現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言が逐一記録されます。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
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改憲潮流と右翼イデオロギーの現在   

『季刊ピープルズ・プラン』47号(2009年9月10日発行、ピープルズ・プラン研究所=発行、現代企画室=発売)掲載

太田昌国



 「改憲潮流」なるものを、政党政治の枠内で考えること自体は、本来なら大事なことではあるだろうが、二〇〇九年八月の現在の段階でそれを試みるには、私たちは少なからず不確定な客観状況に包囲されている。

二〇〇六年から二〇〇九年にかけて、まぎれもなく「改憲潮流」を形成している安倍晋三、(次いで、若干性格を異にする福田康夫首相を間に挟んで)麻生太郎を首班とした両内閣が、自らの失政によって自滅・凋落の過程をたどり、それによって自民党そのものが未曾有の「危機」にあるがゆえに、この党は「改憲」を現在の主要な目標を据えるどころの状況ではなくなっている。

代わって成立するかもしれない民主党を主軸とする政権は、政治主張がひどく異なる持ち主たちの寄り合い所帯であることから、どの部分がどう主導権を握るかによって、「改憲」への態度が大いに違ってこよう。

自民党からの離党者と松下政経塾出身者の合体如何によっては、民主党主軸の政権は自民党政権以上の「危険性」を発揮しかねない。

いずれにせよ、イデオロギーや信念に基づくというよりも、自らの党的・派閥的利害を賭けて液状化状況にある政党政治の枠内でこの問題を考えることは、政治的な先行きが不明な今の段階では、有効とは言えない。


 この間の社会状況を顧みるならば、「右翼イデオロギーの現在」は、政党政治の中にではなく、《草の根》に広がる煽動的ナショナリズムにこそもっとも特徴的に現われている、と言える。

いくつかの「光景」に分けて、その現われ方を考察すること――それが、この文章の課題である。



               光景1

「右翼イデオロギーの現在」に行き着くためには、いくらか長い射程をとって考える必要がある。

遡って、一九八八年から八九年にかけての光景を思い出す。昭和天皇の「下血」が続き、それを大仰に報道するマスメディアに煽られたのか、皇居に設けられた「平癒祈念」の記帳所に詰め掛けたり、雨の皇居前広場に立ち尽くして皇居に向かって手を合わせて祈り続けたりする人びとが、数は覚えていないが、それなりにいた。

その姿が、否応無く映像として目に飛び込んでくる日々であった。そのなかに若い人の数がけっこう多いことに驚いた私は、あるミニメディアに次のように書いた。


 「雨に濡れつつ、坂下門で手を合わせて祈り続ける若い人々の顔をテレビや新聞で見ながら、私は、彼らの心に占める孤独の深さを思った。

家庭にも学校にも地域社会にも、近いあるいは遠い未来にも、手応えのある、託すべき希望を見い出せない人々がそこには群れている。

それは、確かに、不気味な光景だが、彼らが砂を噛むような、味気ない現実に耐えかねて、とりあえずあのような形で何らかのサインを出していることだけは、確実なのだ。

その索漠たる心に、私たちは、どんなに解放された豊かな世界を示すことが出来るのか。

いつまで続くかわからない「国」だの「国境」だのに束縛された意識が解き放たれた時に実感する精神の豊かさを、私たちが、いまここで示すことが出来れば、彼らとの間にも橋は架けられるかもしれないことは忘れたくない」。

(「ベン・ジョンソンを通して天皇重体報道を考える」『支援連ニュース』第八五号、一九八八年一二月、掲載)。


 これを読んだ、いまは亡き作家・桐山襲が「あんなことを書くなんて、Oさんも年をとったのかな」と語ったことを、風の便りで聞いた。桐山は、無念にも、その後間もなく亡くなったので、この問題をめぐってお互いの真意を語り合う機会はなかった。

私のそれは、と言えば、「敵」のような貌をしてこの社会の矛盾の只中を生きる人びと(それは、ある場合の、私たち自身の貌である)に届く射程をもった「変革の論理」を模索しなければならない、という決意を語ったつもりであった。

私は、当時も、私なりの方法で自らの意見と立場に確信を持ってはいたが、だからといってそれは、自分も含めた人間一般がもつ「危さ」や「不確かさ」や「ゆらぎ」などが、ある特定の時代状況のなかで、ある人間にまとわりついてしまう可能性を排除してしまうものではなかった。

