現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言が逐一記録されます。「20~21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
2002年の発言

◆イラク空爆の緊張が高まるなかで
キューバ危機に見る教訓
2002/12/28up


◆日朝会談以降を考える声特集
異論を許さない雰囲気に違和感
2002/12/28up


◆拉致被害者を「救う会」の悪扇動に抗する道は
名護屋城址・飯塚市歴史回廊を見る
2002/12/28up


◆あふれ出る「日本人の物語」の陰で、誰が、どのように排除されてゆくのか・「拉致」問題の深層
2002/12/26up


◆ふたたび「拉致」問題をめぐって
問題を追い続けた3人のインタビューを読む
2002/11/13up


◆「拉致」と「植民地」問題の間には……
産経式報道の洪水と、社会運動圏の沈黙の根拠を読む
2002/10/17up


◆「拉致」問題の深層
民族としての「朝鮮」が問題なのではない「国家」の本質が顕になったのだ
2002/10/17up


◆一年後の「九月一一日」と「テロ」
太田昌国氏に聞く
2002/9/28up

◆選ばれたる者の、倨傲と怯えの中に佇む米国
「 9・11」一周年報道を読む
2002/9/28up


◆書評 徐京植著『半難民の位置から:戦後責任論争と在日朝鮮人』
花崎皋平著『<共生>への触発:脱植民地・多文化・倫理をめぐって』 
2002/8/30up


◆外部への責任転嫁論と陰謀説の罷り通る中で
アラブ社会の自己批判の必要性を主張する文章を読む
2002/8/30up


◆「9・11」以後のアメリカについて
2002/8/4up


◆2002年上半期読書アンケート
「図書新聞」2002年8月3日号掲載 2002/8/4up


◆「老い」と「悪態」と「脳天気」
作家の、錯覚に満ちたサッカー論を読む  2002/8/4up


◆戦争行為をめぐるゴリラと人間の間
今年前半の考古学的発見報道などを読む
2002/7/12up


◆煽り報道の熱狂と、垣間見える世界の未来像の狭間で
ワールドカップ騒ぎの中の自分を読む
2002/6/15up


◆国境を越えてあふれでる膨大な人びとの群れ
「イスラエルの中国人の死」「瀋陽総領事館事件」を読む
2002/5/30up


◆書評:徐京植著『半難民の位置から』(影書房 2002年4月刊)
2002/5/30up


◆スキャンダル暴きに明け暮れて、すべて世はこともなし
鈴木宗男報道を再度読む
2002/4/15up


◆テロルーー「不気味な」アジテーションの根拠と無根拠

◆2001年12月25日、アジア女性資料センター主催
『カンダハール』主演女優ニルファー・パズイラさんを迎えての集いでの挨拶


◆スキャンダル騒ぎ=「宴の後」の恐ろしい光景

◆書評『世界がもし100人の村だったら』 池田香代子再話 ダグラス・ラミス対訳

◆人びとのこころに内面化する戦争=暴力・少年たちの路上生活者暴行・殺害事件報道を読む

◆他者の痛みの部所を突く、慢り高ぶる者の最低の悪意
「カンダハール発→グアンタナモ行」輸送機が孕む問題を読む


◆微かな希望の証し・2001年におけるマフマルバフの映像とテクスト

最新の発言
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一年後の「九月一一日」と「テロ」
太田昌国氏に聞く      
「図書新聞」2599号(2002年9月28日)掲載
太田昌国


 昨年九月一一日、ニューヨークとワシントンに航空機が突入した「事件」から一年がすぎた。本紙は昨年、この事態を踏まえて太田昌国氏に緊急インタビューを行った(「批判精神なき頽廃状況を撃つ」二五五二号)。

この一年、「報復戦争」がただちに世界を覆った。「反テロ」の掛け声がそれを正当化し、日本は、この戦争に自衛隊を参戦させた。そして高まる有事法制論議、メディア規制の強まり。

