学校の外から

靖国神社合祀取消訴訟
陳述書

2007年9月21日掲載

陳 述 書

2007年 8月 6日

 松 岡  勲

第1 父の戦死、そして母と私
 1 父松岡徳一(本籍:大阪府三島郡茨木町大字茨木1494番地)は、1909(明治42)年12月16日生まれで、2度、招集され、1945(昭和20)年1月22日に中国湖北省顎城県梁子島で戦死した。35歳だった(甲5号証)。

 「死亡告知書(公報)」は1946(昭和21)年8月9日付けで出ており(甲5号証)、「現認報告書」が1945(昭和20)年1月23日付けで出ている(甲6号証)。
 父は農民であるとともに大工でもあった。そのため、軍隊では工兵隊に所属し、戦死時には最前線におり、「顱頂部左顎部穿透性貫通銃創(脳損傷)」で即死であった(甲6号証)。
 死亡告知書(公報)はやはり「赤紙」であり、変色して読みにくくなっている。死亡告知書(公報)には、次のように読み取れる。
死亡告知書(公報)
 本籍 大阪府三島郡茨木町大字茨木一四九四
         陸軍曹長   松岡 徳一
 右ハ昭和二十年一月二十二日 中華民国湖北省顎城県梁子島西南三百米ニ於イテ戦死セラレ候條此段通知候也
 追而 市区町村長ニ対スル死亡報告ハ戸籍法第百十九條ニ依リ
    官ニ於テ処理可致候
  昭和廿壱年八月九日
              大阪地方世話部長 小池昌次
  妻 松岡春枝殿
 また、現認報告書で戦死時の状況はこう書かれており、その惨状に心が痛む。
現認報告書
(前略)
所属部隊  第五野戦補充隊 工兵隊
昭和5年徴集   陸軍曹長   松岡徳一
受傷年月日 昭和二十年一月二十二日
受傷場所  湖北省鄂城県梁子湖
受傷名   顱頂部左顎部穿透性貫通銃創(脳損傷)
受傷状況 湖北省鄂城県梁子島ニ向ヒ敵前漕渡ヲ実施中
     敵ノ船ニ依リ逃亡セントスルヲ認メ之ヲ急迫シ梁子島
     西南敵前三〇〇米付近ニ至リタル時「エンヂン」停止シタル
     ヲ以テ松岡軍曹ハ敵弾雨飛ノ間敢然トシテ櫓ノ操作
     ヲナシ船ヲ前進セシム  此ノ時対岸ニアリタル
    「トーチカ」ヨリ熾烈ナル敵火ノ射撃ヲ受ケ一月二十二日九時
     〇五分頃遂ニ壮烈ナル戦死ヲ遂グ
 右現認ス
  昭和二十年一月二十三日
 現認者  第五野戦補充隊第四大隊第二中隊長
         陸軍中尉  斎藤松五郎 ,
(後略)
 2 この2種類の死亡通知を受け取ったときの母の気持ちはいかばかりであったかと思う。
 母松岡春枝は、1916(大正5)年8月17日に大阪府三島郡三箇牧村大字唐崎(現、高槻市唐崎)生まれ、父とは1942(昭和17)年に結婚した。父が戦死した時には、母は28歳だった。母は悪性リンパ腫等との闘病の末、2007年3月24日に病死した。90歳だった。
 私は、1944(昭和19)年3月17日に大阪府三島郡茨木町大字茨木(現、茨木市片桐町)に生まれた。私の名前である<勲>は父の命名であり、戦争の時代を映し出している。兄は生後すぐに病死した。従って、父松岡徳一の遺族は私のみである(甲2号証)。
 私は母から、私が生まれた日の未明に父は「天保山の桟橋(大阪港)から出航した」と何度も何度も聞かされて、成長した。誕生から63年間、私は「まだ見ぬ父」の姿を折にふれ、想像することになる。想像するしか術がなかった。母は父の戦死後、再婚をせずに大変な苦労し、一人っ子の私を育ててくれた。

