子どもたちは二度殺される【事例】



注 :
被害者の氏名は、一人ひとりの墓碑銘を私たちの心に深く刻むために、書籍等に掲載された氏名をそのまま使用させていただいています。ただし、加害者や担当教師名等については、個人に問題を帰すよりも、社会全体の、あるいは学校、教師全体の問題として捉えるべきではないかと考え、匿名にしてあります。
また、学校名については類似事件と区別するためと、隠蔽をはかるよりも、学校も、地域も、事実を事実として重く受けとめて、二度と同じ悲劇を繰り返さないで欲しいという願いを込めて、そのまま使用しています。
S.TAKEDA
951127 いじめ自殺 2000.9.10. 2001.5.25 2002.4.1 2003.7.1更新
1995/11/27 新潟県上越市春日中学校の伊藤準(ひさし)くん(中1・13)が、自宅のバスケット・ボードで首吊り自殺。
遺書・他 準くんの足元と自室の引き出しに遺書が残されていた。下書きと清書の2通があった。
(遺書の日付は実際に亡くなる4日前になっていた)


「家族の皆様、さきだつ僕をおゆるし下さい。僕はお父さんにおこられて家にこなくなったA君、B君、C君、他にD君、E君に学校でいじめられていました。みんなたった一日で態度がかわり、皆、僕を無視しはじめました。そうじの時間はトイレで服を脱がされたり、水をかけられたりしました。いたずら電話もよくありました。僕がでると受話器をとったとたんきれてしまいました。またお金のふんしつはしょっちゅうありました。五百円玉を2枚持っていくと、帰りには1枚になっています。このようなことがつづき、今では五千円近くうばいとられました。まだまだありますが、僕はもうがまんできなくなりました。学校に行っても友達はいますがその友達に僕を無視させたりしていそうでとてもこわいです。
生きているのがこわいのですあいつらは僕の人生そのものをうばっていきました。僕は生きていくのがいやになったので死なせて下さい。それからお父さん、自転車を買ってくれて本当にありがとうございました。まだ1週間ものっていないけど、本当に感謝しています。自転車はFちゃんにでもやってください。あいつらはH君やいろんな人をいじめていました。I、J、などはまだその、いやそれがどれだけ悪い事なのか分かっていないようなので僕がぎせいになります。僕のまだきれるコートや服はHちゃんやIちゃん、J君などにあげてください。僕のものなんかとっていてもしかたないのでそうしてください。バスケットボードはK君にあげてください。家族のみなさん、長い間どうもありがとうございました。
 平成7年11月23日    春日中1年5組3番
                                      伊藤準    指印」


12/4 自殺前の24日までつけていた日記が自室から見つかる。
11/22の日記に「自殺しようと思った」とあり、遺書の日付の11/23の予定表の欄には「午後3時半に家を出て、午後4時半に飛び降りる」という内容が書いてあった。11/24の日記には、「まだ未練があるので、(自殺を)先延ばしした」という趣旨のことが書いてあった。

学校との連絡帳にも死を決意したことが書かれていた。(連絡帳の集め方はクラスで異なり、準くんのクラスでは1〜2週間に1回の割合で担任が目を通していた。最後に提出したのは11/21)
11/22「遺書も書いたし、どこからとびおりようか考えた」 11/23「死ぬことになった。屋上からはやくとびたい」 11/24「みじかい人生だったが、まだまだみれんもあるが」などと書き、「さようなら」と結んでいた。(同日付が最後で文字が乱れていた)
被害者 準くんは成績もよく、欠席もなかった。手が掛からない子どもだった。
親の認知と
経 緯
1995年夏休み頃から、子どもたちが朝6時に伊藤家に来て、バスケットコートを使用するのを父親がとがめたことをきっかけに、いじめが始まる。
11/初め頃 3人が準くんの妹を泣かしたことを父親に叱られてから姿を見せなくなった。

体操着に墨がついていたり、ジャージの裾が破れていたりすることがあったが、「転んだ。なんともない」と話していたために、親は息子がいじめられていることに気付かなかった。

