子どもに関する事件【事例】



注 :
被害者の氏名は、一人ひとりの墓碑銘を私たちの心に深く刻むために、書籍等に掲載された氏名をそのまま使用させていただいています。ただし、加害者や担当教師名等については、個人に問題を帰すよりも、社会全体の、あるいは学校、教師全体の問題として捉えるべきではないかと考え、匿名にしてあります。
また、学校名については類似事件と区別するためと、隠蔽をはかるよりも、学校も、地域も、事実を事実として重く受けとめて、二度と同じ悲劇を繰り返さないで欲しいという願いを込めて、そのまま使用しています。
S.TAKEDA
910999 いじめ転校 2002.12.23 2003.6.22更新  
1991/9/ 都府相楽郡木津町の町立木津中学校で、男子生徒Aくん(中2)が、転校してきて1カ月くらいから上級生(中3)に目を付けられていじめられていたが、上級生ら20人が集まっていた体育館に連れて行かれ、数人の上級生から殴る蹴るの暴行を受けた。その後も暴力を受けるなどのいじめが続き転校。
経 緯 1990/10 Aくんは中1の時に同中学校に転校して1カ月くらいから、上級生に目を付けられた。呼びだされ暴行を受けたうえ、別の生徒を殴るよう命じられた。

中1から中2にかけて、学校の廊下、校庭、体育館の横などで、顔を会わすたびに毎日のように殴られたり、蹴られたりした。

1991/9 放課後、Aくんが帰宅準備をしていたところを、上級生ら20人が集まっていた体育館に連れて行かれ、ささいなことから数人の上級生から殴る蹴るの暴行を受けた。
背部打撲、右前腕打撲により加療2日、全治2週間のけが。身体中に痣ができていた。

翌日、父親が校長に面会して対応を求めたが、その後も上級生が教室に押しかけてきて脅迫したり、2週間後にも体育の授業のあと、加害グループのリーダー格の生徒から、背中などを10回ほど蹴られたりするなど、暴行が続いた。

1991/10 Aくんは別の中学校に転校。
被害者 けんかが強く、しっかりしている。
両親に内緒(両親は父が地方公務員、母は小学校教師で共働き)で、学校を遅刻や欠席をしていた。
被害者の親の認知と対応 1991/ 中2の1学期末の懇談会のときに、担任教師から、まじめに登校するよう指導してほしいと言われて、遅刻や欠席を知る。本人に理由を問いただしてはじめて、いじめを知る。
いじめに負けずに学校に行くようにと、本人を励ました。

1991/9 集団暴行の翌日、父親が校長に面会して対応を求めた。その際、学校に
1.事実調査により実態を明らかにすること。
2.加害者と被害者本人が仲直りできる場を学校として設定してほしい。
と申し入れた。両親の目的は、Aくんが安心して学校に行けるようにすることだった。


2週間後の暴行で再度、学校に抗議に行くが、らちがあかず、警察に被害届を出す。
学校の対応 1991/9 集団暴行の翌日の父親の申し入れに際しては、事後連絡すると約束。しかし、連絡はなかった。生活指導の教師は自宅に電話を入れてきたり、謝罪してきたりした。

学校側は、加害者側に直接被害者に謝罪をしないようにと要請(加害者の両親が後に、Aくんの弁護士に証言)。

2週間後の暴行事件で、再度、Aくんの両親が校長らに抗議をしたが、「警察にでももっていってください」と言われた。
Aくんの転校後も、両親が学校に話し合いに出向くが、転校したので関係ないという対応をとられる。
担任教師の対応 担任の男性教師は男子生徒の遅刻や欠席の理由を知らなかった。
集団暴行事件後、加害者グループが「Aに話がある」と言って教室に入ってきたとき、「1分だけだぞ」などと言って、Aくんに会わせていた。

集団事件後も、担任による対応はなかった。
教育委員会の対応 1991/10/3 両親が教育委員会に申し入れに行くが、学校側から報告があがっていないため対応できないと、課長から断られる。
加害者 上級生ら25〜30人。
特にふだんから、内4人の暴行がひどかった。
裁 判 1992/1/13 生徒と両親が、学校設置者である木津町と加害グループの中心となっていた上級生4人とその両親らを相手に慰藉料など300万円の損害賠償を求めて提訴。

原告側は、「上級生らから『いじめ』を受けたが、学校は、その深刻さを知りながら事実調査や個別指導をせず、放置した」「暴行などをやめるよう個別指導せず、再発防止の抜本的対策をとらなかった。生徒に対する安全保障義務を怠ったと主張。
被告(学校・市)側の主張 教頭は、「上級生の暴力事象があったのは事実。下校指導中だったので、教師が駆けつけて止め、生徒を自宅まで送っていった。翌日から事実調査し、暴行を認めた上級生やその保護者にも指導を行い、その過程を両親に報告するとともに、全校集会でも報告、再発防止などの取り組みもできる限り行った」と説明。

町教育長も、「学校を通じて事実調査を行い、十分指導もした。両親との話し合いも何回か行われたが、納得されず残念だ」と話した。
裁判中の経緯 提訴後、親同士の話し合いの場をもったが、加害者側は学校側から、謝罪などを止められていた。
その後も木津町からから加害者の両親に、事実を認めないようにとの働きかけがあった。

加害者や両親は一部を争う答弁書(町側の答弁書と文面が同一)を提出したのみで、代理人弁護士も付けず、訴訟は欠席。実質的には町相手の訴訟となった。

被害者本人と父親の証人尋問の後、和解に向けての協議に入る。
その席で、学校の生徒指導教師と校長が言い争うなどした。
裁判の結果 裁判が長期化し、被害者側に疲れがてできたこと、裁判所から勧告された和解案以上の内容は期待薄と思われたために、以下の内容で和解に合意。

1.加害者は事実を認め、謝罪する。
2.二度と暴行や恐怖を与える言動はしない。
3.町は事実を認め、謝罪する。
4.50万円(議会の承認不要の範囲内)の解決金を支払う。
5.和解の場に生徒全員を呼び、裁判官が一人ひとりに注意。
参考資料 1992/1/14京都新聞(「月刊子ども論」1992年3月号/クレヨンハウス)「日本弁護士連合会 いじめ問題ハンドブック 学校に子どもの人権を」のなかの三島修司弁護士の報告/1995.6.10こうち書房



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