TKOPEACENEWS
 2面 NO.36/03.4.1発行

米軍普天間基地県内移設反対闘争支援

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第4回沖縄基地ツアー報告

・2003年2月28日〜3月3日
・伊江島、名護市、嘉手納町など
・報告 事務局長 森本 一雄



■03年2月沖縄をとりまく情勢について


●新基地建設は環境を破壊し、ジュゴンを絶滅に追いやる!
 政府、県、名護市などによる第9回代替施設協議会で、米軍普天間飛行場代替基地は、埋め立て方式でリーフ上に2,600メートルの軍民共用空港を建設する基本計画が決定された。この決定は、地域住民の安全や環境を守る視点から重大な問題を残すとともに、稲嶺知事の公約である15年使用期限をもうやむやにした政府主導の決定となっています。
 政府はこの決定を受けて、本年度中に環境アセスメント作業に着手しようとしています。環境保護の専門家は、特別天然記念物・ジュゴンを絶滅のふちに追いやり、藻場、さんご礁が息づく豊かな自然への深刻な影響は避けられないとの見方で一致しています。

●現在も米軍による事件、事故は多発している!
 95年9月少女が3人の米兵隊に強姦されるというショッキングな事件が発生しましたが、その後においても将校による女性強姦事件や、女性宅侵入、暴行、窃盗などの犯罪は現在も多発しています。軍機による故障、火災、燃料もれ、エンジントラブルなどで頻繁に民間空港へ緊急着陸、海上墜落事故、米軍ヘリが住宅のそばに不時着陸。照明弾、燃料タンク、風防ガラスなど空からの落下事故。このような米軍機が沖縄の空を我が物顔で飛んでいます。
 さらに許しがたいことに、米軍ヘリが7月下旬4日間にわたって、操業中の漁船に低空接近し威嚇をくりかえしました。陸上では砲弾が山火事を起こし、水陸両用車が民間道路を走り、縦断、模擬地雷、PCBが地上に放置され、基地から赤土が流出して川を汚染しています。さらに農作業中の県民のわずか2メートル先に重機関銃の銃弾が飛んできました。

●米軍基地の機能の強化が続けられている!
 9・11米中枢同時多発テロ事件後、沖縄の米軍基地はますます重要視され、アフガン報復戦争に在沖縄米陸軍の特種部隊の投入、フィリッピンのテロ組織掃討戦では海軍工兵隊、陸軍の特種部隊、海兵隊が出撃しています。このように、沖縄の米軍基地は出撃、補給の拠点として整理・縮小・撤去を求める県民の声を無視して増々基地機能が強化されています。

●小泉内閣は世界の国々の中ではぬきんでて米国の戦争に荷担している!
 日本はテロ特措法を多くの国民の反対があるのにもかかわらず強行成立させ、インド洋において米英艦船にこれまで140回計234,000リットル補給し総額85億円の国民の税金がつぎこまれています。横須賀、横田、沖縄などに米軍基地を提供し6千億円をこえる「思いやり予算」を計上しています。12月16日には、世界の軍艦のなかでは最強といわれるイージス艦を出撃させました。このように人も金も武器も世界の国々の中ではぬきんでて米国の戦争に荷担しています。
 この米国への従属は、平和憲法を停止状態にしての決定であり、憲法無視であるとして多くの国民は小泉政権は非常に危険な内閣であると認識が広がりつつあり、早期の退陣を求める声もあがって来ました。


米軍基地の視察と沖縄戦の戦跡を訪ねて!


●国道58号線を北上して伊江島へ!
 今回の基地ツアー参加者は19人で2月28日羽田空港に集合して沖縄に向かいました。飛行は2時間30分を予定しているとのことが機内放送で案内があります。途中、恐怖の揺れもなく順調に飛行し20分後には那覇空港に着陸するという、これから機は着陸態勢に入るとの案内がある。これからの15分間、高度300メートルというジャンボ機の飛行にはぎりぎりの高度と速度で空港に向かう、専門家に言わせれば非常に危険な時間帯との事である。いずれ大事故になることが予想されているという。
 なぜこのような危険な飛行をしなければならないかは、沖縄の空は米軍機の飛行が優先されているためでもある。日米安保で基地を提供しているため私たちは、いつか犠牲を覚悟しなければならないのは納得ができない。ここでも安保が国民に犠牲を強要している。
 空港には、沖縄平和運動センターの宜野座事務局長と岸本さんが笑顔で向かえていただいた。バスにはセンターの岸本さんが同乗し道々沖縄の現状と基地の案内を引き受けていただき参加者も大歓迎でした。岸本さんは毎回私たちの基地ツアーの案内を引き受けていただいています。
 空港から数分で左には「米軍那覇軍港」が港の一番重要な所を占拠している。ここからあのベトナム戦争のときには戦車や砲弾などの武器が出撃しベトナムの市民を大量に殺戮したが、現在はイラク攻撃に物資が出ていっているとのことである。この軍港は20数年前に返還が決定していたが県内移設が条件であったためどこの町も引き受けがなかったが、隣の浦添市が誘致を決定し、軍港建設反対闘争は浦添市に移っている。
 その先は、東洋一の補給基地キャンプ・キンザー、キャンプ・惴慶覧、そして4千メートル滑走路2本を持つ嘉手納空軍基地、その隣は広大な嘉手納弾薬庫地区が続いている。この弾薬庫地区はかって毒ガスが貯蔵されていることが判明し沖縄県民の総力の闘いにおいて米軍はやっと本国に撤収したが、核兵器は沖縄返還時の密約でも明らかなように「核」は持ち込まれているのにもかかわらず日米両政府は明らかにしていない。イラクの大量破壊兵器は核と生物化学兵器だといわれているが、IAEAはこの弾薬庫地区を査察してもらいたいものだ。

