非暴力と非合法

――5・15嘉手納基地行動と関連して――

(その2 日特金属襲撃事件など)

(『市民の意見30の会・東京ニュース』第50号 1998. 10. 1.)

 

前回に続き、これまでの非暴力直接行動、あるいは市民的不服従の行動のいくつかを振り返ることからはじめる。

安保拒否百人委員会の軌跡

 一九七〇年から一〇年以上続けられた「安保拒否百人委員会」という運動があった。直接のきっかけは、六九年秋に創刊された『週刊アンポ』の創刊号に、吉崎秀一さんという医師からの「全員逮捕デモを!」という呼びかけが載ったことだった。何回かの討論のあと、このデモは翌七〇年一月二日、二〇人弱の参加者を得て、清水谷公園から国会議事堂、日比谷公園まで行なわれた。警察は厳しい規制を加え、デモはばらばらにされたりしたが、逮捕者は出ずに終わった。この報告は吉崎さんの手で、『週刊アンポ』第6号に出ている。以後、銀座・数寄屋橋、国会正門前、首相官邸前、アメリカ大使館前、新宿西口ひろば、横田基地前、三里塚など、各地で無届のデモや座り込みが続けられ、逮捕者も出た。

 この運動については一九八一年の暮に『遠い記憶としてではなく、今―安保拒否百人委員会の10年』というB5版横綴じ二三七ページの、パンフレットというには厚すぎる記録集が出されている。実に多くの貴重な実践の記録、体験記、感想、座談会、資料などが満載されており、七〇年代の非暴力運動の実態を詳しく知ることができる。この運動の発足が、当時の東京べ平連の運動に対するある種の強い批判をも一つの契機としていたという高畠通敏さんの発言など、ここでしか知り得ない証言も含まれている。ただ、残念ながら、多くのビラや声明などが再録されていても、いつ、どこで撒かれたものか、日付がまったくないなど、資料の整理が未熟、というか不親切で、収録された文章や年表の中の日付や行動主体なども、それからは、かなりわかりにくい。    
 実は、本稿をまとめる前に、この運動の中心にいた人にお会いして、話を伺う約束になっていたのだが、八月末、私はまたまた入院・手術ということになり、今号の締切り前にはそれが果たせなくなった。この運動については、いずれ、あらためて紹介するか、むしろ、実際に参加していた方に別原稿として書いていただいた方がいいと思っている。お許し願いたい。

 日特金属襲撃事件

 これより時間をずっとさかのぼるが、べ平連系の市民運動とは違う流れの中の「ベトナム反戦直接行動委員会」による兵器製造業「日特金属工業本社」(都下田無市)襲撃事件にも触れる必要があると思う。この行動は一九六六年の10・21ベトナム反戦ストを前にした一〇月一九日に行なわれた。アナーキスト系の一三人の青年が、同社の工場を襲撃し、施設や機械の一部を破壊したのである。この委員会が工場施設を破壊したとき、同社の社員に投げたビラにはこうあった。

日特金属の労働者のみなさん! 

当工場では、ベトナム戦争に便乗して、機関銃を、アメリカ軍に売り込んでいることが、あきらかになっています。ベトナム人民のながす血によってみにくく肥っていく死の商人≠フ存在をわれわれは許すわけにはいきません。
日特金属労働者のみなさん!
われわれは今、死の商人≠ヨの憤りを兵器生産の現場にぶつけ、かれらに徹底的な打撃をあたえるべく行動をおこしました。
労働者のみなさん!
われわれと共に、起ちあがり、アメリカ帝国主義のベトナム侵略を阻止しようではありませんか!!

 この事件についてべ平連の鶴見良行は、『朝日ジャーナル』の「今週の社会観察」欄に次のように書いた(一九六六年一一月六日号)。

 疾風のように襲った青年たちが、工場内にいた時間は、わずかに一五分間ほどで、その間にふるわれた「暴力」には、奇妙な計画的配慮が働いていたと考えられるふしがある。かれらが棍棒で破壊したのは、変電所の操作スイッチ、電話機、ショーケース、電話交換器の差込みプラグ、社長の机のガラスなどであって、これらがいずれも兵器の生産を止めるだけの実質的な破壊になっていないことは明らかである。そして、こうした破壊が兵器工場にたいする実質的な打撃になりえないことぐらいは、若者たちも最初から意識していたにちがいない。

かれらの暴力が、兵器の生産を実際に止めることを最初からねらっていなかったとすれば、かれらの襲撃は、社会関係を力によって、変革しようとする実体的な行為としてよりも、別のなにものかを暗示し知らせるための象徴的な行為として考えられるべきだ。事実かれらは、直接身体に危害を加えることについては、スプレーで水をかけたり、目つぶしの砂をかけたぐらいで、きわめて慎重だった。

