第1回公開学習会 山西省から沖縄へ
−近藤一さんの戦場体験を聞く会−
要約

 「兵士たちの沖縄戦を語る会」世話人の近藤一さんに来ていただき、ご自分の戦場体験を話していただきました(2002年4月13日、亀戸文化センタ)。近藤さんには、2001年12月の南京大虐殺証言集会にも来ていただき、日本軍の中国山西省における加害の事実を30分ほど話していただいたのですが、アンケートへの回答でも「近藤さんの体験や目撃した加害の生々しさに衝撃を受けた」、「加害を語る勇気に感銘を受けた」というご意見が若い方からも多くありました。また、時間を十分取って是非お話を聴きたいという声が多かったこともあって、近藤さんに再登場していただいたものです。  今回は2時間の予定を超過して、応召から復員するまでの近藤さんの5年に亘った戦場体験全体を通したお話を聞くことができました。観念ではなく、生の事実によって戦争の悲惨を語り、ご自身が深めてこられた戦争責任と現状の日本社会の問題を、力を込めて語ってくださいました。録音テープから起こした講演録は相当の分量になりますから、以下は要約を紹介します。




なぜ戦場体験を語らなければならないか

  私の中の根元的な問題として、昭和20年4月1日から6月末まで沖縄での米軍との過酷な戦闘の体験があります。ここで自分も重傷を負い、190人いた中隊で5人しか生還できないような悲惨な戦闘を経験しました。しかし、沖縄戦が偏った見方をされていることに気づき、亡くなった戦友たちのためにも、戦場の体験や自分の見たことをありのまま語ろうということで、5名の同僚と「兵士たちの沖縄戦を語る会」を設立し、各地での証言活動を始めたのです。
  戦後20数年経って沖縄を訪問した際に、ガイドさんは摩文仁の丘で自決した32軍司令官牛島満大将を西郷南州(隆盛)に見立てて、国に忠誠を尽くした立派な軍人であったと美化して説明していました。一方、1982年の教科書問題以後、沖縄の日本軍は一般住民を壕から追い出したり、自決を強要したとかのことが強調され、沖縄の日本兵は住民を犠牲にした悪い日本兵だということが一般化してしまいました。
  しかし、戦った1兵士の目から見ればそれはどちらも違っています。沖縄を本土決戦までの時間稼ぎのための捨て石にし、前線における絶望的な戦闘、兵士や住民の悲惨な被害の状況を一度も見ることもなく、玉砕を貫いて、徒に犠牲者の数を増大させた責任は軍とその指導者にあったというのが事実ではないでしょうか。また、悪い日本兵もいたけれども、ほとんどの日本兵は国や住民を守るという思いで死にものぐるいの戦闘で死んでいったのです。そういうことを知ってもらうことが、亡くなった同僚たちの死を無駄にしないためにも必要だということから、自分の体験や見たことを語り始めたということです。
  そういう「兵士たちの沖縄戦」、日本兵の犠牲を語る中で、本当の戦争の悲惨を分かってもらうには、沖縄に渡る前に4年間戦った中国山西省で中国人に対して行った加害の事実を語り、その上で沖縄戦の被害を語るのが本当ではないかということに気づき、中国戦線の加害についての経験も語るようになったということです。
  また、戦後多くなった無責任な日本人、現在起きている社会の混乱という問題は、前の戦争の責任を曖昧にし、戦後責任に関しても何もしてこなかったことに原因があるのではないかと思います。戦後、戦争体験者の多くが口を閉ざしたために、戦後世代はほとんど戦争の実態を知りません。それをいいことに教育をゆがめるような動きが出てきています。若い人が過去の戦争の事実を正しく知って平和な日本を造っていくためにも、戦争の加害の側面を語ることが重要だとの思いもありました。


応召、山西省での戦場体験(昭和15年12月 〜19年8月)

  昭和15年12月、現役兵として静岡の連隊に入営し、すぐに中国大陸に輸送され、天津、石家荘を経て、山西省の陽泉に本部がある独混4旅団、その配下にある遼県の第13大隊に配属になりました。ここで初年兵教育を受けましたが、戦場であるために訓練は厳しく、古兵による制裁がありました。また、人殺しの訓練として、中国人捕虜の刺殺訓練を経験させられ、また下士官による中国人2名の斬首の現場を見学させられました。この時、私には人殺しに対しても特に悪いことをしたという感情が起きてきませんでした。こういった初年兵教育によって、平然と残酷なことをする一人前の兵士に仕上げられたと思っています。