具体的な方法としては難しい課題であることは重々承知のうえで、皇居前で頭を垂れている人びとをそのまま向こう側に追いやってしまうのではない、内在的な捉え方・内在的な批判の仕方が必要だと考えていたのだった。


 翌一九八九年一月、昭和天皇は死んだ。日本では、その死をめぐって、また新天皇の即位をめぐって、ひたすら「内向き」の物語に覆い尽される一年だった。外では、世界が激動していた。六月、天安門事件が起こった。

同じく六月、ポーランド国会議員選挙において自主管理労組「連帯」が勝利し、非共産党勢力が主導する連立政権が成立したことをきっかけに、東欧社会主義圏の共産党独裁体制が次々と崩壊し、同年一一月には「ベルリンの壁」の崩壊にまで至った。二年後の一九九一年末には、ソ連邦の体制も瓦解した。


 第二次世界大戦後の世界を支配してきた東西冷戦体制は崩れた。

社会主義を「僭称」して、「粛清」「収容所列島」「自由な言論活動と人権の封殺」などのキーワードに象徴される抑圧的な支配システムを作り上げてきた体制が崩壊したことは、資本主義に代わる社会システムを構想している者からすれば良い結果をもたらすだろうと、私は考えた。だが、現実には、必ずしもそうはならなかった。

むしろ、現実に試みられた社会主義革命の模索が無惨に失敗したことは、その理想を信じてきた者の確信を著しく殺ぎ、自信をなくさせた。

自分たちが展開してきた理念と活動を自己批判的に捉え返し、そのうえで、新たな場所に進み出ようとする個人も運動も、決定的に少数派だった。

したがって、社会変革をめざす言動そのものが、人びとの耳目に届くものとしては、ほぼ消えた。戦後日本は、世界でも稀なほどに、マルクス主義文献の溢れる社会だったが、売れなくなったそれらも、早々と書店の棚から消えた。

少なくない出版社が、その種の書籍を絶版にした。大学でも、マルクス主義経済学の講座はまたたく間に消えていった。

その変わり身の早さを見ると、私が自分では体験していない敗戦直後の社会における、軍国主義者から民主主義者への、国粋主義者からプロレタリア国際主義者への、右翼ファシストから進歩的知識人や左翼への――当時の大人たちのもろもろの「転向」とは、こういうものだったのだろうと納得するのだった。ひとりひとりが粘り強い総括と抵抗の作業を放棄したとき、社会的雰囲気が一気に変わっていく怖さを実感した。


 進歩派と左翼が持ち場を放棄して空白になった場所を占拠したのは、右翼の言論だった。

彼らからすれば、崩壊した社会主義を信じていた者たちは、同時に、日本の近代史を植民地支配と侵略戦争の観点のみで捉え、いたずらに「自虐的な」史観を主張してきた者たちと重なっていた。

そのような立場から主張された、当時の典型的な右翼言論の構造を見てみよう。

一九九一年、旧日本軍で軍隊慰安婦とされた韓国の一女性が、国家賠償を求める提訴を行なった。

東西冷戦構造によって担保されていた韓国の軍事独裁体制の下にあっては、挙げようにも挙げることのできなかった抵抗の声が、それが消滅したことでほとばしり出たのだ。

だが、右翼からすれば、異なって見える。社会主義という目標に失敗した左翼は、得意の植民地問題で被害者探しを始め、それを前面に押し上げて日本国家を訴えさせ、もって失地回復を図ろうとしている――この種の言論が社会にあふれ出た。

すでに触れたように、左翼言論は自らそれを展開する基盤を喪失していたから、「量」としてこれに対抗する術をもたなかった。


続けて、「自虐的な」歴史教科書を書き換えようという運動が右翼から起きたことは、二〇〇九年の現在その運動がどこまで展開されてきたかという結果とともに、よく知られていよう。

こうして、日本における「右翼イデオロギーの現在」を見るうえで、一九八八年の天皇「下血」騒動に始まり、東西冷戦構造の消滅・ソ連東欧社会主義圏の崩壊に象徴される一九九〇年代初頭までの内外状況を視野に入れておくこと――進歩派と左翼がなすすべもなく立ち竦んでいた時期に、右翼は、国内と世界における状況を見極め、実に巧みにこれを利用したことを見ておくことが必要だろう。