自殺の数日前に準くんは、したこともない夕食の手伝いをし、妹にも急に優しくなった。
直前、親しい友人らとの雑談で「ビルから落ちるとどうなるのかな」などと話していた。
ジーンズとパーカーを買って欲しいと親にせがみ、買ってもらったばかりの服を着て亡くなった。
調 査 2学期以降は、授業時間、清掃時間、休憩時間、部活時間、準くんの自宅など、時間と場所を問わず、服を脱がしたり、水をかけるなどのいじめを執拗に繰り返していた。同級生が、準くんがトイレで泣いているのを見て、教師に告げたこともあった。
10月下旬以降、これらのいじめに加えて、無視されたりした。
担任の対応 担任教師(35)は教師歴10年を超え、学年生徒指導の中心者でもあった。
クラスは男子18人、女子20人の計38人。うち、不登校の女子が2人、不登校ぎみの男子が1人の計3人いた。

準くんは、1学期に級長を務め、成績もよく欠席もなかったことから、さしたる問題があるとは思えなかった。

同クラスは授業が騒がしいことで問題になっていた。騒ぐのはいじめグループの4人で、授業が始まっても、すぐには教室に入らないことなどもあった。授業中に机を蹴ったり、立って歌ったりしても、教師が呼び出して注意したことが一度もないという生徒の証言もある。

担任に処罰なし。
アンケート1 1995/11 1年生全員を対象に悩みがないか調べるアンケートや個人面談をした。
「いじめられたことがあるか」「いじめを見たり聞いたりしたことはあるか」などの項目もあった。
準くんはいじめについては書かなかったが、「いやなことをされたか」の問いに「ある」と答えており、「無視された(先生)」と書いていた。授業中に準くんが質問しようと教師をつついたが気付かなかったことを書いたものだったと、教師と話し合って誤解がとけた(学校側の弁)。
アンケート2 全校生徒を対象に、名前記入方式で、いじめに関するアンケートを実施、個人面談も行った。
「(いじめグループから)伊藤君を無視しろといわれた」「ショルダーアタックされた」などと書いた生徒がいた。無視などのいじめが恒常化していたことが判明。
警察・その他の対応 1955/1/27 上越南署と県警少年課が遺書でいじめたと指摘された5人の生徒や同級生らに事情聴取。
少年らは「水をかけられた」「服を脱がされた」とされる点について「掃除の際に水は誤ってかけた」などと供述。現段階の調べでは「意図的な度合いは少ない。遊び半分的な要素もあったのでは」との見方をしている。「金をとられている」との記述にしても事実は確認できていないとした。
同署幹部は、「感受性の強い子だっただけに、友人から無視されたことなどが主因に違いない」と話した。学校連絡帳の記載や友人の証言などから「夏以降、成績が下がったことも関係しているのではないか」との見方を強めた。非行事件としても、「無視だけでは立件できない」とした。

1996/1/29 
上越南警察署は本件を調査し、いじめの事実が確認されたこと並びにいじめが自殺の要因であったとの見解を発表。遺書に名前のあった5人のうち2人と、遺書に記載はないがいじめに関与した生徒の計3人を補導処分にした。(13歳以下は、犯罪としての事件処理はできない)
法務省人権擁護局の対応 1996/8/21 新潟地方法務局は、1995/12から法務局人権擁護課や県子どもの人権専門委員らが、職権で本件の調査に乗りだし、学校関係者ら15人に任意で事情を聴取。
準くんに対するいじめを発見できなかったこと、他のいじめに対する原因・動機の分析や全体的把握が不十分であったことに対して、春日中学校の責任に言及する内容の勧告を行った。
(勧告書の内容についてはプライバシーに関する部分が多く、公表できないとした。)
加害者 いじめグループ5人のうち4人が準くんと同じクラスだった。5人のうち4人は、準くんと同じバスケット部に所属。いじめグループのうち3人は、準くんの自宅によく遊びに来ていた。

AとBがC、D、Eを指示するような格好で、準くんやHくんをいじめていた。Cも、A、Bから「何かむかつく」と言われていじめられたことがあるが、その後Cは、いじめグループ側に回り準くんらをいじめ始めた、と同級生が証言。

