91.  小中陽太郎「ラメール母」(平原社 2004.06.)(2004/06/25搭載) 

 本書について、『サンデー毎日』2004年8月1日号の書評欄「サンデーらいぶらりぃ」で、水口義朗は次のように紹介している。

……本書は、新刊にして稀覯本、いや奇書といえる。本著者は糊ロの資を得るために、雑文を書きまくる。同時に 「べ平連」の結成に参画、脱走兵救援に奔走。フルブライト交換教授になり、日本ペンクラブ理事、「アジア・アフリカ(AA)作家会議」事務局長とLて平和運動に歩きまわる。
 それよりも何よりも、良識派文化人、作家たちの私生活、ゴシップ、スキャンダルをいともあっけらかんと、偏見なき目線で活写Lている。このディテールは、資料的価値、大である。三島由紀夫、金大中、丸山真男、ジョン・レノンとオノ・ヨーコら数十人。
 一人息子としての母恋い”。母が遺した手記・日記と自らの青春、そして晩春のほろ苦さを重ね合わせながら、生年の昭和十年からベトナム戦終結あたりまで、夫人、子ども、両親との問題、運動に参加した老若男女の表情を含め、人間味あふれるドキュメント。戯作者として面目躍如、“稀人”の書。

……のち陽太郎はよく「マスコミ志向が強すぎる」と党派や平和運動家に誹られたが、陽太郎は自分の持ち場はマスコミだと思っていたから、まったく意に介さなかった。逆にマスコミ側が組織の人間としてレッテル貼りをしようとしても、「俺はフリーだ」と受け流した。このころ、そういうフリーのジャーナリストや組織から離れた市民運動家が日本にもようやく成立しかけていたともいえるし(陽太郎がNHK を辞めたとき、安岡章太郎はそうコメントしてくれた)、いかに「左翼運動を食い物にしている」と蔑まれようとも、こうする以外に生活の途がなかったともいえる。
                                                  
 旧左翼からは「商業雑誌とくつつきすぎる」、新左翼からは「革命的警戒心がなさすぎる」と揶揄されもしたが、無署名のコラムで自分をそうやって冷やかして、陽太郎は内心楽しんでいた。もともと馘になったのは個人的な理由で、イデオロギー上の対立ではない。ここにいるのは小田の縁であり、革命をはじめたわけではなかった。隣りにいるのが共産党員であろうと除名組であろうと、まったく意識しなかった。ベトナム戦争に反対か賛成かだけが仲間の基準で、党歴や職歴など関係なかった。それが、陽太郎がこの運動に持ち込んだ新しいスタイルだった。
 学生や労組の活動家だけでなく既成の政治家も、左右ともにこの集団を理解できなかった。それまでの運動は、労働者の祖国ソ同盟を擁護するか、自ら組織をつくるか、体制的な政治家になるかのどれかであった。一方、公安は市民を裏で操っているのは共産党か毛沢東派かと必死で探っていた。政治的な訓練もなく、綱領も会費もないのに、ふつうの主婦や予備校生たちがどこから湧き出て、どこに帰っていくのか、だれもわからなかった。
 最初のときから、代表も係も決めなかった。次のデモの日取りだけを決めた。小田実を代表と呼ぶのは、マスコミがそう言ったからだし、警察もデモの届出にだれかの名前が必要だったのでそうなった。世話人も周りがそう呼ぶから従っただけである。事務局長だけがいたのは、久保の事務所があったからだろう。費用は全国から送られてくる二〇万円(月額)ぐらいで運営した。……

(「第7章 あてなき疾走」より 本書 p.237〜238)

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