天野正子『「生活者」とはだれか――自律的市民像の系譜』 中公新書 1996年 「第4章 「論」から「運動」の舞台へ」より。同書 P.169〜184  ¥720

 

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  第四章 「論」から「運動」の舞台へ

 

  一、「弱い」個人の強さ――べ平連の実験

 

 繁栄が生んだ鬼っ子

 

 こうした言説としての生活者論との間にはっきりと一線を引いて、日常的な実践として「生活者」への生き方を模索する人びとが登場する。それは、べ平連(ベトナムに平和を! 市民連合)と生活クラブ生協である。

 べ平連は、(1)ベトナムに平和を、(2)ベトナムはベトナム人の手で、(3)日本政府は戦争に協力するなを目標に、一九六五年に発足した運動であり、一九七四年に、ベトナム戦争の終結とともに解散した。その後のさまざまな市民運動の基礎を築いたべ平連は、運動のなかで、自らを「市民」と同時に、「生活者」、「生活人」と呼ぶことが少なくなかった。

 他方、一九六五年に「既成の政党や労働運動にとらわれない、地域に根ざした運動を創りたい」というひとりの青年の願いから東京・世田谷の一隅でスタートした生活クラブ(生協化されるのは一九六八年)は、消費者運動を拒否することからはじめられた生活者運動である。それは、大熊信行の「私たちは消費者であることをやめて生活者になろう」という主張の日常的実践とみることができる。

 因みに「消費者」であることを否定した運動は、生活クラブの他にもある。たとえば「消費者、生産者という古い枠にとらわれないで、生活や社会の在り方まで問う」ことを運動の主題にかかげ、一九七五年にスタートした「大地を守る会」などがあげられる。しかしここでは、運動の影響力やおもしろさで群を抜く、生活クラブをとりあげる。

 べ平連も生活クラブ生協も、一九六〇年代後半に生まれ七〇年代に定着をみた、わが国の「新しい社会運動」(new social movements)の一環として位置している。「新しい社会運動」の登場は、先進産業社会に共通の現象である。それは、六〇年代の学生運動にはじまり、この運動を母体に擡頭してきたマイノリティの公民権運動、フェミニズム運動、エコロジー運動、平和運動など多彩な運動を含んでいる。

 これらの運動は、その対象や目標、達成の手段はさまざまだが、経済成長主義に貫かれた高度産業社会の枠組を批判し、その推進をはかる価値観に対して異議を申し立てる点で共通している。 

 いいかえれば先進産業社会が追い求めてきた「物質的」価値への反省と「脱物質的」価値への転換が、新しい社会運動をみちびく特有の価値観であり、その意味では、「繁栄」のなかから生み出された、しかも「繁栄」との対決をめざす運動といってよいだろう。

 「美しい町/自然、思想の重視、言論の自由、もっと非人間的でない社会、職場・地域社会でもっと多くの発言権、政府に対するもっと多くの発言権」(R・イングルバート『静かなる革命』一九七七、三宅一郎ほか訳、一九七八、四四ページ)。

 

 自明性を疑う

 

 「新しい社会運動」の新しさは、単に運動としての擡頭の時間的な新しさにあるのではない。その新しさは、(1)運動の主体が階級や労働者ではなく、マイノリティや青年、女性など、高度産業社会の周辺部に位置する人びとである、(2)運動の争点が、労働運動に典型的にみられるような生産点の問題ではなく、環境や人権、平和など、生きる上での全体性にかかわる課題におかれており、そこでのキーワードは「アイデンティティ」「自主管理」「自己決定」などである、(3)運動組織の方法が、ひと握りのリーダー層によって統率されるヒエラルキー型組織ではなく、一人ひとりが責任を負えるかぎりで行動する個人間ネットワーク型組織をとる――という三点で、従来型の社会運動との間に明確な一線を引いているところにある。

 先進諸国の「新しい社会運動」に呼応するように、「豊かな社会」になったわが国にも登場してくるこの運動の具体例としては、べ平連、生活グラブ生協のほかに、各種住民運動、反公害・反原発運動、フェミニズム運動などがあげられる。経済の高度成長がつくりだした「豊かな社会」は人びとの関心を私生活に集中させるが、その反面で、人びとを「私」の権利に敏感にさせ、それを侵害しようとする力への抵抗を生み出す。とくにわが国の場合、産業開発の進行がもたらした地域破壊と公害は、地域の生活に根ざした住民運動を内発的にひき起こしていった。「いろんな運動がわんさと出てきた」六〇年代半ばの、この時代の気分を、べ平連の運動参加者である海老坂武はこう回顧している。

