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タイ
「地場の市場プロジェクト」 中間報告
 



2000年9月28日
日本国際ボランティアセンター(JVC)
松尾 康範
  
 
 
 タイで国家レベルの計画経済が導入されて以来、「地場の市場プロジェクト」の活動地であるイサーン地方(タイ東北部)では、外貨獲得のために輸出志向型農業が進められた。村人の生活の糧となる森林が伐採されたことを発端に様々な問題が浮き彫りになった。この40年間の経済成長率の平均は7%を越えているが、その陰でバンコクに住む人々とイサーンに住む人々との所得の格差は10倍にも膨れ上がった。
 1997年に起こった経済危機は、経済成長神話を夢見た人々に行きすぎた生活を省みるいい機会を与えたかのように見えたが、海外からの援助がその省みる時間をなくし、社会を混乱させる方向へと助長させてしまっている。IMF、アジア開発銀行(ADB)、世界銀行などの多国間援助が、多種の条件を背負ってやってきた。そして、その条件に沿って農村で取り組まれることは、やはり資源収奪型の輸出志向型の農業政策で、農民の生活、借金、環境の問題は深刻化する一方である。
今回JVCが、タイのNGOや日本の地域グループの方々の協力によって始めたこの「地場の市場づくり」プロジェクトは、こうしたグローバリゼーションの動きに対するささやかな抵抗である。自助を基礎に自分たちが本来持つ豊かなコミュニティーを回復させる運動である。
以下5月末にタイに赴任してから、9月までの活動を簡単にまとめる。

◇5月末〜7月にかけての活動内容
5月25日松尾タイ赴任。
6〜7月にかけては、主に4村の村人やプロジェクト関係者への挨拶まわりを行ない、これから始まる活動について調整した。4村への挨拶は、6月中旬、下旬、7月中旬と3回行った。
 ネットワークの活動については、5月5日プロジェクト協力団体であるイサーンオルタナティブ農業ネットワーク(コラート北&コンケン南地域)」の運営委員会、6月25日は農民であるメンバーのほとんどが参加する同ネットワークの月例会議に参加し、これから始めようとしているプロジェクトの基本スタンスを伝えた。
 6月の頭に正式にイサーンNGOCODの事務所の一室にこのプロジェクトの事務所を開設した。これで、主要協力グループであるイサーンNGOCODとの連絡調整は容易になり、イサーンの他地域の現状についての情報も得ることが出来る。

◇第1回プロジェクトチーム・ミーティングについて(7月18日)
目 的:プロジェクト主要関係者を集め、形式的に活動をスタートさせる。また、それぞれの役割分担を確認、明確にすること。
参加者:サネー・ウイチャイウォン(イサーンNGOCOD委員長)、スメート・パーンチャムロン(イサーンオルタナティブ農業ネットワークコーディネーター)、ヌーケン・チャンターシー(イサーン農民フォーラム)、各村からの代表数名、JVCタイから4名。
議 題:プロジェクト計画について
「プロジェクト計画書」を配布し、バンから説明、内容について確認をした。以下はその確認されたこと。
正式プロジェクト名:
タイ語訳:
「自立のための地場の市場促進・共同プロジェクト」(コー・トー・ポー)
英語名:
「Cooperation to encourage self-reliance through community market(Cost Com)」
プロジェクトの構成
<プロジェクトチーム>
パイロ・モンコンブンルールート(プロジェクトコーディネーター)
松尾康範(責任者、予算管理、日本とのコーディネート)
<ボードメンバー>
サネー・ウイチャイウォン(イサーンNGOCOD委員長)
スメート・パーンチャムロン(イサーンオルタナティブ農業ネットワーク)
ヌーケン・チャンターシー(イサーンオルタナティブ農業ネットワーク)
村上真平(JVCタイ代表)
ヌー・チュムカムノーイ(コークスーン村代表)
スワン・チャイプラットヤーウオン(チャイパッタナー村代表)
サナン・テーチャゲーオ(ノンテー村代表)
ブンルアン・パナラート(ノンヤプロン村代表)
<相談役>
バムルン・ブンパンヤー(イサーンNGOCOD相談役)
大野和興(AFEC、農業ジャーナリスト)
* 活動の目標や目的、期間等は以前配布したプロジェクト計画書の通りである。

