子どもに関する事件【事例】



注 :
被害者の氏名は、一人ひとりの墓碑銘を私たちの心に深く刻むために、書籍等に掲載された氏名をそのまま使用させていただいています。ただし、加害者や担当教師名等については、個人に問題を帰すよりも、社会全体の、あるいは学校、教師全体の問題として捉えるべきではないかと考え、匿名にしてあります。
また、学校名については類似事件と区別するためと、隠蔽をはかるよりも、学校も、地域も、事実を事実として重く受けとめて、二度と同じ悲劇を繰り返さないで欲しいという願いを込めて、そのまま使用しています。
S.TAKEDA
930417 暴行殺人 2001.2.25 2001.5.3 2001.12.15 2003.7.21更新
1993/4/17
大阪府大阪市東淀川区の市立大桐中学校の浜田幸雄くん(中3・14)が、友人宅で同級生2人(中3・14)(ただし、他2名も途中で加わった)から3時間半にわたり、断続的にプロレス技をかける、柔道の技をかける、50回以上殴る蹴るの暴行を受け、頭部及び腹部打撲傷を負い、翌日死亡。(右硬膜下血腫による脳圧迫兼挫傷による失血死)
犯行態様 ・4/17 土曜日、3時間目が終了後に幸雄くんに暴行しようとしたのを同級生に止められ、「中途半端に終わったので物足りないから」とAの自宅に呼びだして暴行することにした。

午後0時半頃、加害者のAとBが幸雄くんをAの自宅に誘い、計7人で遊んでいた。
・4人がクラブ活動などでいなくなった。
・1時半頃、2人で幸雄くんを相手にプロレス技や柔道の技を次々とかけた。その際、「気合いを入れてやる」と言って頭部や腹部を殴る蹴るなどした。
・Bが幸雄くんの手首を握って逃げられないようにし、Aが指と指の間に小刀の先を突き刺して、脅した。
・途中で、同級生2人CとDが遊びにくる。
・Bと同級生の1人が幸雄くんにマスターベーションを強要。
・Aは幸雄くんを膝蹴りにしたり、顔を殴打、電話帳で頭を殴るなどした。
・AとBが交代で、背負い投げや体落とし、一本背負いなどの技を幸雄くんにかけた。
・CやDが、「いいかげんにしてやれ」と制止したが、聞き入れなかった。
逆に「お前らもやらんかい」と暴行を勧められた。

・CDが
断ると、2人は「もうやめてくれ」と頼む幸雄くんを隣の部屋に連れていった。
・約3時間半の暴行後、4時50分頃、気を失った幸雄くんがいびきをかきはじめ、異常に気づいた2人は人工呼吸をした後、Bが救急車を呼んだ。
・同級生の2人は消えていた。
・AとBはプロレスごっこをしていたことにしようと口裏を合わせた。
・4/18 午前8時頃、脳挫傷などで死亡。
被害者 幸雄くんは小学校5年生の時に転校してきた。よく泣く少年だった。小学校のときからいじめられていた。身長152センチと小柄でスポーツは苦手だった。おとなしい性格だった。時々、ギャグを言ってみんなを笑わせていた。

幸雄くんは、以前にも数回、加害者から暴行を受けていたが、親や教師には話していなかった。
本件暴行時にも、ときおり「やめてくれ」とは言っていたが、座ったまま黙って暴行を受け、あまり抵抗せずに加害者らに従っていた。

絵を描くのが得意だった。将来は「医者になりたい」と言っていた高校進学に向けて、勉強にも力を入れていた。
親の認知と対応 幸雄くんは、小学校3年生のときに、同級生に脅されて家の金7千円を持ち出し、父親が尻が真っ赤に腫れるほど叩いて怒った

幸雄くんは時々、あざや擦り傷を作って帰った。家族には「転んだ」などと話し、態度もいつもと大きくは変わらなかった。

同級生に筆箱や上履きを隠されるなどのいじめにあっていたことから、母親が女性担任に対策を求めていたが、幸雄くんは「それぐらいなら、耐えられる」と話していた。


1993/4/ B少年が転校してきた頃から幸雄くんの態度が急変した。青白い顔で帰宅したり、帰宅が遅くなる時には必ずしていた電話をしなくなった。
手帳ほか 3年の新学期(4月)から生徒手帳に記録をつけていた。A少年に対する気持ちを「ちくしょう」「くやしい」などとノートに書き付けていた。

4/12 金200円脅し取られる、/13 たばこを100円で買わされる(貸し100円)、/15 1年の呼び出し、/16 たばこ集め、/17 学校のベンジョで暴行(なぐるける)

欄外に同級生のXからの使い走りを「ぱしり・カツアゲなしは日に○」と記入されていた。(○がついていたのは4/14のみだった)
その他のいじめ Aは、幸雄くんに金を出させて買い物を命じたり、たばこを売りつけて小銭を巻き上げたり、学校の屋上で殴ったりしていた。教室でプロレスごっこを強要されて、いやいや応じていた。