第2 二葉の写真
 私の写真アルバムの最初に二葉の写真がはられている。いずれも母に抱かれた私が写っている写真で、一葉目は生後80日目の写真、二葉目は生後7ヶ月目の写真である。当時はもう物資が不足していたのだが、母の実家が農家であったことが幸いし、たくさんのお米を持って写真屋さんを訪ね歩いて、ようやく撮れた写真だという。
 これは幼い頃から母によく聞かされたことだが、1枚目の写真は戦地の父に送って、父に届き、喜びの気持を伝えてきた葉書が残っている(1944年9月頃。甲4号証)。しかし、2枚目の写真の頃には、父はもう戦死していて(写真の撮影日を考えると、戦地が混乱していたので、届かなかったのかもしれない)、父には写真を見てもらえず、その写真は戻ってきて、私のアルバムにはられたという。
 父から母宛の軍事葉書には次のように書かれている。

前略 八月二十八日付お手紙入手致しました。同封の写真も受け取りました。子供が大変大きく成って良く肥えてとても可愛いらしいです。之で小生もやっと安心致しました。朝夕見て楽しんで居ります。今日此頃ではもっと大きく成って居ることでさう。之もひとえに唐崎の皆々様の御蔭と有難く思って居ます。昨日僅少ですが(十八日)御金を送りました。着きましたら子供に何か買ってやって下さい。之から寒く成りますから風邪を引かさぬ様病気をさせぬ様呉々も気を付けて養育を頼みます。唐崎の皆々様に良敷お伝え下さい。お礼を申します。小生はお陰様で無事元気ですから御安心下さい。お前も身体に気を付けてやって下さい。では、又出すよ。佐様奈良。

