『失踪』書評(3)
『夕刊フジ』書評欄・『放送文化』書評欄

 

『夕刊フジ』 1979.4.17

消えた億万長者のナゾを追う

  今から十二年前の春、”タイ・シルク王”の名をほしいままにしていた億万長者の老アメリカ人が、中部マレーシア高原の保養地で突然行方不明になった。彼の名は、ジェームズ・H・W・トムソン。バンコック観光案内に「ジム・トンプソン・ハウス」の名称で、紹介されているタイ式豪邸の主だ。
 当時、日本のマスコミが報じなかったため、この失跡事件はわが国では知られていないが、東南アジアをはじめ広く欧米の新聞・雑誌の注目するミステリーに発展していた。この本はその富豪と親交のあった米ジャーナリストが、行方不明の真相を克明に追跡した報告であり、魅力あるドキュメンタリーの典型のような好著である。
身代金めあての誘拐説、自殺説、政治陰謀説、事故説…など事件をめぐる推測や伝説は実にさまざまだが、それらを詳細に検証する著者のペンは、客観的事実だけに迫ろうとする冷静さを堅持している。例えば、当時の東南アジア情勢下で有力だった、“CIA説“などにもあえて加担せず、どこまでも謎を謎として提出しているところがいい。
 本書にはまた、もう一つの読みどころがある。独創的な色彩感覚と商魂を持ったアメリカ人がタイ・シルクを、”発見”し、タイの政治史や文化史を背景に、古い伝統工芸を近代産業に育て上げてゆく成功秘話が語られているのが興味深い。

  (『夕刊フジ』 1979. 4. 17 )

 

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『放送文化』  1979.6.  (NHK発行)

 書評欄

 べ平連の組織者であり、現在アジア太平洋資料センター理事である吉川勇一氏が、すぐれた翻訳家であると同時に、依然として東南アジア地域の状況に深い関心を持った知的情報交流の水先案内人でもあることを示す、おもしろい一書が出た。
 「タイの伝説的なアメリカ人――ジム・トムソン」を原題とする本書は、太平洋戦争終戦の年に、米戦略作戦局(OSS)の特務工作員として、タイにパラシュートで潜入し、やがて、タイの戦後の政変にかかわったのち、土着してタイの絹産業の創業者として億万長者となり、バンコックに「それ自体が一個の芸術品である」といわれる「歴史的建造物」の持ち主となった、実在人物、ジム・トムソン(1907〜?)のドキュメントである。このトムソンの家は、かつてサマセット・モームがしばしば滞在し、モーム作品の主人公のキャラクターである「一見したところごくありふれた人物でありながら、何らか、深い個人的事情から、それもしばしば説明しがたい理由から、突然、平凡で安全な自分の世界を捨て、まったく異質な環境で新しい人生を始める人々」の典型を本書の著者ウォレン(国立チュロンコーン大学の米人講師)は、トムソンに見出している。
 ベトナム戦争が、最も苛烈だった1967年春、マレーシア山岳部のリゾート、カメロン高原で、主人公トムソンは、忽然と行方不明になった。営利誘拐説、自殺説、政治背景説、事故説、あらゆる捜索とジャーナリズムの究明にもかかわらず、日本の辻政信のように消息を絶ったトムソン事件について、吉川は、著者ウォレンの見落としている政治状況を補いつつ、精力的な現地調査をした上で、この訳書を著した。開発途上国の情報・報道構造が、ユネスコ・マスメディア宣言の論議などで、改めて見直されつつある今日の状況に、一つの示唆を投ずる意味で、本書は単なる東南アジア・ミステリーを超えたものを持っている。
(『放送文化』 1979. 6月号)

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