1993/4/17 便所にXが待っていて、AとBが幸雄くんを呼びに来た。Aがたばこを吸いながら見ているところで、Xが殴ったり、蹴ったりした。(Bは手出ししなかった)ボクシングジムに通う別の少年が気づいて暴行を止めた。
加害者A 父親はアルコール依存症で、カードを使って借金を抱えていた。そのため、夫婦仲は悪かった。

Aは身長174センチ。足が速く、中学に入学すると陸上部に入った。顧問は自己ベストが更新できないと殴るなどの体罰を行った。これをきっかけに4日間、登校拒否をし、退部。
両親は体罰について事情の説明を求めたが、顧問には会わせてもらえず、学校側は「そんな事実はない」と否定。(事件後、家裁の審理のなかで、Aは陸上部をやめた理由について、「顧問にしごかれて、合わなくなった」と話したが、顧問は「たばこを吸っていたので注意した」と反論。親にはそのことは告げられていなかった)

2年生の時、生徒会副会長に立候補して当選。生徒会活動にも熱心なリーダー型だった。一方、放課後、母が勤めに出て留守になった家を同級生の「喫煙コーナー」として提供。アルコール類も振る舞っていた。Aはシンナー歴もあった。校内で4、5人のグループをつくり、いじめや喫煙、恐喝をしていた。

体育大付属高校への進学を希望し、陸上部に再入部を希望したが、新しい顧問からは、「再入部は認めない」と断られた。

Aは幸雄くんと、1、2年の時に同じクラスだった。3年生で別のクラスになった。転校直後にいじめられていた幸雄くんを助けたり、近所の知り合いが自転車を盗まれた際には、長時間をかけて一緒に探すなどの思いやりも見せたこともあった。

「浜田くんが自分を頼ってばかりいるので、カツを入れようとした」などと話した。
加害者B Bは小学校4年生の時に母親が家出し中学校入学と同時に離婚。姉も中学を出たと同時に家を出たため、父親と弟、妹の4人暮らしだった。

3年生の4月に転校して1週間目だった。身長153センチ、体重47キロとで小柄だが、前の中学校では柔道部に所属していた。(野球部に入っていたが、教師から「そんなに野球部の練習をさぼっていたらアカン。柔道部に入って身も心も鍛えろ」と言われ入部。)
柔道部の同級生4人から殴られたり、技をかけるなどのいじめにあっていた。柔道部の対抗戦で投げられ、鎖骨を折ったのをきっかけに休みがちになったのを、顧問教師の言いつけで、部の同級生4人が迎えに来て、引きずるようにして部活に連れていった。クラスでは、昼食に買ったパンをよく取られた。お金が足りないと昼食抜きのこともあった。

転校したクラスで、AからBは「前の学校ではいじめる方やったんか、いじめられる方やったんか」と聞かれ、「いじめる方や」と答えた。

「前の学校で継続的にいじめられていたので、今度はいじめをしたかった」と話した。
処 罰 A、B共に少年院送致。

大阪家庭裁判所は、Aの死に至らせるまでの暴力は、きわめて異例であり、その資質に重大な欠陥を示しているばかりか、幸雄を死に至したという現実を直視し、深刻に苦悩する態度に乏しく、罪の意識にもとづく反省も不十分なので、厳しい矯正教育が不可欠であると結論づけた。
Aの抗告 裁判中、裁判官が始終うつむいて記録を読みAに対する付添人の質問を真剣に聞く態度ではなく、たまりかねたAが「裁判官、何か僕に言ってくれることはないのですか」と叫ぶと、裁判官は「責任をとる必要があるので、少年院に行ってきなさい」と述べ判決が言い渡された。(付添人の報告)
このような審判に対してAと両親は納得がいかず、付添人も
決定の処遇に関する記述が粗雑で偏狭だと批判し、抗告。抗告棄却。
担任の対応 4/19 女性担任教師は、生徒全員に浜田くんがいじめにあっていたかどうか問いかけたが、いじめの現場を見たり、話を聞いたりした生徒はいなかった。
学校ほかの対応 市教委が指導主事2人を派遣。担任、学年主任らから状況を聞いたが、いずれも「浜田くんへのいじめや脅しなどは全くなかったはず。一緒に遊んでいた2人は仲良しで問題行動もなかった」と話した。
このため、一旦は偶発事故と判断。しかし、その後、生徒手帳などからいじめの事実が発覚。


4/20 校長が記者会見をし、「私は浜田くんがいじめられていたとは聞いたことがないし、担任の先生も知らなかったと言っている。しかし、無理やりプロレスごっこをやらされた印象もある。19日の朝、全校で臨時集会を開き、二度とこんな事件を繰り返さないように誓って浜田君の冥福を祈った」と話した。

