非暴力と非合法

――5・15嘉手納基地行動と関連して――

(その1 日本の運動の中での歴史)

(『市民の意見30の会・東京ニュース』第49号 1998. 8. 1.)

吉  川   勇  一 

 

市民の意見30の会・東京からも多数が参加した五月一五日の沖縄・嘉手納基地前での行動には、検討すべきいくつかの問題点があった。これを契機に、非暴力直接行動、あるいは市民的不服従と言われる行動について、基本的なことを確認しておきたい。長くなるが、今後の行動を考える上で大切なことだと思うので、何回かにわたって連載する。

5・15嘉手納行動での問題点

 五月一五〜一七日の沖縄での反基地行動には、私たち市民の意見30の会・東京からは、事務局四名を含め、多くの会員や読者が、全部で二〇名弱も参加し、本土からのグループとしてはかなりな参加者数だった。

 この沖縄での行動には、大きく分けて三つの場があった。一つは一五日から始まった「平和行進」(沖縄平和運動センター主催)、第二は一四日以降一七日までの「あぶし(悪虫)払ェー in かでな」の行動(基地がなくなる日実行委員会主催)、そして第三が一七日の「人間の輪」による普天間基地包囲行動(さまざまな団体による実行委員会、委員長=佐久川政一沖縄大学教授)だった。私たちは第一の平和行進には参加できなかったが、第二と第三の行動には全面的に加わった。

 この一連の行動については、参加したグループや個人から報告がいくつも出されており、また現地の『琉球新報』、『沖縄タイムス』は連日の行動を大きく報道したし、『週刊金曜日』にもルポルタージュが載った。

 だが、五月一五日の嘉手納ゲート前で行われた第二の「あぶし(悪虫)払ェー in かでな」行動については、表面的な報道はなされたものの、それがはらんでいた問題点を指摘したものはない。(ごく簡単には、本紙前郷の木村雅英さんの速報が伝えているが。)

 市民の意見30の会・東京は、第二の行動の準備段階から参加し、東京での準備会議や相談会に出席し、また会の『ニュース』に報告を載せて参加を訴えてきた。それだけに、この5・15行動についてきちんとした総括が行われる必要があると思う。

 だが、これまでのところ主催者の「基地がなくなる日実行委員会」から出された「まとめ」「報告」は実に簡単なものだけで、総括とは言えない。

 この行動の準備段階では、ある程度の事実と以後のシミュレーションを混ぜた国際非暴力行動委員会編『小説・基地がなくなる日』(冒険社)という二〇〇ページを超える「5・15行動のマニュアル」も出版された。準備のための行動としては、ずいぶん思い切った企画であった。その中には国弘正雄さんや太田武二さん、鶴見俊輔さんの発言などとともに私自身の言葉も登場してくる。私たちの会が主催した昨年一一月の集会での発言で、この部分はフィクションではなく事実だった。それだけに私個人としても、この行動については責任があり、ここで、その若干を記しておきたいと思う。

 非暴力直接行動についての理解不一致

 準備の不手際など問題点はいくつもあった。だが、この種の行動としては、ある程度のミスや手落ちは、やむをえない面もあり、それをここでいちいち挙げるつもりはない。最大の問題は、参加者の間での、非暴力直接行動あるいは市民的不服従の行動と言われるものへの無理解、あるいは理解の不一致だった。

 準備段階(少なくとも東京での)で確認されていたことは、一五日から嘉手納基地の各ゲート前で行われる行動は、非暴力に徹するということであった。『小説・基地がなくなる日』での当日の模様(もちろんこれはフィクションだが)は、一九六七年一〇月二一日のアメリカでの「ペンタゴン包囲行動」をイメージしたもので、米軍や機動隊の武器に対するにデモ側からは楽器や花や折鶴などをもってする非暴力直接行動だった。だからこそ四月二五日に東京で行われた第四回の相談会では、『非暴力トレーニング』(野草社)などの著書もある阿木幸男さんを招いて警備側の暴力から身を守る訓練まで行われたのだった。

 だが、実際に一五日当日、第二ゲート前で行われた行動は、およそそうしたイメージとはかけ離れたものだった。もちろん、小説のように、数万人の参加者はなく、デモに加わったのは二〇〇人弱で、桁外れにかけ離れてはいたが、市民的不服従の行動は、人数とはまったく関係がない。ある場合には一人でも実行されることがある行動形態だ。

日本の反戦運動では、この経験は浅く、少ないから、運動の中での理解は十分ではない。それで、嘉手納での問題に触れる前に、いくつかこれまでの日本の運動の中での実践を簡単に振り返ってみよう。

 一九五六年の砂川闘争

 いちばん有名なのは、一九五六年秋、東京都・砂川基地拡張阻止の運動の際、日本山妙法寺の僧侶たちがとった行動だろう。

 基地拡張のための強制測量を阻止しようとして、東京地区労の労働組合、全学連、平和団体などがスクラムを組む前で、黄色い衣を着け、団扇太鼓をたたく僧侶や信者たちが座り込んで読経を続けていた。退去を要求する何度かの警告の後、警察機動隊が排除にかかり、座り込む僧侶たちの頭の上に容赦なく棍棒を振り下ろした。この事件は当時、平和委員会のデモに加わってスクラムを組んでいた私の目の前で起こった。