 この奇妙な計画性が、かれらの行為の象徴性をしめしているとすれば、かれらはその過激な行動によって、何を明らかにしたかったのだろうか。……(中略)……        
 日本のべトナム特需が年間一〇億ドルに達したというような新聞記事を読んでも、それがわれわれの日常的な経験のレベルでは、何を意味するのかかならずしも明らかでない。自分たちの財布の中の千円札の一、二枚が、実はベトナム戦争によってもたらされたものであるという実感をわれわれはもちにくい。ベトナム反戦に熱中した青年たちが、おそらく意図したであろうことは、こうした実感の再生であったにちがいない。したがって、かれらの行動を暴力主義として、あるいは警察の弾圧を招来する挑発行為として非難することはたやすいが、それだけでは、無意識のうちに戦争にひきずりこまれてゆく日本の政治と社会の現実は、ちっとも変わらないのである。かれらの無謀と過激を責めるのならば、かれらの意図するところが、代議制度や言論という他の方法によって実現できることを大人たちは実証していなければならなかった。腐敗を重ねることによって民主主義政治への国民の絶望を招いた与党責任者たちも、ベトナム戦争
への無意識の加担に警鐘を鳴らしえないでいる言論人も、ともにこの事件に心の痛みを覚えるべきである。
 この行動に参加した者のうち、一〇人が逮捕され、有罪判決をうけたが、裁判の過程で、被告のうち二人が自殺し、メンバーの一人の父親が焼身自殺をするという悲惨な結果となった。

 
器物に対する破壊活動について

 事件については、高橋和巳、向井孝、大沢正道、松田政男らが論じているが、それについては、天野恵一が著書『「無党派」という党派性』(インパクト出版会、一九九四年、一九九〜二〇〇ページ)でうまく整理して紹介している。高橋は鶴見と同じく、この行動の非暴力性を強調し、松田はその暴力性において評価した。その後の経過は、大沢の言うように、これは「暴力の季節」の幕開けとなった。メンバーの中からは、のちに「東アジア反日武装戦線狼=vのメンバーとなり、三菱重工爆破事件に参加して自殺した斎藤和も出たのだった。鶴見の社会に対する警告はまったく聞き入れられず、その後、結果的には人間への殺傷ももたらす爆弾闘争への道を彼らはたどったのだ。

  この推移の分析は天野の意見に同意するので、それにゆずるが、この行動が萌芽的にはらんでおり、鶴見や高橋が希望的に観測したような、機械や施設を破壊しても人間への非暴力を貫くという運動が、なぜ道を見出せなかったのかは、十分な検討に値しよう。これと関連して想起されるのが、一九七八年三月二六日の三里塚空港の管制塔襲撃、破壊闘争である。第四インター、共労党など新左翼党派の部隊によるこの襲撃も、管制塔のガラスや機器類を破壊したが、中にいて屋上に逃げた管制官らには何も手を加えなかった。これらは暴力なのか。鶴見は暴力と表現していたが、高橋は「一、二の器物は破壊したとしても、徹底して人に対して障害も暴行も脅迫も加えなかった。しかも当の工場は、憲法の精神を犯して武器を生産していた。この青年たちをはたして、法が裁くことができるのか」と擁護している(「非暴力直接行動について」、河出書房新社『高橋和巳作品集』第七巻)。意見が分かれるところであるが、この問題についての考察には、デイヴ・デリンジャーがのべていることが非常に参考になる。

 ……二年後に出所したとき、私は人びとに対する暴力と、資産の物理的破壊とをもっと注意深く区別するようになっていた。前者に対しては反対し続けていた(今も反対だ)が、後者は、状況如何によっては、愛をもった非暴力運動の一部になり得る方法だと考えるようになっていた(し、今もそう考えている)。 (『「アメリカ」が知らないアメリカ』吉川訳、一九九七年、藤原書店、五三六ページ)

 だが、彼は、続けて「しかし、これは複雑な問題である」とし、「資産の権利が人間の権利より優位に立つような社会では、ときに資産に損害を与えたり傷つけたり破壊することが必要となる」と述べると同時に、「一方、資産に対する暴力の行使は多くの問題を生じさせる」とし、「なかでも軽視できないのは、それが無差別的なものになりやすく、同時にその資産を護ろうとする人びとへの態度硬化を伴ってくることだ」とも述べて、この行動が陥りやすい偽りの革命幻想に強く警告を発している。これはデリンジャーの長い非暴力直接行動の実践の中から生み出された極めて重要な考察と指摘である。残念ながら当時の日本の私たちの運動は、こうしたことをきちんと論ずるだけの地平にはまだ達していなかったと言うべきなのだろう。

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 簡略にのべてきたつもりだったが、これまでの日本の運動の中でのいくつかの実践をふりかえることで、今号の紙数もつきてしまった。本題の沖縄での五月の行動について述べることは次号にもち越さざるをえなくなった。しかし、そこで論じようと思っている問題点だけ、今あらかじめ挙げておくと、非暴力の行動とは決して合法的でなければならないということではなく、また、闘う相手の感情に即時的に沿うものなどでも決してないということをのべるつもりだ。嘉手納基地の前での行動を指揮した現地の指導者は、そこを全く誤解し、混同していたからだ。

(つづく → その3 へ)