外部に事件について一切話さないよう、口を封じた。

幸雄くんに対して、しばしば学校内で行われていた暴行や使い走りなどのいじめの事実について、認識はなかったという。
事故報告書 学校の報告書には「いじめは確認されていない」と書かれていた。
関 連 幸雄くんと仲の良かったFくんは、2年で同じクラスだったが、3年では別のクラスになった。
10月に、Aに誘われてAの家に行った際、酒をすすめられ、その酒代を利子をして1万円以上請求されていた。「もう金が待てない」と言われて、Aから殴られたり、蹴られたりした。
近所の中学1年生を連れてきて、Aが命じてFくんを殴らせた。その後またAに鳩尾と顔を殴られ、後頭部をコンクリートの壁に打ち付けふらふらしているのを、このときはBがAをとめた。(その後、Bの左目が真っ赤に腫れていた)

翌日、学校の障害者用トイレに連れ込んで、AとB、同級生Xが金を要求。Aと同級生とがFくんを蹴ったり殴ったりした。(Bは手出ししなかった)その日の3時間目、Fくんは早退。

4/17 最初はAの家に、いつもいじめの黒子役になっていたXもいたが、部活があると言って先に帰っており、事件には関与していなかった。
背 景 1979/ 大桐中学校は団地や新興住宅増加にともなって新設された。当初は校内暴力や恐喝、校舎破壊などが絶えなかった。
教師が時間があれば生徒に話しかけるようにしたり、父母らが積極的に学校に入り、授業やクラブ活動、学校行事を見学。生徒会は「暴力追放キャンペーン」をし、毎朝、生徒同士で「おはよう」と呼びかける運動を続けた結果、事件の4、5年前から成果が現れ始めていた。

生徒指導について、家庭訪問や三者懇談の機会のほか、問題行動があれば全校集会でも取り上げ、学校全体で取り組んできた。相談室も設けていた。
TAKEDA私見 「さなぎの家 −同級生いじめ殺害事件−」の著者・西山明氏は、この事件を少年たちのパワーゲームと評した。自分の地位の安泰をはかるためには、自らのパワーを見せつけなければならない。特に、Aくんと、新しく転校してきたBくんの間には、どちらが上かを争う葛藤が生じた。その餌食にされたのが、幸雄くんだった。

加害者と被害者の少年の家庭環境が、ここではルポルタージュによって明らかにされている。
家庭で心から安らげる居場所がない少年たちは、仲間に居場所を求めようとする。安定した居場所を確保するために、仲間をいろいろな形で支配することを考えたのではないだろうか。
また、多くの加害少年が、学校生活や部活動などにおいて、自分を受け入れてもらえなかった、
挫折感を体験している。その孤独感は、私立大阪産業大学高校のいじめ報復事件841101)で、いじめていた同級生らから殺害されたKくんに似ている。
また、他者からの暴力や恐喝等を経験している。そうした理不尽なことに対する怒りが、
胸のうちにくすぶって、吐き出し口を自分より弱い相手に求めたのではないだろうか。

また、
大人たちは被害者の、いじめられる側の弱さを非難する。その中で「助けて」とは言えなかった。いじめられて、辛く、悲しいなかで、我慢に我慢を重ねて、ついに命を断たれてしまった。幸雄くんは、言わなかったのではなく、言えなかったのだと思う。その責任は、いじめっこや本人以上に、周囲の大人たちにあるだろう。

「誰も自分を受け入れてはくれない」そうした挫折感を持った少年に対する家庭裁判所の裁判官のあり方が問われる。少年の罪は罪として、大人たちにも、それぞれ役割がある。まして、
少年審判の裁判官には、少年の更正を期待して、正しく導く使命がある。加害少年の言葉を真剣に聴く態度を見せない裁判官に、その資格はあるだろうか。そのような態度で、真の反省を促すことができるとは思えない。

また、ここで問題なのは、何もAとBだけではない。この環境の中で、幸雄くんはこの2人以外にも死に追いやられる可能性があった。
「二度とこんな事件は繰り返さないと誓って浜田君の冥福を祈った」という学校は、果たして何をしただろうか。Aが、ついに同級生を殺してしまうまでには、いくつもの事件がある。その時に、誰か大人がきちんと叱ってやってさえいれば、幸雄くんは死なずにすんだかもしれない。加害少年たちも、深く傷つかずにすんだかもしれない。その責任を学校はどれほど自覚しているのか。
死亡事件が起きてなお、真剣に取り組もうとはしない学校・教師・おとなたち。これを機に、学校を再点検することもなく、ただ蓋をしてしまうだけならば、同じ学校で、同じような事件が再び起きても不思議はない。
参考資料 「さなぎの家 −同級生いじめ殺害事件−」/西山明・田中周紀著/1994年5月に共同通信社より発行、2000年1月小学館文庫として発行、イジメブックス イジメの総合的研究4 「イジメと子どもの人権」/中川 明/2000年11月20日信山社「いじめ問題ハンドブック」/高徳忍著/1999.2.10つげ書房新社1993/4/22朝日新聞・大阪、4/24中国新聞・夕刊、4/25朝日新聞・大阪、4/20讀賣新聞大阪・夕刊、5/1朝日新聞・大阪(月刊「子ども論」1993年6月号/クレヨンハウス)



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