『市民運動の宿題』書評(2)

天野恵一・栗原幸夫・花崎皋平

 

『情況』1991年10月号

 

吉川勇一   『市民運動の宿題』

評者  天野 恵一  

 (注、原文にあった傍点は、ここではゴシック体にしてある。)

  自分の現在、そして過去の運動体験をあれこれ想起させ、それが持った意味をあらためて考えさせられる。こういった読書体験は、なかなか持てないものだ。

 

 ところが、吉川勇一の『市民運動の宿題』は、当然のごとく、私にそういう作業を強いた、貴重な書物であった。

 激動の戦後の学生運動の時代を整理した「私の大学時代のこと」、五〇年代の「日本平和委員会」時代を語る「平和委員会での活動」、一六〇年代後半から七〇年代半ばまでの「べ平連」活動時代の多様な活動記録である「べ平連について」、その活動の積極的なものがなんであったのかをいろいろな角度から対象化してみせている「久野・鶴見氏の対談をめぐって」・「べ平連の残したもの」、最後に最近の「ニューヨーク・タイムス」への反戦意見広告活動などの紹介を含めた「湾岸戦争反対運動の教訓」。こうした構成である本書は、ある大衆運動家の自伝というふうに読むことができるつくりになっている。

 運動の世界で高名な市民運動のリーダーである吉川さんは、つい最近まで私には苦手な人物であった。まずあの清潔でパリッとしたオシャレぶり、テキパキとした合理的で淀みのない語りくち、キチンとした礼儀正しい態度。それはうす汚れた服装で、無礼をまきちらしながらアタフタ動きまわっている私のような人間には近よりがたい「市民紳士」ぶりであった。ところが、ある日、本書にも何度も登場する著者の長い運動上の友人である福富節男さんと三人が会議の帰りに深夜のタクシーを待つはめになった時の話である。長い列の最後尾にならぶやいなや、吉川さんは「こりゃ時間かかるな、カンビ゙ールかなんか買ってきます。飲みながら待ちましょう、この時間でも買えるところ知っていますから」とつげ、サッとアルコール探しに出かけたのである。それは、それが吉川さんらの日常であることを感じさせる、当然のことといったスピーディな身ぶりであったのだ。これは、私の日常とたいしてかわらない、かなりブッコワれた生活ぶりではないか。なぜか私は楽しくなった。「近よりがたい」という感情は、その時から私の中でほぼ消減にむかったのである。

 私は本書を通読して、少々なまいきに言わしていただけば、もっと遠いはずであった著者と、運動をめぐる問題意識においてずいぶん近しいものを感じてた。あの時(アルコール探しの時)と同様な感情におそわれた。

 また、個人史のエピソードでへェーというようなものも多い。たとえば、学生時代まず柳田国男の門をたたいたとか、そういう民俗学への関心が毛沢東思想へのシンパシーの通路であったとか。さらに、キリンビールは決して飲まないという話もある。軍需資本三菱重工ヘの抗議から三菱製品のいっさいの拒否ということにしたということであるが、このステキな偏屈さをつげる語りくちはなかなかの迫力であり、これから吉川さんとビールを飲む時はキリンに手を出すわけにはいかないナーという気分にさせるていのものである(もちろん著者は他人にそれを強制しているわけではまったくないのだが)。このての話を紹介しているときりがないので、この具体的で平明な著作で私がもっとも共感した点を、いそいで論ずることにする。  

 それは、「内ゲバ=リンチ」文化を克服しようという姿勢こそが「べ平連」を「べ平連」たらしめたものではなかったのかと力説している部分である。私は、「べ平連」の運動を、同時代の共通したテーマの運動の渦中にいながら、まるで知らない。だから、鶴見俊輔への異論として主張されている著者の判断が、どれだけ客観的なものであるかを私なりに体験的に判定できるわけではない。しかし、著者が何を大切にして運動を持続しているかは十分に理解できた。あの時代の運動体験の何をプラスのモメントと考えいるかという点では実感的に共通するものを感ずる。そして、その体験をこそ現在の運動の中で生きなおそうという姿勢に私は強く共感する。