アフガニスタンで依然続く「戦犯捕捉」作戦、そして目論まれる対イラク攻撃。一年後のいま、世界は、私たちはどのような状況に直面しているのか。

 「あれから一年」ではない。いま現在噴出している問題を見据えて、太田昌国氏に話をうかがった。(聞き手・米田綱路〔本紙編集〕


世界の最貧国に対する爆撃

 米田 昨年お話をおうかがいしてから、早くも一年が経過しました。この一年間をどのように見ておられますか。


 太田 昨年のインタビューは、九月一一日の出来事から十日ほどたった段階で受けたものでした。当時は情報が一気に溢れ出たともいえるし、私たちがそれをどこまで信頼してこの問題を判断していくかという意味では、わかりづらい状況にあったと思います。


あの行為について私は一年前、それが社会的・政治的な理論に基づいて民衆解放をめざす行為というよりは、オウム真理教信者の一部の人たちが行ったような水準の、独自の宗教的な信念に基づく行為ではないかと推定しました。一年たって、この推定自体は間違っていなかったと思っています。

 やはりあの行為を見て思い出すのは、一九九八年八月のケニアとタンザニアのアメリカ大使館に対する爆破攻撃です。これも当時から、アルカイーダの仕業であると言われていたのですが、私なりに考えても、それと九月一一日の出来事とを重ね合わせざるをえないところがある。

そこでは二二四人の人が亡くなりましたが、そのほとんどがケニアとタンザニアの現地の人です。自分たちが攻撃目標に据えた場に居合わせた人びとは、無差別に殺傷しても構わないと考えなければ成立し得ない行為ですね、いずれもが。

そこに共通するのは、世界に現存する貧困や差別に対して止むに止まれず立ち上がった行為であると、第一義的に捉えることはできない、ということです。

山崎正和氏の所論に対して、私はふだんは大いに異論をもちますが、九月一〇日付け毎日新聞に掲載された「現代のテロとは何か」の中で氏は、「九月一一日」の実行者とオウムに共通するのは「どちらも標的は権力を持つ個人ではなく、大衆社会とそれを象徴する都市と建築であった」と述べており、私の共感を誘いました。


 行為自体に倫理性がない。政治的な効果についての、責任ある思いもない。象徴的な建物をただ壊せばいいという、非常にニヒルな行為に対する疑問を、私は一年前のインタビューでお話ししたと思います。


 この一年、さまざまな情報が伝えられ、突入した一九人の中心人物であるアタという人物の軌跡などがかなり明らかにされてきました。そこであらためて思うのは、池内恵氏などの指摘(毎日新聞九月八日付け「21世紀の視点‥イスラームから見た9・11」)がすでにありますが、アラブ世界のなかでも彼らはドイツやアメリカに留学できるようなエリートであり、個人的な意味ではグローバリゼーションの恩恵に与った人たちが担った行為であったということです。

彼らの行為が、貧しい地域の人びと総体の意思を代弁してやむにやまれず行われたものであるというふうには直結はしない。

やはりそれは、潤沢な資金をもって人びとを動かすことができ、宗教的なカリスマ性も演出しうる一個人のもとに寄せ集められた若者たちが、主観的には現世における事の善悪を越えて選択した行為であった。九月一一日の行為を考えるときに、一年後のいまの段階ではそこから問題を出発させることができると思います。


 しかし、こだわりたいことがあります。オウム真理教の一連の事件のときのことを思い出してみても、警察と検察、マスメディアと一般世論なるものが、よってたかって「犯罪行為者」に襲いかかりました。私はそれに付和雷同して自分の立場を定めようとはまったく思いませんでした。

彼らの行為は実際には、宗教的な外皮を伴った、敢えていえば「迷妄的」な行為に見えるのはたしかですが、だからといってそれが百パーセント悪であり、我々が百パーセント善なのだというふうには思わない。でも、世の中の出来事は「善悪」の二分法で考えると明快ですから、社会にみなぎる思考法は、すぐそうなりますね。