第3 戦死した父の夢を見る母
 1 もの心ついて以来、私の心のなかには「父の不在」が棲みついた。
  私が幼い頃、母は父の夢をよく見た。ラジオ放送で「尋ね人」の放送があった頃で、ニュースが「戦死したはずの人が興安丸で舞鶴港に着いた」などと放送すると、翌朝、かならず父が帰って来た夢を見るのだ。「お父さんが帰って来た夢を見た・・」と。うちの家は母屋の右手に木戸があって、その木戸から路地になっていて、奥が洗濯場で、そこで母は毎日洗濯をしていた。夢の中で国民服姿の父が、木戸を開けて、「ただいま帰ってきました」とあらわれるのである。しかし、それはかなわない夢であった。
 私が子どもの頃から、戦後になってはられたのであろう、「遺族の家」と印刷されたプレートが玄関の上にはられていた。それには「遺族の家 財団法人大阪府遺族会」(それには遺族会のマークが入っている)と書かれてあり、成人してからもはずさないままであった。
 私は、母から「お父さんは靖国神社に祀られている」と言い聞かされてきた。このプレートをはずしたのは、今年(2007年)6月12日に靖国神社への合祀取り消しの手紙を出しに行く前であった。
 2 こんなこともあった。私の子どもの頃は家が貧しいので、大阪まで出かけることはめったになかったが、年に1度ぐらいは大阪や十三の繁華街に連れて行ってもらえることがあった。その街角で(茨木ではめったに見ることができなかった)米軍兵士を見かけ、すれ違いざま振り返って、母に手を引かれた僕が、「お母ちゃん、あの兵隊さんがお父さんを殺したのか?」と聞いたことがあると後年母から聞かされた。
 これはもう30歳代後半になった頃の話だが、教員としての修学旅行の取り組みで広島に訪れ、被爆者の方々と出会った頃のことである。お盆前だった。家に飾ってある「父の写真」をもっと真ん中に移したいと母に言われ、普段なら邪魔くさくなるところだが、被爆者との出会いを経過していたので、「死者」との距離が近くなっていたのだろう、「うん、いいよ」とすぐに引き受けた。私が写真の額を拭いていたとき、母がこんなことを話し出した。「終戦の1年後やったかな、地域の合同慰霊祭があって、午前中、親戚が集まり、『お父さんが帰って来る』と聞かされたお前は走りまわって、はしゃいでいた。けれども午後にお寺に行き、白木の箱がならんでいるだけと知って、お前は『お父さん、どこにもいいひん・・』とかなしそうやった」と。私にはその記憶がないのだが、その時の私と母の姿を思い描き、幼い私を見ていた母の視線を感じとり、母をいとおしく思った。
 3 中学生になっても、「お父さんはなぜ死んだの?」と先生や友だちから聞かれると、涙ぐむような子どもであった。私が小学校に入学したのは1951(昭和26)年で、その前年には朝鮮戦争が勃発している。また、1954(昭和29)年には自衛隊が発足しているし、この年には第5福竜丸がビキニ環礁でアメリカの水爆実験で被爆していた。この頃、学校から集団鑑賞で見に行った映画「原爆の子」に感情移入した私が、学校に帰ってからも泣きやまないので「大変こまった」と担任の先生から同窓会で聞かされたことがあった。その頃、放射能雨の恐怖を強く感じ、雨が振り出すと、慌てて走って帰った記憶がある。子ども心に戦争と軍隊に対する不安を持つようになっていたと思う。
 中学3年生の現代社会の学習で、憲法第9条で戦争放棄、武力不保持、交戦権の放棄が決められているのに、「なぜ自衛隊があるのか?」、また、「国民主権であるはずなのに、象徴天皇制であっても、なぜ天皇がいるのか?」と疑問を持つ子どもであった。
 このようにして、私は戦争=軍隊ぎらいになった。父を殺した軍隊についての認識も米軍から日本軍に変わっていた。また、中学3年生頃に天皇の行幸があり、中学生全員が動員されて国道171号線に列ばされたことがあった。その時、私は「(父を殺した)天皇はどんな人か見てやろう」という意識で通過する天皇の車を凝視したが、ちらっとしか見えなかったので、がっかりした記憶がある。また、これはもう高校1年生になった時だが、皇太子成婚のテレビ中継で、皇太子夫妻が乗る馬車に投石した少年が写し出された。それを見た私は内心で共感している自分に気がついた。
 4 記憶を掘り起こしてみると、私は中学3年生の時に遺児代表として靖国神社参拝をしたことがある。それは1958(昭和33)年7月のことで、私の中学校からは2名が参加したが、靖国神社鳥居前と皇居前の二重橋で撮った記念写真が残っている。写真には、第8班とあり、44人の中学3年生が写っている。天王寺公園での結団式は大変な人数だったことを覚えている。関西本線経由の夜行列車で東京まで行ったが、靖国神社に昇殿した記憶はない。また、「お父さんに会えた」といった感動は不思議となかったように思う。靖国神社は父の存在を感じさせてくれるものではなかった。その直前の4月の修学旅行で東京にはじめて行っているので、当時は東京にめったに行けなかった時代であり、「2度の修学旅行」という感情の方が強かったのかもしれない。
 このように父を殺したのは「天皇と日本軍」であるという社会認識を持つようになったが、中学校卒業まではまだ「戦死した父を持つかわいそうな子ども」という被害者の認識だったと当時を思い返す。

第4 「お父さんは、中国で人を殺しているはず?」
 1 高校に入学して間もない頃のことだった。ある日、高校の屋上から茨木市街の町並みを眺めていると、不意に「この屋根の下には、生きていると父と同じ歳頃の人たちがいるはず」という想念が浮かんだ。息せき切って帰宅するとその思いのうちを真っ直ぐに母にぶつけた。
 「お母ちゃん!うちのお父ちゃん、戦争に行ってるんやから、向こうで人、殺しているはずや」
 母は裁縫していた手を止めて、僕の言葉を撥ね返した。母の顔は真っ青だった。
 「うちのお父ちゃんは、虫も殺さんええ人やったから、絶対そんなことあらへん!」
   この言葉に僕は返すことができなかった。
   当時、僕はこの言葉をそのまま母が受け止めてくれると思っていたのだろう。しかし、高校生になった息子から突然発せられたこの問いに、母は内心は大変な動揺を感じたであろうが、肯定することもできなかったのだろうと今は思う。
 高校3年生のときの「日記」にも次のような記述が見られるので、この疑問はその後も私のなかで大きくなっていったものと思われる。
 私の父は戦死した。こんどの戦争で多くの人が死んだであろう。死ぬ人があるなら、殺す人もあるはずである。今の世の中は、ある程度平和で、その中には戦場に行って人を殺して来た人もあるはず。
 そして、その人達の心の中に、どんな戦争の結果による心理(苦痛)が動いているのか、知りたい。