 ただ、一点だけ注文がある。著者は「連合赤軍リンチ殺害」があかるみに出た時代の「前衛党も軍も必要」という主張も含まれた自分の発言を引いたところで、「『前衛党の必要性』などとまったく余計なことをのべた部分」と語っているが、この「余計なこと」の中味をより具体的にどこかで論じていただきたいものである。これと関連する点であるが、著者の「べ平連活動」時代は、ある新左翼の党派の活動家の時代でもあったはずだ。だとすれぼ、「べ平連」活動と党派、活動はかさなっていることになるのだが、この時代の党派活動家としての自分に著者がまったくふれていない点が、どうも私にはひっかかる。「余計なこと」の内容は、共産党体験(この点は本書でかなり語られている)とともにこの党派体験の総括を通して語られることになると思うが、ぜひこの「落丁」をうめる作業をしていただきたい。

 これは「市民運動の宿題」の著者の自分に残した「宿題」のように私には思えるのだ。最後に「ステロタイプのオセジではなくマジの言葉でこう結びたい。本書をいろいろな大衆運動にとりくんでいる人、とりくもうとしている人(とくに若い人)が一人でも多く手にすることを願う。

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リーブルフォーラム (『フォーラム‘90』 1991年11月号

べ平連とはなんだったのか

吉川勇一 『市民運動の宿題』

評者 栗原幸夫  

  運動の歴史は指導者の歴史でもないしイデオローグの歴史でもない。活字として残されなかった参加者の無数の行為、考え、語られた言葉の総体が運動の歴史なのであって、指導者やイデオローグにだけ焦点をあてたのでは、その本当の姿は現われない。ましてべ平連のように組織的にも思想的にも多元主義をつらぬいた運動では、このことはいくら強調しても足りないのである。

 しかし残されているものは書かれた記録であり、あとは個々人の記憶しかない。そのような個別的な体験の記憶をもとに書かれたべ平連の歴史としては、小中陽太郎の『私のなかのベトナム戦争』を、普遍性ではなくあくまでも個人の体験に固執して書かれた、いかにもべ平連らしい歴史の書き方として、かねがねわたしは推奨してきたのだが、この吉川勇一の本も、基本的なスタンスとしては小中と同様にあくまでも体験的である。しかしこれが小中と違うのは、吉川がべ平連のほぼ全期間をつうじて運動の実務の責任者であったという点であろう。この吉川の運動上のポジションは、いわばイデオローグと無名の参加者との接点に位置している。それだけに彼の目配りは広く、そこで彼に突き付けられる問題もきわめて具体的で鋭い。

 吉川はべ平連運動をつうじて背負いこまされた「宿題」として、運動と管理、東京集中と地域の自主性、ダイナミックな運動の展開と日常の実務、政党と市民運動、内ゲバの問題をあげ(まえがき)、また本文中でも組織論、共同行動論、運動と実務の関係、運動を支える日常ルーティンの仕事、継続性の問題をあげている。吉川はこれらの問題が彼のなかで未解決の「宿題」として今日にまで生きつづけるにいたった経緯を、べ平連以前の共産党員時代にまでさかのぼって、運動のなかでの具体的な体験に即して語っている。これがこの本をきわめて今日的なものにしているのである。

 この本で吉川がとりあげている「宿題」のすべては、今日、わたしたちがさまざまな領域や課題で非党派的な運動をつづける際にほとんど例外なくぶつかる聞題である。だからこれらは吉川個人の「宿題」であるだけでなく、いわゆる「市民運動」とよばれる非党派的運動の参加者が、それぞれの体験をふまえて共同して解かなければならない課題なのである。

 いま、この本で提起されている「宿題」のすべてにふれる余裕はないが、それらの個々の問題の根底にあるのは「形式」ということであるように思われるので、

そこにしぼって私見をのべておきたい。

 運動における「形式」の問題がとくに提起されたのは、久野収と鶴見俊輔の対談『思想の折り返し点で』のなかでべ平連運動にふれられた部分でだが、そこで久野は「価値の問題になると、重大なのは形式になって来る……。たとえば正義が果たされねばならない仕方を規定するワクの問題」。「鶴見さんは、議論を成り立たせる共通の形式を探し、自分の主張を放棄せずに、相手の言い分も認める道を探し求めるルールをもっていますね」と言い、鶴見は「正義感だけからではながつづきのする運動はできないという重要な問題があるんですね。そこでは主流の意見以外は排除することになりやすい。人間が人間である限り合意できるところがあるのではないか――それが形式の問題」と応じている。

 この対談のなかのべ平連にふれた部分については、吉川がこの本で一章を割いて答えており、形式の問題についても「さまざまなグループの間での共同行動のルールづくりで努力してきたものが、多く、この問題の領域に属する」と共感を表明しているが、べ平連のようなスタイルの運動においてさえ、この「形式」がどこまで意識的に考えられ、運動の場面場面でどこまで保持されたかについては、わたしの場合は吉川よりももう少し否定的である。

