現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言が逐一記録されます。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
2009年の発言

◆講座『チェ・ゲバラを〈読む〉』詳細レジュメ公開2010/02/10

◆選挙とその結果をめぐる思い――選挙と議会政治に「信」をおかない立場から2010/02/10

◆カリブの海をたどっての思い――ハイチ大地震に慄く2010/02/10

◆最後に、「対話」を可能にする思想について2009/12/22

◆第五回死刑囚表現展をふり返って2009/11/23

◆改憲潮流と右翼イデオロギーの現在200/09/15

◆芸術家と植民地2009/09/15

◆ラテンアメリカ諸国における新憲法制定が意味すること2009/08/06

◆権力にすり寄る心、そこから縁遠く生きる心、そのいずれもが取り込まれて――皇后と、山内昌之、永瀬清子の場合2009/08/06

◆G8,G17,、そしてG192――そこから世界のあり方を透視する2009/08/06

◆ソダーバーグが描いたチェ・ゲバラ像をめぐって2009/0806

◆天皇の歌2009/08/05

◆「一九五九年」という問題2009/08/05

◆予知されていた(?)豚インフルエンザ発生の記録2009/05/20

◆軍艦は往く、往く、西へ、東へ 2009/04/17

◆「金賢姫」と「人工衛星」報道の、もっと奥へ2009/04/03

◆戦争の現実を伝えることばについて2009/02/15

◆二本の映画から、歴史と現実を知る2009/01/23

◆キューバの歴史を見る視点2009/01/15

◆ボリビアのチェ・ゲバラ2009/01/15




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「一九五九年」という問題         

Anti20 vol.1(〈天皇即位20年奉祝〉に異議あり! えーかげんにせーよ共同行動機関紙)(2009年4月11日発行)

太田昌国


 最近、メディアに登場するイラクのニュースを見聞きしていると、一時の戦乱に明け暮れていた日々はどこへやら、バグダッドの中心街には平穏が戻り、人びとも明るい顔をしてショッピングを楽しんでいる――などと報道されるときもある。

米軍などによる一方的な殺戮行為で親を失った子ども、身体と心の傷が癒しがたい子どもと大人、劣化ウラン弾の後遺症に苦しむ人びと――などの報道は、めっきり少なくなった。

そんな現実が消え去ったわけではないが、報道の視点に変化があったのだろう。

ブッシュがイラク攻撃を指令したのはわずか六年前――その後の六年間に起きた無数の悲劇は、こうして、これまでの矛盾を覆い隠すかのような楽観的な報道の陰に押しやられてゆく。

わずか六年の歳月の流れのなかでも、そんなふうに形作られていくものか、人の記憶というものは。


 一九五九年四月十日――私たちがここで拘ろうとしているのは、日本帝国が敗戦を迎えてから十四年目の年の出来事である。

その三年も前に、つまり敗戦後十一年目に、経済企画庁は「もはや戦後ではない」と豪語していた。

人間というものは、どんな破滅的な悲劇をも、六年か十一年か十四年の歳月があれば、乗り越えてゆけるものなのか。それは、人類史に普遍的な在り方なのか。

或る「民族」に特別に備わっている勤勉な活力のせいなのか。英明なる指導者の力に負うところが多いのか。

どの理由に頼るにせよ、自分に都合のよい事実だけを掻き集め、全体像を掴みそこなうことを代償にするなら、それは可能だろう。

その代償を、結局支払わなければならないのは、現世の、あるいは、後世のだれなのか? それは、いつなのか?


 次々と起こっては、さらに生起する新たな事件の陰に忘れ去られてゆく(正確には、集団的忘却へと誘う力が作用している)出来事を目撃していると、そんな思いが消えない。

そこで、私たちは、一九五九年という年を、敗戦後十四年目を迎えていた日本全体の動向の中へと投げ込むことから、まず始めよう。 


 この年は、政府レベルでは、戦後日本が「再軍備強化・経済成長・東アジアにおける反共の砦化」の成果を基盤に、日米安保条約を片務的な性格から双務的なものに変える、いわゆる安保改訂の動きが本格化する一方、これを日本帝国主義の自立と捉える立場から、あるいは米帝国主義への従属が深まると捉える立場から、これに反対する民衆運動が拡大し始めたことで大きく特徴づけられる。

