子どもに関する事件【事例】



注 :
加害者や担当教師名等については、個人に問題を帰すよりも、社会全体の、あるいは学校、教師全体の問題として捉えるべきではないかと考え、匿名にしてあります。学校名については類似事件と区別するためと、隠蔽をはかるよりも、学校も、地域も、事実を事実として重く受けとめて、二度と同じ悲劇を繰り返さないで欲しいという願いを込めて、そのまま使用しています。
S.TAKEDA
010331 暴行殺人 2003.3.9.  2003.7.21更新
2001/3/31 滋賀県大津市で、障害者手帳2級を持つ青木悠くん(16)を、顔見知りの少年2人S(17)とH(15)が高校の合格祝いをしてあげるとウソをついて小学校に呼び出し、「生意気だ」などと言って殴る蹴るの暴行を加えた。また、取り巻きの少年3人(15)は後から来て、暴行を見ていた。
4/6 入院先の病院で死亡。
経 緯 3/31 悠くんは、「友達が初めてもらったアルバイトのお給料で僕の合格祝いしてくれると、携帯電話してきたんだ」と母親に告げて外出。(後に合格祝いは、悠くんをおびき出すための口実だとわかる)

駅まで送る車中で、母親がどんな友達かと尋ねると、「僕があのまま定時制に行っていたら、受験していっしょの学校になったかもしれない人」と答えていた。

悠くんが待ち合わせに指定された小学校に行くと、電話をかけてきたH(15)とS(17)、K(15)、O(15)、A(15)の5人がいた。午後3時頃から約1時間半にわたって暴行を加えた。
暴行態様 少年らは「青木、お前何で全日制行くん?定時制におりいや」「生意気だ」などと言って、悠くんを校庭裏にある給食搬入口のコンクリート台に追いつめ暴行を加えた。
全身を70回以上殴ったり蹴ったりし、倒れている悠くんを立たせて足払いをかけ、「金で解決するか」と聞いた。3人の少年が後から来て、暴行を見ていた。


HとSは、プロレス技のバックドロップで、高さ60センチはあるコンクリート台から3回、頭から叩きつけた。

Hはプロレス技のパイルドライバーで、口から泡を吹いて失禁している悠くんを、1メートルの高さから頭を下にして真っ逆さまにしてコンクリートに打ち付けた。

Sは、いびきをかいて体全体を痙攣させていた悠くんに「障害者やから助ける価値がない」「こいつは、障害者だからすぐ狸寝入りする。小便までたれやがって」と言いながら、「狸寝入りや、起きろ」と蹴ったり、仲間に水をかけるよう命じた。

見張り役の1人が、「このままでは死んでしまう」と言って、救急車を呼ぼうとしたが、HとSは「そんなことをしたらパクられるだろうが」と怒鳴りつけ、悠くんを物陰に放り投げて、パチンコに行った。

Hが「俺とSで青木をボコしたんや。小便たれて、泡吹いて気絶してる」と自慢して回っているのを聞きつけた悠くんの友人Mくんが、小学校に駆けつけた。夜7時半過ぎに悠くんの母親に、「悠くんがH小学校で気絶している」と電話をかけた。(暴行からすでに3時間が経過)
母親が「すぐに救急車を呼んで」と言うと「警察に知られたら困る」と答えた。「警察に言わないから、すぐ呼んで」と言ってから、母親も119番通報する。

母親が自転車で小学校に着くと、救急車の中に、MくんとHがいた。

解剖の結果、暴行による急性硬膜下血腫と判明。
目撃者 暴行現場の近くの家の2階で、悠くんが暴力を受け続けているのを最初から脳死状態になるまで見ていながら、110番も、119番通報もせず、買い物に出かけた目撃者(67)がいた。
被害者 一人親家庭。悠くんは、交通事故にあう前はスポーツ万能で、特にバトミントンが得意で大会でも活躍していた。

