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第133号(2002年2月28日発行)

【連載】

 やんばる便り 22
            
浦島悦子(ヘリ基地いらない二見以北十区の会)

 昨年一二月二三日朝、私は胸をわくわくさせながら辺戸(へど)へと車を走らせた。辺戸区長の石原昌一さんが実行委員会を務める「あすむい祭り(首里王府お水取り行事)」への案内状をいただいてから、この日を心待ちにしていたのだ。

 「あすむい」は漢字で「安須森」と当てられ、辺戸集落に向かい合ってそびえる岩山(標高二四八メートル)を指す。沖縄の天地開闢(かいびゃく)の際、最初に作られたウタキ(御嶽、拝所)だという神話を持ち、辺戸ウタキとも呼ばれている。沖縄の中でももっとも重要な聖地の一つとして、現在も沖縄各地から拝みに訪れる人々が後を絶たない。陸路の発達していなかった時代、海路から辺戸を訪れた人々が、船が近づくにつれてくっきりと勇姿を現わしてくる岩山に神の存在を感じただろうことは、容易に想像できる。

 「むい(もり)」は、沖縄では、木のたくさんある場所というより、神々のいます所という意味合いが強い。「森」でなく「杜」という漢字を当てる場合もあり、そのほうが実態に即しているかもしれない。『国頭(くにがみ)村史』によれば、「辺戸は『辺の渡(と)』であろうから、その森や安須森にいます神は遠来神であったに相違ない」という。

 辺戸集落の背後の谷を流れるウッカー(大川)は「アフリ川」とも呼ばれる。「アフリ」は漢語に訳すと「冷傘」または「涼傘」(りゃんさん)で、遠来神が降りるとき、その場所に立つ傘のことだというが、もともとは神女たちがかぶっていたクバ笠に由来するのではないかと言われている。

 そのウッカーの水は、かつて琉球王府が毎年五月と一二月に、はるか首里から係官を派遣して汲ませた「不老長寿の水」だ。「あすむい祭り」は、王府の年中行事として行なわれていた「辺戸ウッカーのお水取り」を再現することによって伝統文化の継承と地域の発展をめざそうと、一九九八年から辺戸区民や出身者によって復活されたもので、今回が四回目。汲まれたウッカーの水は、「元旦には若水として国王に御水撫で(ウビナディー)の儀式が行なわれ、長命と幸せが願われ」、また「五月の稲之穂祭には首里城の龍樋の清水とともに、国の五穀豊穣を願う浄めの儀式に使われ」た(祭りの「実施趣旨」より)という。祭りは実行委員会と辺戸区の共催だが、後援には国頭村や教育委員会が筆頭に名を連ねている。


 祭りの意味と、辺戸の人々が、神々の降り立つ山と川に守られて長い歴史を生きてきたことを伝えたくて、前置きがずいぶん長くなってしまったが、祭り当日の模様を少し報告してみたい。
 私が辺戸に到着して車を置き、最初の儀式が行なわれる神アサギに向かおうとしたとき、区長の石原さんが背広姿で前を歩いているのに気づいた。駆け寄って挨拶すると、「いま始まるところですよ」。

 石原さんの後に付いて集落内の小路(スージグヮー)をのぼりつめると、広場に出た。木立ちに囲まれたその一隅に、低い屋根と四本の柱だけの小さな建物がある。神々がムラ(集落)に来臨されるとき、神々とムラ人たちとが交わる場所である神アサギだ。アサギの中で、儀式はすでに始まっていた。辺戸には神事を司るノロ職はすでにいなくなっているため、首里から招いたというノロを先頭に、今日の行事が無事に執り行なわれるよう祈願する。神衣装を着け、クバの葉を敷いた地面に座って祈っている人々の中に、ごみ処分場建設反対でがんばった人たちの顔がたくさん見えた。

 アサギでの儀式を終えると、いよいよウッカーへと向かう。白い着物を着て王朝風の帽子を被った佐久真克也さんが、長い葉軸をつけたままのクバを持って、ノロを先導する。山の伐採を強行した村の幹部と渡り合う彼も迫力があったが、今日の彼はまた別の輝きを持っていた。急坂の小道をウッカーの流れる谷間へと降りていく神人(カミンチュ)たちの行列を眼下に見ながら、そのあとに私も続く。周囲は鬱蒼とした森に覆われ、流れる水の音が耳に心地よい。白い着物や色柄の着物で正装したオバァたちが、「よく来たね」と声をかけてくれた。みんな、なんだかいつもよりずっとまぶしく見える。

 クバの葉で作った昔ながらの柄杓(ひしゃく)でノロが水を汲んで小さな水瓶に入れ、人々の長命と幸せを祈願した後、再び集落へと上がる。水瓶を持つのは男性の役だ。集落内の神道を道ジュネーしながらシチャラ嶽と呼ばれる拝所に至る。この神道の両側には蔡温(さいおん)松と言われる見事な松並木が続いている。蔡温は琉球王府の三司官の一人で、国内の山林をくまなく視察し、琉球林政の基本となる八つの書を著わした。それは森林破壊が進む今、改めて評価されつつある。その蔡温の政策によって造林されたという蔡温松は、かつて沖縄各地に見られたが、沖縄戦や米軍基地の建設、土地開発などで失われ、現在残っているのものは、ここ以外にはほとんどない。