◇農業ジャーナリスト大野和興氏&西沢江美子氏による村内ワークショップ
17日:午後ノンヤプロン村にてワークショップ
18日:早朝ノンヤプロン、ノンウェンソークプラ、ノンウェンコート村の村人と共にノンテー村朝市見学。日本からのツアーはそのままノンテー村に残り、夜ノンテー村の村人との経験交流。
<ノンヤプロン村のワークショップについて>
8月17日、大野氏、西沢氏による村内ワークショップ。開催地はまだ朝市が開かれていないノンヤプロン村。ノンヤプロン村は、約30年前に本村(ノンウェンソークプラ村、ノンウェンコート村)から分かれた小さな村なので、このワークショップには本村の村人も参加した。日本の学生やタイ全土を駆け巡る農民リーダー数人も応援に駆けつけてくれた。
はじめに、このプロジェクトの協力者の一人であり、ノンヤプロン村の状況をよく知るプラシット・パノムローク氏にノンヤプロン村のこれまでのあゆみをまとめてもらい、その後、プロジェクトチームのバンからこのプロジェクトの背景を簡単に説明した。タイ側のまとめを引き受けてくれたのは、ノンウェンソークプラ村に住み、この活動の協力者の一人であるスラポン・トンミーカー氏である。
 その後、大野氏が日本の農村社会の全般的な状況を説明し、それを受けて西沢氏が、戦後農村女性が積み上げてきた運動や挫折、朝市の取り組み等についてまとめた。農村女性が、農作業や家庭の仕事に追われて自由な時間が持てず、自分たちの小遣いもなかった、といった話をすると、ノンヤプロン村の女性たちは、自分の村でのことのように耳を傾けていた。続いて自由化の話。六三年にバナナの自由化で、日本に大量のバナナが輸入され、果樹農家に影響を及ぼしたことから、女性たちはあらたに運動を始めた。コーラや輸入品に依存するのではなく、自分たちが育てたリンゴやミカンでジャムやジュースなどの加工品をつくった。自由化の問題に嘆くだけではなく、それに対する具体的な代案を示す女性の力強さを西沢氏は紹介した。でも子どもたちは、外から入ってくるきれいな袋に入ったお菓子やジュースを欲しがってしまう、といった問題点を話すと、タイ側の女性たちは、この村も一緒だよ、と相槌をうった。
次の日の早朝、ノンヤプロンの村人たちと昨年朝市を始めたばかりのノンテー村に、見学に出かけた。朝市見学後には、2つの村の村人が交流出来る場をつくり、活発な意見が交換された。実際に村の朝市を見てそんなに難しい事ではない、と感じたノンヤプロンの女性たちからは、ノンテー村の村人に対して、運営方法、規則はあるのか、といった具体的な質問を聞くことが出来た。
今回のワークショップとノンテー村との交流の活動を無駄にしないよう、9月7日にそのフォローアップの集まりを持った。もちろんノンヤプロン村だけではなく、本村のノンウェンソークプラ村、ノンウェンコート村の村人も参加し、9月27日には、実際に朝市を始めるにあたっての話し合いを行った。

◇4地域の現状及びその他のネットワークとの関係について
<コンケン県シーチョンプー郡シーチョンプー区コークスーン村&コークパークン村>
プロジェクト協力者であるヌーケンがアジア農民交流センター(AFEC)の招聘で日本の農村を訪問し、それがきっかけで3年前に村の朝市が始まった。コークスーン村とコークパークン村が交差する小さな4つ角で朝市を開き、火曜日には多村の村人も交えた特別市も開催した。
しかし、昨年からこの朝市の状況が変化している。雇用創出を目的に全国の各区(タムボン)に約10万バーツの政府からの資金援助(宮沢基金)がなされたが、ここでは、その資金を利用し、コークパークン村の端の方に屋根付きの建物が立てられ、朝市もそこで開かれるようになった。そしていまでは、毎日の朝市が無くなりつつあり、火曜市だけが際だって大きくなってしまった。屋根付きの建物には外からの工業製品が並べられ、その脇の敷地に置かれている農作物に関しても、たくさんの作物が並べられてはいるが、その半分が外から運ばれてきた作物に変わってしまった。
この問題点を解決する方法としては、区レベルの人も交え、朝市が本来持つ意味を確認しあうことが必要になる。そして、ほそぼそでも構わないから週1回ではなく、農民たちがつくった生産物をいつでも手軽に運べる村人による本来の朝市を復活させていく必要がある。そのための話し合いの場を数ヶ月中に開く予定である。