 一例をあげれば、一九六八年八月に京都で開かれたべ平連主催の「反戦と変革にかんする国際会議」で閉会の際にとつぜんインターナショナルが歌いだされ、会場の大多数が起立してそれに唱和するという「事件」があった。わたしにはその時の違和感がいまも鮮明である。インターナショナルという歌にたいする違和感ではない。ここはそれを歌う「場」ではない、という違和感だった。歌いだしたのはある新左翼党派の活動家たちだったのではあるが、べ平連の活動家にも「ラディカル」(この言葉はもっと厳密に定義する必要がある)であることはいいことだ、という心情があり、それをこの歌に託すというところがあったと思う。ここでは、もっとラディカルにという心情がべ平連という形式を崩壊させているのである。そういう場面は日常的にはたくさんあったのではないか。

 そこから問題を今日に移せば、それは市民運動はシングル・イッシューであるべきか、という問題につながる。紙数をこえてしまったのではし折るが、わたしはイッシューは厳密に限定されるべきだと考える。それがその運動の形式を保証するすくなくとも一つの条件である。個別から全体に通じるような道筋を共同で見いだしていけるような場、それをささえる形式が主要だ。それはたんなる倫理ではなく運動論であり組織論なのだ。この点では吉川勇一も同意してくれると思う。共同の探求をすすめたい。

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『朝日ジャーナル』 1991年9月27日号

「べ平連」を通じて市民運動の流儀や今後を語る

〈評者〉 花崎皋平  哲学・社会思想

  一九三一年生まれの吉川勇一が、大学時代からの自分史にかさねて、一九六五年に始まったべ平連運動の回顧と残した宿題について書いた本である。同い年でもあれば、同じ運動を札幌で経験した私は、おもしろくて一気に読んでしまった。

 べ平連運動についての章は、エピソードと運動史を「神楽坂べ平連」事務局長としての経験をえもとにたどっていて、いまにつながる市民運動の流儀がどのようにうまれたのかを知ることができる。

 後半の「久野・鶴見氏の対談をめぐって」以下の三つの章では、彼が原則としてきたルールの擁護と市民運動の今後への宿題についての議論が柱になっている。

 彼は、「べ平連にもリンチがあった」という鶴見俊輔さんの発言には事実認識に違いがあるといって訂正を求め、それを機縁として、べ平連が守ろうとしてきた運動論を具体的な事例をあげて説明している。それは内ゲバやテロ、リンチに対する原則的反対の立場であり、組繊上の約束事をできるだけ簡単に、ゆるやかにして、思想と行動の多様性を保証するものである。

 私は、彼が反論し、鶴見さんが訂正に応じつつ、「べ平連像」の差異はなおのこる、とのべている『思想の折り返し点で』(久野収さんとの対談/朝日新聞社刊)を読みかえしてみた。

 鶴見さんは「正義の形式上の原則(これは原則の原則と言ってもいいくらいの抽象的なもの)」を重視することが、べ平連をふくむ市民運動に欠けていたという。この批判には、彼もおなじ抽象のレベルまでのぼっていって、素直に共感してもよかったのではないか。

 私の経験と反省でも、市民・住民の諸運動は抽象的な形式を共有して(それで枠づけて)場を設けることに習熟していない。「具体的」ということが、「抽象的」より価値があり、役に立つという雰囲気が議論を支配することがよくある。正義の感情を、正義の形式よりも重んじてしまうというのは、そういうところに表れている。この点は、市民運動の「宿題」として受け取ってよいのではなかろうか。彼が「宿題」としてあげているのは、シングルイッシュー追求にとどまらない、政治・社会全体変革型の市民運動や、国際社会における日本の独自の貢献のありようや責任の分担について考える反戦市民運動の必要性、といった内容についてのものと、市民社会の「老齢社会」化現象をどうするかというバトンタッチの問題とがある。

 あとの二つには異論はないが、第一の全体変革型の市民運動必要論についてはどうかなと私は首をかしげる。もともと市民運動は、「自分がやりたいから」という内発性をバネにしており、民衆の中に自生しているアナーキズムの発想や行動を解放するところに生命力があるのではないか。それをプログラム実現型に押し込めるのはどうだろうか。こういう立場に立つと「形式」の問題がさらにむずかしい宿題になるのだが。

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