和田進戦後日本の平和意識――暮らしの中の憲法』(青木書店、1997年)\2,300

第U部 日本における平和意識の展開の3章『平和意識の進化と『豊かさ』と結合した平和意識』より。同書 p.109〜111

 

 ベトナム反戦運動の高揚

 

 六〇年代後半に闘われたベトナム反戦運動は、平和意識のありように重要な影響を与えることになった。

 六四年八月のトンキン湾事件を口実にしてアメリカがベトナム民主共和国(北ベトナム)に対する空爆を開始し、ベトナム戦争が新たな段階に突入すると、ベトナム反戦運動は国際的に急速な盛りあがりをみせることとなった。六三年の原水爆禁止世界大会に社会党・総評が不参加を決定して原水爆禁止運動は困難な状況に陥っていたが、八月一〇日、社共両党、総評などの呼びかけで「インドシナ軍事侵略阻止緊急中央集金」が開催され、ベトナム侵略反対、ベトナム人民支援の運動が高揚していった。六五年五月には知識人によるベトナム反戦の一日共闘の呼びかけがおこなわれ、その後「一日共闘方式」の集会・行動が社全党、共産党、総評、各種団体を結集しておこなわれていった。六六年一〇月二一日には総評がベトナム反戦を課題とするストライキを四八単産二一一万人の参加でおこない、九一単産三〇八万人が職場大会に参加した。これ以後一〇月二一日は「国際反戦デー」として各種のとり組みが展開されていくことになった。この一〇月二一日は、一九四三年神宮外苑競技場で学徒出陣の壮行大会がおこなわれた日である。六七年八月にはバートランド・ラッセルの提唱によリストックホルムで開かれたベトナム戦犯国際法廷(五月)の日本版として「ベトナムにおける戦争犯罪調査委員全」主催の東京法廷が開催され、日米両国政府と日本独占資木に有罪判決を下した。また、六五年には「ベトナムに平和を!市民連合」(べ平連)が結成され、市民参加の独特の連動を展開していった。べ平連連動の中心的担い手であった小田実は、戦場にかりだされる若者は、「被害者」であるにもかかわらず「加害者」になるのではなくて、まさに「被害者」であることによって「加害者」になるという構造――「被害者=加害者」という視点を提出した(小田実『難死の時代』岩波書店、一九九一年)。この視点は「脱走米兵」を支援する運動をもたらした。ベトナム反戦運動の高揚は、七二年には南ベトナムに輸送される米軍戦車を三か月にわたって阻止しつづけるという闘争をも生み出していった。

 このベトナム反戦運動で注目されるのはつぎの二点である。一つはベトナム反戦の連動が、国際的なベトナム反戦連動の一翼を形成していることを意識・自覚してとり組まれたことである。原水爆禁止運動はその当初から国際的な連動として展開されていたが、ベトナム反戦運動は平和運動が国際連帯の運動として展開されているという自覚をもたらし、平和意識に国際的な広がりをもたせていくことになった。

もう一つは、ベトナム反戦の運動が、ベトナム人民の自決権を支持・擁護する闘いであると同時に、沖縄をはじめとする在日米軍基地がベトナムにおける虐殺行為に不可欠な役割を果たしているという事態の認識のもと、「紛争への巻き込まれ拒否」の意識をこえて、日本が加害者となることを拒否するという闘いでもあったことである。六〇年安保改定に反対する主要な論理が、同条約が米軍が引きおこす戦争に日本を自動的に巻き込む構造を有しているという「戦争への日本巻き込まれ」論であったことは当時の同民意識に適合的であった。しかし、「日本をベトナム侵略の出撃基地にするな」のスローガンに示されたベトナム反戦の運動は、日本が再びアジア侵略の役割を果たすことを拒否するという性格を有しており、日本の加害者としての戦争責任の問題を呼びおこす契機ともなりうるものであった。

(和田進は1948年生まれ。現在神戸大学発達科学部教授)

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