私自身さまざまな拒絶反応や違和感を持ったあのオウムの行為を捉える上で、しかし現実に起こってしまったあの行為から、どれだけの意味を引き出すことができるか、それをせめても後知恵で考えたいというのが、私の基本的な立場でした。河野義行さんは、松本サリン事件の被害者でありながら警察・検察・マスコミ・世間によって被疑者にでっちあげられようとした方で、お連れ合いが意識不明のまま病床にあるのですから、私と違ってきわめて困難な場所におられるのですが、「加害者=オウム」に対するあの方の対し方は見事ですね。及ばずながら見習いたい、といつも思います。

 そのことは、九月一一日の出来事を考える上でも同じです。実行者に対しては、冒頭で述べたような批判と違和感をもちながらも、宗教・政治・経済・社会・文化などさまざまな側面から、あの事件を成り立たせた要素を考え抜かなければならないのです。

それが、どんな不幸で悲劇的な出来事からでも未来へと向かい得る、か細い道の意味です。ところが、ハイジャック機が巨大ビルに激突し、やがてビルがもろくも崩れていく姿を、映像を通して全世界の人びとが見てしまったわけですから、その衝撃性は誰にとってもあまりにも大きかった。

そこで思考停止をして、これはとんでもない凶悪な行為であり、もう許すことはできないという、冷静さを失った世界のなかに、全世界が迷い込んでしまった。「報復戦争」を呼号した米国政府には、願ってもない展開でした。

だから、その後に展開し現在もなお続いている、世界の最貧国に対する爆撃が、少なくとも当初は世界各国の政治指導者たちの支持を得て遂行される事態になってしまった。民衆的な世論が、それを批判し戦争を阻止するだけの反発力を持てなかったというのは事実です。


軍事用語の「日常化」

 米田 この一年行われてきた「報復戦争」は、貧困に喘ぐアフガニスタンに、大量の爆弾とともに食糧を投下するということが、「人道的」であるかの如く平然と行われてきました。

圧倒的な物量と貧富の格差、そして「報復戦争」を進める人間の意識のありようといった問題が、そこには顕著に表れていると思います。

この一年間、大量に溢れた対アフガニスタン情報によって、その地域の人々の生活に対する私たちの認識は深まったといえるでしょうか。


太田 深める契機を掴んでも、それを引き戻す一方的な情報の洪水の中でのせめぎ合いが続いていると思います。

先ほど、彼らの行為を宗教的な外皮を伴った「迷妄さ」の結果であるといいましたが、一年前のインタビューで、私はバルガス=リョサの作品『世界終末戦争』を引きながら、「文明と野蛮」というかたちで対比していくことの愚かさに触れました。とりわけ、そうする時の「文明」側の度し難い自己中心主義について。

しかし米国大統領はもちろん、それにほぼ従った「文明世界」は、全面的に「文明と野蛮」の対比でこの間の問題を考えてきたのではないでしょうか。そこには、相互に理解しあうとか、相互浸透がありうるという思いはまったくなかった。

「九月一一日の攻撃を行なった者たちは、アフガニスタンを根拠地として活動している、そこでは地域的軍閥の群雄割拠のなかで一時的に政権を得たターリバーンなるイスラーム原理主義者たちがおり、テロリストを匿っている、これは爆撃して潰すに如くはない」という考え方が、何のためらいもなく出てきた。


 九月一一日事件の背景には、一個の問題には還元できない、いくつもの要素が重層的に重なり合っている。宗教的な要素は、すでに触れたように大きいと思いますが、それだけに単純化できるものではない。

アラブ世界で積み重ねられてきた政治・経済過程、そこにおける米国・英国などの関わりと責任などを無視することはできない。

仮に、ビン・ラーディン、ターリバーン、アルカイーダなどの個人と組織の形成過程に問題を限定しても、米国の存在を抜きにして、考えることはできない。

ですから、実行者たちの企図からは相対的に自立した地点で、グローバリゼーションの問題も、パレスチナ問題も、この事件の背景として浮上するのです。先の山崎正和氏は「後にアルカイダと推定された集団の主張も曖昧だった。

パレスチナ問題への抗議から、自由市場の繁栄への憎悪にいたるまで、解釈は局外の評論家にまかされたままになっている」と言って、「テロリストの大義に喝采を送る」などという誇大な表現まで使って「反抗好きの評論家」を揶揄し、皮肉をとばそうとするのですが、その点で、私の考えとは大きく食違ってきますね。