 「一つ言えることは、要するにこの腐った社会を変えなきゃいけない、しかも変えてゆけるんだという希望を抱き得た、そういう時代だったような気がします。もちろん人類の歴史のなかで、そういう時代というのは幾つもあって、大体一〇〇に九九はうまくゆかずに流れてしまったんですけれども、少なくともそういうことを見たというか、そういう希望を抱けたというか、後から考えればそれは幻想だったかも知れないのですが、とにかくそういう時代だったことは確かだったという気がします」(「”見えない脱走兵”と新しい市民像」鶴見俊輔ほか編『帰ってきた脱走兵』一九九四、六一ページ)。

 いくつかの例外を除いて、それらの運動の多くがめざしたのは、国家主導の開発や発展への異議申し立てだけではない。

 高度成長や大量消費を支えてきた価値観は、人びとが慣れ親しみ自明視してきた、生活の質を問わず量を誇る都市型のライフスタイルや日常性のなかにしっかり根を張っている。それを根底から問いなおそうとする「新しい社会運動」は、運動参加者一人ひとりに自らのライフスタイルや日常性を問い、変革することを求めた。支配的な文化やそれに即した既存のライフスタイルや日常性への疑問と批判、それに対抗的に提示される「もうひとつの」文化やライフスタイルを対抗文化と呼ぶなら、これら対案提示型の運動は対抗文化運動(オルターナティヴ)であり、運動参加者が、自らを「市民」ないしは「生活者」と呼ぶ点で共通していた。

 

 市民の登場

 

 一九六五年四月二四日、「ベトナムに平和を!」のスローガンのもとに、東京・清水谷公園に約一五〇〇人の人びとが集まった。政党や労働組合に属さない人びと、どこの会にも属さない個人、自らを「市民」と考える人びとである。その日の「呼びかけ」文は、その後のべ平連の運動スタイルを、この時点ですでにはっきり示している。

 「私たちは、ふつうの市民です。ふつうの市民ということは、会社員がいて、小学校の先生がいて、大工さんがいて、おかみさんがいて、新聞記者がいて、花屋さんがいて、小説を書く男がいて、英語を勉強している少年がいて、つまりこのパンフレットを読むあなた自身がいて、その私たちが言いたいことは、ただ一つ、〃ベトナムに平和を!”」(ベトナムに平和を1・市民連合編『資料・「べ平連」運動』上、一九七四、六ぺージ、以後『資料べ平連』と略記)。

 「市民とはだれか」ときかれたら、この運動参加者はどう答えただろうか。おそらく大かたの回答は「自発的に行動を選びとっていく個人」「責任をもって自発的に参加する私」というものだったにちがいない。誰かに言われたからやるのではなく、自分で判断し、自発的に行動を選びとっていく。誰でも入れる開かれた集団をスローガンにかかげるべ平連にとって、市民の定義はそれで十分だった。(1)言い出した人間がする、(2)人のやることに、とやかく文句を言わない(そんな暇があったら自分で何かしろ)、(3)好きなことは何でもやれ――がべ平連運動の三原則であったし、また、べ平連は二人集まればそう名乗ることができたのだから。因みに「べ平連には最後まで会員も会費もなかった」のである(吉川勇一『市民運動の宿題』一九九四、九四ページ)。

 「国民」に対置される「市民」は、もともと欧米社会に起源をもつ言葉の翻訳語である。この場合の「市民」は、個人としての生活を未分化に埋没させる共同体の成員とちがって、共同体との間に一定の距離を維持し、できるかぎり自律的な関係を創出しようとめざす個人をさしている。しかし、現実には、私たちは「市民」である以前に、生まれながらにして「国民」である。人びとの生活は、国家への帰属をしめす「国民」としての生活(納税者や国家の諸政策の受益者として)と同時に「市民」としての生活の両面をもち、分裂をはらんだ両者の関係をつなぎとめる形で営まれる。

 べ平連にとって市民とは、国家や政治権力のありかたへの警戒や批判をふくめて国家との距離をとること、主権が国家ではなく市民としての個人にあることをはっきり表明する人たちであった。その意味で、市民を自称するべ平連の登場は、欧米に起源をもつ「市民」という考え方が、わが国でもようやく芽をふき、根をおろしはじめたことを示すものであった。