(高校3年生時の「日記」より)

 私が高校に入学したのは、1959(昭和34)年であるが、その翌年が安保条約改訂反対運動で騒然とした社会状況だった。私はそのような社会の動きに強い関心があったが、直接政治運動に参加する生徒ではなかった。デモに参加する友だちを端で見つつ、当時、柳田国男に非常に興味を持ち、祖先信仰や年中行事などを調べるクラブ活動(「郷土研究部」)に熱中していた。
 だが、ゆっくりとした歩みだったが、父が殺す側にいたという認識を持つようになったのだと思う。しかし、母から拒否された「父と戦争」についての私の問いかけをその後母に向けることはしなかった。8月15日に毎年行われる全国戦没者追悼式のテレビ中継をじっと見つめる母の背中を後ろから見ているのはつらかった。
 2 大学に入ってしばらくしてのことだが、父が戦死して、お母さんが行商をし、苦労して育ててくれたという三重県出身の同級生と出会い、親しくなった。彼との話題は境遇が同じだったためか、「父と戦争」の話によくなった。そんななかで、彼は「僕らの父が戦死したことが礎となって、今の平和と民主主義の世のなかがあるんだ」と言った。しかし、僕はちがうと反論した。「僕らの父は戦地で人を殺しているから、犬死にと思う」と。意見は平行線のまま一致しなかった。彼は2回生になると、大学に姿を見せなくなり、その後、会わないままである。どうしているのだろうかと彼を思いおこすことが時にある。
 私が大学に入ったのは1962(昭和37)年であるが、この頃、大学管理法案が国会に上程され、クラス全体が大学管理法案反対運動で盛り上がり、私はこの反対運動に参加していった。また、原水爆禁止運動が「あらゆる国の核実験反対」で分裂した頃であり、同年には「キューバ危機」があり、核戦争の危機が身近に感じられた。翌年の1963年には部分核実験停止条約が締結された時代である。私は元々、戦争と平和の問題に関心があったので、この時代の雰囲気のなかで、学生の平和運動に参加して行った。
 また、中学生頃から本好きだった私は、読書を通じて社会認識を広げていった。高校時代からの「父と戦争」についての思考は、大学1回生のこの頃には『きけわだつみのこえ/日本戦没学生の手記』、『三光/日本人の中国における戦争犯罪の告白』、エドガー・スノーの『中国の赤い星』等を読んでいるので、父を戦争の加害者として見る視点をはっきりと持っようになったと思われる。
 3 そのように、私のなかでは、「父と戦争」との関係をどうとらえるかが、問いとしてずっとあり続けてきた。また、もうひとつは、侵略軍の一員としてアジアや中国の民衆に対した(=殺す側にいた)父が、なぜ靖国神社で「神」として祀られているのか、靖国神社と天皇制との関係とは何かという疑問であり、父の「合祀」に同意できないという気持であった。
 しかし、この気持を母に話すことはできなかった。たった4年あまりの結婚生活しか過ごせず、その後、60年以上を独身で過ごした母。むざむざころされた夫、あるいはひょっとしたら、誰かをころしたのかもしれない夫、想像を超える無惨な死に方をしたのであろう夫、他の家族のように、子どもの成長を見守ることのできなかった夫、この怒り、悲しみ、やりきれなさをいったいどこにぶつければいいのかと自問自答したに違いない。湖北省とはどんなところなのか、1月の寒さはどんなだったのか、「櫓ノ操作ヲ」する「船」とはどんなものだったのか、「熾烈ナル敵火ノ射撃」とはどのようなものなのか、まるで想像もつかないことを、何度も何度も思い描き、その恐ろしさ、苦しさに思いを馳せたであろう。そんな夫を不憫に思い、また、父の顔すら見ないままであった私を不憫に思い、そして、私に父の面影を探し、私に父を忘れないで欲しいと願ったに違いない。
 他方で、国が、靖国神社が、夫を「英霊」だとほめたたえ、毎年、慰霊祭が国家的行事として行われる。今の平和は、夫の無惨な死のおかげである、その死に感謝を捧げるのだと告げられる。そのたびに母は、吐き出したい思いをおさえこまれたのに違いない。だからこそ、私の、父は誰かをころしたのではないか、との問いに、ひたすら否定することしかできなかったのであろう。
 加害者の視点を持ちたいと願う息子と、国が、国家的大神社である靖国神社が、夫は「英霊」だとささやくのにしがみつこうとしたのかもしれない母との間には、どうしても超えられない壁があったのである。

