わたしの雑記帳

2002/4/24 児童養護施設・生長の家 神の国寮 児童虐待裁判(ワ 第990号)の報告と裁判について


2002年4月22日、神の国寮と虐待を行った職員を訴えた裁判「わたしの雑記帳」バックナンバーme010511参照)の公判に、八王子地裁に行ってきた。
303号法廷。傍聴席は4人掛けが4つの計16席しかない。しかも、同時に5〜6件の民事裁判を行う。
裁判官はひとり。今回から交替したという女性の裁判官(30〜40歳代くらい?)。右陪席も左陪席もいない。事件名は言わず、公判番号と原告・被告の名前を読み上げては、原告席と被告席が次々と入れ代わり、同じ裁判官が次々に裁いていく。傍聴人も、自分の関心のある裁判が終わると席を立っていく。今まで傍聴してきた裁判に比べて、この裁判は裁判所の扱いが不当に小さいということなのだろうと、私自身は判断した。

2件ほど、原告席に本人訴訟と思われる人が座った(男女各ひとりずつ)。弁護士を介さずに自分で渡り合う。被告席には弁護士が座る。金銭的な理由や、弁護士の引き受け手がいない場合、原告本人に法律知識がある場合などに本人訴訟を行うことがあるとは、ものの本で読んだことがあるが、実際に見るのは初めてだった。
裁判官は、原告に対して、わかりやすく説明していた。本人尋問のやり方として、事前に原告が質問事項を書き出してくれば、当日、裁判官が質問を読み上げ、原告がこの訴訟にはどういう理由があるのかを答えればよいと言っていた。本には、相手の弁護士は専門家であるのだから、素人が太刀打ちするのは無理だなどと書いてあったが、思っていた以上に本人訴訟はあるのかもしれない。
労働裁判か何かで、あちこち依頼した弁護士すべてに勝てないと言われて断られた訴訟で、本人訴訟以外に道がなく、がんばった結果、勝訴を勝ち取った例があるというのを聞いたことがある。ここでも、頑張っているひとはいるのだと思った。

さて、該当の公判。次から次へと流れ作業のように処理されていく裁判。10時からとなっていたが、なかには多少長いものもあって40分ほど経過。原告の名前をよく覚えていなかったので、しかも、公判番号を控えていなかったため、書類の確認と次回期日とで、5〜6分で終わってしまったなかに、すでにあったのではないかと不安になってきてしまった。
しかし、該当の公判では、平湯真人弁護士をはじめとする弁護団と、原告の男性とがずらりと並んで入り、それまでの裁判とは明らかに違う雰囲気で行われた。

公判が始まってほぼ1年たつはずだが、まだ書類のやりとりの段階が続いていた。足りない書類等についての提出期日の確認等が行われて、すぐに次回期日(6月24日10時00分 303号室)が決まった。
いつもは公判のあとに説明があるとのことだったが、弁護団はこの後すぐに移動があるということで、残念ながらその日は話を聞けなかった。代わりに、「自分が自分であるために」を書かれた佐々木朗(あきら)さんが来ていて、原告のAさんと一緒にファミリーレストランで話をきくことができた。

裁判はまだ書類のやりとりが続いているが、そろそろ証人尋問がはじまるだろうということだった。
テレビや「STOP児童養護施設内虐待」 http://www32.tok2.com/home/gyakutai/ で取り上げられたこともあって、当初はマスコミや大勢の傍聴人が押し掛けたが、ずっと書類のやり取りが続き、平日に仕事を休んで遠くから来ても、わずか10分程度で終わってしまうので、だんだんひとがすくなくなっていったという。ただ、そんな中でも、支える会の女性2人はずっと変わらずに傍聴に来てくれているという。

Aさんと少し話して、児童養護施設・二葉学園での職員による体罰を訴えたFくんを思い出した。(http://member.nifty.ne.jp/takashikoseki/yougo3.html 参照)大柄なわりにシャイな感じ。ひととしゃべるのが苦手という雰囲気。
形の上では、わずかながらも損害賠償金を得て勝訴したかのようなFくんの裁判だったが、実質的には敗訴の感が原告側には強かった。その裁判のなかで、証言台に立ったFくんは、裁判官の威圧的な態度やシャイな性格、馴れない場所のせいで、自分の思ったことをうまく話せなかったことを悔やんでいた。反対尋問で、児童養護施設に預けられたいきさつや母親のことなど、触れられたくないプライバシーに触れられて傷ついていた。一審判決に不満を持ちながらも、周囲の控訴を勧める言葉にもついに頷くことはできなかった。同じ思いをAさんがすることのないようにと、願わずにはいられない。

闘うひとの勇気が判決でくじかれたとき、あとに続く人びとの気持ちをも砕かれてしまうことがある。
水戸アカス裁判で、知的障害のある女性たちの経営者の男性に性的虐待・暴行を日々受けていたという証言が採用されなかったことを知って、養護学級で担任から性的虐待を受けた少女の親が訴えを取り下げたということを何かの本で読んだ。世間にさらしものにされるだけされても、訴えが実を結ばない。その結果、多くの被害者の声を塞いでしまった。弱い立場のひとほど、受ける影響も大きい。お金と名誉と、持てるもの全てをかけた結果が、司法からの拒絶であったなら、生きる気力さえ失いかねない。多くの被害者は余裕があって、裁判をしているわけではない。やむにやまれぬ気持ちで、他に方法がなくて、裁判に訴えている。裁判はやはり勝たなければダメだと思えてくる。弱い立場のひとが、裁判で勝ってはじめて、多くの人々に希望の光がさす。

裁判官には、判決を出す前に、その裁判が世の中に与える影響について、もう一度よく考えてほしい。勇気をもって訴えた原告ひとりが辛い思いをするのではない。場合によっては、将来にわたって同じ思いをする人びとをつくり続けることになる。いじめ裁判で、学校の責任、加害者の責任が認められて来なかったから、学校の事故を告発した裁判でも、学校の責任、教師の責任が認められて来なかったから、学校は変わらなかった。加害生徒、加害教師を排出しつづけてきた。子どもたちは殺され続けてきた。
同じように、児童養護施設という、本来、子どもたちを守るべき場所で虐待が行われて、それを司法が放置するならば、施設の体質は変わらず、これからも何十、何百人ものAさんやFくんが生み出される。子どもたちの心と命が危険にさらされる。
法的に罰せられるものに対しては、組織も個人も、あらゆる努力と工夫で再発防止に務めるだろう。しかし、訴えられても原告が負けるとわかってたら、どれだけ通達を出して命の大切さを訴えたとしても、様々な理由をつけて何も具体的な対策を行わない。その間に事件は繰り返される。司法の役割と責任は大きい。


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