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沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック
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 第144号(2003年3月28日発行)

関東ブロック総会 記念講演
イラクの民衆は今?
行ってきました!
報告します!

沖縄・平和市民連絡会 イラク派遣団団長・島田正博 
 

 雨の中、大変ご苦労様です。沖縄の平和市民連絡会を代表して、(……すみません、ちょっと外から帰ってきたばかりで、凍えていまして……)、直接沖縄からイラクに行って、イラクの民衆と具体的な連帯行動が出来ないだろうかということを考えました。去年の十月、十月七日に私たちはアフガニスタン攻撃一周年という行動を展開しました。その時、焦点としては今度はイラクだということでありましたので、その爆撃をされる側の国に行って、その戦争を何とか止めることは出来ないだろうかと、そこの民衆と直接連帯することは出来ないだろうかと、討論しました。その過程でいろいろな意見が出まして、戦争を止めるのであるならば、アメリカに行くべきではないのか、爆撃をしようとしているのはアメリカなのだから、イラクに行かずにアメリカに行って、直接アメリカの軍事行動を止めるべきではないのかと、そういう意見が出されたり、あるいは、人間の盾になる気はあるのか、自分たちは爆撃の前に帰ってこようという計画で、本当にイラクの民衆と連帯することは出来るのか、という意見もありましたし、いずれにしてもこの行動は沖縄でもっとやるべきであって、わざわざイラクに行く必要はないのではないかという意見もありました。いっぱい議論を行いました。さらに、具体的にイラクに行く方法はいったいあるのかということも問われました。

 実際に私たちはイラクに行く手だてを持っていませんでした。どうしたらイラクに行く道筋がつかめるのかいうことで、東京に「イラクの子供達と仲良くする会」というのがどうもあるらしいので、そこに直接出かけて行って、イラクへ行ける段取りがとれるのかどうかを、とりあえずやってみようということで交渉を行いました。しかし、私たちの要望を素直に受け取ってくれるとは思っていませんでした。そもそも、今まで何の交流もない団体でしたから。その過程で、私たちの思いは良く伝わっていないなと思いながらも、とりあえず行けるということになりましたので、私たちもその準備に入りました。

 準備に入っていくと、一月の一三日から二一日の日程が良いのではないかという調整が付きまして、ばたばたとビザ申請などをやっていくのですが、ちょうど査察団の報告が一月の二七日というふうにいわれてまして、年末にかけてアメリカとイギリスがいつバクダットを攻撃しても、いつイラク全土に戦争を仕掛けても不思議ではないという状況がずっと迫ってくるんです。で、私たちはカンパを呼びかけまして、……後ろの方に資料をおいてありますけれど……、私たちはなぜイラクに行くのかという話をまとめました。そして、実際にどこそこに行こうという準備にかかりますと、日本国内では、イラクに入るのは危険であるという以外にはほとんど真の情報というのは流されていないのではないか思ったわけです。イラクに行こうという計画はあちこちで持ち上がったようですが、ほとんどが家族などの反対によって、本人の意志とは関係なく家族の反対によって、イラク派遣団というのはいっぱいつぶれていることをその段階で知らされたわけです。そのような状況で、あなた方も計画の直前になって家族や周囲の反対で行けなくなると(先方に)大変な迷惑がかかるので、そのようなことがないようにしてほしいということで、いかなる事があっても行くという確約書、契約書というものを作りました。いかなる事があってもイラクに行くぞという確認をするという意味で、約束を書かされるわけです。そのあと今度は、平和市民連絡会の代表としていくわけですが、何かあった場合に、その責任は個人で持つ、平和市民連絡会にはあらゆる損害賠償の請求はやってはいけないという誓約書も一通書かされます。要するに、この行動は、いかなる災難にあった場合でも自分の責任において処理をする、ということを約束させられました。

 そして、いよいよ出発をしようとしたら、イラクの衛生状態は悪い、ペストやコレラがはやっているとか、天然痘がどうのこうのとか、町をどぶネズミが走っているとか、衛生設備も大変悪いし医療事情も良くないというイラク旅行事情なるものが飛んできまして、米軍も天然痘の予防注射を使っているというし、我々も使った方が良いのか、けがをして破傷風にかかってこれで終わりというのも何だなと考えたのですが、最終的には、イラクの民衆は、そういう社会環境、医療環境の中で生きている。その民衆と直接手を結ぼうという我々がその生活環境をいやだ、彼らの危険な状態をさしおいて我々だけ防御をして連帯をしようと運動はあるのか、ということを考えまして、天然痘に罹るのなら罹っても良いのではないかと、それも運命としてあきらめようということで、予防接種をいっさいしないで入っていこうということで行きました。しかし、実際には、聞いていたよりもイラクそのものは遙かに清潔な国で、そういった心配は全然なかったんですが、行く前の情報では、イラクという国は経済制裁のために社会状況・衛生状態も悪いし、治安も非常に悪くなっている、何があっても不思議ではないということでした。私たちもそういう覚悟をしていったんです。