 市民という自己定義はまた、運動の主体が「階級」でも労働者や学生でもないことを意味するものとしても使われた。従来型の政治運動のなかでは、「労・学・市民の提携」というスローガンのもとに、「労働者、学生、市民のみなさん」という順序で呼びかけが行われてきた。それは、運動の担い手として期待される順序を示しており、また、労働者でも学生でもない人びとが市民であることを意味していた。すなわちそこでの市民は、労働者や学生の「残余」にすぎない。べ平連はその点でも大きく違っていた。自分の意志で行動するのが市民であることの必要条件なら、まず、市民がある。労働者や学生も市民になることができる。

 このように定義することによって、べ平連は従来型の労働運動や政治的なイデオロギーにたつ運動と一線を画し、それらと断絶することができた。政治的なイデオロギーから自由になったことは、一方では人びとが日常的な生き方と切れないかたちで運動しつづける「持統」を可能にし、他方では参加の意志をもつ個人が責任を負いうる限りで行動する独自な運動スタイルを定着させていく。政党や労組、宗教団体などの既成組織に組み込まれることなく、べ平連運動に参加する無党派市民がこうした市民の定義のもとで登場してくるのである。

 誰にでも開かれていて出入り自由、重視されるのは個人の自発性と創意、だからこそ、個人の責任は重い――市民運動としてのべ平連の原則は、その後の環境や公害、人権問題をめぐる多種多様な「新しい社会運動」に採用されることになる。

 

現場の思想

 

 べ平連は、また、自らを市民と同時に「生活者」とも呼んだ。そこでの生活者は、第一に運動の担い手が職業政治家でも平和運動の専門家でもなく、「この運動でメシを食ってはいない」政治の素人である人びとを意味した。いいかえれば観念やイデオロギーで行動を律していく人ではなく、自らの生活現場をもつ人びとをさした。暮らしをたてるために、行動においては部分参加でも、「志」においては全面的参加でありたいと願う「暮らしのおもり」をつけた人びと――。その点を強調するために、「生活者」という言葉が使われた。ここでの「生活者」は、新居格の市井の人や「あたりまえの人びと」の流れにつながる概念といってよい。

 「(べ平連を)かりに市民運動と名づけるとすれば、その荷ない手は、その市民とは政治を職業としない生活者である。政治参加に全面参加と部分参加があるとすれば、生活者は当然に二四時間活動家でありえない。一週間のうちのあるわずかな時間しかさけない。しかし、もし参加していくときの内的動機の強さ、あるいは古風にいって志というようなものがあるとすれば、市民のなかには全面的志を持とうと努力している人たちがいる」(日高六郎「直接民主主義と六月行動」一九六八、『資料べ平連』上、三七九ページ、傍点天野)

 「市民運動とは(妙な言葉だが)、それこそ日々のたつきのなかで、生活している人間が、そこからなにほどか、みずからをとき放ち、パン屋も狩人も魚屋もサラリーマンも大学教授も、その職業にあることをやめ、一個の「手づくり人」にもどった運動をいうのである。だからこれは人間の空間的集合ではなくて、時間的集合なのである。(中略)日ごろは日常性の泥のなかに首までどっぷりつかっている人間が、そこから身をときはなち、たたかう時間が市民運動である」(小中陽太郎「反戦の理念」一九六八、『資料べ平連』上、四八四ぺージ)

 「日々のたつき」を営む、「暮らしのおもり」のついた生活者の運動は、それのつかない人びとの運動からみれば、スピードがおそく、モタモタしている。後者の方向につきすすむ運動が多いなかで、べ平連は「暮らしのおもり」をつけたまま、日常生活のテンポで思考し、運動をしつづけることの可能性にかけようとした。大学浪人は受験勉強のひまに「浪平連」をつくってデモに参加した。青年は、デートのコーヒー代を節約して、ベトナムヘ送る品々を買うためのカンパをした。サラリーマンは一ヵ月のうち最低一日をベトナムの人びととの連帯のために働いた。べ平連が、集会の名称でもそこでの挨拶でも、パンフレットの呼びかけても、つねに日常の言葉で通そうとしたのは、生活者という自己規定によっている。

 生活現場をもつ人びと、いいかえれば「生活者」を、べ平連は「ふつうの人」「タダの人」という言葉でも表現した。自分の暮らしをたてるために働き、家族を養い、人を愛し、楽しみ……という「ふつうの人」の暮らし。べ平連が「ふつうの人として、ベトナムに平和を!」というとき、そこでのベトナムは抽象的な国家をさしたのではない。自分の暮らしをたてるために働き、家族を養い、人を愛し、楽しみ……という自分と同じ「ふつうの人」が生活している現場を意味した。