右翼の台頭が、進歩派や左翼の「立往生」や「沈黙」と背中合わせであることを自覚しておくことは、こうして、決定的に重要なことなのだ。



                光景2

 一九九七年から二〇〇五年まで、「北朝鮮による拉致被害者家族会」の事務局長を務めた蓮池透は、家族会が開催する集会や街頭署名活動の際に、いつしか見かけるようになった奇妙な雰囲気に対する複雑な気持ちを、後年になって次のように回顧している。



  ――集会参加者の中には、日章旗を持っている方が大勢います。そうして、誰かがしゃべるごとに、そういう方々が、旗を振りながら、「そうだ!」とか「けしからん!」とか、「『朝日新聞』出て来い!」「NHKはいるのか!」とか、激高するのです。

よく見ると、ゲートルを巻いた旧日本陸軍人そのままのような、変わった衣装の方もいます。「怖いなあ」と思って外へ出たら、右翼の街宣車の隊列があり、がなり立てているいるのです。

そして、その街宣車から流れている演説と、私たちが主張していることと、内容がまったく同じだと気づき、愕然としたこともあります。(ある時のデモでは)ふつう、家族は隊列のいちばん前に出るのですが、そこには行かず、一番後ろに回りました。

すると、サングラスをかけた怖いおじさん方が大勢並んでいるのです。これが私たちの運動だったのか、これはおかしいなと思いました――(蓮池透『拉致:左右の垣根を超えた闘いへ』、かもがわ出版、二〇〇九年)。



 二〇〇二年九月一七日、日朝首脳会談がピョンヤンで開かれた。主題は、国交正常化であったに違いないが、日本では「北朝鮮による日本人拉致問題」だけに集中していた。

それだけに、金正日総書記が、北朝鮮のある部門の責任において日本人を拉致していたことを認めたことで、日本の世論は強烈なナショナリズムの形で沸騰した。


 そのときまで、日本政府・外務省は、植民地支配問題を含めた重要案件を解決する意気込みを込めて、北朝鮮との国交正常化をはかる確固たる方針を確立してこなかったから、国交正常化交渉で拉致問題を提起しても、北朝鮮側に相手にされず、両国間の関係は停滞するばかりであった。

警視庁は、拉致に関わる全国各地での断片的な情報を総合すれば、何らかの具体的なイメージを作りえたはずだが、捜査上の思惑もあって、それを怠った。

マスメディアは、拉致に関する決定的な証拠と情報が得られていない段階での報道を避けてきた。

「世間」も、拉致などという行為が国家によってなされることの可能性を信じることができず、多くの人びとは無関心のままに放置した。

進歩派と左翼は、かつて植民地支配を行なった国への謝罪も補償もなされていないことへの負い目から、また社会主義国が拉致などという行為に手を染めるはずがないという思い込みから、この問題に取り組む機会を何度も失った――金正日総書記が拉致の事実を認め謝罪したことで、この状況は一気に変化した。


 肉親をゆえなく切り裂かれて二〇数年――まぎれもなく被害者となった「家族会」の言動が、社会全体の雰囲気を規定した。被害者家族は、そのいくつもの手記を読む限り、どこにでもいる、ごうふつうの市井の人びとであった。

自分の仕事を愛してまじめにこなし、家族の生活の平安を願い、ごく平凡な日常を送っている、ありふれた人びとを襲った非日常的な出来事。

しかも、その事件を引き起こしたのは、国内的な要因ではなく、植民地支配とその補償問題や朝鮮人強制連行、従軍慰安婦などの問題を通して、日本国の歴史の「加害性」を厳しく非難してきた北朝鮮であった――世論が、平衡感覚を失って一途に熱狂する条件は揃っていた。

二〇〇二年九月一七日夜――首脳会談の結果を報じるニュースが流されてから、その後の七年間というもの、「家族会」とその背後にぴったりと寄り添う「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会」(略称「救う会」)は、強力な圧力団体と化して、メディアが報道すべき内容の基軸を実質的に定めることができた。世論は、一元的な報道に煽られる形で形成された。