 また、イラク側は外国人にエイズ検査をきちんとやるということも言われたんですね。入国審査の時にエイズ検査があるぞと。何回も注射針を使われる可能性があるということで、自分たちの注射器を準備しろと言われました。そこで、医者に行って人数分の注射器をもらって、持って行きました。入国審査の時に(エイズ検査が)あるかなと思ったんですが、ありませんでした。素通りが出来まして、今でもずっとそういうふうになっていると思いますが、イラク内におけるエイズチェックというものは、日本で検査を受けていてもイラクはイラクの検査があるんだと言われたんですが、現実的にはそれはなくて無事通過していけたんです。

 そういう状況で、周囲の不安と自身の不安、そういうものが入国審査の時にほとんど吹っ飛んでしまいました。街にはいると、割ときれいな街です。高層ビルはほとんどないんですけど、きれいに整備されていて、インフラ部分というのですか、非常にきれいな道が続いています。私たちは、隣国のヨルダンのアンマンというところからバスでバクダットに入りました。約千キロの道のりだと言われたんですが、実際に何キロあるのかと聞いたのですが、イラクの人たちはその日によって答えが違っていて、八百キロと言うときもあれば九百キロと言うときも、千キロという日もあります。「こだわっているような問題じゃないだろう、だいたいそのくらいだ」と言われてしまうのです。「そんなに細かいことが必要なのか、だいたいで良いんじゃないの」という受け答えをされてしまうんです。高速をずっと走っていくんですけれども、入国審査にヨルダン側を出るときはそんなにかからないですが、バクダットにはいるときは結構時間がかかりまして、そこで結構審査の時間があるのです。私たちはカメラとビデオを持っていましたので、その個数だけ帰るときにチェックを受けます。入るときに持ってきたカメラとビデオを帰るときに同じ数を持って出なければいけない、というんですね。そういうチェックを受けないといけない。何故そういうチェックを受けるのかと聞いたら、そういう通信機器やカメラ・テープレコーダの類が反体制派に回っていくのをここで止めるためだという答えが返ってきたんですが、正確な意味づけは返ってきませんでした。一番いやがっていたのは、モバイルですね。携帯電話を持っているかどうかをしつこく聞くんですね。それは、ヨルダンを出るときに置いてきていましたので、いっさいそういうものはないと、カメラとビデオだけ持っていると。あと、ドルをいくら持っているかというチェックはありました。小さいドルのチェックはしませんが、百ドル以上の紙幣は何枚持っているのかと、聞かれました。日本円も聞かれました。日本円のチェックはしません。帰るときには、イラク内でどれだけ使ったのかと聞かれる。その場合、イラクの金の持ち出しは出来ませんよと言うのですが、もちろんポケットにつっこんでいる金を検査するわけではありませんので、イラクを出るときに、イラクの金を持って帰ってくるんですが、本来はこれはもって帰ってはいかんと言われているんですが、そうきつい規制があるわけではない。

 ヨルダンから入っていくときに、高速をずっと行くんですが、ヨルダン側の道とイラクの道では数段の違いがあるんですね。イランでは、きちんとした四車線の高速道路がまっすぐ延びています。街灯もついていて非常に整備もされている。先ほども言ったのですが、インフラは非常に整備をされている。私たちは、いわゆる飛行禁止区域のすれすれのところを通っていくんですが、ここも爆撃をされて、みな穴が開いているのかな、と思っていたんですが、そんなことはなくて、道がずっと通っています。途中からは六車線になって、バクダットまでずっと通っていて、夜は街灯がつきます。私たちが行った日は雨の日だったんですが、朝の六時半にアンマンを出まして、食事を途中で取ったり、入国審査等々を受けながら、バクダットに着いたのは夜の九時頃だったと思います。雨の中だったので減速してゆっくり付いていったんです。

 ちょうど私たちが着いたときに、イラクでは滅多に降らない雨が降っていました。しかも大雨でした。で、雷がどんどん鳴っていまして、この雷をイラクの人たちは米軍の爆撃音というふうに考えると言うんですね。湾岸戦争以来、十二年間、飛行禁止区域をもうけられて、私たちが着いた日にも、バスラ、……南の方ですね……、で米軍による爆撃がありました。私たちが帰る日にも、米軍による爆撃がありました。ですから、湾岸戦争が終わって十二年間、毎日のように米軍による爆撃が行われているんですね。湾岸戦争以来、九五年の爆撃であるとか、九八年の爆撃であるとか(いうニュースが)、飛び込んでくるんですが、実は毎日のように爆撃が行われていて、民間人が何人死んだという報道がなされます。米軍は軍事目標、たとえば、妙なトラックが動いたんでそれに向かって警告を発したら、下から対空砲火が来た、だから爆撃をしたんだというようなことを米軍発表として行うんですが、現実には民間施設が破壊されている。やはり民間人が死んでいる。小さな子が死んだりしているという報道がなされている。現実的にそこに行っている、……私たちはそこには行けなかったんですが……、日本のジャーナリストが、入っていって写真を撮ったりして、このことはかなり確実な精度を持って実際に起こっている事態だろうと私たちにも容易に理解できる話であります。その雷の音さえ米軍の爆撃の音として感じているイラクの人たち。