●伊江島
 私たちが伊江島にフェーリーで入る前日、米陸軍兵士のパラシュート降下訓練が行われていたが、6人の米兵が訓練地域外に降下して農作物や村民の安全が脅かされたとして村は米軍に重大事故だとして厳重に抗議をしていました。
 伊江島には1945年4月16日に米軍が上陸し4月21日には完全に制圧された。周囲22キロの島で島民4,176人と県外からの兵隊846人の犠牲者をだした戦いでもありました。島民の犠牲者は2人に1人が犠牲になるなど非常に惨たらしい戦争であったと伝えられています。
 私たちは、のちに沖縄土地闘争の導火線となった「島ぐるみ闘争」のリーダーであった阿波根昌鴻さんの自宅を訪ね「伊江島闘争」についての歴史をまなびました。島民は、戦争で米軍に土地をうばわれ、生活のため実弾演習の際には競って砲弾や薬きょうを拾って、それを売ることでなんとか生活をしなければならないほど苦境に追い込まれていったとのことです。そうした生活の実態が平和史料館には、米軍に焼かれた住宅、ブルトーザーで破壊された住宅、不発弾を自宅に持ち帰り爆死した島民の惨たらしい写真など、戦争が終わっても強制的に取り上げられた土地を取り返すため命をかけた戦いの記録がありました。忘れてはならない歴史であるともいえます。
 今日のこの島では、米軍基地を誘致することによって防衛庁から数百億円の基地交付金を受け取り、道路や公共施設、農業用の溜め池などが整備され島民が他の離島よりも生活水準が高いとの事です。米軍基地や自衛隊基地の誘致の見本の村になっているとの説明に私たちも複雑な気持ちになりました。
 島の南に標高175メートルの城山があり、その頂上からは島が一望できるほどの小さな島ですが、そのほぼ中央に日本政府が建設した空港があります。この空港は、1975年沖縄復帰を記念して「海洋博覧会」が開催されたが、海洋博に来る皇室のために13億円を投じて建設したとのことで、その後は使われていないということに参加者は唖然としたものです。

ヘリポート建設阻止協議会「命を守る会」
 3月1日は伊江島から名護市辺野古の新基地建設予定地で、建設反対闘争の全面で頑張っていられる「命を守る会」を訪ねました。この会の皆さんは平均年齢75歳で最高92歳の人も頑張っている。闘いの状況を説明していただいた金城代表は、「沖縄戦争を生きた承認として子供や孫たちに戦争反対の闘いの継続を訴えている」「新基地建設を阻止して、平和を守る21世紀に向けて大きな波にしたい」「特に若い人に頑張ってもらいたい」と私たちには気合いをいれられた交流になりました。
 新基地建設は、今年から環境アセスに入るなど新しい段階に入りつつあります。建設反対闘争はこれからが本番となります。

安保の見える丘 ―嘉手納基地―
 嘉手納基地は、4,000メートル滑走路2本もち、攻撃・中継・補給・偵察など総合拠点基地としての機能をもつ、太平洋地域最大の米空軍基地。司令部は東京横田基地。この基地においては、通常の訓練のほかに生物・化学戦や核攻撃も想定した訓練が行われていると軍事専門家は指摘しています。
 イラク攻撃を想定してか青森・三沢基地などから通常待機していない戦闘機や輸送機が頻繁に出入りしているとのことです。
 嘉手納基地は、嘉手納町・沖縄市・北谷町の3市町にまたがり、この土地は米軍の占領と同時に強制的に収容された土地でもあります。周辺の町では「静かな夜をかえせ!」として住民が爆音訴訟で闘っていますが、あまりにも騒音が激しいため北谷町砂辺集落などは防衛施設庁に土地をうりはらい町から出ていく人が急増しています。日本政府はかってアメリカ軍がしてきたような銃剣とブルトーザーで土地を取り上げるようなことをせず大金で住民から土地をうばい取っています。
 日米安保がつづくかぎり、これから100年200年も沖縄の県民に我慢せよということになるのか。怒りが込み上げてくる「安保の見える丘」であり「北谷町」でした。