「敵」は外部にいる。外部の「敵」である北朝鮮と、国内にいてこれと思想的・運動的に密通する者たちを徹底的に叩くこと――世論は挙げて、この方向へと走り出して、止まることはなかった。

日本政府は、「家族会」の方針によって形成されてゆく世論を前に、なすすべもなくこれに追随してきた。

蓮池透は、冷静さを取り戻したいまこそ、次のようにも語っている。

九月一七日の直後はパニック状態に陥り、眼前で起こる事態に逐一対応するのに精一杯で、過去のことを振り返って糧にして今後につなげていくとか、物事をじっくりと考える余裕がなかった、と語ってのちのことばである。



 ――それまで「拉致なんてでっち上げだ」とか「疑惑にすぎない」と言われていたのが急に日の目を見て、誰も相手にしてくれなかったのが急に注目を集めるようになって、舞い上がったところもあったと思います。

自分たちが社会の中心にいて、自分たちが言うことはすべて理があり、それをマスコミが取り上げてくれて、政府もその通りやってくれるんだという、ある種の錯覚に陥っていました――(蓮池透+太田昌国『拉致対論』、太田出版、二〇〇九年)。  



 拉致問題を契機にして日本社会を席捲している煽動的ナショナリズムを批判しうる歴史的根拠も、論理と倫理の水準も、確固としてあると私は確信している。その作業を、私は今後もさらに続けようと思う。

だが、「誰も相手にしてくれなかった」という蓮池のことばに、私の心は疼く。

これは、進歩派と左翼が、「北朝鮮」という存在に孕まれる諸問題に関して、まったく関心を示さなかった過去を衝くことばだと受け止めるべきであろう。

関心を示した個人や運動体や党派がいたとして、歪んだレンズを通して眺めていたがゆえに、問題の本質に届かなかった状況を衝く言葉でもあるとして。



 「光景1」で見た社会主義が崩壊したときも、「光景2」で見ている拉致が露呈したときも、それが孕む巨大な問題性から、「世間」の関心は例えようもなく高かった(高い)。

マスメディアの一方的な報道のあり方によって規定されている世論の動向があればあるほどに、そこに介入して発言すべき場所が、私たちには、ある。

世論が沸騰している問題に関して、自己批判を込めてでも意見表明もしない進歩派や左翼などは、戦後史を顧みたとき、あり得ないことだ。

「光景2」の場合には、「遅ればせながら」の発言にしかならないことは、誰をとっても同じことだとしても。


 だが、多くの運動体と個人は沈黙や立ち竦みを選択した。意識的な右翼は、その間隙をぬって、空白になった場所を占拠した。

必ずしも右翼とは言えない「家族会」も、力関係の狭間で、そこに取り込まれた。

右翼は、私たちのあり方と無関係に、向こう岸にいるのではない――必ずしも。

私たちのあり方が、出会うべき人びとを、敢えて向こう岸に追いやっている場合もあるのだ。そのことに無自覚な思想と運動は凋落する。それが如実に現われているのが、「現在」という時代だ。



              光景3

 二〇〇九年八月一五日、東京都心で開かれた「反靖国神社」を主軸に据えた敗戦記念日の集会に参加した。

その後デモがあり、いつものように、靖国神社の大鳥居を下方から望む九段下の交差点まで進むと、そこを右折し、西神田方面へと向かう地点まで来た。

そこまでの道すがら、右翼の街宣車が、大音響を響かせて、デモ参加者に「日本から出て行け!」と叫ぶのは、例年のことだ。

日の丸の旗を掲げて歩道にいた右翼が、機動隊や私服警官の壁を破ってデモ隊に突撃を企てるのも、ありふれた光景だ。

だが、九段下には、従来とは決定的に異なる風景が、今年は、見られた。日の丸の旗をいくつもひるがえした群集が――そう、群集が――いたのだ。

サングラス越しに、その顔つき、表情をじっくりと見る。ごくふつうの、若い男女が目立つ。

中年の男性もいて、デモ隊に向かって何ごとかを叫んでいるが、前面に出て身を乗り出して叫ぶのは大半が若者だ。

デモ隊を包み込むようにして動く機動隊の壁の隙を衝いて、デモ隊に接近してくるのも、「市民風の」男女の若者たちだ。ある若い女性は「英霊に対する冒涜を許すな!」と書かれたプラカードを掲げていた。