 私たちは、もっと街はぴりぴりしていると思っていました。テレビを見ていると、市民はマイクを向けると、「アメリカが来たら徹底して戦うぞ」、「フセインのために戦うぞ」、と言うけれども、本当に街中で会った人たちは、ほとんどそんなことは言いません。私たちは、もっと管理下におかれた、統制下におかれた市民達がそこにいて、ぴりぴりとした雰囲気かなと、思っていましたが。

 私たちの車には、向こうの、イラクの案内人が一人乗ります。政府の役人が乗ります。だから、どこにでも自由に行けるという状態ではないんですが、その日のうちに、どこどこに行きたいという日程を決めます。行く前に、だいたいの総日程を決めていくんですが、現実的には向こうに行ってからしか決まらない。その日にならないとわからない日程というのがいっぱいありまして、私たちはどこへ行きたいんだと言うと、その役人がどこかに行って、相談をするのでしょうか、検討してくるのでしょうか、翌日、返事を持ってきて、オーケーが出たり、あるいは、そこはだめだと言ってきたりします。街中の写真はどうかと聞くと、「軍事施設、政府の関係機関、……いわゆる政府の建物…、にはカメラを向けないでほしい。街中は自由に撮って良い」ということで、私はずっとビデオを回し続けました。政府の建物はどういうふうにしてわかるのかというと、ほとんど見た目にはわかりません。軍事関係の施設だとだいたい門に軍隊が立っています。これはだいたい撮ってはいかんところだなと、カメラを下に向けていくんですが、それ以外の街中は、市民生活を撮るのは何の規則もなくて、自由に撮って良いということでした。

 私たちが一番知りたかったのは、市民生活はいったいどうなっているんだろうか、ということだったんで、市民のお家へ行って、実際に尋ねてみようかということだったんです。一人だけそれが出来るところまでいったんですが、その直前に中止になってしまいました。どういう理由で中止になったかと言いますと、イラクの中でも貧しい地域があるそうです。そこへ行ってその家を尋ねようと、全部計画が整っていたんですが、直前になって中止になって、何で中止になるのかと聞いたら、そこの街が見せ物になってしまって、そこの人たちが耐えられなくなっていると言われまして、とりわけその家の子供が、……十六歳くらいになっていて……、精神的に参ってきていると、だから見てほしくない、もう会いたくないんだ、と言われて、断念をしました。こういった感じで、基本的には個人の家の訪問はだめだというふうに言われました。その理由も、反体制活動家との交流があったらだめだというわけです。

 街中全体を見ると、人間がどこでもあふれています。二千万人しか全部でいないんですが、爆撃を受けているバスラの方から難民化した人たちがバクダットに集まってきている。あるいは北部の方でも、クルド人の支援ということで爆撃が行われていますから、そこからも難民化した人たちがバクダットに流れてきている。夜でも、子供達が、いわゆるストリートチルドレンになって、遅くまでいます。小さい子供達が飴を売ったり、あるいはお菓子をねだったり、お金をねだったりします。二五〇ディナールという貨幣をあげるんですが、一ドルが二千ディナールなんでわずかな金です。その金でいったいどういう生活をしているのか私たちにはわからなくて、小さい子供達が何でこんな遅くまでいるんだと聞いたら、「お父さんは兵隊にとられている」と言うんです。イラクでは、兵隊に行くと月給は出ないそうです。イスラムの世界ですから、ほとんど女の人が働いている姿は見ません。女性は私たちのホテルに何人かフロント係でいるくらい。保育園の保母さんはみな女の人でした。小学校でも、学校の先生は結構女の人だったんですが、それ以外で、商店街に行っても、女の人が働いている姿はほとんど見ませんでした。しかし、客として女の人は結構いて、黒い服をずっと頭からかぶっていたり、大学に行くと結構近代的な服装に替わっています。黒いのをかぶった人はいないんですが。

 イラクの街自体は、いわゆる戦闘でぴりぴりしているという雰囲気ではないんですね。しかも、そこに統制下におかれた軍国的な民衆がいるわけでも何でもなかった。それで私たちが行くと、横断幕を抱えて突然、民衆連帯というんでビラをまき始めるわけですから、そこにみんな集まってきて、何だ何だと集まってきて、私たちの趣旨をよくわかったと言って、そこで踊ったりするんです。私たちはギターを持って行ってましたんで、ギターをかき鳴らしながら、いわゆる沖縄のカチャーシーという踊りを突然踊ってしまうんです。そうすると、向こうの人たちもそれに合わせて、踊ってしまう。そこに、ライフルを持った軍人なんかもおもしろがって入ってくるんです。あるいは交通警官などもですね、自分たちの管轄ではないと言って、自分たちも楽しいと言って、職務を忘れてみんな遊んでしまうんですね。そういうことが街中でずっと何回も展開されたんです。私たちの行動、パフォーマンスがいったいどういうふうに受け入れられるのか、あるいはやったとたんに秘密警察がやってきて、拘留されるんではないのかというようなことを考えて行ったんですが、全くそういうことはなくて、しかも、軍国青年だとか軍国少年だとかもいなくて、本当に生活に苦しんでいる人たちがいるだけなんですね。