 べ平連の「ふつうの人」という言葉は、確実に生活者である運動参加者の想像力に火をつけた。自分と同じ「ふつうの人」の生活を不当に脅かすものがあれば、それに対して、国籍、民族の別をこえた、共通の問題としてむきあっていこう。そこには国籍のちがい、民族のちがいをこえた共通の原理、共通の意識が働いていた。生活現場の「現場」は、つねに動的で、外にむかって開かれている。その視点はさらに国境をこえて彼方から日本人の生活を映し出す。そうした現場をもつ「生活者」は、べ平連の運動を組みたてていくうえで重要なキーワードだったのである。

 

「難死」の視点

 

 第二に、生活者は運動主題に対する市民の「態度」を意味した。べ平連は、その世話人のひとりである小田実の表現をかりれば、参加者の「身銭をきった」運動であったが、「身銭をきる」ことのまえに、なによりもベトナム戦争が他人事ではなく、自分の「身にしみる」問題であるという前提があった(「”身にしみる”ことに、”身銭を切る”こと」一九七〇、『資料べ平連』中、三五六ページ)。「身にしみる」問題である以上、それは、自分で「身銭をきって」むきあわざるをえない主題である。そこでは、運動主題を「身にしみる」ものとして自らの問題にしうるかどうかが生活者の要件であった。再び小田実の表現を借りれば、それは「難死」の視点の共有化といってよいだろう。

 「ベトナムの人びとの死が私の世界につき入れて来たのは、死者と生者の結びつき、いや、からみあいだった。ベトナムの死者の立場に立って世界を眺めようとしたとき、いやおうなしに見えて来たのは、彼らに「難死」をもたらしたあまたの力ある生者たちの姿で、その生者たちのなかには、合衆国の生者たちとともに日本の生者たちも入っていた。つまり、私自身もふくみ込まれていた。

 そして、なにゆえに生者は生者であり得ているのか。それは、言うまでもなく、生きているからだが、人間の生のいとなみはくらしをかたちづくる。すなわち、人間はくらしているから、くらしをたてているから、生者なのである。いや、もうひとつ言っておく必要がある。くらしをたてるためにさまざまなしくみをつくり、そのしくみをつくり出し、動かし、くらしはそこでなりたつ――それゆえに、生者だ。見えて来たことは、そのしくみ自体が死者をつくりだしているということであった。ということはそこにからみついた私たちのくらしそのもまた、死者をつくり出しているということにほかならない」(「ことは始まったばかりだ」『資料べ平連』下、五一八べージ、傍点天野)。

 「難死」の視点に立つとは、特定の人びとがその身に引き受けている受難を、「生者」としての自分のくらしを成り立たせている「しくみ」自体が生み出す自らの責任の問題として、「共感」(「身にしみる」)によってとらえ、その共感を「しくみ」とむきあう「行動」(「身銭をきる」)の契機にしていくことを意味した。

 ここでの「共感」(シンパシー)とは、他者との単なる感情融合にとどまらない、「もうひとりの自分」という相互性や対等性にもとづく感情の働きをさす。花崎皋平は、「疎外された社会的個人のありよう」を自らのおかれた状況とのかかわりでとらえる「やさしさ」の感情を、「共感」と呼ぶ(花崎皋平『生きる場の哲学』一九八一、一二ベージ)。

 参加者のそれぞれが、運動の過程でベトナム人を被害者(受苦者)とすることにより利益を受けている加害者(受益者)の日本人として、自らをみるようになったのである。べ平連運動の核には、ベトナムの人びとを介して、「私とは何者なのか」というアイデンティティヘの問いがあった。「生活者として」と運動参加者がいうとき、そこでの生活者とは、主題に対するこうしたむきあいかたをする人びとの呼称にほかならなかったのである。

 

タダの人の重み

 

 べ平連が「市民」や「生活者」という言葉にこめた意味をたどっていくと、この運動が一貫していかに「弱い個人」を前提とした運動であったかがわかる。たとえばべ平連の定例デモに参加した青年は、こう言っている。

 「そもそも責任者の私が、五分も遅刻して会場に着いたということ自体、その日のデモの秩序のなさを示していた。(中略)一緒にデモする仲間には申しわけないが、私は何回デモに行っても、デモで歩いている間中恥ずかしくて真直ぐ前が見られない。自分の柄でもない正義感の役割り、そんな顔つきをしなければならないからだけれど、この恥ずかしさに耐えてデモらなければ、私の一生がさらに恥ずかしいものになる」(吉崎秀一「一・二非暴力直接行動の報告」一九七〇、『資料べ平連』中、二四一ページ、傍点天野)。