<コンケン県ポン郡カオニイウ区 チャイパッタナー村>
この村では、昨年から週1回の日曜市が開かれていたが、その朝市を閉じ、代わりに行政区(タムボン)レベルの朝市が行政区運営組織(オーポートー)主導で始まった。村のリーダーが、様々な層を巻き込めるということと予算を得られるということを期待してオーポートーを巻き込んだが、形としては村人主体というよりも、行政主体の市場となってしまっている。本来朝市の持つ意味、目的、ということに欠けてしまっている。朝市を開催した場所についてもオーポートーの敷地を使うことになった。しかし、チャイパッタナー村の村長に新しく就任したトンサー氏は、そのあたりのことを切実に理解しているので、彼の力を活かし、今後の調整をしていく必要がある。

<コンケン県ポン郡ペックヤイ区ノンテー村&ヤナーン村>
昨年行った朝市に関する調査の一環で、ヌーケンの村の朝市を見学したことがきっかけで村の朝市が始まった。99年11月のことである。小さな朝市ではあるが、地道に毎日取り組まれるという望ましい形で運営されている。村人は、昨日収穫した作物をこの朝市で販売し、販売を終えると自宅に帰り、朝食などの家の準備をする。14,5世帯の人が入れ替わり立ち替わり、小規模に販売している。しかし、この朝市を始めるにあたって、最初から小さな問題点があった。村長補佐の家が以前から個人経営の店を開いていたので、朝市を開くとその店の経営を妨げることになるということである。その店では、毎朝早くにポン郡の町に出かけ、業者が集めた農作物を購入し、それを自分の店で販売していた。結局、村の生産物を販売するこの朝市でも、外からの農作物を販売出来るという形でスタートし、村長補佐も普段お店で販売している作物を朝市でも販売している。毎日たくさんの商品を揃えているために売れ行きもいい。いまはそんなに大きな問題になっていないが、本来の朝市が目指す方向とは、違って来てしまう恐れがあるため、朝市の持つ意味は何か、ということに関して、朝市に関わる仲間たちと話し合いの場を繰り返していく必要がある。

<コンケン県ポン郡ノンウェンソークプラ区ノンヤプロン村>
上記で紹介したワークショップに続き、9月7日ノンヤプロン村にて、ノンヤプロン、ノンウェンソークプラ、ノンウェンコート村の3村の村人とワークショップ及びノンテー村朝市見学の振り返りの時間をもった。27日には、朝市を始めるにあたってのミーティングを本村であるノンウェンソークプラ村で開き、その場で朝市委員会が立ち上がった。各村から4人(女性3人、男性1人)の代表とプラス書記1人、13人の委員会となった。女性の委員を多くしたのは、これまで他の村で取り組まれている朝市を実際に見ても売り買いする人の大半は女性だからである。9月4日に、第一回朝市委員会のミーティングをもち実際に朝市を開く場所、日取り等を決める予定でいる。

<活動協力団体及びネットワークとの関係について>
・ネットワーク
 このプロジェクトは、上記の4つの活動地域だけではなく、イサーンにある他の地域への普及も考慮している。1年目は、4地域に住む生産者との関係に力を入れていくことになっているが、「イサーンオルタナティブ農業ネットワーク」、または事務所を共にする
「イサーンNGOCOD」との関係が密な関係にあるため、様々なNGOスタッフや農民グループとこのプロジェクトについて話しをすることが多い。農業にとって大事なその売り先ということに着目して、試行錯誤しているグループは幾つかあるが、そのほとんどが、マーケティングということに関して確立出来ていないため、このプロジェクトに関心を示すグループは多い。長期的なことを考え、そうしたネットワークとの関係を今後とも大事にして行きたい。
・他の村でも朝市が始まった
ポン郡にあるソークノックテーン区ソークノックテーン村の村長、ブンルート・センシー氏がノンテー村のサナンさんと村の開発について話し合ったところ、ノンテー村の朝市に興味をもち、後日実際に自分の村でも朝市を始めることになった。9月16日のことである。JVCが直接すすめたのではなく、JVCの活動がきっかけで朝市を始めた村人との話し合いから他の朝市が始まるという最も望ましい形で、他村にも朝市が普及された。