 普通には石油がいっぱい出る国ですから、……サウジアラビアに次いで埋蔵量第二位という国……、ですから、ヨルダンに毎日毎日タンクローリーが行くんです。ヨルダンとイラクの間でいっぱいタンクローリーに会うんですね。あと、干し草を積んだトラックがヨルダンに向かってどんどん行くんです。たぶん羊のえさだと思うんですが、いっぱいイラクから持っていくんですね。イラクに何が行っているのかというと、コンテナを積んだトラックが行くんでその中身はわからないんですけど、イラクに向かって中古の自動車がいっぱい入ってきます。これが実は物々交換になっているという話を聞いたんですが、イラクから援助という名目で石油を運び込んでいる。その代わりに物資が援助という名目でイラクに運ばれて来るという説明を向こうで受けました。経済制裁のおかげで石油も売れないし、イラクの油田を燃やしているのに会うんですね。これは、吹き出してきて処理が出来ないので燃やさないといけないのだということでした。もうもうと黒煙をはやしているんです。

 本当は底力のある豊かな国なんだというのが、向こうに行ったときの実感でした。湾岸戦争のあとの経済制裁によって、ストリートチルドレンが増えてきた。しかし、経済制裁が人道援助の名目でゆるんできたために、結構物が入ってきています。ただし、この物を誰が買えるのか、というのが問題なんですね。経済制裁のおかげで、中間層がだんだんと力を失ってきているということです。闇物資などで、儲かっている人は儲かっていくんだそうです。平均的な庶民が購買力を失ってきている。だから物はあふれているんです。私たちが行くと、たいていの物は買えてしまうんですけど、イラクの人たちは全体的に生活力が落ちてきたんで、物はあるが買えないといいます。街に人はいっぱい出ているんですけど、実際に買い物をしている人はほとんどいません。

 市場とかの庶民の街とこぎれいな街があります。私たちはその両方で街頭行動を展開するんですが、庶民の街は、まさに子供達から大人まで含めて、わーとも盛り上がちゃうんですが、こぎれいな街に行くと、ワンクッションはおくけれども、政治的なスローガンはうまいんですね。私たちが歌を歌っているうちに、向こうの方はブッシュ批判のシュプレヒコールを繰り返してくるんです。普通の街は私たちの呼びかけに答えて対応してくるんですね。一緒になって盛り上がっちゃうですが。この街に行くと、私たちを先取りしたかたちで、私たちを引きずり込んでいくんです。そういう感じの街がバクダットの中にあって、結構階層分化しているのかなという感じを受けました。もちろん四日間くらいで全部わかるわけはありません。ただ私たちが行った感じとしては、本当にその国で戦争をしようという雰囲気の人はいないということが実感です。軍国青年や軍国少年はまず見られない。日本のテレビに映るあの勇ましい発言をする人たちには会えませんでした。街中どこにいるのかと歩いていったのですが、会えませんでした。

 私たちに対して向こうの人たちは、日本人かと聞いてくる人は一人もいません。みんな、「コリアン?」「コリアン?」と聞くんですね。おまえ達韓国人かということです。何で韓国人に見られるのかと思っていたら、結局、日本の企業がいなくなったせいで、韓国の方が行っているのではないかと思いました。どこに行っても「コリアン?」「コリアン?」と聞くんですね。

 一七日は湾岸戦争の爆撃が始まった日という事で、抗議行動が午前二時からあるというので、その集会に私たちは参加しました。参加した日に、私たちが沖縄から来ているということで国営テレビが、オキナワ・ジャパンという紹介をして、テレビで流されました。翌日は金曜日でイスラムの安息日。新聞も仕事も休みでどうにもならんかったんですが、土曜日に各紙面に載っかりまして、オキナワからやって来たという記事が載りまして、そうすると街を歩いているときに、オキナワとか日本人という声がするんです。そういうかたちで声がかかってきて、非常に人なつこいですね。とにかくビデオを持っていると、自分を撮ってくれとビデオの前に立ちふさがって来るという状態でした。大人も子供もそうなんですが、自分たちを撮ってくれと、みんなカメラの前とかビデオの前によって来て、自分を撮ってくれと言うのですね。これは、逆に言えばカメラそのものがほとんど見あたらない社会における光景かなと、感じたのですけど。