 棍棒で頭を割られ、血が噴出し、倒れるものが次々と出ても、僧侶たちは動ぜず、ひたすら読経を続けた。機動隊の暴行によるその場面は、まさに凄惨と言うにふさわしいものだったが、私は、読経を止めぬ妙法寺の僧侶たちの行動に激しく心を打たれた。そのうち、警官のほうもそれ以上の殴打を止め、一人ずつ、引き抜いて連行してゆく方針に変えた。ついで、私たちのデモも引き抜かれ、二列に並んだ警官の列の間を一人一人、突き飛ばされ、殴られながら、離れた場所へつれて行かれた。だが、多くの参加者は、そこからまた遠回りの道を戻って再びピケット・ラインの後部についたのだった。

 妙法寺以外の労働者、学生、主婦などの部隊も非暴力の行動だった。投石もなく、デモ側の鉄棒もヘルメットもなかった。全学連の部隊が警官を前に「赤とんぼ」の歌を歌ったという今や伝説的ともなった話も、このときのことだ。

 この砂川での行動は、運動の勝利に終わった。強制測量は中止され、基地の拡張は阻止された。現在、基地の後は公園になっている。(ただし、「昭和記念公園」という名称がつくなどの問題はあったが。)

 警官の側にも大きな影響を与え、当日出動した警官の中からは自殺者も出たし(56年10月21日)、ほかにも砂川への出動を契機に転職した者も多数あったという。警察官への影響だけではなかった。当日、米軍基地の中からこれを目撃していた米兵の一人に、今、アメリカ・インディアン運動の指導者になっている当時一九歳のデニス・バンクスさんがいて、強いショックを受け、政治や差別に関心を持つようになったという話は、本『ニュース』の47号に出ている。

 まさに、砂川での強制測量阻止の行動は、アメリカのペンタゴン包囲デモがダニエル・エルズバーグ博士にショックを与え、『米国防省ベトナム秘密文書』の暴露を決意させたのと並んで、非暴力直接行動の大きな影響力、成果を示す行動だったと言えるだろう。

佐藤首相訪米阻止の直接行動など

 一九六七年秋は、ベトナム反戦運動が大きく盛り上がるきっかけとなる行動が多く展開された。有名なのは、ベトナムに派兵していない国の首相としては、初めて南ベトナムを訪問する佐藤首相の出発を阻止しようとした一〇月八日の学生や反戦青年委員会の闘争(ここでは、京大生、山崎博昭さんが死亡している)、一一月一一日、日本の北爆支持に抗議して首相官邸前で焼身自殺をしたエスペランティストの由比忠之進さんの行動、そして訪米した佐藤首相がワシントンに到着したときにべ平連から発表された横須賀寄港中の米空母「イントレピッド」号からの四水兵の脱走事件等々だった。 
 マスコミでも大々的に報道されたこうした大きな行動に隠れて、ほとんど注目を浴びなかったのだが、首相が訪米し、羽田では、学生らによる第二次羽田闘争と呼ばれる機動隊との激しい衝突が展開された一〇月一二日、都心から羽田に向かう高速道路の上でもう一つの小さな行動があった。

 べ平連参加者の一部などによって作られていた「非暴力反戦行動」のグループによる訪米阻止行動だった。参加者は一〇数名。彼らは首相ら一行が羽田に向かう道路上に寝ころんで抗議の意思を表し、出動していた警官によって一一名が逮捕された。

 もちろん、この行動は、あらかじめデモ届や許可などをとっているものではなかったから、道路交通法違反、公務執行妨害など、いろいろな法律違反に問われることを覚悟しての行動だった。

 ハノイ爆撃への抗議の非暴力直接行動

 このグループの行動は、これが最初ではなかった。そもそもは一九六六年、米軍によるハノイ、ハイフォンへの爆撃の危険が予想されたとき、それが万一実行に移された場合、緊急にアメリカ大使館へ向けて抗議行動を行なおうという呼びかけが出されたのが発足だった。この「よびかけ」は、六五年の暮から相談が始まり、六六年の二月につくられて、ひそかに仲間から仲間へと手渡され、ハノイ・ハイフォン地区への爆撃がされた翌日、六月三〇日に実行された。代表者は評論家の栗原幸夫さんで、ほかに鶴見俊輔、市井三郎、いいだもも、久野収、大野明男さんなども積極的に加わっていた。

 長くなるが、小規模の非暴力直接行動がどのように計画されていたか、どういう準備が必要だったかなどを知る上では、非常に参考になると思うので、長さを気にせず、全文を引用すしておきたい。

