子どもたちは二度殺される【事例】



注 :
被害者の氏名は、一人ひとりの墓碑銘を私たちの心に深く刻むために、書籍等に掲載された氏名をそのまま使用させていただいています。ただし、加害者や担当教師名等については、個人に問題を帰すよりも、社会全体の、あるいは学校、教師全体の問題として捉えるべきではないかと考え、匿名にしてあります。
また、学校名については類似事件と区別するためと、隠蔽をはかるよりも、学校も、地域も、事実を事実として重く受けとめて、二度と同じ悲劇を繰り返さないで欲しいという願いを込めて、そのまま使用しています。
S.TAKEDA
910901 いじめ自殺 2000.9.10. 2001.5.3 2002.2.11 2002.9.10. 2002.12.9. 2003.7.21更新
1991/9/1 東京都町田市立つくし野中学校の前田晶子さん(中2・13)が、母親あてに外から「明日、どうしてもつくし野中学へいかなきゃいけない?」と電話した数10分後、自宅最寄り駅の線路に身を横たえて鉄道自殺。
親の認知と
経緯
夏休み中、しょっちゅう無言電話がかかってきていた。

9/1 明日から始業式という日に、いつもは几帳面な晶子さんが上履きを洗っていなかった。

晶子さん自殺後、遺族には原因として思い当たることがなかった。
加害者 9/4 葬式の次の日、晶子さんと仲がよかった(と思っていた)少女ら3人に、晶子さんの学校での様子を聞きたいと自宅へ来てもらったところ、いじめを告白。遺族は事実を初めて知る。

少女たちは、「以前は仲良しだったが、7月はじめからみんなで晶子さんをシカト(無視)した」「ビデオテープの借り賃として6万円を請求し、晶子さんに『1日200円だったら6千円でしょ』と訂正された」「死の数日前、晶子さんを取り囲んで、『土下座じゃすまねー』『金じゃすまねー』『ブリッコすんじゃねー』などと言葉を浴びせてシメた」ことなどを告白。「いじめたかな」と涙を浮かべた。

グループ内の交換日記に、順番にいじめがはじまり、次は誰をターゲットにするかというなかで、晶子さんがやめようと言い出したことでやられはじめたと書いている。

後にもうひとり、暴走族も使えるという、みんなから恐れられている少女がいることを、聞かされる。4人とは違う子どもたちのグループの名前もあがっている。
いじめ態様と親の認知 足に傷をつくって「お母さん。薬ちょうだい」と言ってきたことがあった。
無言電話が頻繁にあり、電話で呼びだされたことがあった。
学校まで「車で送って」と頼むようになった。
上履きの名前がマジックで乱暴に消されていた。

晶子さんは活発で成績が良く、友だちもたくさんいた。負けん気が強いところもあったので、「悩みなんて吹き飛ばす子」だと誰もが思っていた。
後から考えれば思い当たることが出てくるが、その当時はいじめがあるとはわからなかった。
調 査・ほか 晶子さんが学校帰りに数人の生徒に取り囲まれているのを見たという証言があった。

9/3 お通夜のあった後、会館横の公園に子どもたちが2、30人集まって、「てめえがやったんだろう」「おまえが悪いんだ」「私だけじゃない」と子どもたち同士がケンカしているのを焼香帰りの多くの母親が目撃。その後、いじめを見ていた子どもを20人くらいが取り囲んで、「てめえ、チクるなよ」と脅していたという。
遺書・ほか 9/3 通夜の席で、晶子さんがいじめた生徒あてに書いた手紙のようなものがあり、いじめた子どもたちが学校で遺書を読んだあと破り捨てたという噂が持ち上がる。教師数十人が学校にとって返し学校中のゴミ箱を探し回ったという話を、遺族は2〜3日後、近隣の人や生徒たちから聞く。

学校側に手紙のことを訊ねたが、「捨てた」「捨てずに持っているが晶子さんのものではないから見せられない」と拒まれ、遺書があったかどうかは不明。
校長は遺族に対して、「(遺書と思われるものを)焼き捨てる」との暴言も。
学校・ほかの対応 1991/9/2 校長は調査する前にテレビのインタビューに答えて、「いじめはなかった」と発表。