 この光景を見ながら、私の脳裏には、一冊の書物のことが思い浮かんだ。小熊英二+上野陽子の『〈癒し〉のナショナリズム――草の根保守運動の実証研究』(慶應義塾大学出版会、二〇〇三年)である。

また、映像作家・森達也が、オウム真理教幹部と信者の一斉摘発の後で、他ならぬオウム真理教の対外スポークスパースンを主人公にして創ったドキュメンタリー『A』に対する「世間」の反応も思い出した。


 小熊と上野の書は、一九九七年に結成された「新しい歴史教科書をつくる会」の神奈川県支部の実地調査を学生であった上野が行ない、それを論文にまとめたものを基本に、小熊が三つの関連論文を書き加えて成った書物である。

二人の論文が明らかにしたように、「つくる会」のメンバーは、調査対象が神奈川県であったことも手伝って、ごくありふれた「都市型個人」である。

誰もが街ですれ違うような、普通の会社員がおり、学生がおり、専業主婦がいる。

小熊は、「冷戦体制の終焉とグローバリゼーション」がその背景にはあるといい、旧来の共同体の解体による社会の流動化現象が、保守系運動という場で現われたのが「つくる会」である、と規定している。

これは、納得のいく説明である。上野の調査報告を読む限り、ここに登場するのは、確信的な右翼でもなければ、奇怪な妄想に取りつかれた人間でもない。

上野に対して「(私たちは)奇妙な人たちの集まりに見えますか?」と不安げに尋ねるほどに、「普通の人」に見えることを望み、〈普通の市民〉であると自称する人びとである。

上野が行なったアンケートに対する回答を見て、論理的な批判を行なうことは可能だし、必要でもある。

小熊が指摘しているように、〈普通の市民〉たちが〈普通でないもの〉を発見する旅を永遠に続けて、それを排除する動きに加担する道も、すでに開かれている。

それもまた見慣れた光景ではあるが、だが、知らずして、向こう側に追いやってしまうほど縁遠い人とも思えない。


 森達也の作品『A』が物議を醸したのは、そこに描かれたオウム真理教の信者たちが、ごく普通の、どこにでもいる若者として描かれていたからだ、と森自身が語っている(森達也+太田昌国対談「人・社会はなぜ死刑を求めるのか」、二〇〇九年八月一日、東京YMCAアジア青少年センター)。

あの外見的には奇怪な指導者の下で、むごい犯罪にいくつも手を染めた宗教信者たちが、普通の青年であってはならず、すべてにおいて邪悪で、凶暴な人間でなければならないとする願望が、「世間」にはあるのだろう。

この考え方は、日頃の犯罪報道とそれを受けいれる世論の構造においても貫徹している。

何らかの凶悪犯罪を犯した者を徹底した「極悪人」として描くことに、多くのマスメディアは躊躇しない。

茶の間の市民もそれを受け入れ、現在の社会にあっては、裁判が行なわれる以前にメディアと世論によるリンチが日常的になされている。だから、オウム真理教が犯した犯罪に関しても、一般犯罪に関しても、分析し批判すべき論点がぼやけてしまうのだ。


 つまり、明快な「善悪」の区別を、世間は好む。そこに論議は要らない。分析も無用だ。そして、その態度は、進歩派・左翼にとっても無縁ではない。



 前述の八月一五日のデモを終えて三々五々帰路についた参加者に襲いかかり、数人を負傷させた、屈強な体躯をもつ職業的右翼集団のメンバーは別としても、九段下の交差点に詰めかけていた「群集」に対しては、その多くが〈普通の市民〉なのではないかという印象を私はもった。

〈普通で〉ありたい心情がもつ危険性に自覚的であるつもりの私は、だから、「心を許す」のでもなければ、油断するのでもない。


 彼(女)たちと、いつ、どこで、具体的に再会できるのかはわからないが、できることなら、「罵倒」ではないことばをその口から聴きたいとは思うのだ。私のほうから「罵倒」の言葉を投げつけることは、もちろん、しない。

私たちにとっての課題は、「行動する保守」を自認する〈普通の市民〉が、手に負えないナショナリズム運動の担い手になるまで増長することを未然に防ぐことだ。「拉致被害者家族会」が主導的に作り上げた社会的雰囲気を思えば、それは杞憂ではない。 

 

 
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