嘉数高地の死闘と米軍普天間海兵隊基地
 沖縄平和運動センターの岸本さんとこの高地で合流して沖縄戦と現在の普天間基地の現状について案内をうける。
 この高地にくれば眼下に普天間基地が一望できる。宜野湾市のどまん中に位置し、まわりを住宅や学校が取り囲み異様な光景が目に飛び込んでくる。誰しもが市の中央に軍事基地をつくりゃがって、米軍は早く退いてくれという怒りの気持ちになるところでもあります。嘉手納基地や嘉手納弾薬庫地区の広大な基地と違うが日米安保の被害をまともに受けている沖縄の姿を象徴しているところでもあります。この基地が日米特別行動委員会の決定により返還が決定されたというニュースの時には沖縄の人たちは飛び上がって喜んだそうですが、その後、「県内移設が条件」であることが判明し、またも沖縄県民はだまされた!として、その怒りを日本と米国政府に突き付け移設として候補にあがった名護市においては、住民投票において辺野古海域への建設反対が民意として決定されたところです。現在は、知事や市長が選挙に勝って辺野古海域が決定されたとして国と具体的な建設にむけての協議が続けられているが、地域住民は米軍のための「新基地建設は反対」を明確にしています。
 嘉数高地の死闘は、日本軍の首里の司令部を守るため、2週間の激闘で日本軍兵士6,199人、米兵352死者。激しい戦闘に巻き込まれて死亡した住民は695名中347名。162戸中54戸が一家全滅の犠牲をだすなど、沖縄戦最大の犠牲者をだしたといわれています。
 この高地からは、慶良間諸島や米軍の上陸地点なども一望できるため過去と現在と将来を考察することができるとして「平和学習」に欠かせない場所にもなっています。個人で沖縄へいかれる機会がありましたら是非立ち寄って下さい。

南部戦跡…ガマ・平和祈念資料館・平和の礎・白梅の塔
 日本軍の南部への逃亡・撤退に多くの住民も南へ南へと着の身着のまま逃げていく、そしてガマに避難したものの米軍の馬乗り攻撃や艦砲射撃、火炎放射機や毒ガス攻撃を受けることになるが、中でも「鉄血勤皇隊」「学徒看護隊」など男女の中学生の犠牲には涙が流れる。このガマにおいては米軍からの攻撃だけでなく、日本兵からスパイとみなされ射殺さたり、泣く乳児の虐殺や食料の強奪、ガマから追い出されたりして多くの犠牲者が出たといわれています。だから沖縄のように地上戦を体験した県民はいまも軍隊は住民を守らないとして、イラク戦争反対などあらゆる戦争に反対しています。
 この南部の地には全国各県が建設した慰霊碑が建立されています。この碑のほとんどが、今日の繁栄は兵士の犠牲によるものだとして文言が記してあるが、戦争の犯罪、反省、加害など一切ふれられていないし二度と戦争をおこさ無いという決意もない碑は沖縄の地には相応しくないと思いました。
 私たちは、そうした碑がある場所からはなれたところの韓国人慰霊塔を訪ねました。沖縄戦においては、韓国人も強制的に兵隊にとられたり、従軍慰安婦として数千人から数万人が犠牲になったそうです。その犠牲者は今も不明であり、平和の礎に犠牲者として刻名されている人は数名に過ぎません。
 わたしは、犠牲になった韓国の人々の冥福を祈りながら、「碑」の文を全文紹介します。

 1941年、太平洋戦争が勃発するや多くの韓国人青年達は日本の強制連行的徴募動員された1万余があらゆる艱難を強いられたあげくあるいは戦死あるいは虐殺されるなど惜しくも犠牲になった。
 祖国に帰り得ざるこれらの冤魂は波高きこの地の虚空とさまよいながら雨になって降り、風となって吹くであろう。この孤独な霊魂を慰めるべくわれわれは全韓民族の名においてこの塔を建て謹んで英霊の冥福を祈る。
1975年8月
韓国人慰霊塔建立委員会

●米英によるイラク攻撃に反対し、日本の戦争支持に抗議します。
 アメリカ、イギリス、スペインの首脳は、日本時間の17日未明、ポルトガル領アゾレス諸島において、国連の決議なしでもイラン攻撃を行うことの協議をおこなっています。このセンターニュース36号が発行し組合や個人会員の皆さんのところに届く頃はすでに攻撃が開始されているかも知れません。私たちは戦争反対の行動を全世界の平和を求める人々と連帯して行動に立ち上がります。多くの皆さんの協力をお願いします。


▲伊江島・千人ガマから見た海!
▲米軍の攻撃で島で唯一つ残った公益質屋!
▲団結小屋!
▲辺野古で「命を守る会」との交流
▲安保の丘で嘉手納基地を視察!
▲町のどまん中の普天間基地!
▲白梅の塔!
▲韓国人の慰霊の塔!

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