  その後配属になった部隊は石家荘と太原を結ぶ鉄道、石太線の警備が任務でしたが、遼県城で警備任務に就くほか、この地域が八路軍の勢力の強い地域であったために、たびたび八路軍の討伐に出て村を襲い、戦闘も経験しました。
  村を襲った場合は、まず金目のものやロバ、牛などの略奪を行いました。女性がいれば輪姦し、その後で、憲兵に知られないように殺害することが普通に行われていました。
  最初の討伐の行軍の時、ある村で赤ん坊のいる女性を古兵が輪姦しましたが、その時は女性を殺さずに裸にして大行山脈の険しい山道を連行しました。途中女性が弱ってきたのを見て、一人の古兵が赤ん坊を掴んで谷底に投げ捨てると、女性もその後を追って身を投げるという事件があり、その現場を私は目の前で目撃しました。同じ大隊の別の中隊にいた、作家の田村泰次郎は小説『裸女のいる隊列』を書きました。私が見たのと同じ女性かどうかははっきりしないですが、小説にある描写は間違いなく事実に基づいたものです。


  遼県にいた時、その一年前の八路軍の大攻勢、百団大戦の際に重傷を負って八路軍の捕虜になった日本兵がおり、手当をして回復したので八路軍が返しに来たという事件がありました。日本軍では、絶対捕虜になるな、捕虜になる前に自決しろ、と教え込まれましたし、中国人捕虜を捕らえたら尋問の後で必ず殺害したのです。だから八路軍の日本人捕虜の人道的な扱いには意外な感じをもちました。返されて来た捕虜は、重傷を負って意識がない状態で捕虜になったのですが、軍法会議にかけられ営倉に入れられました。戦後も戸籍上の差別で故郷に帰ることができず、戦友仲間からも蔑まれるなどしていますが、今も健在です。ほとんどの元兵士が軍にいた時の心が抜けない状態が今も続いているのです。


  昭和18(1943)年当時は、八路軍は武器では劣っていても強力になっており、少人数の編成で討伐に出て、八路軍の大軍に包囲され、小隊全滅の危機に直面したこともあります。その際、分隊長が戦死し、援護を頼んだ中隊の中隊長は、重機関銃を持っていたにもかかわらず援護射撃をさせませんでした。中国軍は重火器をもっている部隊に集中攻撃を仕掛け、武器を捕獲する作戦をとることが多かったのでそれを懼れたのです。その中隊長は自分の昇格しか頭にない人で、重機関銃を取られると処分されるか昇進の道を絶たれるので、それを懼れて撃たせなかったのです。兵隊の命よりも自分の昇進が大切だった中隊長と、自分は国に忠誠を尽くして自決して、残った兵隊は一木一草まで戦えと言った牛島司令官とは、相通じるところがあると私は思います。


  日本軍は一般住民に対しても酷いことをしました。中には、村を襲って逃げ遅れた老人の耳を切り落としたり、尋問した後の住民の頭に石を落としてつぶして殺すような、異常に残虐な行為をする兵もいました。10才くらいの女の子が輪姦された後を見たこともあります。このように鬼にまで堕ちた兵士もいました。
  確かに、人間とはいえないような状態まで堕ちた兵士を憎むのは当然ですが、そこまで堕ちざるを得なかった兵士もやはり哀れであり、被害者であるということも理解してほしいと思います。アメリカ軍のように前線勤務は3〜6ヶ月で交代するのと異なり、3年、4年、さらにそれ以上も非人間的な軍組織の中、明日のことはわからない前線に置かれて、聖人君子でいられる方がおかしい。こう言って叱られたこともあります。加害の実行責任は兵隊にあり、多くの兵士はその反省をしていないと思いますが、長期に亘る戦場であったことを考えることも本当の戦争の悲惨を知るためには必要ではないでしょうか。


  しかし、中国の人々にはどんなことをしても償いきれないことをしました。心の中の重さが少しでもとれたらという思いから、「山西省明らかにする会」の日本軍の性暴力の調査旅行に2年前から同行させてもらってます。現地で蘇る記憶があり、針で刺されるように辛い思いをしますが、本当に申し訳ありません、一人でも多くの日本の人に事実を聞いてもらいますから、という気持ちで参加しています。


  昭和19年4月から3ヶ月間ほど、華南作戦(洛陽、開封、鄭州方面)に参加し、その後8月に上海から出航しました。行き先は南方の島とし聞かされていなかったのですが、到着したところが那覇でした。皆で満期除隊で日本に帰れるのかと大喜びしたのですが、それは糠喜びでした。


  沖縄での戦闘(昭和20年4月1日〜6月末)

  沖縄の米軍との本格的な戦闘は本島の南部、三分の一くらいの地域であったのですが、首里に第32軍の司令部があり、私の所属した第62師団(石部隊)は首里の北側を守備陣地としました。南部の島尻の方を24師団(山部隊)が守備し、知念半島を守備したのが独混4旅団(球部隊)で、最前線で戦った歩兵はあわせて2個師団半、30、800人といわれます。他に海軍、戦車隊、砲兵隊等を入れて約10万人の兵力です。アメリカ軍は歩兵が7個師団18万6千人、海軍他を含めると54万人と太平洋戦争で最大規模の戦力を投入しました。   戦死者は日本側が9万3千人、住民の死者は14〜15万人と言われています。これに対してアメリカ軍の戦死者は1万2400人ですが、精神異常をきたしたアメリカの兵隊が2万6千人もいたと言われており、戦力、兵器で圧倒的に優勢であったアメリカ軍にとってもいかに過酷な戦闘であったかがわかります。