よびかけ

 ベトナム戦争が一段と大きくなる危険があります。そういうことのないように望みますが、しかし、戦争が拡大した場合に、私たちがどうするかを考えておく必要があります。
 (1) 米国が北ベトナムに宣戦を布告し、上陸作戦をはじめる場合。
 (2) 米国がべトナムにおいて核兵器を使う場合。
 (3) 米国が北ベトナムの首都ハノイを爆撃する場合。
 この三つのどれかがおこった時、私たちは、アメリカ大使館にむかって、反対の意志をつたえたい。
 (4) 日本の軍事基地(沖縄を含む)が米国のベトナム攻撃に、明白な形で用いられた場合。
 この時には国会にむかって、反対の意志をつたえたい。
 ここにあげた四つの場合の一つがニュースとして、新聞・ラジオ・テレビでつたえられたら、それをきいた日の午後二時に、溜池(クリーニング店白洋舎前)にあつまりましょう。午後二時以後にニュースがつたえられた場合には、おなじ場所に、午後六時にあっまりましょう。私たちは、この行動を、波状的につづけておこなうつもりです。第一回が、午後二時の場合は、その日の午後六時に第二回をおこないます。第一回が午後六時の場合は、つぎの日の午後二時に第二回をおこないます。それから、隊伍をくまずに、ばらばらにアメリカ大使館(基地使用の場合には国会)にむかって歩き、警官におしとどめられたら、そこですわりましょう。(注)抗議の意志をあらわすためのゼッケソ・たすき・ピラなどを用意してきてください。
 人をきずつげるような道具はもってこないでください。私たちの抗議は、暴力にうったえない行動の形をとるものにしたいと思います。
 当日、警官につかまると困ると思う人は、仲間にくわわらず、遠くから、道ゆく人のひとりとして、この行動の目撃者となってください。状況の展開によっては、目撃者の証言が必要となるかもしれないので――。
 この共同行動は、ベトナムでの米国の軍事行動に反対するという一点において一致するかぎり、あらゆる宗教的信条、政治的信条の人々にひらかれています。

一九六六年
              非暴力反戦行動委員会


 (注)非暴力直接行動のさいの法律上の注意

 東京都内で集会や示威行進をやる時には、東京都公安委員会に七二時間以前に届出て許可を得ねばならぬことが、「東京都条令」で決められています。
 われわれの今回のデモの場合、緊急事態に応ずるために、この届出ができません。つまり、非合法の行動となります。したがってこの「非暴力反戦行動」に参加する人は、「都条令」および「道路交通取締法」の条項に、「違反」したという理由で、処罰の対象になる可能性があります。右条文によれば、罰則の最高規定は、「都条令」は第五条で「一年以下の懲役、五万円以下の罰金」、「道路交通取締法」では第二二条で「警官の指示に従わぬ場合に」「一万円以下の罰金」とされています。
 しかし、何回も何回も同条違反で逮捕された場合なら別ですが、はじめての場合でしたら起訴される可能性はほとんどありません。警察署の留置場に一〜二日、留置されるぐらいを覚悟しておけばよいでしょう。
 道路に坐りこんだ場合、警官の退去命令に応じなければ、いわゆる「ゴボウ抜き」されることになるでしょうが、その際、警官の側に対して暴力を振う(これは避けてください)ことがなければたとえぱスクラムを組んで「ゴボウ抜き」されないように頑張ったり、あるいは寝ころんでしまっても、それは「公務執行妨害」にはなりません。
 逮捕されてから、警察署につれてゆかれたら、住所・氏名などはなるべく告げたほうが早く釈放されるでしょう。もちろん、一切に答えず、黙秘権を行使する権利はありますが、そうすると、それを理由に釈放を長びかせられる危険もあります。
 なお、逮捕された場合、直ちに弁護士(自己の任意の撰択)に連絡する権利があります。電話をかけさせるよう要求したらよいと思います。
 とくに知合いの弁護士のない方は、つぎの電話を記憶されておかれたらよいでしょう。
 総評弁護団 東京合同法律事務所 五〇一−九〇二六・九五七一

(引用は、『資料・「べ平連」運動』上巻 67〜68ページ)

米大使館前での行動

 大使館前での行動は三回も行われた。座り込みに参加した人びとは、そのたびに出動していた警官隊によってコボウ抜きにされ、担ぎ上げられたり、両腕を掴まれたりして、はるか離れた日比谷公園付近まで連れて行かれ、そこで放された。逮捕者は出なかった。一つには、先に挙げたように、多くの著名な知識人の参加があったせいかもしれない。哲学者の久野さんを座り込みのスクラムから引き抜くとき、警官隊の指揮者が、「それは久野収さん、慎重に扱え」と部下に言ったという話もあるほどだ。

 また「よびかけ」にもあるように、逮捕されることを避けたいと思った人びとは、「目撃者グループ」として、座り込みから少し離れた路上でこの行動を見守っており、また、マスコミにも直前に伝えてあったため、取材陣もおり、警察側はこうした衆人環視の中での手荒な取締りを避けたいと思ったのかもしれない。

(続く → その2へ)