 この複雑な構造の問題を前にしてその後に行われてきたことは、その困難さににじり寄ってどういうふうに解決していけばいいのかを試行錯誤するのではなく、もっとも富める国が物量によってもっとも貧しい国の民を叩きのめす、そのことに何か快感を覚えているのではないかとすら思えるような言葉が溢れる状況が生み出されたことです。

南北格差は、こうして、問題の背景としても、結果としても、浮かび上がるのです。

 今日まで行われているアフガニスタン爆撃の実態を見れば分かりますが、それは強烈な人種差別意識がなければなし得ないような攻撃です。

特にアルカイーダの兵士たちを空爆で追い詰めていくやり方を見て思うのですが、山岳地帯でビン・ラーディンがなかなか捕まらないと、その山地奥深くにまで到達するような気化爆弾を使い始めた。

そういう軍事作戦が始まったときに、どんな言葉遣いが世界中を覆ったかというと、「捕捉する」「追撃する」「生きていても死んでいても、捕まえる」といったもので、それはテレビなどでもしょっちゅう聞かれるし、新聞では黒々しい活字で見出しを飾るわけですね。

こうした軍事用語が、当たり前の顔をして私たちの日常生活のなかに入ってきた。それはこの一年の、忘れることのできない特徴のひとつといっていいと思います。

 私たちはこうして、戦争に対する慣らし(馴致)訓練を受けているのではないか。

 すごいなと思うのは、たとえば爆撃をする前にコンピュータが、どこかの山岳部を歩いている五、六人のグループの姿を捉える。これを追撃して、爆撃が行われる。

その動いている人のなかに、オマールに似た人影があった、あるいはビン・ラーディンに似た人影があったということになると、爆死死体が散乱するその地帯にただちに米軍の地上部隊が派遣されて、DNA鑑定のために死体から髪の毛を採取したり、身体の一部を採取したという報道がなされました。

どんなふうに行うのかという具体的な描写がなかったのですが、辺見庸氏は雑誌『世界』九月号で、指などを植木鋏か何かで切り落とすのだと語っていましたね。


 あれだけ家族の多いビン・ラーディンの一族のDNAをどこかで採取して、それと照合して鑑定するというのは簡単なことなのでしょう。

DNA鑑定という現代医学の最先端の用語が使われると、それが恐ろしい行為であるというふうには受け取れない。実はそういう感性に、私たちがだんだんと慣らされ、摩滅させられていっているのではないか。

マスメディアの記者たちも、DNA鑑定のための頭髪や遺体の一部の「採取」を、平然と、当たり前のように語っていました。その異常さというのは際立っていましたね。


「当たり前」の戦闘行為か

 米田 その問題は、国家によって主導される戦争に私たちが同化し、疑問を持たないという現在のありようともつながります。ブッシュや小泉など、政権中枢にいる人々が、すごく「身近な」ものに見えてしまう。

その意味では、国家や政権の表に出てくる人たちの変化は見えても、貧困のなかで暮らしているアフガニスタンの人たちの暮らしは昨年九月一一日以後も一貫して見えていない。この一年、変わらない「報復戦争」の視点が「身近な」ものであり続けたと思います。

私たちはその視点から身をはがし、それをどう転換していくのか。国家と個人という問題が、九月一一日とそれ以後のアフガニスタンに対する攻撃を通して先鋭化してきているように思います。


太田 仮に九月一一日の行為を、マスコミ用語と同じように「テロ」と呼ぶとします。

そのときに、オウム真理教のときも考え、一九九七年のトゥパック・アマル革命運動のペルー駐在日本大使公邸占拠のときも考え、そして一年前から今日にいたる過程のなかでも私が考えたかったことというのは、個人なり小集団なりが行う「テロ」行為なるものと、国家の名のもとに行う戦争を最頂点とする「テロ」行為とを、いったいどういうふうに区別して、あるいは総合して、捉えるのかという問題でした。