 彼らは、湾岸戦争からもう一二年経って、毎日今か今かというふうに不安の中に暮らしている、その不安の中に暮らしている人たちが、もう来るなら早く来てくれと、言うんですよね。いずれ来るのなら早いほうが良い。一二年間、今か今かと不安の中に暮らしているのはもう耐えられない。だから来るなら早く来い、という感じなんですね。大学に行ってやはりパフォーマンスをやるんですが、学生達と討論したときに、誰も戦争を怖いとか何とかとは思っていないと、戦闘に行こうとも思っていない、考えてもいないと言います。戦争とは、アメリカがやってきて空から爆弾を落とすだけなんだと。このはるか上から爆弾を落としてくる飛行機に対して、私たちに何が出来るのよ、どうしろというのか、というのですね。要するに、自分たちは戦闘に行く気なぞまるでないんです。勝手に戦争がやってくるんだよ。勝手にやってくる戦争に対してどうせいというのかと、彼らは言ってくるわけです。まさにそれは、「インシャーラ」の世界なんです。まさに神のみぞ知るの世界なんです。自分たちでどうにかなるという問題ではないのです。神のみぞ知るなんです。「インシャーラ」なんだと彼らは言ってくるんですね。

 という状況の中で、彼らが今やっていることは何かと言いますと。イラクは寒いんです。私たちも革ジャンを着て行って、やはり寒いなと思いました。今、ドラム缶が無茶苦茶人気だそうです。普通は砂漠だから水をためるんだろうと思うのですが、水はためません。石油をためるんだそうです。石油をためて戦闘に備える。戦争はまず精油所と油田を攻撃する。だから、たちまちこれが無くなるんで、その前に石油をためるんだと、ドラム缶が非常に人気だそうです。でも人気であるが故にそのドラム缶の値段がどんどんつり上がってきて、庶民の手には入らないと言っています。爆撃された場合に、ストーブの燃料として石油が必要なんだと、そうでなければ凍えてしまうと、だけどそのドラム缶が買えないんですよと、言ってくるんですね。これも経済制裁の影響を受けているんですね。一番は、日常の食料品が買えない問題だと思います。物はあるのに、買える力のある人はどんどん減っている。

 そして、もっとひどいのは病院です。小児病院。赤新月社という日本の赤十字に当たるところの総裁に偶然に会う機会があったので、是非病院を訪問させてほしいと行くんですが、小児病院ですから子供達がいっぱいいる。小児がんと白血病、出産の時に障害を持って生まれてくる子供がいっぱい増えていると言うんですね。湾岸戦争以来、南のバスラの方で、非常に増えているんだと、言っているんですが、国連はまだ劣化ウラン弾との因果関係はわからないと言っているんです。確かにわからないかもしれませんが、現実的に増えてきていると言っているのだから調べればいいのです。簡単な話なんです。因果関係を調べたら良いんです。コソボの紛争でそういうことが指摘されても、やはり国連は調べようとしないんですが、劣化ウラン弾の被害と思われる子供達への影響というものは、母親の体内に残って、それが出生してくる子供に影響を与えているということが、明らかではないけれども増えているという事実があるということについては、何とかしなければならないのに何もされない。そこの医者は化学治療が必要で、そういう治療薬があれば、延命できる子がいるんだと言うんですが、延命できる治療薬がないために、次々に入院はしてくるんだが、治療方法がないために、死んでいくんだと言うんですね。次から次へと死んでいくんだと。結局、一番必要な薬が化学兵器に利用されかねないということで、入れてくれないんです。経済制裁の対象になっていて、子供達の治療薬が入ってこない。だから治療薬がありさえすれば治療できる子が前にいるのに、もっと延命することが出来る子供達がいるのに、それが出来ないのが残念ですと、病院の医者は言うんですね。

 確かに保育器に入っている子供達とか、確か八百グラムの子がいるとか、いろいろな子供がいます。お母さん達も一緒の病室に寝泊まりしているんですよね。お母さん達に了解をもらいながら、ビデオを写しているんですが、何棟目かの病室に行ったときにですね、親がだめだって言うのです。子供を写してほしくないと。それで私たちはシャッターを切らずにそのまま出てくるんですが、病院の医者があとの説明で言うには、マスコミとかいろんな人が海外からこの病院を見に来ている。みんな写真を撮ったり話を聞いたりして、そうかといって納得して帰っていきます。しかし、納得して帰った人たちが、そのあと薬を持ってきたか、薬を送ってきたか、そういうことはなかった。だからもう良いというふうにいっている。

