62. 石田日本の政治と言葉 下 「平和」と「国家」」東京大学出版会 1999.12(2003/05/13搭載)

第六章 六〇年安保からヴェトナム反戦へ

 二  ヴェトナム反戦と「加害者としての自己意識」

 一九六〇年代後半に入ると、アメリカ軍の北部ヴェトナム爆撃開始とともに、ヴェトナム戦争はいよいよ激しくなり、米軍基地としての日本の役割も増大した。戦争の拡大に伴う市民生活への影響もまた目立ってきた。東京の王子やその他にある野戦病院には、ヴェトナムの戦場から傷病者が直接ヘリコプターで随時運び込まれるので、その騒音と検疫を経ないで入国することに伴う流行病伝染の危険性が問題となった。また目的の分らない戦争のため絶望的となった米軍帰休兵による暴行事件、風紀問題など「平和」な市民生活を脅かす条件が増大した。
 このような変化に伴って、多くの人びとが、ヴェトナム戦争の拡大によって日本人の「平和」な生活が全面的に危くされることをおそれるようになった。一九六五年「ベトナムに平和を! 市民連合」(略称「べ平連」、はじめは市民文化団体連合会といっていたが一年後にこの名前となった)が生れ(*15)、多くの市民がこれに自発的に参加したのも、このような空気を背景としていた。
 ヴェトナム反戦の運動は、右にみたように「平和」な日常生活が脅かされることに対するおそれを基礎としていたという点では、六〇年安保闘争の延長線上にあるものといえる。しかし、六〇年安保闘争とヴェトナム反戦運動との間には質的なちがいがある。それは自分の「平和」な生活が脅かされることへのおそれだけではなく、他人の「平和」を脅かす「加害者としての自己意識」を伴った点にみられる。
 べ平連の指導者の一人小田実は、「平和をつくる」という題の小論で、「加害者としての自己意識」を自分が運動に参加する重要な理由の一つにあげている。彼は第二次大戦中の空襲下でえた「難死」の体験を基礎に、戦争が個人の生命に対して与える脅威を想起する。しかし「ヴェトナム戦争がおびやかしているのは、私、また『私』の生命だけではない。民主主義、自由、独立、民族自決、人間尊重、あるいはもちろん平和」という原理なのだと考える(*16)。そして、ここまで考え至るならば、こうした原理が最も強く脅かされているのは、外でもないヴェトナムの人民であることは明らかである。
 さらに小田はいう。「安保条約、『オキナワ』、ヴェトナム特需などによって直接、間接に日本がヴェトナム戦争に参加している以上、自分をそうした政策と切り離すことを積極的、具体的な反対発言、行動によって行なわないかぎり、共犯者としての位置にとどまらざるを得ない」と。このようにして彼は「加害者としての自己意識」、あるいは、個人は「国家に対して被害者、『敵』に対しては加害者の位置にたつ」という二面性の認識に達する(*17)。
 「加害者としての自己意識」を持つようになると、もはや「平和」(な生活)を享受の対象とすることに安んじているわけにはいかない。むしろそれを変革して「平和」をつくり出すことに努めなければならない。べ平連運動のもう一人の指導者吉川勇一は、この観点から六〇年安保闘争とべ平連の運動とのちがいを次のように指摘する。「日ごろ享受してきた市民としてのささやかな幸福が、強行採決に象徴される議会制民主主義の蹂躙――ファシズムの出現によって奪われる危険性を感じとるところから、六〇年の市民運動が登場したとすれば、現在のそれは、六〇年の時に守ろうとした日常生活そのものが、実は沖縄を本土から切り離し、安保を支え、ベトナムへの日本の加担を可能にしているのだという認識をもち、それを変革しなければならないのだということ、そしてそのためには、六〇年の闘争や、六〇年代前半の闘争のおかれていた枠組みそのものを大きく変えなければいけないのだということを感じているのである」と(*18)。
 国家権力と個人との間の緊張関係が以上のようにとらえられるとき、私の表現でいえば「平和」の両義性が明確に意識されることになる。このような意識があるとき、「平和」憲法によりかかったり、その下での「平和」な日常生活を享受しようという体制依存の姿勢とは違った行動類型が生れる。すなわち個人として戦争加担の責任から積極的に脱却するために、国家に対する抗議行動を含めた活動が要請される。
 このように個人の責任を中心として考える場合、運動の組織論においても、巨大組織依存ではなく、自発的な参加による集団づくりという方向をとる。D・マーチンのいうセクト型としての平和主義の運動が、このようにして可能となる。一九七二年相模原補給廠からヴェトナムに送られる戦車輸送阻止運動のために「ただの市民が戦車を止める会」が作られ、戦車を輸送するトラックの前に自分で坐り込むという行動形態も、こうして生れる(*19)。「表向き電化製品を作り、陰で兵器を作っている企業」に働いていた人が、兵器生産に反対し、遂に退職して「農業・土木作業」従事者などになるような事例をみるとき、「朝鮮戦争のとき、朝鮮特需を拒否する意思表示がどれだけあったろうか」という反省も生れてくる(*20)。
 国家との緊張関係を保った個人が平和のための行動主体となるとき、国境をこえた個人の間の連帯の展望も開けてくる。べ平連は日米市民会議を開催し、あるいは『ニューヨーク・タイムズ』に有料意見広告をのせ直接アメリカの市民に反戦の意思を訴えようとする。あるいは『朝日新聞』に連載された本多勝一の報告「戦場の村」を英訳して世界(主としてアメリカ)に伝えようという声欄への投書にはじまる市民運動が、英訳本五万部を発送した例もある。こうして「日本の民衆の声を直接海外に伝えようとする運動のごときは、隣国朝鮮での戦争に際しては思いも及ばなかったものである」とこの点でも朝鮮戦争とのちがいが指摘される(*21)。
 ヴェトナム戦争は、アメリカ軍が撤退を強いられたことによって、アメリカの国際政治上の威信の低下、国際政治における「多極化」の進行を伴って(*21)、終結した。そして、「ベトナムに平和を!」という一点に目的を集中した組織としての「べ平連」は一九七四年にその一〇年の歴史を閉じた。しかし、ヴェトナム反戦の市民運動の過程でみられた「平和」観の変化は、その重要な意義を後にまで残すことになる。すなわち、この反戦運動が「平和」観の転換にとって残した遺産は、第一に「平和」が個人の原理としてとらえられるようになったことであり、第二に「加害者としての自己意識」と結びついたことである。
 一度個人の原理にまでひきもどされた「平和」の原理は、大国間の「和平」交渉をも、「民衆の平和」の観点からみなおす可能性をひらいた(*23)。一九七三年にキッシンジャーに(*24)、つづいて翌七四年には佐藤栄作にノーベル平和賞が与えられたことは(*25)、「平和」賞についての信頼を著しく低下させたが、権力に対抗する個人の「平和」原理を信ずるものは、これによって失望させられることはなかった。
 第二の「加害者としての自己意識」がヴェトナム以後に残した遺産はどうであったか。一九七三年一月二七日ヴェトナム停戦協定が調印されると、自民党本部のビルには「祝・ベトナム停戦・つぎは復興と開発に協力しよう」と大書された横断幕が掲げられた(*26)。ヴェトナム特需で大きな利益をえた企業は、今度は「ベトナム復興」によって利益をあげようとした。しかし、一度「平和」な日本人の日常生活が、ヴェトナム人民の犠牲の上になりたっていることを自覚した人たちは、戦争が終っても、やはり自分達の「平和」な日常生活が第三世界の人たちの犠牲の上になりたっていることを忘れることはできなかった。「構造的暴力」という概念が平和研究の領域で一般化するのも、このような意識を基礎とするものであった。