国家が行う戦争そのものにせよ、そのなかでのひとつひとつの軍事行為にせよ、それがどんなに残酷なものであっても「正義」を体現しているわけですね。

国家が、国を挙げて行っている「当たり前」の戦闘行為であるから、それこそ無辜の民を何十人、何百人殺そうと、それはたしかに気の毒ではあったけれども止むを得ないとされる。あるいは、戦功として顕彰される。

国家の暴力というのは、そういうかたちで免罪されてしまうのです。それから先ほど話したように、DNA鑑定のために死者から冒涜的なかたちで遺体の一部を切り裂いたとしても、それは当然の行為であるとされる。戦争における国家の行為というのは、そのように多くの場合免罪される装置を持っています。

 しかし、「テロ」行為・殺人行為を個人なり小集団なりが行った場合には、もうあらかじめ非難の言葉が予約されており、逮捕・裁判・服役、場合によっては死刑が待っているわけですね。

それこそサリンを製造・使用したりすることを含めて、なぜ個人や小集団には許されないことが、国家であれば許されるのか。自衛隊や米軍はサリンを持っているわけだし、国軍なるものがそれらを独占したり行使することがなぜ許されるのか。

 これは自分たちも持ちたいとか、行使したいから言うのでは、もちろん、ありません。私たちが形づくっている社会・国家のしくみの問題として、そういう問いかけが可能であり、必要であるということです。

 この十年間ほど、私が日本のなかで感じるのは、マスメディアに登場して大声で話す人たちは、国家である以上軍隊を持つのは当たり前だというところから出発するわけですね。

しかし私は、その前提から疑って、私たちが共同でつくりあげている社会のあり方として、軍隊(国軍)の問題も考えていきたいと思っています。

そうすると、憲法九条に依拠しようとしまいと、問題の立て方がまったく違ってくる。

先ほどお話したような、軍事用語がふつうの顔つきをして溢れ、いったん「文明と野蛮」といったかたちでさまざまな装置が施されるならば「文明」側のいかなる暴力的な戦争行為も許されてゆくという状況が、ここまで露わになっている以上、また「建国」後の二百数十年の歴史を、とりわけ一九世紀半ば以降は戦争に次ぐ戦争を通して版図も経済力も伸張させ、いまや世界唯一の超大国となっている米国のあり方を顧みるなら、国家であれば軍隊をもつことが当然であり、国家であれば戦争による殺人行為も許されるという、いままで根拠を問われることも少なかった「思い込み」自体を、疑ってしかるべきだと思います。


好機を生かすことがなかった日本


 米田 国軍の存在根拠そのものを突き崩していく視点は、とりわけ昨年九月一一日以降の「有事法制」化に向けた現在なされているさまざまな議論には欠如しているように思います。

小泉首相のいう「備えあれば憂いなし」がまかり通ってしまう状況は、その最たるものだと思うのですが。


太田 戦後五七年間の日本というのは、ずいぶんいびつなかたちを伴っているけれども、海外に自国の軍隊を戦闘部隊として派遣したことはなかった。それは、G7のような国のなかでもきわめて稀なことです。

その意味では、日本は非常に貴重な位置を世界の戦後史のなかで占めていたと思います。現実には、自衛隊は世界でも有数の軍隊として成長しているし、日米軍事同盟の制約の下で巨大な米軍基地も各地にあって、米軍はそこを発進基地として対外侵略の軍事作戦を展開してきている。しかし、少なくとも自衛隊が海外で戦闘行為をするという事態は免れてきた。

その経験は、東西冷戦構造が崩壊して「戦争と平和」の問題をめぐる新しい状況が生まれた十年前の段階や、九月一一日以後の事態の中でこそ、生かすべきものをもっていたと思います。


 しかし、この十年間、国連平和維持作戦への度重なる自衛隊の参加を経て、ついに自衛隊はインド洋上で、アフガニスタン爆撃を行なう米軍への補給作戦までするに至っています。

 好機を生かすことなく、逆向きの政策を実行しつつあるのですから、日本の首相は有事立法について「備えあれば憂いなし」などという、何をも意味しない言葉で国会論議を切り抜けるべきではない。

