わたしの雑記帳

2005/2/9 富士市のいじめ控訴審判決


2005年2月9日(水)、13時15分、東京地裁810号法廷で、富士市のいじめ裁判控訴審判決があった。
根本眞裁判長は一言、「控訴を棄却する」とした。
やっぱりというあきらめと、ウソだろうという思いが交錯した。ひとりの大人として、情けなくて、情けなくて、A子さんに申し訳ないと思う。全ての子どもたちに申し訳ないと思う。いじめ解決の道を大人たちが閉ざした。

今日、A子さんは気丈にも、両親とともに法廷に来ていた。その思いがどれほどのものか、裁判官にはわからないのだろう。また、ひとりの少女の心を踏みにじった。
ふつう、誰が好んで裁判なぞ起こすだろう。地裁で、いじめは自作自演とされて、同級生からも、教師からも、裁判官からもいじめられた。それでも控訴したのは、彼女には真実が見えていたから。誰がなんと言おうと自分は間違っていないと知っていたから。大人たちの目にされられ、被告弁護士に意地の悪い質問を浴びせられ、それでも臆することなく、高裁の法廷で証言に臨んだ。そこまでしても、自らの潔白を証明したかった。その思いを踏みにじった。

それでも、弁護団は言う。判決文はそれほど悪いものではなかったと。いじめを自作自演と軽々しく言うべきではないと。「いじめは原告の自作自演」と決めつけた地裁の最悪の判断を否定した。ただ、一審の判決が不当とまでは言えないと言う。(判決文を私自身は見ていないので詳しいことはわからない)

勝訴したら、親子で記者会見に臨む予定だった。敗訴したら、弁護団だけの記者会見を行うということだった。
弁護団だけの記者会見となった。弁護団は記者たちに向かって、学校の、裁判の不当性を切々と訴えたという。感触は悪くなかったということだったが、はたして、どれくらいの記者が本質を理解してくれたかはわからない。

ある面で、桶川事件と似ていると思った。生徒が教師に、「いじめられている」「助けて」と訴えたのに、教師は漫然といじめを見過ごした。あるいは見落とした。教師たちにいじめ解決の能力がなかった。そのミスをカバーするために、いじめはなかったことにされた。
それでもと証拠を出して訴える少女と家族に対して、あろうことか、「自作自演」の結論を出した。提出した証拠も本人がねつ造したものと断じた。それを学校側はPTAの前で話した。被害者が加害者にされた。逆転劇。

原告側はできるだけのことをした。筆跡鑑定も出した。現場検証をしてほしいと訴えた。しかし、裁判所は事実を見極めようとはしなかった。結局、裁判所にとっては、事実がどうであるかは関係ないらしい。学校が行った行為が不当なもの、違法とまで言えるかどうか。名指しされた生徒たちがいじめをしていたという確たる証拠になるかどうかだけ。原告の思いとはかけ離れたものだった。

「助けて」と言っても、その気がなければ助けてくれない警察。「助けて」と言っても、本気で生徒を助けようとはしてくれない教師、学校。そして、それは不当とまでは言えないという司法。では、被害にあったとき、どうすればいいのか。
経緯を間近で見てきた子どもたちは確信しただろう。教師を信じたら、ひどい目にあう。教師に言わずにがまんしていたほうが、まだマシ。あるいは、やはり、いじめられるより、いじめたほうが得。だって、学校が守ってくれる。学校はいじめっ子の味方。裁判所は学校の味方。この世に正義なんてない。いかにうまく立ち回るかだけ。権力とどう結びつくかだけ。

それでも、この事件の場合、A子さんの両親の強い愛情があった。どんなことがあっても娘を守る。信じる。このようなことがなければ、けっして表には出ない愛の形だったかもしれない。しかし、多くの選択を迫られるなかで、両親はしっかりと娘の幸せを選択した。いつも、とても控えめなご両親。自らの権利を声を大にして主張できるような人たちではない。娘のことだからこそ、ここまでやってこられたのだと思う。事件を通して、裁判を通して、目覚めた人たちだと思う。形としては、裁判は負けた。しかし、A子さん一家は深い愛情と固い団結で結ばれた。人の幸せにとって何が大切かを見極めることのできる目を持った。人生のなかで、ほんとうに勝ちにいくのはこれからだと思う。

弁護団に、記者を通して伝えたいことはあるかと問われて、A子さんは言った。「(裁判官に)配慮はしてもらったとしても納得いかない。きちんと判決で認めて欲しかった」。自分の言葉できちんと話した。
いくら、地裁判決のあと、司法には期待していないと頭ではどんなに言い聞かせたところで、心は納得しないだろう。彼女は自分の気持ちをごまかすことなく、冷静に言葉で伝えることができる。何年もの間、苦しんできたことが、彼女をここまで成長させたのだと思う。平凡な学校生活では得ることのできなかったものだろう。
控訴審で棄却されてなお、A子さん一家に悲壮感は漂っていない。もちろん、がっかりしただろう。強い憤りもあるだろう。しかし、絶望感とは違う。判決くらいでは揺るがない確かなものを見た。そのことに、心底、救われる思いがした。

結局、深く傷つけられた子どもの心を救うことができるのは、司法ではなく、深い愛情なのだと思う。親だけでなく、深い理解のもと一団となって戦った児玉勇二弁護団。傍聴にかけつけた支援者たち。
一方で、学校に、司法に、子どもたちに対するほんの少しの愛情があれば、これほど少女の心を深く傷つけずにいんだのにと、とても残念に思う。
日本の国は、少子化を問題にしながら、子どもたちを消費することしか考えていない。大人たちは自分のことしか考えていない。愛しているのは自分だけ。少なくなった子どもたちに、ほんの少しの愛を分け与えることさえしない。貧しい国だと思う。

この裁判を私は、自らは娘をいじめ自死という形で亡くした小森美登里さんとともに見守ってきた。子どもたちが死なないですむためには、やはり大人たちを変えていかなければならないという確信に改めて至った。
なぜ、いじめがなくならないのか。なぜ、子どもたちが大人に「助けて!」と言えないのか。なぜ、死ななければならないのか。その答えは子どもたちのなかにではなく、大人社会にこそある。


(富士市のいじめ裁判については、過去の雑記帳 me040811 me040928 me041216 参照)




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