第5 靖国神社の合祀通知
 1 母は老齢に入っても元気に過ごしてきて、病気がちの私の妻に変わり孫の養育でも大変世話をかけたが、80歳代後半に入ると足腰が弱くなり、心臓の調子も少しずつ悪くなった。2004年暮れ頃には(87歳の時)、右顎の下が腫れだし、発病を知る。悪性リンパ腫との判明は翌年で、死去するまで入退院を繰り返し、NTT西日本大阪病院で治療を受けた。悪性リンパ腫の治療完了後、乳癌手術で入院するという二重の病苦であった。その後、病状が悪化し、再入院したが、もう抗癌剤を使うことができないほどに身体が弱っていた。
 2007年3月24日に治療の甲斐なく、心不全と悪性リンパ腫が病因で死去した。母の闘病記期間は2年数ヶ月だった。母の最後は、悪性リンパ腫が高齢もあってあまり進行せず、苦しまずに亡くなったのが救いだった。やはり長年の無理が、一気に病気として出てきたと思う。ただ、最後の1年間は、私が定年退職後勤めていた嘱託を1年早く辞め、母の介護に当たれたことはよかったと思う。この間、2006年8月に、母方の親戚に集まっていただき、満90歳の卒寿の祝いをでき、母が大変な喜びようだったことがうれしかった。
 2 子どもの頃から、父の死亡告知書(公報)・現認報告書や戦地の父からの葉書等を母から何度も見せられてきたのに、父の靖国神社への合祀通知はこれまで見たことはなかった。なぜなんだろうかと思う。母にも、わだかまりがあったのかもしれない。
 母が亡くなり、葬儀等がすみ、一段落した今年(2007年)6月6日に母が父の戦死関係の書類が入っていると言い残した押入を片付け、靖国神社の合祀通知があるかどうか探し、見つけることができた。こんな紙1枚が父を「神」にしたのかと思い、ほんとうに腹立たしかった。靖国神社の合祀通知(甲7号証)は以下の通りで、通知の日付は1957(昭和32)年10月だった。私の遺児代表としての靖国神社参拝がこの翌年になる。
陸軍曹長松岡徳一命
右昭和二十年十一月十九日招魂 本殿
相殿に奉還 昭和三十二年十月十七日
本殿正床ニ鎮斉相成合祀ノ儀相済候條
此段及御通知候也
  昭和三十二年十月
      靖国神社宮司 筑波藤麿
遺族御中
 別の棚の遺品の中から、「靖国神社 合祀記念 神盃」が出てきた。「神盃」とあるのには驚いた。同じ所に「大阪知事盃」もあった。大阪府も記念の盃を出していたのだ。多分同時期のものと思われる。
 また、合祀通知を見つけるより少し前に、母の遺品の写真を整理していると、母が遺族会で行った靖国神社参拝の写真が出てきた。写真の裏のメモによると、母の靖国神社参拝は、1960(昭和35)年4月16日、1973(昭和48)年12月2日、1977(昭和52)年6月の3回であった。
 母がどんな感情で靖国参拝をしたかは、今となっては残念ながら分からないが、「父と戦争(靖国)」に関わる私と母との対話を不可能にした原因は、靖国神社の「合祀」にあると強く思った。