野党議員が「有事立法がなぜいまさら必要なのか」という質問をしたら、「いままでなかったのがおかしいんだ」というような答えで切り抜けるべきではない。この「答弁」の異常さは何なのか。

小泉は具体的な言葉でこの法律の「必要性」を説明することができず、その議論を断ち切る仕方で乗り切ろうとしている。こんな安易なことばで、これだけ大きな時代の変化がつくられてしまう。本当にとんでもない話だと思いますね。


 米田 「一国平和主義」ではもうすまない、「普通の国」であるために国軍が必要だという、そのような前提に押し切られてしまうほど、戦後民主主義における反戦平和運動や、暴力の廃絶を希求し積み重ねられてきた思想や言論は、敢えて言うとすれば「脆い」ものだったのでしょうか。


太田 それが全面決壊しているとは思わないので、まるごと否定的な言い方は避ける方がいいと思います。


 ただ、つい先日も、七三一部隊が一九四〇年から四二年にかけて細菌戦を実際に行っていたことが東京地裁の「七三一部隊訴訟」で認定されるということがありました。

日本の国家責任に関わる原告の請求は却下されましたが、政府が細菌戦の有無についての認否を明らかにせず、責任をとってきていない以上、大きな意味があります。

また、黒龍江省に放置されたままになっていた旧日本軍の化学兵器の廃棄作業が、去る九月上旬にようやく始まりました。

完全処理に十年はかかると見られている作業です。 最大集積地、吉林省の遺棄化学兵器は手つかずです。

つまり、こうした問題を、私たちの戦後史は戦後五七年間という途方もない歳月のあいだ放置してきたわけです。

最後に触れたい植民地支配の事実をどう捉えるかという問題とも関わってきますが、私たちの社会は、侵略戦争の傷跡をどう償うかということに関して、自分自身の問題意識のあり方も含めて、ふりかえるべき不十分さをあまりに抱えてきているとあらためて感じます。


「あれはあれ、これはこれ」でやっていけるのか


 米田 その意味では、九月一一日とそれ以後の状況は、歴史的問題を含めて、私たちが取り組まなければならない課題を改めて露出させたといえるのではないでしょうか。


太田 少し迂回した答えになるかもしれません。

先ほど、米国が行なっているアフガニスタンへの「報復戦争」は人種差別戦争だと言いましたが、私はあらためて、いま植民地問題が大きく浮上してきたと思います。

歴史的に省みても、一九世紀半ばに書かれたエンゲルスの論文には、アフガニスタン支配をめぐるイギリスとロシアの角逐が描かれていますし、コナン・ドイルのフィクションですが、誰もが知るように「シャーロック・ホームズ」に登場するドクター・ワトスンは、アフガン戦争の戦場から負傷してイギリスに帰ってきたところでホームズと出会うわけです。

ソ連時代のアフガニスタン侵攻や、今回の米軍のもっとも忠実な「友軍」はイギリス軍であることを媒介項にすると、二一世紀初頭の現在アフガニスタンの地に繰り広げられている悲劇的な現実は、あのエンゲルスやワトスンの時代の痕跡とまっすぐに繋がっていることが、いま改めて浮き彫りにされてきているように感じます。

 今回の事態のなかでもっとも印象的なことのひとつは、アメリカ軍が捕まえたアルカイーダの兵士五百人ほどを、キューバのグアンタナモ基地に移送したことです。

カンダハールからグアンタナモへの航空路が開かれたわけだけれども、このことは本当に典型的な植民地主義者の傲慢な振る舞いです。

百年の歴史を貫いて、キューバは米軍基地を国内に押し付けられてきた。革命後はもちろん基地撤去を要求してきたが、両政府の合意に基づいてのみ改変されるという規定に依拠して、米国は撤退しない。

四十数年間、敵対する国の軍事基地が自分たちの国内にあるという痛みに、キューバは耐えてきた。

その傷口に塩をすり込むように、アフガニスタンの捕虜をグアンタナモ基地に連れて行って、国際法上からすれば信じがたい処遇をして今日に至るわけですね。


 それを恬として恥じない米国防長官のラムズフェルドは、「いちばん安全だからそこでやるしかない」と公言する。

しかも立会人もない軍事法廷で、いったいどんな裁判が行われ、最終的にどんな処遇がなされるのか。テキサスであれほど死刑を行った人間が大統領の国なわけですから、そうした問題に関する感度の鈍さが際立ちます。