 シチャラ嶽の意味は聞きそびれたが、ここは安須森へのウトゥーシ(お通し)所とも言われている。ウトゥーシとは、そこまで行くのが困難な聖地に向かって遠くから拝むことで、その場所も決められている。シチャラ嶽では、人々の安寧と五穀豊穣、航海安全が祈願され、次にアサギ広場に隣接するノロ大殿内(ウフドゥンチ)に戻って新年を迎える祈願が行なわれた。

 大殿内に向かう途中、晴れた空のもと、真っ青に広がる海と、真っ白い波が断崖に砕け辺戸岬が一望できる尾根筋に出た。祭りを見学に各地から訪れていた人々から歓声が上がる。空気が澄んでいるので、海の向こうに与論(よろん)島がはっきりと見える。そのさらに向こうに沖永良部(おきのえらぶ)の島もかすんで見えた。

 かつて米軍占領下にあった沖縄の人々は、辺戸岬から与論島を眺めては「日本復帰」への熱い願いを新たにした。しかし、焦がれる思いで復帰した日本は、ウチナーンチュの平和への願いを裏切り、今も裏切り続けている。辺戸岬に立つ復帰記念碑の碑文には、裏切られたウチナーンチュの無念の思いが刻まれているが、岬を訪れる観光客のどれだけが、それに目を留めているだろうか‥‥。

 ノロ大殿内での祈願が終わると、最後の拝み所である義本(ぎほん)王の墓へ。集落を出て、国道を横切り、反対側の斜面を少し登ったところに、苔むした古いお墓があった。屋根のある家の形をしたお墓は、その回りを囲んでいる垣も含め、すべて石を積み上げたりっぱなものだ。義本王は、琉球王国成立以前の舜天(しゅんてん)王統三代(一一八七〜一二五九年)の最後の国王と伝えられる人物で、三二歳で即位したが、即位後、次々と飢饉が起こって疫病が流行し、多数の人民が亡くなったため、自らに徳がないからだと悟って在位一一年で退位したと言われている。隠退した義本王は辺戸の佐久真家に身を寄せ、そこの娘と結ばれたので、佐久真家は義本王の直系としてこの古墓を守っているという。

 ここでは、石垣の内側のお墓の前で、お水取りの儀式が無事執り行なわれたことを報告する祈願が行なわれた。こうして、すべての儀式が滞りなく終了すると、首里王府にお水を届けるための出発式となる。

 出発式に先だってセレモニーが行なわれた。ウッカーの水で立てたおいしいお茶をご馳走になりながら、この祭りを実現するために奔走し、苦労された方々の挨拶を聞く。何番目かに国頭村の上原村長が挨拶に立ったので、飲みかけのお茶にむせてしまった。村が祭りを後援しているので、挨拶するのは当然といえば当然なのだが、琉球王国の始原に関係すると言われる辺戸にごみ処分場建設を強行するため、区民にあんな乱暴を働いた「バチ当たり」の村長が何を言うのだろうと、こっちの胸が苦しくなった。私の隣に座っていたオバァも、「恥ずかしくないかねぇ」と呟いていた。

 挨拶が一通り終わると、辺戸の子どもたちが通っている北国(きたぐに)小中学校の生徒たちによるエイサーが披露された。南国・沖縄にこんな名前の学校があるのは珍しいと、よく話題になるが、交通の便のなかった昔の沖縄島の住人には、遠い北の果てと思われていたことが窺える。

 セレモニーの最後を飾ったのは、辺戸の女性たちによるウシデーク(臼太鼓)。辺戸の年中行事の一つであるシヌグ(豊作を願い、感謝する行事。シヌグは神遊び舞を意味するという)の際に踊られる女性だけの円舞で、先導者の幾人かが手に持った太鼓を叩き、全員で唄いながら踊る。先祖代代伝えられてきたその歌詞は膨大で、踊りはすぐ覚えられるが、唄を覚えるのは並大抵ではなく、後継者がなかなか出てこないと、一人のオバァが心配そうに語ってくれた。

 踊る輪の中に見知った顔がたくさんある。処分場に反対するだけでなく、自分たちの出すごみを減らし、自然と共生する生き方をめざそうと作られた辺戸の「環境青年団」の事務局を預かり、ごみ減量をリードしている上江洲和子さんの踊りに、とりわけ引きつけられた。ほんとうに大切なものを守るためには一歩も引かないオバァたちの強さが、唄と踊りの中に流れていると思ったのは、私の独り善がりだろうか。

 朗々と広場いっぱいに響く唄声は、歌詞は聞き取れなくても心を揺さぶる。動物の皮で作った太鼓と人の声だけの素朴な響きと、単純とも見える踊りが、胸の奥底のもっとも原初的な感動を呼び起こすことは、奄美に暮らしていたとき、八月踊りの中でも感じたことだ。女性たちが唱和する声が一つになって天に昇り、踊りの輪の真ん中に神が降り立つのを見たような気がした。