第6 靖国神社の不誠実な応答
 1 靖国神社に父が合祀されていることについて、私が本格的に取り組みたいと思いだしたのは、2005年9月に小泉前首相の靖国神社参拝に対しての大阪高裁判決が出され、その判決内容についての講演を聞いた2005年暮れの頃であった。そこで、「母も高齢だし、もうあまり時間が残っていない」と考え、母と「父と戦争(靖国)」についての対話を再開しようと決心し、出来うるならば合祀にかかわる訴訟にも参加したいとも思った。
 それまでは、卒業式・入学式で「君が代」導入された際、子どもの「思想・良心の自由」の保障の問題には熱心に取り組むことはあっても、靖国問題はどうしても越えられない壁が母と私の間にあり、避けてきたように思う。
 しかし、こう決心したものの、その後、母の悪性リンパ腫が再発し、病の進行の方が早く、話す機会を逸し、誠に残念である。母の死によって、永遠に母との対話は閉ざされてしまった。そして、母の死後、「合祀通知」を見つけて、靖国神社との「合祀取り消し」を求めたやりとりを始めたのだった。
 2 靖国神社に対して、2007年6月12日付で質問と合祀取り消し要求文書を送り(甲8号証)、6月19日付の靖国神社の回答(御祭神調査の件(回答)を含む)が6月22日に配達された(甲9の1,2号証)。
 その回答に対して、6月24日付で再質問及び合祀取り消しの再要求文書送り、回答を求めた(甲10号証)。しかし、回答期限の6月30日までに回答が来ないので、7月5日付で再回答の催促葉書で送ったところ(甲11号証)、7月6日付の靖国神社の再回答が7月9日に配達された(甲12号証)。その再回答に対して7月11日付で合祀取り消しを強く求めた要求文書を送った(甲13号証)。
 なお、私が靖国神社に送った文書はすべて配達証明便である。
 合祀取り消しについての靖国神社の回答は、政教分離の原則に反し、戦死者の遺族の敬慕・追悼の自由を侵す、憲法違反の内容であった。また、質問への回答はそれぞれの質問に具体的に答えない不誠実きわまりないものであった。
 また、再回答では、「靖国神社の根幹にかかわる合祀・祭祀に批判的な意見表明」には、「議論することをを差し控えさせて戴きたい」とあり、また、「今後も同様の御質問には回答をしかねます」とあった。私が生まれて以来63年間の父の不在、私が半世紀をかけて悩みぬいてきた「靖国神社の合祀」、そして母の無念の思いを抱きつつ、やっとのことで合祀拒否という結論にたどりついたのに、たった2度の回答で(その回答も質問にまともに答えたものではない)、靖国神社が文書による応接を断ったことに大変怒りを感じた。靖国神社は遺族の感情や意志を受け止めようとしていないと思った。
 3 以下、靖国神社の再回答に対する批判点を7月11日付の合祀取り消しを強く求めた私の要求文書から整理する。
 (1) 「通知日時はいつか。『引揚援護局あるいは当該各県』とあるのは、父・松岡徳一についての個人情報を神社に通知したのは具体的にどの機関か」との私の質問に対して回答がないのは不誠実である。
 (2) 「貴靖国神社が『祀る』という意味は何なか。慰霊なのか。追悼なのか。英霊顕彰なのか。その「祀る」の意味はなにか」の質問に答えたと思しき箇所は「只管慰霊鎮魂に専念致しております」のみで、全く答えがない。
 (3) 「一宗教団体が、父に関する個人情報を国から得て、宗教行為の合祀をするのは、憲法の観点から違憲行為とは思われませんか。違憲でないとされるならば、その理由をお答えください」との質問には、「御遺族が行う宗教行為に干渉することは一切ございません」と質問をはぐらかす答えのみで、靖国神社の行為は政教分離の観点から憲法違反でる。
 (4) 「『御創建の主旨』とは何かを具体的に教えてください。また『合祀に際しては全て明治以来の伝統を受け継ぎ執り行っており』とありますが、『明治以来の伝統』の内容を具体的に教えてください。『御創建の主旨』と『明治以来の伝統』の違いをご説明ください」との質問にも、なんら回答がない。
 (5)及び(6) 「遺族の承諾を得ないで祀るのが『伝統』だとされていますが、靖国神社に合祀されている死者たちについては、一人も遺族や関係者の同意を取っていないのでしょうか」、「無断合祀は、死者と遺族の信教の自由、思想・良心の自由を侵し、尊厳性を傷つける行為と思われませんか。信教の自由(祀る自由)は、国の関与や干渉から解放されてはじめて成り立つものですから、伝統を理由に『遺族に無断で合祀』というのは、一宗教団体の行為として、また、モラルとしても憲法上許されないのではないでしょうか。戦前戦中であっても遺族の了解もなく合祀するのは、人の尊厳を踏みにじっていると思いますが、いかがお考えでしょうか」については、「靖国神社には宗教活動の自由が保障されておりますので、貴殿の御見解に与することはできかねます」との回答であった。これは遺族の戦死者に対する敬慕・追悼の自由を考慮しない考えであり、私の信教の自由への侵害である。
 (7) 最後の質問「合祀基準についてでは、遺族援護法及び恩給法の適用者を挙げられていますが、遺族援護法は戦後制定された法で、恩給法も戦後、一端廃止されて、新しくなっています。すると、私の父が合祀された基準は戦後の法によっているわけですから、『創建の主旨』や『明治以来の伝統』とは違う理由で合祀されたことになるのでしょうか」についても、まったく答えていず、大変不誠実な回答である。
 4 以上のように私は、靖国神社に対して、「私が父松岡徳一の合祀取り消し(霊璽簿記載抹消)を求めるのは、戦死者の遺族には、どう追悼するか、また、どのように祀るのか祀らないのかについての自由があり、戦死者をどう追悼・慰霊するのか、あるいはしないのかについては遺族に決定する自由があると考えるからです。また、遺族は自らの方法で戦死者を敬愛し、追慕しているのですから、信教の自由から言っても貴靖国神社に干渉されるべきではないと考えます」と考えを述べ、「父・松岡徳一の合祀取り消しを強く求めます。貴靖国神社は文書による応答を拒否されていますが、文書による方法もふくめ他の方法等も考え、引き続き合祀取り消しを強く求めていきたいと存じます」と私の意志を伝えた。