9/3 お通夜の夜、「あの子たちが後追いをしては大変」と、数人の教師たちが自殺現場に駆けつけた。

9/5 遺族は、3人の少女たちから話を聞いた翌朝、学校を訪れ、少女たちから聞いた内容を校長に話し、より詳細な事実の調査を依頼。


9/9 教師たちは、「晶子さんをいじめていた」と遺族に告白した生徒たちを「ミニ面談」と称して呼びだし、家にきたときの様子をこと細かく聞く。その後、「あれはいじめに入らない」と説得後日、教師が付き添い、「あれはいじめではなかった」と前言を撤回させた生徒たちは、まるで暗記させられてきたような台詞を言う。

晶子さんが亡くなった直後のPTA総会で、「今日は前田さんの事件を語る会ではない」と役員が発言、その後も沈黙を続ける。

晶子さんの死後2週間目に、「連絡委員会」(前田対策委員会)が結成されたことが、かなり後になって判明。メンバーは、校長、教頭、組合の教師たちで、担任や晶子さんが所属していたバトミントン部の顧問はメンバーからはずされていた。

10/11 学校は事故発生報告書以外に「前田晶子の自殺に関する調査報告書」を提出。市教委は都教委に、晶子さんの死について、「友人間のトラブルがあったが原因とは考えられず、学習上、家庭その他多種の原因があるように思われるが家庭は調べられなかった。いずれにしても、原因を特定することは困難である」と報告。

10/24 遺族に内緒で、学校は晶子さんの追悼集会を開く(後に情報公開で取った資料で遺族が知る)。

卒業アルバム、文集から晶子さんの痕跡は一切消されていた。
背 景 前年度まで校内暴力が横行していた。
学校・ほかの対応

自殺劇
11/3 自殺から2ヶ月後、学園祭に両親を招待。
親の無理解で進路に悩み子どもがピストル自殺をし、その責任を親は教師と生徒に押しつけるという内容の「今を生きる」という劇を晶子さんのクラスが演じて見せる。
教師が向けたマイクに、演じた生徒は、「いまの私たちの気持ちです」と答える。父母も「とてもすばらしい」とほめる。遺族が泣いている側で教師たちは笑っていた。

この出し物の内容は10月半ば頃に決定された。この上演を生徒会が反対したが、教師たちが「職員会議で決まったことだから」と強行させたことが、作文控訴審に提出された生徒の陳述書で判明。
誹謗・中傷 四十九日に、PTA幹部が前田家を訪問。「マスコミの取材に応じないよう」釘をさす。

「騒ぎ立てると高校入試でつくし野中の生徒はとってもらえない」との噂が広がる。
教師たちは生徒に、前田家はJRに賠償金を払うために(事実なし)裁判を起こしたと吹き込んだ。
調査・報告 1991/10/25 学校は遺族に調査結果を報告する場を設定。しかし、口頭での一方的な説明のみで、文書は出さない。遺族が、「どの生徒から事情聴取したのか」など調査経過の具体的な説明を求めると回答を拒否。自殺原因がわからないまま調査及び報告を終了。

遺族が事故報告書の開示を求めるが、学校側は「そういう文書は作っていない」と回答。市教委との直接交渉で報告書が提出されていることが判明。
校長に再度、見せてくれるよう求めるが、「あれはあんたたちに見せるためにつくったもんじゃないから見せるわけにはいかない」と拒否。一方で、事故報告書のコピーは、市教委によって、いじめた生徒の名前が塗られただけで、市議会文教委員会秘密会で議員らに配布される。配布された文書は秘密会終了後回収され、遺族が見ることはできなかった。

11/16 遺族が市の個人情報保護制度を利用して、「晶子の自殺事故報告書および添付書類・上記作成のための資料一切」を開示請求。請求に対して、「事故発生報告書」「前田晶子の自殺に関する調査報告書」「指導要録」「職員会議禄」「一学期の晶子の様子(教師がまとめたもの)」「職員打ち合わせ会記録」「晶子が友だちに出した手紙」の7点が対象文書として特定される。(敬称略)