1999/8/18 悠くん中学3年生のとき、交通事
故で頭を強く打ち、低体温治療法で奇跡的に命はとりとめるが半身不随になる。リハビリの成果でようやく歩けるようになるが、体の左半分はほとんど動かず、足を引きずって歩いた。(障害者手帳2級)
2000/4 昼間の時間をリハビリにあてるため、定時制高校に入学。
2000/6 担任教師から勧められて受験勉強をはじめる。
2001/3/27 県立の全日制の高校を受験して合格する。
2001/3/31 自宅を出る直前に、「体が不自由になったけど、祖父の佃煮業の跡を継ぐため、大学で経営学を学ぶのに京都工芸繊維大学に行きたい」と話していた。
加害者 全員が市立U中学校の卒業生。
悠くんの友人Mくんの仲間で、出身中学の異なる悠くんとは顔見知り程度の仲だった。
「障がい者のくせに大学行くとは生意気だ」と周囲に話していた。

S(17)は非行歴1回、補導歴17回。内装作業員。

H(15)は身長170センチ、体重70キロ。空手3段という評判。
中学校卒業文集の「あなたの10年後はどうなっているでしょう」というところに「殺人犯で指名手配されていると思う」と書いていた。4月から定時制高校に入学することになっていた。
救急病院の待合室でHは、アイスクリームを食べながらソファに寝そべっていた。悠くんの母親の何故の問いかけに「むかついたから」と答えていた。
警察の対応 2001/4/1 Hを傷害容疑で逮捕。悠くん死亡後、傷害致死に切り替える。
4/6 悠くんが亡くなってから、Sを傷害致死容疑で逮捕。
暴行を見ていた少年3人は事情聴取後、釈放。手を下していないとして一切の処分なし。
親の対応 母親は裁判所が少年らに厳しく処分するよう、街頭で署名活動。1万人以上を集めた。
少年法 2001/4/1 少年法が改正されてから初めて行われる審判として、なりゆきが注目された。(ただし、亡くなったのは4/6だが、事件が起きたのは3/31で施行前日であるため、新法は適用されないと言われ、改正法で可能となった被害者の意見陳述と調書の閲覧だけが認められる)

2001/5/9 大津家庭裁判所で、母親が意見陳述として約40分間、被害者遺族の感情を述べた。(4月の改正から導入された意見陳述制度の初適用例)。裁判官、書記官、加害少年担当調査官の2人、(被害者側)代理人弁護士の計6人が出席。非公開で行われた。

加害少年2人の出廷を求めたが、「感情的になる可能性がある」として退けられる。
母親は、「悠の悔しさをわかってほしい」「少年を厳罰に処してほしい」などと訴えた。
裁判官からは、「加害少年側から謝罪があったのか」と聞かれたのみ。「少年の家族が来たが会っていない」と答えた。

5/9 (被害者の)代理人弁護士は、「刑事処分年齢を14歳以上に引き下げた改正法に基づき、15歳の少年も大津地検に逆送されるべきだ」とする内容の意見書を家裁に提出。

大津地検は、4月施行の改正少年法に基づき、検事を審判に関与させたいと申し入れた。
加害少年の付添弁護士は、「事実関係に争いがないのに検事が関与すれば、少年が責め立てられることになる」と反発。

家裁は検事の関与を見送る。
加害者の処分 2001/5/16 大津家裁で、H、Sに中等少年院送致(約1年半)を決定。
村地勉裁判官は、「無抵抗の身体障害者である被害者に一方的に暴行を加えたのは極めて悪質で、長期間の矯正教育が相当」と述べた。

大津家庭裁判所のSの「処分結果通知」には、
「本件を検察官に送致することも考えられるが(中略)、少年には内省力があり、感受性も豊かで可塑性や教育可能性が認められることを考慮して、中等少年院に送致するのが相当である」と書かれていた。
加害者の謝罪 Hの母親は少年審判が始まるまで、一度だけ青木家を訪ねるが、その後はない。
Hや保護者が被害者に手紙を送るが、とって付けたような謝罪の言葉だった。
父親は海外の仕事で単身赴任ということで、謝罪も電話ひとつない。(雑誌記者が訪ねたときには自宅にいた)