人権問題ひとつ考えてみても、アルカイーダの囚われた人びとが、現実にどんな犯罪を犯したのかということは、審理されなければわからないわけですね。そういう近代法的な筋道を一切かなぐり捨てた軍事作戦が総体として称揚され、きちっと批判されることがない。

 それはなぜか。

 この間、欧米からときどき聞こえてくるのは、仮にアフガニスタンやスーダンのようにもはや支配層すら統治能力を失った国は、「もう植民地にしてしまった方が簡単である」あるいは「危険な芽を摘むことである」といった声です。

そこには、そのような国々がどんな歴史過程を経て、いまのような圧倒的な貧困と圧制を抱えた状況になっているかという、北の先進国の責任を伴って形成された複雑な歴史過程に対する反省がまったくない。

その上に、植民地時代を懐かしむような言論が台頭してきている。特定の地域と人びとに対する徹底的な蔑視です。

 ここに問題の本質があると思います。七三一部隊や遺棄化学兵器の問題で見たように、私たちと無縁な問題ではありません。


 米田 「脱植民地化」というような言葉を軽々に使うことなどできない状況に私たちは直面しているわけですね。日本においても、北朝鮮との国交正常化交渉が、首脳会談というかたちで動き出すところに来ています。

「朝鮮半島有事」や「不審船」といった言葉を氾濫させて有事法制化を進めようとしてきた日本が、果たして植民地時代の歴史過程に対する責任と反省を真摯に示せるのか。

五七年という長い歳月にわたって放置してきた問題に直面しているという認識をどのくらい持てるのかが、交渉の質を規定するように思います。


太田 今回の首脳会談の結果はまもなく明らかになりますが、見通しからすれば、ある程度の「成功」を収めるように思います。

日本政府がほんとうの気持ちでこういう交渉を行おうとすれば、それは当然のことながら、有事立法や靖国参拝とは相反します。それとは本来的に矛盾するのだという認識に立たなければできない政治交渉であるということ、その認識が果たしてあるのか。

それがいまの日本の姿勢に対する根底的な疑問ですね。本来外交というのは、武力でもってなんらかの解決を迫られるという、近代国家が当たり前の顔をしてやってきたことを避けて、そうではないかたちで真に友好的な関係を結ぶにはどうしたらいいかという、日々の外交努力の問題であるわけです。

 その道を、遅かりしとはいえ双方が選択したのですから、真に新しい道が開かれなければならない。

メディアのなかでは、比較的良質の報道記事が載る東京新聞九月一一日付けには「米国追随から『自立』狙う日本外交」と題する記事がありました。日朝首脳会談をめぐる分析です。

国交正常化交渉再開の合意がなれば、「北朝鮮の攻撃を念頭においた有事法制関連三法案や、テロ・不審船対策の法整備も緊急性は低くなり、安保政策の変更につながる」と観測しています。当然の観測なのですが、でも、どうでしょうか。

 国交正常化促進と有事法制定は別と考えて自己矛盾を何ら感じていないという、不思議な人たちが政権の中枢部にいる。「あれはあれ、これはこれ」でやっていけるというふうに思っている。

しかも「拉致」問題の進展いかんでは植民地支配に関わる謝罪・賠償問題などいっさい吹き飛んでしまう雰囲気がこの社会には充満するでしょう。

 問題はさきほど触れた地点に戻ります。植民地支配、侵略戦争などの基本問題から、戦略爆撃・原爆投下・化学兵器使用・他国人拉致・スパイ船による軍事挑発などの個別問題に至るまで、「国家」の名の下に行われるならばその正当性を疑わないという、日本だけではない、世界にあまねく行き渡っている「信仰」を突き崩し、「国家」なるものから身を剥すチャンスを、私たちはいま手にしています。(了)

 
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