 フセインがどういう人間かと、……私もあいつがあまり良い奴ではないなと思います……、でもイラクの民衆を解放するということをブッシュが言える立場にないことははっきりしているわけです。そして、フセインを放逐するために、あのイラクの街に爆弾を落とす権利は誰にもないと、私は思っています。国連の場でも、安保理で査察継続の延長というふうになっていますけれども、ただこれも、危ない線にいつ戻っていくかわからない。おそらく、出来ることは、私たち民衆の運動、これがこの事態を打開する唯一の力になるのではないかと。そのことによって、国連安保理における反対をしている国々が別の方法を見つけていく事になるのではないのかと。国連の場での解決に期待をしたり下駄を預けてしたりしては、おそらくこの事態を止めることは出来ないのではないか。民衆の運動をもっと広げて、イラクの国に、バスラにもバクダットにも私たちと同じ人間が、住んでいる、生活しているんだという実感を持つが重要だ。

 私たちも行くまではいかなる国かわからなかったんですが、やはり、行って一番良かったのは、私たち自身がこのイラク攻撃をなんとしても止めねばならないという確信が持てたということです。そのことは、わかってはいるんだけれども、行ってみるまでわからなかった、ほんとの実感としてはわからなかった。ここはテロ国家でもないし、私たちと同じように、この経済制裁の中でも私たちよりも非常に快活に明るい、貧しいけれども盗人もしない、人殺しをして何とか残ろう魂胆を見せない、そのような人たちが実はいたというのが私たちの実感です。

 イラクのいろんなところに行きましたけれども、ヨーロッパの方がなんか怖い、後ろから何か来んかという薄気味悪さがあるんですが、イラクの方は全然そんな薄気味悪さが無いんですよね。実際、人混みをかき分けて歩いていくんですから、はじめは何かされるんではないかという不安があったんですけれども、慣れてくると、昔の懐かしさに戻ってきたという感じがあるんです。ぶつかっても、眼付けたという奴もおらんし、みんなニコニコニコニコとしているんですよ。そういう人たちの世界でした。女の人たちは、やはりほとんど私たちと話をしてくれません。私たちも話をしませんでした。実は、戒律があるんだということだったんで。ただ、大学に行くと女子大生がどんどん話しかけてきます。食堂に入ったら女子大生が座っていて、写真撮ってくれとか、女性から話しかけられるとは思わなかったなといっているうちに、「テレビで見たよ」、「日本に行きたいと思っている」というような話しかけをしてくる。新聞やテレビに出たあとは、今まで以上にニコニコして私たちに話しかけてくるんですよね。

 イラクの地図を買おうとして本屋街を歩いていたんですが、そこの書店の主がやってきて、おまえ知っているぞ、って言うから、どこで知ったんですかって聞くと、テレビで見た、おまえ良い物をあげると言うんですね。もらったら、フセインのバッチだった(笑い)。ありがたくもらいましたが。そんな感じで、彼も国家の回し者という感じではないんですよね。ずーと街を歩いていて、悲惨な状態にある病院、保育園に行って、保育園に行くと私たちを歓迎するために子供達が左手を挙げて歌を歌っているんですね。フセインを讃える歌だって言われました。さすがにそこはビデオを回すのをためらってしまって、ビデオを撮ってないんですが、終わったあとは自分たちの歌を歌うって言うんですね。今度は非常に明るい歌を歌うんです。今度は一人一人ビデオに顔を収めてきました。保育園の中庭で交流会をやってきたんですけれど、非常に快活な子供達がいるんですね。やはり軍国少年・少女はこの歌の時だけだったんですが、それ以後はニコニコしていました。

 私たちは、医薬品をいかに持っていくかということで、いろいろな薬を集めました。あとヨルダンで買ったビスケット。ヨルダンにはパレスチナ人居住区というのがあるんですね。どうせ買うんだったらパレスチナの人から買おうじゃないかと、パレスチナ人の居住区に行ってビスケットを買いました。卸屋さんだったんですが、私たちの要求するだけのビスケットが無くて、半分くらいしかおいてないんですね。私たちはそんなにいっぱい買うつもりはないんですけど、私たちの金の半分くらいしか在庫がない。それを棚ごと買い込んでいったんです。あと水をヨルダンから持っていきました。イラクの水は飲めないっていうんで、家庭の水道にも大腸菌がごろごろしているというんで、持っていったんです。街の食堂で飯を食うんですけど、イラクの人たちはポットでついだ水をどんどん飲んでいるんです。私たちもはじめはそれを飲んでいたんですが、やはりちょっとにおいが付いている水なんですね。商品になっているミネラルウオーターも売っているんです。それを買って飲みながらやっていくという状態だったんです。