  アメリカ軍は4月1日に、無血上陸しました。日本軍は水際の砲爆撃をしなかったのです。私たちの、13大隊は普天間飛行場のすぐ南にある嘉数台地というところに、大隊本部を置きここを中心に守備陣地を築きました。上陸した米軍と12大隊との戦闘は4月2日に始まって、13大隊は4月3日から嘉数での戦闘に入りました。米軍は攻撃の前に「鉄の暴風」ともいわれた猛烈な艦砲、野戦砲の砲弾を集中したあと、戦車を前面に立てて攻撃してきました。その日に攻略できないとわかると一旦引き上げて行き、次の日また砲撃した後に攻めてくるというパターンで、4月8日まで激戦が続きました。4月8日までに13大隊の兵隊の70%までが戦死していたということです。
  4月9日の未明にアメリカ軍は嘉数の頂上を占拠し、私はこの時の戦闘で胸を撃たれて重傷を負い野戦病院の壕に収容されました。その後回復して、日にちははっきりしないのですが前線に復帰し、首里城を守備する前田高地、末吉陣地で戦闘を続けました。190人いた第2中隊で、この時戦える兵隊は15人ほどまでに減っていました。末吉では戦車が壕の上に乗り上げ、馬乗り攻撃を始めたために、脱出しました。壕の中には重傷者を収容していてまだ動ける兵隊もいたのですが、「後で来るから」と言って置き去りにせざるを得なかったのです。


  その後、最後の守備陣地はが南部の井原にまで下がり、13大隊も目取間、井原へと南下しました。しかし13大隊だけは独混44旅の配下に入り、摩文仁の丘の500メートルくらい手前の仲座と言うところに進出して守備陣地を造りました。これは摩文仁に32軍司令部が移り、それを守備するためだったということは後で知りました。13大隊は6月の15日頃にはまた戦闘に入り、6月19、20日ごろに最後の突撃をして大隊長他が自決しました。
  生き残った兵隊は島の北部の山岳地帯でゲリラ戦に参加しろという命令でしたが、何日も食料も水も取ってない体ではそれもできず、最後に残った私ともう一人の滋賀県出身の兵隊、それと海軍の兵隊の3人で万歳突撃をしたところで、海軍兵は戦死し、私ら2人は捕らえられ捕虜になりました。中国大陸では日本軍は捕虜を全部殺しましたから、当然我々も米軍によって殺されるものと思っていましたが、トラックに乗せられ北部の石川にある捕虜収容所に入れられました。そこで、半年間過ごした後、船に乗せられ翌21年1月11日、横須賀に上陸しました。


  日本軍によって沖縄県民が多数見殺しにされた、壕を追い出された、あるいは自決を強要された、ということが言われていますが、確かに軍民共生友死という軍の方針で多くの住民が犠牲になったと思います。5月22日の首里司令部の軍議で、62師団の藤岡中将は多数の負傷兵が壕やガマの中にいるからそれを見捨てることはできない、首里城で最後の決戦をするべきだと主張したのに対して、本土決戦までの時間を引き延ばすために南部へ下がるべきだという意見が多数を占め、司令部を南に移したといわれています。その結果、南部に避難した沖縄住民がひとかたまりになっているところに、1〜2万という日本軍が入って行って、砲撃や戦闘に巻き込まれた住民の犠牲者が増えました。
  また、6月12日には、アメリカ軍から軍師が「日本軍は立派に戦った、これで戦闘は終わりにしてはどうか」と提案してきたのを、牛島司令官は笑い飛ばしたそうです。最後の一木一草まで戦えと言って、自分は自決した。12日で停戦しておれば沖縄住民の犠牲は半分で済んだはずです。軍上層部の頭の中には、住民や兵隊の命のことなど一顧だに無かったのだと思います。


  私たち兵隊は、国や住民を守るためと思って、約80日間死にものぐるい以上になって戦った。壕の中に逃げ込んだことなど1度もないのです。中国大陸で悪いことをやったけれども、沖縄ではそうやって死んでいった兵隊がほとんどだったことを知ってもらいたい、そうでなければ死んだ兵隊があまりにも哀れだと思います。
  元阪神タイガースの監督だった松木健次郎さんが、首里を守備する陣地に設けられた重傷者を収容した壕の中と戦死者を埋めた場所の様子を、手記に書いています(省略)。  また、京都の大橋准尉という方が、南部  岬のガマの中で通信小隊の最期、集団自決したときの様子を手記に書き残しています(省略)。
 最後に太田昌秀著『これが沖縄戦だ』のはじめの部分を読み上げて話しを終わりにします(省略)。


 近藤一さんの講演記録全文は「くり返すな戦争と虐殺、2001年南京大虐殺東京集会・報告集」に収載の予定です。 (文責 事務局編集担当 RS)




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