『「アメリカ」が知らないアメリカ』書評(1)
中山千夏『熊本日々新聞』・吉岡忍『読売新聞』

 

『熊本日々新聞』 1997.12.14

愛と非暴力を武器に反戦訴え続ける人生

   中 山 千 夏

 いつの時代にも、熱心に反戦平和を主張する人々はいるものだ。しかし、第二次世界大戦下の一九四〇年、アメリカ合州国の参戦に反対したアメリカ人があったとは、想像してもみなかった。その頃、ナチス・ドイツに蹂躙されて、ヨーロッパの大国はアメリカの参戦を熱望していた。ナチスを討ち、犠牲国を救うのが正義だと言われた時、反対できるアメリカ国民があったろうか? 少なくとも多くの白人にとって西欧は祖国であり、そしてアメリカには、ナチスが撲滅しようとしていたユダヤ人も大勢いる。正義漢たるアメリカ国民は、すべからく参戦に同意したに違いない。

 ところが(思えば当然ながら〉、ここにも反対者があった。彼らは、それまでのアメリカ政府が自国の営利のためにナチの暴虐を見過ごし、ユダヤ難民民にはきわめて冷淡で、あろうことかナチに武器を売ってまでいたのを知っていた。アメリカ政府の参戦決定は、正義でもなんでなく、覇権を求めるための単なる政策変更に過ぎない。加えて、ドイツ内の反体制派、つまり反ナチのドイツ国民は、外国政府の軍事的干渉には絶対に反対で、ドイツの民衆自身がヒトラーを倒すべきだと考え、その方向で努力しているのを知っていた。さらに彼らは、目的と一致した手段だけが目的に到達する道だと考え、平和は武力によってではなく平和的に、非暴力で実現しなければならない、と確信していた。

 そこで彼らは、もっぱら宗教的な視点から活動してきた人々などと共に、兵役拒否運動をした。その一人が、当時二四歳だった本書の著者である。仲間と共に捕まった彼は、三六六目を監獄で暮らした。ただ兵役を拒否したというだけで――本書が克明に伝えるアメリカ政府の政治犯弾圧の酷さもまた、一般のアメリカ人はあまり知らないことらしい。多くのアメリカ人は政府の悪行を知らない。本書の邦題はそれを表している。

 原題は「イエールからジェイルヘ」という酒落っ気のあるものだ。イエールは米国第一のエリート大学。そこに著者は一六歳で入学し、哲学と経済学を学び、英国のこれまたエリート大学オクスフォードに二十歳で留学して西欧社会の見聞を広め、帰国後、労働者の生活や、路上生活者の実際を知るための放浪生活を体験した後、神学校で神学を学びながら、非暴力反戦平和運動を積極的に始めた。そしてジェイル(監獄)に到着したわけだ。

 彼の闘いは、その後、基本的に変化無く、愛と非暴力を手段として、人々の経済的、民主的平等と自由を希求しながら、日本への原爆投下、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、と時代を貫いて続く。もちろんジェイル経験もたっぷり繰り返される。そして今、八二歳。変わらぬ人間愛をたぎらせながら、敵は人ではなく制度だ、と主張する。

 彼の場合「イエール」はその豊かな知性の象徴だ。「ジェイル」は、下層労働者、ホームレス、被差別者と連帯してよりよい社会を目指す彼の運動を象徴する。そして、イエールとジェイルの語呂合わせは、スポーツが大好きで酒や煙草も嗜み、性的問題にも時に翻弄され、プルーストにはすぐうんざりするがドストエフスキーには魅了され、充分にユーモアを解する楽観的な男を象徴している。そのすべて、知性と運動と人間性のすべての要素が、社会運動家の自伝という退屈なはずの書物を実に魅力的な読み物にしている。そこには、共にベトナム反戦運動をした訳者と著者の連帯感もプラスに働いたのだろう。

 それにしても本書はばかばかしく分厚い。長モノには手が出にくい? でも、ぜひ読んでみてほしい。『日本』が知らない日本も、本書から知ることができるからである。今、私たちは非暴力の合理性、現実性、そして強さを疑ってはいないだろうか? 武力を肯定する前に、本当の意味での「強いアメリカ」、デリンジャーの人生と意見を知ることは、私たちにとって確かに有益である。

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『読売新聞』 1997.12.14

老反戦運動家の“めげない”自伝

  忍 

 おい、アメリカ人でさ、とんでもないッジがいるぞ。

  裕福な弁護士の家に生まれたのに、ホームレスにまじって暮らすようになって、おまけにドイツや日本相手の戦争もいやだと言って徴兵拒否。監獄にぶち込まれ、出てきたと思ったら広島、長崎の原爆投下を糾弾し、ソ連占領下のヨーロッパに潜り込んで、絶対非暴力を訴えるビラを配って歩いたっていう。そのときは半分失明してたんだって。行く前にニューヨークで朝鮮戦争反対の街頭集会やってて、暴漢にぶん殴られたらしい。めげないジイさん。

 ――という具合に、読み終わったあと、だれかに電話して話したくなるような本だ。ホラ話ではない。八十二歳の実在の人物の自伝なのだ。

 じつは私、著者デイブ・デリンジャーには恩義がある。四半世紀前の冬、貧乏旅行でシカゴに漂着したとき、縫製会社の首切り反対のデモに出くわした。小さな集まりだったが、そこに寒そうに立っているジイさんがいた。宿がない、というと、じゃワシのホテルに泊まれや、とベッドの半分と翌朝のメシをわけてくれた。当時のデリンジャーは、下火になったとはいえベトナム戦争の強固な反対者として知られ、憎まれてもいた。情報機関につけまわされ、暗殺計画もあった。本書の圧巻は一九六八年、シカゴの民主党大会を機に開かれた反戦集会が警察と衝突した事件の首謀者の一人として逮捕され、裁判にかけられたときの回顧である。

 事件は大統顔付属の委員会までが警察側の非を指摘したが、五十七歳の被告は法廷発言を禁じられ、退去させられる。これがアメリカの司法制度か、と驚くと同時に、その後の彼が人種対立やラテンアメリカ問題、さらに最近では阪神大震災の被災者の公的支援の必要についてまで発言し行動していると聞いて――な、変なジジイだろう、とやっぱりだれかに電話し、このジイさん、おれ知ってる、と自慢したくなる。

デリンジャー=一九一五年米国生まれ。反体制月刊誌「リベレーション」を主宰。

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