また、石炭から石油へのエネルギー政策の転換が始まり、炭鉱労働者の合理化(=首切り)が開始されたことも忘れがたい。

三年前に「発見」されていたが原因がつかめぬために「奇病」と呼ばれていた水俣病は、新日本窒素の工場廃液によって引き起こされたものであることが明確になったこと、日産が初代ブルーバードを発売したこと(=モータリゼーションの時代の始まり)など、社会・文化的に見ても、戦後史の一つの画期をなした年度であったと回想できる。

支配者側が発した「もはや戦後ではない」という感慨は、民衆自身の生活実感の中で確認されていった時代であったと言える。


 しかし、日本が主導的に遂行した「戦争」のツケは、見るべきものを見る人の目には残っていて、消えていない。

前時代のマイナスの遺産(=ツケ)が、確たる方針に基づいて精神的かつ物理的に清算されることもないままに、次の時代に先送りされるという、戦後日本の「情けない」特徴に注目するなら、その意味で、以下のふたつの問題を想起しておきたい。


 ひとつは、日本が行なったアジア太平洋戦争の被害国への賠償問題の「進展」に関わっている。一九五九年には、べトナム共和国との賠償協定(署名)、ラオスとの経済及び技術協力協定(発効)、カンボジアとの友好条約(署名)、同じくカンボジアとの経済及び技術協力協定(署名・発効)が実現されている。それに前後して日本がアジアの他国との間で結んだ賠償協定にも共通する性格を見ておきたい。

(1)当時、米国は、反共包囲網の要である日本の経済復興を重視していたから、被害国の政府に対して、日本が行なう賠償支払い額の減額に同意するよう圧力をかけた。

(2)「賠償」は、経済協力や貿易の形をとってなされた。工事は日本企業が受注し、日本人技術者が役務を供与し、日本の工場で生産された機械が相手国に送り出されるという構造をもっていたから、賠償によって、日本は「もはや戦後ではない」生産力をつけていった。

したがって、アジア各国の被害者の手に賠償金は渡らなかった。東西冷戦体制が崩壊した一九九〇年以降、強権支配が終わり口を開くことが出来るようになったアジア地域の個人ないし集団が、日本の国家賠償を求めて訴訟を起こすようになった事実は、この文脈の中でこそ理解しなければならない。

(3)ベトナムは南北に分断されていた時代であるから、「反共」の南ベトナムとのみ賠償協定を結んだ。

一九六五年、朝鮮半島の分断の現実のなかで、南の韓国政府を「朝鮮にある唯一の合法的な政府」であると認めたのと同じ構造である。

(今回は時間がなく確認のための調査ができなかったが)野党・社会党の議員が「ニワトリ三羽で、こんな賠償額か」と政府を攻め立てていたことが忘れられない。

日本がベトナムに与えた戦争被害は少ないのに、これほど支払うのか、という意味であったろう。六年後の、日韓条約をめぐる論議の中でも、植民地支配と戦争への償いという観点する見れば、驚くべき無自覚な言動を野党議員は行なっているから、問題は支配層にのみあるのではない。


 ふたつめは、希望する在日朝鮮人が北朝鮮へ帰還することを日本政府が認め、この年の十二月に行なわれた第一便の九七五人を皮切りに、以後九万八千人に及ぶ在日朝鮮人が北朝鮮に帰国することになった事実に関わっている。

金日成が主導した帰国運動が孕む問題は別としても、日本社会が抱える問題点に目をつむるわけにはいかない。

(1)日本の敗北によって解放されたはずの在日朝鮮人は、戦後もなおこの社会で疎外されていたがゆえに国外へ逃れようとした難民であった。

(2)日本政府は、生活保護世帯や左翼が多かった在日朝鮮人をていよく追い出す底意を秘めながら、「人道主義」の仮面を被ってこの事業を推進した。


 賠償問題にせよ在日朝鮮人帰国問題にせよ、一九四五年の日本国敗戦直後に、植民地支配と侵略戦争の責任者を自らの力で裁くこともないままに開始された戦後史の本質に関わってくることがわかる。


 一九五九年四月十日の「慶事」は、戦後史に孕まれるこの本質的な問題を無視した地点で実現した。

裕仁が、占領軍責任者マッカーサーとの「談合」によって、自らの戦争責任が追及されることを免れることから、戦後史は始まっている。

裕仁は次に、全国「行幸」を行ない、「総懺悔」「総無責任構造」の中に、「民草」を引き入れた。

一国的な意識においては「戦争責任」が問われることを免除されたと感じた人びとは、挙げて、この「慶事」に参加していった。

 
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