 もちろんアルコールは禁止です。行く前にアラブの世界に入ったらアルコールは一切禁止だとみんなで約束をして行ったんですが、一人だけ明け方に毎日起きるんだという奴がいるんですね。誰とは言いませんけれども。毎晩アルコールを飲んでいるのに、アルコール抜きで寝ているんで朝起きるんだと、明け方に目が覚めるから飲ませろという奴がおったんですが、何を考えているんだと。もっと昼間汗をかいたらぐっすり眠れるから、運動が足りないんだと言ったら、それ以後何も言わなかったんですが。それは我が団としても立派なものでして、あとは誰もアルコールがほしいという人はいないんですね。なかなかたいしたものだと思っていたんですが、飲まない国に行くと飲まないんですね。イラクの人たちは飲んで良いよと言うんですよ。飲みたければ飲んで良いと。その言い方の中に、飲んだらおまえ達の評価が落ちるぞ、と言わんばかりに、言外に臭わせているような感じがするもんですから、私たちも飲まんと言っているんだから飲むわけにはいかんだろうと。さいごの日はですね、アルコール販売店に連れて行ってくれて、イラクの酒だ、買っていけと、酒を買わすんです。私たちはリックに入りきれないほど買ってきたんですけれども、買ったは買ったで良いんですが、ホテルに入ろうとするときに、没収されると言うんですよね。人に酒を売っておいて、没収されるとはどういう意味だと、しょうがないから隠してですね、ホテルに入っていったんですが。アルコールを禁止しているのにアルコール販売店があるのはどうしてだと聞くと、原則的には禁止だが飲んでいる人もいるようです。ただ人前で飲むと人格が落ちると言うんでですね、人前では飲まない。おおっぴらにアルコール専門店が何軒も何件も並んでいる。だから酒そのものは売っているんです。買ってきて匂いをかいだら薬草酒のような物ですね。ウイキョウの匂いがするんです。アルコール度数は四七度という強い酒だったんですが。

 まあこんな事をやりながら、イラクの民衆の生活を見てきました。サダムタワーというところにも登って、バクダット市内の全景が見える高いタワーで、そこに昇って飯を食ったんですけれども、一時間で一周回ってくれるという回転展望台なんですが、座っていれば一周が見えるから座っていなさいと言うんですが、いっこうに動いている気配がないんですね。何で動かないんだと聞いたら、実は今日は停まっているんだと言うんです。相当いい加減な対応をする連中だなと思ったんですが。そういうところはもちろんカメラ持ち込み禁止、しかし上から全部見えます。サダム・フセインの住んでいる宮殿もみんな見えますし、そういう情報を取ろうとすればいくらでもとれる状態にある。向こうで拘束をされるとか、何かの規制を受けるという雰囲気は全然無くて、私たちが怪しげな行動をしないように案内をしていた政府の役人が最終的には私たちを突然いろんな保育園や幼稚園に連れて行ったりする。大学に連れて行くのも彼なんですが、突然「行こう」と言って連れて行くんですね。「大丈夫か、許可取ってないぞ」と言うんですが、「いや俺がいるから大丈夫だ」とすたすたと中に入って交渉してしまう。大学と交渉したり幼稚園と交渉したり、いろんなことをやりながら、みんな私たちの行動がオーケーになっていくんですよね。観光省の役人が、外国人の観光団が来るとみんなそういうふうに一人ずつ付いてチェックをするんだと、言われていたんですが、最終的にはどうも私たちをうまく使って、宣伝的に使える連中として使ったのかなという疑念がないわけではないんです。はじめは規制をやっていた人がですね、私たちの行動パターンを何日か見るうちに、方針転換をして、どこにでも行かしてしまうんですよね。私たちとしても行けることはうれしいのでどんどん行ったんですが、あとになって帰ってくるとですね、向こうの方が一枚上手で、私たちをうまく使ったのかなと、いう感じがしたんですが。

 私たちは沖縄独自の団で行こうと決めました。全国に呼びかけて、あるいは世界に呼びかけて、みんなで行けば良いんじゃないかという意見もありましたけれども、とりあえず私たちは、沖縄戦をくぐってきた人間であるという一点、沖縄が爆撃を身をもって体験してきた国であるというのが一つにありました。もう一つは、それ以後沖縄は攻撃する側にずっとたった国なんだと。これは私たちが望んだわけではないんですが、湾岸戦争、アフガン戦争、ベトナムから朝鮮戦争、みんな沖縄から出撃をしているわけですね。幾人も民衆を殺してきた側に私たちはずっとたってきた。反戦運動をやっているけれども、その戦争を止めることが出来なかったのも事実でないかということがありました。だから沖縄の責任として、その沖縄で考えていることをきちっと向こう側に伝えようと、私たちは米軍の手先でも何でもないんだと、私たちは反対なんだということを私たち自身の声で伝えようということで、この団は沖縄独自の団で行くということを決めていきました。そのことは正解だったと思っています。ただ戦争が収まっていない以上、もう解散はしていますけれども、運動としてまだ責任は残っている。あらゆるところに行って、見てきたイランの現状を伝えたい。私たちはこれ以後も、何回でもイラクに行こうと言っています。戦争が始まる前にやっぱりイラクに行こうじゃないかと相談しています。その中から本当に沖縄で、沖縄の思いを世界に訴える反戦運動、平和の闘いが出来るんじゃないだろうかと思っています。