第7 原告としての合祀取り消しへの思い
 1 私は「靖国合祀イヤです訴訟」の原告に新たに加わることにした。
 これまで述べてきたように、合祀取り消し(霊璽簿等記載抹消)に関する靖国神社の私への応答は、戦死者と遺族の実情と心情をまったく忖度しないものであり、また、遺族の了解を得ず、ただ一方的に父を「神」として祀る(合祀する)ものであるのでため、父の靖国神社への合祀を認めることはできない。
 原告としての合祀取り消しへの思いは、戦死者の遺族には、追悼の自由、追悼に関する自己決定権があり、合祀取り消しによって、父を靖国神社から取り戻し、遺族である私によって父を敬慕・追悼したいことにある。
 靖国神社が父を合祀したことにより私を苦しめ、また、靖国神社は「父の合祀に関わっての親子の亀裂」を生み出したことにより、母にも酷く苦痛を与えた。靖国神社に父の合祀を今すぐ取り消すよう強く求める。
 また、憲法に違反して父に関する個人情報を靖国神社に提供し、靖国神社に合祀させることで、国はその遺族である私及び母を酷く苦しめた。それは、「父と戦争(靖国)」についての私と母との対話を母が死ぬまで不可能にし、私と母との間に深い溝を作ったことである。その結果、国は私に著しい苦痛を与えたので、国に対して、損害賠償を求める。
 もし、靖国神社が父を合祀をせず、靖国神社の合祀に国の関与がなかったならば、遺族としての私と母はもっと自然な形で父を敬慕、追悼できたと思う。
 2 自衛隊の海外派兵が恒常化し、日増しに戦争国家への道をひた走る日本の現状で、国家が関与した靖国神社の合祀は、次なる戦死者を生み出す装置であり、父と同様の新たな戦死者を生み続けることになる。靖国神社に父の合祀を取り消させることで、父の時代と同様な戦争の到来を回避する一助となればと願っている。
 さらに、アジア諸国を侵略した日本軍の一員として父が加害者であった(=殺す側にいた)ことをとらえ返し、アジア諸国の人びと(=戦争被害者)の側の視点に立って、原告のみなさんとともに、合祀取り消しを裁判所に訴えていきたいと思います。

以上