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 第181号(2006年9月22日発行)

【連載】
私の垣花(かちぬはな)物語 その(8)

語り 上原成信(関東ブロック)

編集 一坪通信編集部

 『おきなわの声』を発刊

 県人会事務局長時代に、機関紙を発行することを思い立った。七二年の復帰までは新聞に沖縄の記事が載らない日はなかったが、復帰後は、単なる一地方の出来事として、東京のマスコミは沖縄のことを取り上げなくなり、ウチナーンチュとしては知りたい沖縄の情報が入らなくなった。そこで、沖縄の新聞を抜粋して県人会の会員に郷土の情報を提供しようというのである。

 私には新聞作成のノウハウを持っていなかったので、沖縄の新聞の切り貼りにしようかと思っていたが、元新聞記者の城間得栄と山城文盛が参加して、リライトしてくれた。ところが創刊してみたら、誤植のオンパレードで参った。誤植の責任まで分担する気になれなくて、半年程は新聞作りから手を引いた。

新聞名は最初、『東京:沖縄の人』だったが、「の」の字の表記を小さくしたため、「沖縄人」に見えてしまって電車の中では開きにくいという意見が出た。それで公募して『おきなわの声』に換えた。「オキナワジン」というのは沖縄出身者にとって聞きたくない言葉であった。創刊時には三ヶ月でつぶれると馬鹿にされたが、今まで二六年以上も続いており、そのうち私は初めの十二年間かかわった。

 最近の『おきなわの声』の紙面は発刊当初とはだいぶ違ってきた。基地問題など沖縄をめぐる政治社会問題を一面に大きく扱う戦闘的な新聞だったが、いつの間にか御用新聞のようになった感が否めない。特記しておきたいのは九五年に『おきなわの声』の縮刷版をつくったこと。索引づくりがとにかく大変だった。


 『千代田丸』事件との関わり

 沖縄からはちょっと話がそれるが、私の組合活動の一端に触れてみよう。

 五〇年代末に、全電通(全国電気通信労働組合)の通信研究所分会から選出されて、非専従の支部執行委員(本社支部)になり、千代田丸事件を体験した。職場は三鷹で、本社は虎ノ門にあったから、毎週一回の執行委員会には五時ジャストに職場を出て、国鉄・地下鉄を乗り継いで駆けつけていた。

 千代田丸事件というのは、専ら米軍が使っていた韓国と日本をつなぐ海底ケーブルが不通になり、その修理をめぐって経営側と労働組合(本社支部)が対立して、組合幹部が馘首された事件。作家・遠藤周作の兄・遠藤某が公社側の職員局長で組合との交渉に辣腕を振るった。一方、組合の中でも本部を握る民同派と共産党派の闘いはすごいものだった。闘いとはそういうものかと学ぶところが多かった。千代田丸とは長崎を母港とする海底ケーブル施設専用船の名前だ。その頃は韓国の李承晩大統領が日本船舶の立入禁止線(李承晩ライン)を勝手に決め、そこへ入ってきた船に対しては砲撃すると宣言していた。組合側は「労働者は命までは売っていない」と最初は出航を拒否していたが、最終的には危険手当を支給することで妥結した。

 しかし、工事が終わって千代田丸が帰港したあとで、組合との交渉過程で出航が一日遅れたことを捉えて「ストライキを扇動した」と支部三役を解雇してきた。解雇反対闘争は初めのうちは全電通全体で取り組まれたが、本部が解雇撤回でなく再採用で妥結しようとしたことから、本部と支部が対立。結局本部は闘争を放棄し、支部は単独で最高裁まで争い、解雇撤回を勝ち取った。

 この闘争は総評内の民同派幹部のダラ幹ぶりをあぶり出したが、一方の共産党側も六四年の四・一七ストで訳のわからないスト破り指令を出して墓穴を掘り、全電通労組内の基盤を一気に喪失した。折角、最高裁で勝利判決が出て、解雇された幹部二人が復職した(一人の役員は闘争中に自殺)にもかかわらず、組合運動の昂揚には全くつながらなかった。


 『週刊新潮』のデッチ上げ

 六四年の四・一七ストで共産党がスト回避指令を出して、共産党の限界が見えてきたところに、新左翼の連中が新卒のエリートとして職場に入ってきた。いつしか彼らと一緒にやることが多くなってきた。

 全電通労組の主流派(民同)としては、組合内部の過激な連中(反戦青年委員会)をもてあましていた。その対策の一環で内部資料として反戦青年委員会のリストが作られ、その中にどういう風の吹き回しか、五〇歳過ぎた私までが記載されていたらしい。

 七八年三月二六日、開港を四日後に控えて過激派が成田空港の管制室を占拠、無線設備をぶちこわして開港が延期された。その破壊された施設を修理して、五月二〇日に再度の開港式があり、今度は埼玉所沢にある地下ケーブルが切断される妨害があった。ケーブルの全部を切断したのではなく、関連するケーブルだけが選択的に切られていたという。そして中核派が「俺たちがやった」と犯行声明を出した。

 当時多くのマスコミは、通信ケーブルについての内部事情を知ったものの仕業に違いないと書いていた。数日後に、それを新潮社がどういう筋からか情報を手に入れて、「電電公社の中核派はこれだ!」というタイトルで、『週刊新潮』を発売した。そのリスト十八名の中に私の名前も含まれていた。十何万人もいた電電公社職員は読まずにはいられなかったであろう。出版社は大儲けしたに違いない。新潮社が前記の反戦青年委員会リストを入手したということは、後日裁判で明らかになった。


 三年間の新潮裁判と勝利

 こういう事実無根の話で、中核派にされ、ケーブル切断犯人にされては堪らないので、名誉毀損で『週刊新潮』を訴えた。私は当時五二歳。他の人は三〇代、リーダーと思われたかも知れない。問題のリストそのものが事件当時から十年以上も前の六十年代半ばに作られたものらしかったが、そういう古いデータでも一人歩きする週刊誌の世界には、背筋の寒くなる想いがした。

 名前を挙げられた十八人中、裁判をしたのは二人だけ。週刊誌に書き立てられて、その上裁判までとなると、家族との関係までおかしくなるというのが尻込みの理由だった。刑事事件での告訴ではなく名誉毀損の民事裁判ではあったが、争っている内容が内容だったから必死だった。この裁判に負けると中核派ということになり、犯人の一味になってしまう。

 裁判は約三年続き一審、二審とも勝利した。裁判を始めてから、県人会に対して「県人会事務局長が過激派との疑を持たれては、県人会の名誉にかかるから、辞任したい」と申し出た。代わる人がいなかったせいもあるのか、「お前を信頼しているから、引き続きやってくれ」言われて、「それじゃやるか」ということになった。       
 (次号につづく)