ある加害者の父親は、「いじめとは限らないのでは・・・。子どもならあのくらいのことは・・・。学校の先生も『いじめじゃない』と言っていた」と話した。また、別の親は、
うちの子は大したことはしていないとして、警察の補導に不満を漏らす。

6名の加害生徒のうち5名との間で示談成立。示談した5名の加害生徒らは、準くんに対するいじめの事実を一部認めている。後に残る1名とも示談成立。
背 景 1993年まで3年間、校内暴力で荒れたこともある。また、新興住宅地にある春日中学校は、生徒の転入・転出が多く、転入生へのいじめが起こりがちなこともあり、1994年度から「生徒指導困難校」として生徒指導の教師が1人増員されていた。職員研修を増やしたり、不登校生徒の指導など、上越市でも先進的な取り組みをしてきた。事件当時、同校には591人の生徒のうち、7人が登校拒否、3人が保健室登校、登校拒否になりかけが2人おり、不登校の生徒への対応と授業を落ち着かせることに注意が向いていた。
その他の被害者 加害生徒らは、他の同級生やバスケット部員らに対しても、同様のいじめを加えていた。
1995/9頃から 被害生徒の1人は、同グループのいじめが原因で不登校ぎみになっていた。11月半ば、父親が息子に書かせたノートで実態がわかる。

・音楽の時間にいすを後ろに引く ・「調子に乗るな」と言われる ・1人が「生意気だ」と言うと仲間も来てワアワアとやる 
・採点されて返却されたテストの答案を覗きにくる ・「いやだ」と言うと「殴るぞ」と脅された、など20数項目が綴られた。父親は、クラスの学級担任が登校を促すため自宅を訪れた際に、ノートを示して、いじめの事実を知らせた。しかし、学校側は直接生徒に指導せずに、状況を観察していた。その間に準くんが自殺。
事件後、学校は「生徒のお父さんから調査を待って欲しいと言われた」と弁明していたが、父親が実際に担任に言ったのは、「息子の名前を出して学級で話し合いをするのは待って欲しい」「再登校できそうなので、周りの生徒や本人を注意深く見守ってほしい」ということだった。
学校・ほかの対応 最初は、「いじめは自殺の遠因にすぎない」との見解を表明していたが、いじめていた5人の談話や電話の会話を録音したテープの証拠を前に、「自殺はいじめが主たる要因」に変化。
学校側は、事件後の調査によって、加害生徒らによるいじめの事実が一部確認されたとしながら、準くんに対するいじめの事実については、準くんが死亡するまで全く気づかなかったとした。

学校側は、道義的責任のみを認め、法的責任、教育的責任については認めようとしない。また、当事者の話と全く違う報告書を持ってきた。ノートや教科書に書いてあった落書きをもとに、準くんが家庭に対して不満を持っていたと主張。

校長は、2ヶ月後の3学期の終業式のとき、「早くこの事件を忘れて、新しい新学期を迎えましょう」と発言。
教育委員会・ほかの対応 学校の窓口が担任から教頭・校長、教育長に変わる。最初、市の教育長が「教育的、道義的責任はすべて春日中学校にある」と言って謝罪したことに対して、県教育委員会が、それは認めすぎだと叱責。

1995/12 市教育委員会が、遺族の要求に従って「回答書」を提出。回答は学校側の調査を基にA4版で4ページ作成。準くんの遺書にあったいじめの事実の一部は認めているが、自殺の理由については「いじめは(自殺)の遠因」とし、家庭生活など別の要因にも言及した。現段階では、警察などの公的機関の調査が終わっておらず、いじめを直接の原因と結論するには至らないとした。

損害賠償請求の話が出たとき、加害者側6人は学校側に弁護士を紹介してもらう。遺族も同じことを学校に頼むが、理由も告げず拒否。
背 景 1995/2 大河内清輝くんの自殺を受けて、上越市教育委員会はいじめの電話相談を設けていた。9月初めには、電話番号を擦り込んだ名刺大のカードを市内の全小中学校に配っていた。
その後 上越市教育委員会は、市単独でスクールカウンセラーを配置することを決めた。市町村が独自でカウンセラーを置くのは県内で初めて。
裁 判 1997/11/26 遺族から一定額の賠償金支払い等を内容とする和解の申し出を上越市が拒否したため、6千万円余りの損害賠償を求めて、遺族が提訴。