◇村人二人へのインタビュー
ユー・ウパハートさん(58才・女性)
−コンケン県ポン郡ペックヤイ区ノンテー村−
昨年の調査中に朝市が始まったノンテー村にメーユー(メーおかあちゃん)という元気な方がいる。朝市委員会のメンバーで主に場代を集める会計担当である。
 以前はこの村の主婦グループの委員長を任されていたこともある。現在では、この朝市委員会の委員だけではなく、村の織物グループの委員長や教育委員もつとめている。また、36ライの土地を活かし自分自身でも複合経営農業を営なむ。池を3つほど掘り、その水をうまく利用し、たくさんの作物を育てている。収量が多く得られた作物に関しては、業者に販売するが、作物のほとんどが少量に生産されているため、彼女自身も村の朝市で農作物を販売している。
村の朝市はどう?と質問した。「そんなに大きなことではなく、少量の作物が売り買いされることで、村にいい雰囲気をつくりあげている」、「以前は全て業者に依存していたが、いまは少しずつであるが自分たちの力で頑張ることが出来ている」、「新しい話し合いの場、連帯の場ができたよ」問題点は?という質問に関しては「いまのところは大きな問題はなく進められているよ」と応えてくれた。

ブンタン・パワーセナンさん(49才・男性)
−コンケン県ポン郡ノンウェンソークプラ区ノンヤプロン村−
 ノンヤプロン村に住むブンタン・パワーセナンさんは、元々本村であるノンウェンソークプラ村の出身である。奥さんとも同じ村で知り合った。約40年前までブンタンさんは、この地域の人々のほとんどがそうであったように、森からの豊かな恵みと湿地帯の一部に米を植えることで、飢えることもなく豊かな生活を送っていた。しかし、その生活に変化があらわれはじめた。1965年ブンタンさんの農地に麻が植えられるようになった。最初の数年は麻の価格もよく、販売することも出来たので、少しずつ農地を拡大していったが、やがて価格が暴落したため、1973年に麻の栽培を止め、続いてキャッサバがいい、とまわりからすすめられキャッサバ栽培に力を入れたが、やはり数年で価格が暴落した。このおかしな生活の変化に拍車をかけたのがサトウキビである。1989年に隣接するチャイヤプーム県のプーキィヨという地域にサトウキビの工場が出来て、その工場のスタッフが、この村にも足を運び、サトウキビ栽培を奨励した。工場の人が言うには、1ライ(0.16ha)につき、20tは収穫できるということだったので、それだったらなんとか生活が出来るという計算で、今度はサトウキビ栽培にトライしてみた。60ライある土地のうち、30ライは米、残りの30ライにサトウキビをつくりはじめた。実際に収穫出来たのは、15t(1ライ)だったが、1tあたり約400バーツで販売することができた。その頃は、労働力も1人あたり30-40バーツ、農薬も購入する必要はなく、化学肥料のみだったため、なんとかとんとんの生活を送っていた。91年にはサトウキビ栽培の面積を50ライに増やした。稲作は同じく30ライである。しかし、サトウキビ生産者価格の下落、諸物価の上昇、労働力を中心とした支出が重なったことで、収入より支出が上回り、結果的には20万バーツの借金を抱えることになった。ブンタンさんは慌てて、そのとき自分が持っていた100ライの土地全てにサトウキビを植え、積み重なった借金を返済するよう努力した。しかし、この年にトラックを購入したこともあり、借金は40万バーツと倍に膨れ上がってしまった。94年には、農薬を使用するようになり、労働力も1人1日あたり135バーツと値上がっていたため、借金は50万バーツにも及んだ。ちなみに、100ライもの土地全てをサトウキビ栽培に変えてしまったことで、例えば刈り入れのときには、1日に30人から40人の労働力を必要とするような状況がつくられた。そして、現在では、70万バーツの借金を抱え、土地も痩せてしまったためにサトウキビの1ライあたりの収量も5tと大幅に減ってしまった。
 ブンタンさんは言う。
「私は以前農民だった。しかし、サトウキビを植えるようになり、サトウキビが、私の脳の働きを止め、前に進むことが出来なくなった。後ろに戻ることもできない。ただ止まるだけしかない。借金が怖くて臆病になってしまった。トラックを売り払ったけれどもまだ借金は残っている。何が起こったのか私にはさっぱり分からないでいる・・・」
 現在ブンタンさんは、サトウキビの栽培を30ライに減らし、残りの土地で複合経営農業を取り組み始めている。
以上

 

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