであり、特別国会での上程など困難であることが明白となった。
 委員会冒頭、自公民の委員はもちろん投票法案の早期制定で一致し、憲法「改悪」への具体的手続きが進むことへの危険性はまったく去っていない。来年の通常国会での制定を狙っているようであるが、自民党ペースで改憲論議が進むことを依然警戒する公明、独自の投票法案の「対案」を示して「対抗」しようとする民主の動向もあり、成立までにジグザグの過程をたどるだろうというのがマスコミも含む大方の予想である。この過程を憲法改悪そのものに反対する勢力が利用し、手続き法ごと葬り去れるチャンスとできないものか、これが当面の最大の焦点に浮上している。

 衆院憲法調査特別委員会そのものは10月27日、今特別国会での最後の審議を行い、各党が総括意見を発表した。自公は民主党との合意を重視しているようであり、特別委は年内に論点を整理し、来年の通常国会での法案の成立を目指すとしているようである。
※「国民投票法案 年内に論点を整理 与党、自公民の合意重視」(産経新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051028-00000007-san-pol


2)依然去らぬ国民投票運動に対する規制・弾圧の危険
 特別委員会での論点は三点に絞られたとされている。第一は投票年齢、第二に憲法「改正」案を一括して国民投票にかけるかテーマごとにするかの投票方式、そして最後にメディア規制を含む国民投票運動そのものに対する規制・弾圧の問題である。最後の問題を論ずる前に第一、第二の問題点を簡単に指摘する。

 国政選挙と同じ二十歳か、十八歳に引き下げるか――要は自民党が、若者の投票が憲法「改悪」に有利と判断するか否かの問題である。万一憲法草案のように「自衛軍」の設置を日本国民が認め、米軍と一体となった海外派兵も侵略も認めるとした時、将来その集中的な犠牲は若者、それも社会的に恵まれない若者となると予測できるのであるが、それを現代の若者が否というかどうかということである。日本国憲法下で育った普通の若者なら当然否という答えを期待したいところであるが、9月総選挙の際の若い人々の投票行動、「小泉人気」は必ずしも予想通りの結果となるとは限らないことを示しているのではないか。むしろ新自由主義的改革の中で進行する若者の状態の悪化と不安定、将来への不安と絶望、その欲求不満が自民党の政策、より排外主義的で軍国主義的な政策を支持することがないとはいえないのである。もちろんそれは、グローバル資本を背景とする小泉はじめ自民党政権、支配層に反対する勢力が若者をどれだけ惹き付けることができるかにかかっている。そうしたことに対する各党のぎりぎりまでの判断留保が続くことだろう。

 投票方式については、自民党は「基準を形式的に決めるのは困難」(保岡興治)として、国会が憲法「改正」案を発議する段階で決める案が主流となっているようだ。個別に投票した場合、関連する条文なのに賛否が分かれる可能性があるというが、実はすべての条文を国民に「白紙委任」させたいというのが本音なのであろう。「前文」「9条改正」「国民の義務・責務」の条文は何としてもはずしたくはない。個別であろうと抱き合わせであろうと絶対否決されたくない所である。
 一方民主党では「可能な限り論点ごと」(枝野幸男)との意見が主流である。しかし他方で民主党は、矛盾したことだが一項目でも反対があれば改憲案全体が否決されることを恐れている。これはむしろ犯罪的である。改憲を前提として、改憲案を全体として国民に飲ませることを考えているからである。
 公明党は現行憲法に新たな条項を加える「加憲」を主張することから、社民党は9条と環境権などとの「抱き合わせ」改悪を警戒することから、いずれも個別投票に傾いている。特別委では個別投票が大勢を占めている。

 最大の問題は国民投票の際の運動規制に関わる点である。憲法改正案への賛否を訴える国民投票運動に各党とも「必要最小限」で一致している。これはこれで大問題である。いわば国の在り方、国の行く末を決める憲法投票が万が一問題になった時、その賛否の主張が何の規制も弾圧もなく行われることなどいわば当然のことではないか。各党は罰則で対応が異なるといった所、五十歩百歩の差でしかない。民主党は「飲み屋で憲法談義をし、上司がごちそうしたら刑事罰に問われかねない」(枝野氏)と買収・利益誘導罪に反対している。それにしてもこの程度のレベルの問題が罪に問われかねないとして話題になること自体が異常である。自民党は「投票行動との因果関係で判断可能」と反論し、公職選挙法を参考に規制を設けるべきだと主張している。昨年末に与党がまとめた虚偽報道禁止などメディア規制について民主党は「罰則は不要」と主張しているが、与党は依然撤回していない。国民投票法案そのものが問題であるが、運動規制などまして論外である。政府・与党はあらゆる法律をつくるたびに国民に罰則の網をかけることを試みている。


3)国民投票法案、国会法案に断固反対を
 国会レベルでは改憲が当然のごとく、その手続き法案の論議が「粛々と」進んでいる。まったくの異常事態である。ほとんど得票数に差がないのに小選挙区比例代表制のマジックで小泉は大勝した。それと同様で日本国民の間で改憲、護憲の世論の間にいくら控えめに見てもそう大差がついているとは思えない。圧倒的多数の国民が改憲を要求しているとは思えないのである。9条などは改憲に反対する国民の方が多いことを各種世論は示している。(もちろんメディアは意図的に9条1項と2項を別々に調査し、1項存続の世論は多いが、2項は改正派が多いと世論誘導をはかっている。)
 いつの間にか政府・支配層とその意を受けたマスコミに改憲が当然のごとき世論を煽られている。私たちはそうした攻撃を暴露し、改憲そのものの危険性を徹底暴露し、その手続き法の成立に反対していかねばならない。改憲は一朝一夕で行われるものではない。それはいくつかの段階を経て行われるのである。私たちはその一つ一つの現れと闘っていかねばならない。



【4】改憲の流れにいかに抗し、反対運動を強化するか

 先述したように、自民党と最大野党民主党、それぞれの改憲案の内容における溝はそれほど深くない。それどころか両者は極めて似通っている。私たちは内容からすれば両党の協議、改憲への両党のステップアップはそう遠くないことに、警戒感を持たねばならない。
 自民党結党50周年の11月末を期して、自民党が改憲の大合唱を大手マスコミを巻き込んで大々的に行うことは容易に予想できる。改憲が当たり前のごとき攻勢に浮き足立ってはならない。
 私たちは何よりも憲法論議がそう易々と進むものか冷静に見極める必要がある。小泉自身が在任中の改憲には慎重である。何より国民投票法案、国会法も未成立である。各党内の憲法論議がそう急速に進むか。民主党内のさまざまな部分が改憲で一本化できるのか。また公明党は自民党との憲法協議に簡単に臨もうとするか。

 とはいえ力関係次第で改悪論議は急速に進む危険性を情勢は常に孕んでいる。米軍再編に伴う日米同盟関係の再編・強化の中で、アメリカの日本への改憲要求は一層強まるかもしれない。その時民主党が逆に自民党の改憲を引っぱるような振る舞いをした場合最悪である。

 私たちはこのような中で憲法改悪の意味、それが日本人民にもたらすであろう災厄を地道に訴えることから始めなければならない。そして小泉「構造改革」の進展の中で徐々に噴き出すであろう人民の不平・不満を、小泉「構造改革」そのものに、そしてその一つの決算としての憲法改悪・教育基本法反対運動に組織していかねばならない。