訴訟の目的
1.いじめの事実、並びに、準くんがいじめを苦にして自殺したことの真実の究明。
2.いじめ自殺が、暴力的色彩、犯罪的色彩を伴う一見して派手ないじめ以外のいじめによっても十分おこりうるものであることの証明。
3.いじめの陰湿性、密行性、被害生徒による被害申告が一般になされないものであること、結果の重大性等を踏まえ、いじめに関し、必要かつ十分といえる内容の安全配慮義務を認めさせること。
4.いじめ自殺の予見可能性の問題に関し、いじめの事実すら知らなかったのだから、自殺についての予見可能性などあり得ないとする「見ないが勝ち」「しないが勝ち」という結論を許さないこと
争 点 いじめの開始時期について原告側は95年の夏休み頃から服を脱がせたり、無視をしたりするいじめが始まったと主張。
被告側は1995年10月29日頃からと主張
し、真っ向から対立。

原告側は「同じ生徒からいじめを受け不登校になった友人の事例などに適切に対応していれば、準君へのいじめも発見できた。学校はいじめの早期発見という基本的注意義務を怠っていた」などと主張。

被告の市側は「自殺の原因は準君の家庭事情にある」とし、「個別指導にも取り組んでいたが、いじめの対象者として準君の名前は一度もあがらず、両親からの相談もなかった」「可能な限り安全に配慮したが、準君へのいじめを発見するのは困難だった」などと反論。
証 言 準君のクラス担任だった男性教師(41)が被告側の証人として出廷。
「(準君が亡くなる少し前)別の生徒がいじめにあっていることがわかったが、準君については気がつかなかった」と証言。学校側の対応について「アンケート調査の実施や巡回の強化など、十分に行っていた」とした。また、9月ごろから準君が「疲れた」「勉強をやる気がなくなった」と教育相談などで話していたことについては、「いじめにあっているサインとは思わなかった」と話した。
判 決 2002/3/29 新潟地裁高田支部にて棄却判決。(提訴から3年4か月)

加藤就一裁判長は、「
いじめの核心を占めていたのは無視であり、第三者からの発見が困難だった」などとして、自殺の予見性、学校の責任を否定、両親の請求を全面的に退けた。

判決では、いじめの開始時期について被告側の主張(10月29日頃から)を採用。それ以前の
服脱がしなどは「悪ふざけ」とした。「準くんはそれから短期間(約1か月)で亡くなっており、自殺した11月27日前後の段階で自殺はもとより心身に対する重大な侵害であるいじめについて予見可能性を認めることはできない」などと指摘。

さらに、「教師はいじめの前兆行動を注意深く把握することが要求されている」としながらも、「中学校は生徒の自主性や自立心をはぐくむという目標を持ち、事実を見極めることなく
生徒間の関係に安易に深く介入することは妥当でない」とした。

準くんの家庭環境について、「苦悩を支えるべき家庭が機能を十分に果たしていなかった」とした。
その後 原告側は判決を「納得できない」として東京高裁に控訴。(2003/7/係争中)
参考資料 月刊「子ども論」1996年2号 12月1日−12月31日/クレヨンハウス、『せめてあのとき一言でも』/鎌田慧/1996年10月草思社、季刊教育法2000年9月臨時増刊号「いじめ裁判」の中の「上越春日中いじめ自殺事件」/近藤昭彦(弁護士)/2000年9月エイデル研究所2001/7/13新潟日報、2002/3/30朝日新聞、2002/3/29新潟日報、2002/3/30 asahi.com MYTOWN 新潟1995/12/6讀賣新聞(月刊「子ども論」1996年2月号/クレヨンハウス)1996/8/22新潟日報(月刊「子ども論」1996年11月号/クレヨンハウス)1995/11/22(月刊「子ども論」1996年1月号/クレヨンハウス)





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