12/27 「事故発生報告書」「前田晶子の自殺に関する調査報告書」「指導要録」部分開示(ただし、肝心な部分はほとんどが真っ黒に塗りつぶされていた)。その他は「不存在」か「非開示」処分決定。不服申し立て。

1993/3/31 不服申し立ての結果、町田市情報公開・個人情報保護審査会が市教委に、つくし野中学校の1989−1991年度分のいじめ調査結果(個表)を公開するよう答申(都内で初めて公開)。
5/7 同中が把握した3年間のいじめ件数と学年、性別内訳を公開。結果、1989年は15件、1990年と1991年度は各3件のいじめがあったことが判明。
(※いじめ調査は、文部省が全国の小中高校を対象に実施している児童生徒行動調査の1つ。自治体が集計し、学校名がわからない集計表は公開されている)

5/7 町田市教委は、991年と1992年の町田市内の全市立中学校が作成した「学校評価」(各学校で教師が学習指導法や生活指導の状況など学校活動全般を総括し、反省項目をまとめた内部検討資料。法令等で義務づけられたものではなく、記載内容は学校の裁量に任されている)を個人名などを除いて実質全面公開(全国初)。
作 文 学校は、9/11 2年生、9/18 1年生、9/21 3年生に作文を書かせる。学校は「作文は生徒の個人情報で見せられない」と遺族に開示することを拒否。

11/16 に遺族が請求した「晶子の自殺事故報告書および添付書類・上記作成のための資料一切」の中に
学校側が事実調査のために生徒たちに書かせた「作文」は含まれなかった。

11/30 「前田晶子の死について説明した後、生徒に書かせた作文のうち前田晶子に関わるもの」を開示請求。

「生徒たちに返した」「廃棄処分にした」とくるくる言うことが変わり、遺族の求めに応ぜず。
1992/8/13 「開示請求中の作文、学校が廃棄処分!」の報道(1992/8/8)に、K教師が電話で、作文を廃棄せず自宅に所持していると伝える。

町田市教委は作文を公文書と認める。


情報公開・個人情報保護審査会に、つくしの中学教員の大半である39名が署名捺印をして、「作文の所有権は生徒にあるので、審査は作文未提出のままで行ってください」との要望書を提出。
裁 判  【作文非開示取り消し訴訟】
1993/1/22、学校が生徒たちに書かせた作文の公開をめぐって遺族が提訴。
学校は開示請求中の作文を学校が廃棄処分したと報告。

1993/5、校長が証言した「作文」焼却時期に嘘偽報告(当初、「1年生1クラス、3年生7クラスの作文を1991年10月半ばに焼却した」としていたが、後に「1992年3月に焼却していた」と釈明)があったことが発覚。(1994/1/21、校長懲戒処分)

1997/5/6 一審判決で敗訴。
作文は生徒の個人情報」とし、生徒との信頼関係がこわれることを理由に非開示処分
原告は「この作文は、いじめの実態調査のために書かせた文書だ」と主張してきたが、裁判長は、その点について「そう言い切れない」とした。一部「作文」の不存在認定。学校が「作文」の開示請求を知りながらそれを廃棄し、その事実を偽って報告したことに対して、裁判所は「極めて遺憾」とした。

1997/5/23 控訴

1998/10/12 当時の1年生担任教師は、「作文は返した」と証言。「返されていない」というのは、生徒たちの勘違いだと強弁。(
裁判官は教師たちの証言を採用。生徒たちの証言は昔のことだから勘違いしているのだろうと証拠採用されなかった

1999/8/12 
控訴審棄却で敗訴。(理由は一審とほぼ同様)
(作文訴訟)裁判での証言から 晶子さんの元同級生たちの証言(晶子さんの死後5年目)
Aさん:「晶子さんがいじめられているのを知っていて、手をさしのべられなかった。次は私がいじめグループに目をつけられると思い怖かったのです」
Bさん:「これ(作文)を前田さんの両親が見るだろうと思っていました。両親は晶子さんの学校での様子を知らないのだから、当然だし、それでよいと思った」

晶子さんの自殺に深い関心を持っていた一学年下だった男子生徒(証言時19歳)