 戦後、ポストフセインに日本型占領政策を取り入れようという計画をアメリカは言っています。日本型の占領政策というのは沖縄が典型的だろうと思います。その中で何が行われたのかといえば、政治体制、経済体制は制度として作っていくが、生身の米兵達によって沖縄の住民の人権と生命は虫けらのごとく殺されていったわけです。そのようなことを五七年後のイラクにまた同じようなことをやって良いのかと、そんなことをさせて良いのかと。アメリカの占領政策の実態は私たちが一番知っている。このことを今イラクに行って伝えようと考えています。だから沖縄から行くんだということです。日本政府が、復興計画を特別措置法を作ってもやろうと言ってますけれど、たぶん日本人の中には、イラクはアフガンのように、あるいは北朝鮮のように貧しい国なんじゃないのかと、日本からの開発援助の金などをいっぱいもらって、このイラクに経済援助の金を落とせば、イラクの復興ははやいんじゃないかと、だから復興支援の法律は、攻撃は反対でも特措法を作っていっぱい援助すれば良いんじゃないかと考える良心的な人がいるかもしれません。しかし、はっきり言ってそれは間違いです。今、復興計画を作ることは、アメリカに攻撃をやって良いというシグナルでしかないということを考えておくべきだと思います。もう一つ、イラクはさっき言いましたように、とっても豊かな国です。日本より遙かに豊かな資源を持っている国です。あの石油をアメリカが勝手に支配しようとはせずに、国連が、この石油の権利はイラク国民の権利だ、自由に使って良いんだという取り決めさえすれば、そしてそこに西洋の技術、世界の技術が入っていって支援をすれば、あの国はたちまち私たちの予想を遙かに超える、日本を遙かに超える豊かな国になるはずなんです。よけいな復興支援よりは、今戦争をさせないということが、大事だというふうに私は確信を持っています。まさにそういう国だというふうに見てきました。だから、今日本が考えているようなことはだめだといえます。

 日本の外務省は行く前に私に、行ってくれるなと言う電話をかけてきました。私は直接受け取ってないんですが、那覇市の方に、行かしてほしくないと、私にお願いしてくれと、いうふうにいってきました。私の家にも電話が来たそうです。私は取っていませんけれど。私の連れ合いが、外務省が電話してきて、行くなと言ってきていると。私は行きますよといって行きました。着いた日に、ヨルダンからわざわざイラク大使館に臨時大使というのが来ていたようです。私たちのホテルに電話をかけてきて、急に夕食をどうですかと誘いの声がありました。断りました。行く前に行くなと言って、しかも、イラクの大使ではないんですよ。ヨルダンからやってくるんです。大使がいないんですよ。何で大使がいないの。日本の大使館はあるんですが、もう逃げてしまっているんですから。いなくなって、ヨルダンからわざわざやってきて、私たちが行くのに合わせてやってきて、夕食を一緒にどうですかと。結局、日本大使館が作成したイラク観光案内というやつがホテルに届けられました。で、私はイラク大使館に電話をかけました。ちょうど金曜日だったもんですから、安息日でイラクの現地採用の人がいました。守衛みたいな人でしょうね、その人が電話に出てきたんですが、「安息日で日本人は誰も来ないよ」というんですね。変だな、イラクの人が安息日なのになぜ日本人が休みなんだ、と思ったんですが、やはりいないんです。どうもうさんくさい連中だと私は思ったんですが。それが向こうにおける日本大使館との、しょうもない関係だったということです。

 本当に韓国の方がこの間、うまくやっているなという感じがするんですが、私たちが帰ろうとしたら、韓国の観光客、観光ツアーが来るんですよね、十五・六名で。若い子達なんですが、子供連れでやってくるんですよ。何しに来たんだと聞くと、観光だ、というんです。不思議な連中だなと。日本政府は行くなと言っているのに、韓国では観光ツアーで許可するのか。そういうことを聞こうと思ったんですが、どうも向こうも日本語がわかる人がいないし、こっちもハングルは話せないし、英語を話す人もいないし、えらいツアーがこっちに来ているなと思ったんですが、それぐらい平気でやってくる。街中を歩いていても、日本車も結構あるんですが、韓国の車の方がごろごろ増えている。向こうの方に聞いたら、韓国の製品は安くて良いんだと。日本製はと聞くと、「エクスペンシブ」、韓国は「チーパーだ、それで平気なんだよ」というんですね。交流形態を見ても、向こうの方が太く交流しているなという感じがしました。ですから、私たちはどこの情報で自分たちの認識が、形作られてしまったのかということも考えながら、交流、連帯行動をして行かなくてはならないと思いました。外務省の言う通りだと、みな危険な地域になってしまう。しかもそこの情報が本当かどうか。マスコミを通して入ってくる情報というのは、嘘っぱちな情報がいっぱい流されているなと、これがまことしやかに紙面を飾っていくと、やはり私たち読む方が、「えー、そうなのか」という情報としてとらえてしまいます。でもそれをはっきりさせようと、思い立った今回の旅でした。是非戦争を止めるために、民衆連帯のためにがんばりましょう。(拍手) 

        (テープおこし、編集は編集部)