(*原注)(15) べ平連について詳しくは、べ平連編『資料「べ平連」運動』上・中・下、河出書房、一九七四年、参照。
(16)(17) 小田実「平和をつくる――その原理と行動・ひとつの宣言――」『世界』一九六六年九月号、一四七頁、一四八貢。
(18) 吉川勇一「べ平連――六九年から七〇年へ――市 民運動の可能性」『世界』一九七〇年五月号、二〇二頁。
(19) 高木正幸「『戦車阻止』が問いかけたもの」『世界』一九七二年一〇月号、ニー〇頁。
(20) 原寿雄「『かかわりあい』と『悲惨』――『ベトナム戦争と私』を読んで」『世界』一九七三年八月号、ニ九七頁。
(21) 斉藤孝「民族と平和――ヴェトナム停戦の示唆するもの――」『世界』一九七三年三月号、九五頁。
(22) この点については、川田侃・宮地健次郎・斉藤孝・山本進(座談会)「『多極化』時代と平和」『世界』一九七二年四月号、参照。
(23) この点については、小田実「『平和』と『和平』――状況から1――」『世界』一九七三年二月号、四八頁等参照。
(24)一九七年一〇月一六日、ノールウェーの「ノーベル平和賞委員会」は七三年度の平和賞をキッシンジャーと北ヴェトナム政治局員レ・ドク・トの二人に与えると発表した。一〇月一八日二人の委員が選考結果に抗議して辞任し、レ・ドク・トは受賞を辞退した。高橋溲「平和共存と人間の権利――超大国外交の論理と倫理」『世界』一九七四年一月号、一七四頁参照。
(25) 関寛治は佐藤の受賞報道と米議会におけるラロック海軍少将の証言報道が同時であったことは「日本国民に対して平和原理を再構築する」ことの必要性を意識させるものとしている。関寛治「平和の再構築――ラロック証言と日米安保体制」『世界』一九七四年一二月号、一三五頁。
(26)岡田理「戦車を止めた私は」『世界』一九七三年八月号、二八二頁。

(以上は、石田『日本の政治と言葉 下 「平和」と「国家」』(東京大学出版会 1999.12) の 116〜120ページ)

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