現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言が逐一記録されます。「20~21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
2003年の発言

◆短い、簡明な言葉がもつ魅力と魔力
「テロ」「拉致」報道を読む 
2003/12/22up

 
◆「派兵」の背後に見えるはずの、たくさんの現実・首相補佐官・岡本の勇猛な言葉を読む 2003/11/20up

◆索漠たる、この空しさは何?
イラク派兵をめぐる国会質疑をじっくりと読む 2003/11/20up


◆どんな立場で、何を回顧し、何を回顧しないか・「9・1」「9・11」「9・17」追想報道を読む2003/09/28up

◆明かされていく過去の「真実」
「T・K生」の証言を読む
2003/08/27up


◆イラク派兵ーー150年の日米関係の帰結・ペリー来航150周年を寿ぐ言論を読む 2003/07/17up

◆私たちに欠けていること
日朝首脳会談一周年をまぢかに控えて2003/07/17up


◆浮島丸訴訟など戦後補償裁判の現状が問うこと・有事3法案成立のさなかに 2003/06/23up

◆拉致被害者が語る言葉から考えたこと・蓮池透著『奪還』を読む
2003/05/24up


◆松井やよりさんが遺したもの
2003/05/19up


◆反世界を生きる足立正生に寄せるフラグメント 2003/05/19up

◆「汝ら罪深き者たち イラクに生を享けしとは!」・対イラク侵略戦争の論理 2003/05/01up

◆「イラク危機」=「北朝鮮危機」に自縄自縛されないために
筑紫哲也・姜尚中対談を読む
2003/05/01up


◆「テロ」をめぐる断章
2003/03/20up


◆小さな国・そこに生きる人びとの視点で見る世界・カストロの訪日報道を読む 2003/03/17up

◆「美しい地球、悲惨なホロコースト」だって?・スペースシャトルの「自爆テロ」報道を読む
2003/02/18up


◆本末転倒の論理で、人為的に煽られる危機感・米国の天然痘騒ぎを読む
2003/01/15up

最新の発言
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イラク派兵ーー150年の日米関係の帰結
ペリー来航150周年を寿ぐ言論を読む   
『派兵CHECK』130号(2003年7月15日)掲載 
太田昌国


 今年の5月から7月にかけて、日米関係を150年の射程で捉えて論じる文章がいくつも眼についた。

もちろん、1853年ペリーの浦賀来航以来の歳月を指して使われているものである。

その多くは、150年後の今日、有事体制の成立に行き着いたことをもって「日米関係最良の時」と寿ぐ立場から書かれている。

典型的なものは「産経新聞」6月16日付「産経抄」で、次のように言う。「ペリーは最初の日米条約の締結者となったが、幕末維新期を〈第一の開国〉とすれば、大東亜戦争期は〈第二の開国〉といえそうだ。

そしてイラク戦争を経てようやく有事に備える体制ができたいまは〈第三の開国〉に相当するといえるかもしれない。」


 「産経新聞」7月7日付「主張」もこの話題を取り上げ、「黒船来航はあの時代のグローバリゼーションのうねりであり、百五十年目を迎えた現代日本もまた、国際テロリズム、北朝鮮の核の脅威を前に大きな変革期に直面している」と述べたうえで、「ペリー来航以来の百五十年の浮沈をたどると、日米関係が良好であればアジア太平洋地域が安定するという教訓が引き出せる」と、非歴史的で我田引水的な結論を導いている。

 ただし、「黒船来航があの時代のグローバリゼーションのうねり」とするのは、
私の考えからしても、違ってはいない。米国が、スペインから独立したばかりのメキシコに戦争を仕掛けこれを打ち破って、カリフォルニアなど西海岸の広大な地域を版図に収めたのは1848年であった。

ペリーは、19世紀前半から、米国政府の政策に忠実に、アフリカはリベリア共和国の創設に参加し、西インド諸島で「海賊」の鎮圧作戦を指揮し、地中海での任務にも就いたうえで、メキシコ湾艦隊司令長官となった。そしてこの戦争で「戦功」を挙げた。

 太平洋への出口を確保した米国は、当時の国家的事業=捕鯨漁のために北氷洋からアジア地域近海に展開する捕鯨船への補給基地を求めていた。

ペリーはこの戦略の下で新たにインド洋に派遣され、その後インド洋から琉球に至った。1853年5月26日、200人の武装兵士が上陸した。

一米兵が那覇で琉球女性をレイプしたこと、これに怒った住民が米兵に投石し逃げ損ねた米兵は溺死したが、ペリーが投石者の裁判を要求したことなどはすべて、米国の世界制覇の過程で「軍功」のあった海軍士官に指揮されて国外に展開する米国軍が最初から、軍隊の本質を見せつけていたことを示している。


 ペリー艦隊が浦賀に来たのは同年7月8日だった。

これを台頭しつつあった北米帝国と、鎖国していた東アジアの一国の間の孤立した事象として捉えるに終わらないためには、この出来事の起きていた時期は、たとえば中国におけるアヘン戦争(1840年)や太平天国蜂起(1850年)、またヨーロッパではパリ2月革命やウィーンやベルリンで3月革命が起こり、マルクス、エンゲルスの『共産主義者宣言』が発表された1848年とほぼ同時代だという事実を思い出せば、当時の世界状況が重層的に見えてくるだろう。 


 さて、「朝日新聞」コラムニスト・船橋洋一は、官房副長官・安部晋三が「ペリー来航150周年で、おそらく現在、もっとも良好な関係であるかもしれない」と語っていると伝えている。

「それもこれも米国のイラク戦争に対する小泉首相の強い対米支援のおかげ、と政府は自画自賛している」とも、船橋の記事は言う(5月22日付「朝日新聞」)。

船橋は、かつて1996年、日米両政府が普天間基地返還の「電撃的な合意」を発表した時に、これが「返還」というより「基地の移転・統合」であるという本質を覆い隠す論陣を張って、讃美した。

当時の米国防長官ペリーが、19世紀半ば黒船に乗ってやって来たかのペリー提督の末裔に当たることに、思わせぶりな意味を持たせながら。今回の文章もまた「(日米同盟は)冷戦時代、日本をよく守り、冷戦後も日本の外交と安全保障の大切な資産であり続けてきた」と結論づけており、「政府は自画自賛」という先の表現には、皮肉の片鱗も見えない。


 安部も船橋も、有事法案やイラク復興特別措置法案が提出された動機づけと問題意識に、米国の存在と要求があることを十分に意識しながら、日米関係が、150年間の関係史の中で最高の段階に至っているとか、大切な資産だと主張している。この考えを、山内昌之のような国際関係論専攻の学者が、擁護している。

山内は言う。「(イラク法案は)民主党などを巻き込み、与野党が合意した形で可決していれば理想的だった。それはやっぱり必要な立法だ」と(7月5日付「毎日新聞」掲載の寺島実郎との対談「イラク特措法と自衛隊派遣」)。

山内は大量破壊兵器の有無についても「イラク側に挙証責任があった」とか、「民主党は有事立法の時は現実的な対応をした」のに、イラク法案では反対に回り「残念でしたね」と語るなど、論理的に破綻した考え方や、重大法案に9割の議員が賛成するような翼賛議会を待望している。


 ペリー来航以来150年を経た日米関係の歴史を、近代日本総体の歴史のなかに対象化する課題は、私たちの前にも立ちふさがっていると言える。

 
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