 ここには反戦への明快な意志をもつ「強い個人」、アメリカ政府を支持する日本国家を自分のなかから切り離していく強い個人の姿は、ない。恥ずかしさに耐えて、それでも自分をふるいたたせてデモに参加する弱い個人がいるだけだ。

 べ平連は、運動参加者である「タダの人」「ふつうの人」に、ベトナムという国にすべての思いを入れ込めとはいわなかった。すでにふれたが、「月のうちの一日をベトナムのために!」「デートのコーヒー代を節約してカンパを!」のアピールにみるように、ベトナムヘのささやかな思い入れを重視した。個人の自発性は、はじめは強くても、やがては弱くなり衰えていく。個人の責任感も運動が長引くとともに鈍麻していきやすい。組織らしい組織系統はもちろん、明文化された権利−義務の規定などはいっさいない、唯一、個人参加の自発性を原則とするべ平連にとって、「月のうちの一日」「コーヒー代を節約してのカンパ」に託す人びとの自発性こそが、大きな意味をもっていた。

 小田実によれば、「タダの人」の立場とは、「人間の都合」を、いいかえれば私的な利害を優先する「弱い個人」を意味した。かつて市民社会の人間モデルとして大塚久雄が描いた、日常生活をきりすて現世拒否的な禁欲のうえに自分を律する「強い個人」ではない。一人、孤島のなかで道なき道を切り開いていくロビンソン・クルーゾー的な個人でもない。いかにも頼りなげな相貌をもった「ひとりの大衆」である。「タダの人」「ふつうの人」である生活者が、日常性からいっとき自由になり、家計からささやかなカンパをひねり出し、ベトナムの人びとのための労働奉仕のひとときをもち、反戦の自己確認をする――そこに弱い個人の重みをかけようとした。

 

 未完の課題

 

 弱い個人による運動には、もちろんさまざまな問題があった。たとえば、個人の自発性と責任のみに立脚する運動が、一つの「量」となったとき、必然的に生じる自発性と「管理」=組織化の矛盾をどのように解決していくのか。そうした矛盾から、べ平連が完全に自由であったわけではない。運営上のトラブルは少なくなかった(小田実編『べ平連』一九六九、二四一べージ)。

 その「弱い個人」によるべ平連の運動は、それでも徹夜ティーチイン、『ニューヨーク・タイムズ』への反戦広告、米脱走兵援助、基地内での米兵反戦運動の組織化など多彩でユニークな運動へと発展していった。そのべ平連の運動は、現在という時点からふりかえるとき、どのようにみえるのだろうか。べ平連で米脱走兵援助の活動に参加した海老坂武は、一九九四年、その時の脱走兵の一人が二五年ぶりに日本を再訪したのを機会に開催された集会で、次のように語っている。

 「この二五年の歴史が教えてくれたことの一つは、個人と言ったとき、そこに弱い個人がいるんだということです。国籍によって、年齢によって、性によって、あるいは身体の条件、精神の条件によって、さまざまな「弱い個人」がいるということです。(中略)強い個人になるのが困難だということは、市民意識が失われてゆくということでしょうし、ということは市民運動そのものが退化していくことにつながります。自分自身のことを考えても、昔は『世界』という雑誌を毎号買っていた。最近では一年に一度ぐらいしか買わないですね。だけど『びあ』は毎号買ってるということがあるんです(笑い)。ですからそこから出発して新しい個人の像、市民の像をつくってゆかねばなりません」(『帰ってきた脱走兵』六六〜六七ページ)。

 「弱い個人」を確認するという意味で、興味深い発言である。べ平連の運動は、弱い個人から出発して新しい市民像、新しい生活者像を探ろうとした運動であった(鶴見俊輔「憲法の約束と弱い個人の運動」同右書、一四二ベージ)。そこには、人間のもつ弱さ、あいまいさ、あやうさ、もろさにこだわりつつ、そこから「ひとびと」の思想的な、かつ行動的な可能性をとらえようとした思想の科学研究会の方法論との共通性がみえてくる。

 弱い個人の生活の集まりとして市民社会が構成されているのであるかぎり、その個人の弱さを前提とする、生活者像をさぐっていく方向がなければならない。その生活者像がどのようなものでありうるのかは、今なお、「未完」の課題として、「宿題」として残されている。

 

(天野正子は1938年生まれ。現在、御茶ノ水大学教育学部教授。)

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