Kくん:「学校が『作文』を返したとしているクラスに所属していたが返却の事実はない。複数の友人とも話し合い確認した」
裁 判 1995/2/20 【学校の調査報告義務を問う裁判】
「生徒にいじめ自殺等の事故が発生した場合、学校がきちんと調査して、保護者に報告すべき」として、つくし野中学の設置者・町田市、校長2名(途中で交代)、担任、教師への給与支払者・東京都に対して提訴。
裁判の結果 1999/11/12 8年目にして和解成立。内容的には実質勝訴
(1)深謝(自殺劇・嘘偽報告) 
(2)報告義務違反事実を認める 
(3)町田市らは遺族の将来の事実調査に真摯に対応する 
(4)今後、重大事件においては、親と誠意をもって情報交換し、問題解決のための最大限の努力をするという約束をとりつける。
裁判の意味 親にはわが子の教育の受託者である学校に対して、わが子の死因を調査して報告することを請求する権利がある」ことを、判決によって明らかにすることを目的に提訴。しかし、現行法には「親の知る権利」と「学校の説明責任」を根拠づけるに足る規定がなく、解釈にも限界がある。そこで、親は実質的にこれを実現する途として、上記内容の和解を選択した。
裁判での証言から 裁判で原告側証人として法廷に立ったKくん(=当時晶子さんの1年下の学年)が、4人グループのボス的存在のUさんが「怖かった」と証言。放課後、1年生の教室に来たUさんが、目立つ女生徒に、「ヤキを入れる」と怒鳴ったり、殴ったりしていたのを目撃していた。
また、部活先輩の女生徒が、「見ていてかわいそうになるほど、晶子さんはいじめられていた」と話すのを聞いている。
「作文」にいじめの事実を書けば、先生の口からUさんに自分の名前が漏れてしまうと思い、仕返しが怖くて書けなかったと証言した。
その後 1999/10-11 成人した元同級生ら数名が、自ら個人情報公開条例を使って取り寄せた作文を遺族に見せる。焼香にも訪れる。

学校や教育委員会の裁判の和解内容さえ自分たちは知らないという態度に、両親は失望する。

2002/8/13 町田市情報公開・個人情報保護審査会は、残っていた作文289点の内容を整理した別紙を答申書に添付して、遺族に示した。
【経 緯】
父親が作文開示請求を出したあと、母親が作文を処分されないための保険として、作文の開示請求を申請。
町田市情報公開・個人情報保護審査会(会長=藤原静雄・國學院大教授)は、「筆跡などから執筆者本人が特定される可能性がある」ことを理由に請求を棄却する答申を市教育委員会に提出。
一方で審査会は、残っていた作文289点の内容を整理した別紙を答申書に添付して、遺族に示した。
別紙の内容は、筆者が特定される恐れがある部分や真偽がわからない箇所は要約や削除。
「事件、自殺に関して知っていること」「学校の対応についての感想、意見」などの6項目を整理。
審査会は、「自殺から相当の時間が経過したことや両親の心情に配慮して例外的に作成した」と説明。
参考資料 『せめてあのとき一言でも』/鎌田慧/1996年10月草思社、『隠蔽 −父と母の<いじめ>情報公開戦記』/奧野修司著/1997年11月文芸春秋、「学校の壁」/前田功・千恵子著/1998年4月教育史料出版界、「親の知る権利通信」/前田功・千恵子発行、裁判の傍聴、裁判報告資料/前田功・千恵子発行、「作文非開示取消訴訟を傍聴して−勇気ある証言−」/高橋雅子さん/1998年6月15日不登校新聞季刊教育法2000年9月臨時増刊号「いじめ裁判」の中の「わが子のことを知りたい、ただそれだけなのに −当事者として−」/前田功/2000年9月エイデル研究所、イジメブックス イジメの総合的研究4 「イジメと子どもの人権」/中川 明 編/2000年11月20日信山社ルポ・沈黙する学校と闘う親たち「いじめ自殺」わが子が死を選んだ理由を知りたい/安宅(あたか)佐知子取材・文/「婦人公論」2001年6月22日号2002/8/14朝日新聞1993/5/13毎日新聞、5/7讀賣新聞・夕刊、5/8日経新聞(月刊「子ども論」1993年7月号/クレヨンハウス)



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