Sの父親は処分が決まるまでは何度か青木家に謝罪に訪れていたが、処分決定後は一度も訪れない。
2001/8 大津から引っ越す。

新盆にも、どちらの保護者も青木家を訪問しなかった。
加害者の手紙 Hは、家庭裁判所の「処分結果通知」を待つ約1カ月の間、何度も遊び仲間あてに手紙を書いて出していた。そのなかで、「ヒマ、ヒマ、ヒマ、ヒマ、ヒマ、ヒマ、(中略)青木なぐったん、広まっているか、ここ出たら思い切り遊ぼう」「あー早く家に帰りたいよ〜(中略)オレも出てすぐに、教習行くわ、(中略)車は20トントラック免許取って、トラックヤローにでもなろうかな〜!早く○○ちゃんとあそびたいわ!只今鑑別所で反省中!」「あんな、重大発表 少年院って2年以内に出れるらしい。ちょっとヤル気出る話ゆろ!(中略)2年以内ってわかってバリバリさあがんばるぞ〜! オレ早く出て結婚するわ!「弁護士の話によると1年から1年半に出れるやとさ!」「普通なら、大津から飛ぶけど。オレは逃げもかくれもしないし。…オレな、出たら単車か車でちょっと、琵琶湖一周でもするわ。…題して『自分をみつめる旅』ですわ。出てからも、ちょっと反省する旅です。」などと書いていた。

Hは少年院収容からも友人に「少年院に行ったらハクをつけて今度は不良グループのトップになる」と手紙を書いていた。
裁 判 2001/8/ 母親が加害少年2人と保護者計5人を相手どって、9500万円(訴訟中に1億円に修正)の損害賠償を求めて民事訴訟を起こす。
裁判結果 2003/7/3 大津地裁で和解成立。

・和解金計6000万円を少年2人とその保護者は各3000万円の和解金を分割して25−31年間、悠君の月命日の6日に毎月支払う。
・少年1人と家族は大津市内に居住しない。
ことなどを盛り込んだ。
謝罪と謝罪文 2003/6/26 少年院を出た2人が和解協議の席に出席して、初めて遺族に直接謝罪。
悠くんが当日着ていた赤いジャンパーを身につけ、泥だらけのシャツを持ち込んだ母親に、Hは泣きじゃくり、Sは「申し訳ありません」「一生かけて償います」と何度も遺骨と遺影に頭を下げた。

7/3 記者会見時、和解した加害者の少年2人と保護者の謝罪文が被告弁護士からマスコミ各社に配られた。(その時点で、遺族は見ておらず、記者から見せられる)

少年の1人は「悠君から頂いた大事な時間」、収容先の少年院で人が寝るのを待って毎晩合掌したなどと書いていた。また、「心の底より後悔しております。(命で償うことも考えたが)最大の償いは1秒たりとも無駄にせず、必死に生きて一生償っていくことだと思います。悠君の魂を残していけるただ一つの方法」と書いていた。
父親は「親として責任の重大さを感じる。息子ともども私の命も奪ってほしいくらいです」「謝罪の機会を与えていただき、感謝しております。自宅や墓前にお伺いしなくてはいけないのですが、勇気がありません。本当に申し訳ありません」と書いていた。

もう1人の少年は「命、可能性、何もかも奪い取ってしまいました。私が何十倍、何百倍ものつらさ、苦しみを感じていかなければいけない」と書いていた。
母親は、「謝っても謝っても謝りきれません」。父は「許していただけるとは思いませんが、できる限りのことをしていきたい」と書いていた。

その後 見張り役の3人の少年に対しても訴えを起こすつもり。
参考資料 手記「少年法」は何も変わっていなかった/青木和代/新潮45/新潮社、2001/5/9毎日新聞、2001/5/16京都新聞・夕刊(月刊「子ども論」2001年8月号/クレヨンハウス)、「問題提起ルポ 『命』を奪った少年たち その“贖罪”を問う」/須賀康(2002/3/22付「フライデー」)、「青木悠の命を大切に」http://www.mercury.sannet.ne.jp/kazuyo_aoki/newpage8.htm、2003/7/3京都新聞、2003/7/16朝日新聞 ほか



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