TKOPEACENEWS
  4面 NO.13/00.12.1発行

原水爆禁止運動と、統一問題

 10月24日に広島市で「核兵器廃絶2000年広島の集い」が開催されました。この集いについて一部報道機関などにおいて、原水爆禁止日本国民会議と日本共産党に強く影響のある団体との統一があたかも実現したような記事が掲載されました。この報道後事務局に多くの方から質問などがよせられていますので、原水爆禁止日本国民会議、原水爆禁止広島県協議会などの見解を以下のとおり紹介し、質問に答えたいと考えます。また、核兵器廃絶を願う皆さんの今後の運動の参考になればと思います。

10月18日の朝日新聞記事に関する、原水爆禁止日本国民会議・佐藤事務局長見解

 10月18日付け朝日新聞に、「広島の原水禁・原水協─合同で24日に反核集会」という見出しで、「核兵器廃絶2000年広島の集い」が紹介されました。この記事が掲載されて以降、原水禁国民会議にも幾つもの問い合わせがありました。よって、この記事に関して原水禁国民会議の考えを明らかにします。


1.記事の意図するものは
 朝日新聞の記事を見ると、さも原水禁と原水協が統一した集会を開催するような印象を与えるものになっています。そればかりか、来年3月にも大規模な統一集会を予定しているとしています。
 こうした記事は、これまでも多くのマスコミが深慮することなしに提言してきた「組織の統一こそが善であり、運動の基本である」とする単純かつ一般的発想に過ぎないものであると言ざるを得ません。
 もし、そうでないとするならば、特別の意図をもって提言しているとしか言いようがありません。
 また、この記事では、1963年の原水禁大会の対立やその後の原水禁国民会議の設立が、日本共産党の主張した「ソ連の核は平和の核であり、アメリカの核にだけ反対すればいい」とする主張と、我々原水禁国民会議の「あらゆる国のあらゆる核に反対する」という主張の対立が分裂にまで及んだことや、統一世界大会を一方的に否定し終わらせた原水協の対応には一切ふれていないことを指摘せざるを得ません。

2.集会を企画するに至った経緯
 集会は、個人による結集を基本としたものであり、原水禁、原水協などは、組織としての関係は全くありません。したがって、個人の立場で呼びかけ人となり、世話人となって行動しているのです。
 そして、よびかけにもあるように「平和運動の多様な広がりと思想信条を越えた『ヒロシマの力』を改めて結集したい」ということが動機であり、組織を越えた広汎な県民の結集をはかることに主眼が置かれているのです。
 また、今回のように組織を越えた集会は過去にもありました。
 例えば、政府の主催する「東京フォーラム」に対して開かれた一昨年の「核兵器廃絶を求める広島・長崎市民の集会」などは、幅広い市民と共に開催してきていますし、今回もそのような発想のもとに企画されてきたものです。
 なお、かって原水禁と原水協とが統一行動をしていた時の残金処理も併せて行うこととしていますので、このことを理由に意識的に目的を誤解させることも可能だと思います。

3.原水禁の見解
 原水禁は「核と人類は共存しえない」という理念を共有し得るあらゆる団体や個人と幅広く連帯していくことを改めて表明するものです。そして、あらゆる地域や職場において、多数派形成が可能であるという確信のもとに、運動を推進して行きます。
 私たちは、今回の朝日新聞が期待していると思われる原水禁と原水協の統一によって、多数派形成という目標に近づくことになるとの判断には立ちません。むしろ、特定政党と密着することになり、枠組みを狭め少数派に転落する道につながるものであると考えます。
 今、我々に求められていることは、多くの市民団体をはじめ、労働組合そして連合との連携を強めるなど、多数派形成に向けて誠心誠意努力することであると考えます。


■原水爆禁止運動と統一問題

原水爆禁止広島県協議会代表委員  宮崎 安男

1.なぜいま、統一議論か
2.原水爆禁止運動の起こり
3.原点は、ヒバクシャ
4.なぜ分裂したか
5.分裂のなかでの共同行動
6.統一大会は何をもたらしたか、そしてなぜ再分裂したのか
7.再分裂後の共同行動
8.多様な運動、そして大胆な共同行動を


1.なぜいま、統一議論か
 原水爆禁止日本協議会(原水協〜1955年9月19日結成)が1963年の第9回世界大会の時に大きく分裂して今年で37年になる。広島平和会館は一時日本被団協の事務局となっていたことがあるが、その意味で原水禁運動の統一問題と被爆者組織の統一について、最近特に若いマスコミ人のなかで話題にされているので、この際事実経過に基づきその経緯について明らかにしておきたい。

2.原水禁運動の起こり
 人類最初の原爆被害は、その規模と悲惨さにおいて史上例をみないが(その解明はいまも完全ではない)特に米国が「核独占」をもって大戦後の世界政治の指導権をにぎろうとしたために、プレスコードなどで原爆被害を秘密にしたことや核被害そのものが人類未知であったために、「広島・長崎」はながく放置または無視されてきた。
 1954年のビキニでの水爆実験による第5福竜丸被爆事件は、生活レベルでの核被害を日本全土にひろげ、東京杉並での水爆実験反対の運動が起こった。しかしこの杉並の運動も初めは「水爆禁止」で、ヒロシマ・ナガサキの被害はまだ視野になかった。
 やがて広島の原爆反対の運動と繋がり、1955年の「原水爆禁止世界大会」となる。その後大会は持続され、最初の大会は第1回世界大会と呼ばれるようになった。

3.原点は、ヒバクシャ
 第1回世界大会は最後に「広島アピール」を採択したが、その内容がその後の原水爆禁止運動の原点となる内容を示している。それは以下のとおりであるが一口でいえば「被爆者救援、核兵器廃絶」「ノーモア・ヒロシマ・ナガサキ、ノーモア・ヒバクシャ」の言葉に集約される。
 「原水爆被害の実相を広く世界中に知らすこと。その救済を世界的な救済運動で急ぐこと。それが本当の原水禁運動の基礎であること。原水爆が禁止されてこそ真に被害者を救うこと。政党・宗派・社会体制の相違を越えて運動を強めること〜」
 核兵器の威力や政治的影響も重要ではあるが、何よりもそれがもたらした人間的悲惨さと、その悲惨さへの創造力こそが原水爆禁止を求める原点であり、つまり「ヒバクシャ」にこだわることだった。

4.なぜ分裂したか
 原水爆禁止運動は人道的大衆的な国民運動であったが、核兵器自体はまさに政治のなかにある、運動の中に安保条約反対などの政治要求が「原水禁運動そのものとして」要求されるようになり、そのことを理由に運動から離れる人たちが出た。
 人道的見地より政治的要求を優先する人たちは、原水爆禁止より政治的統一戦線の構築を優先し、資本主義国を戦争勢力、社会主義国を平和勢力と限定して、戦争勢力に対抗するためには社会主義国の核実験には抗議しないとの挙に出た。
 それに対し(アメリカとソ連同一視しないが)ソ連の核実験を認めることは絶対できない。いかなる国のいかなる理由によろうとも、核実験は絶対否定すると主張する人との間に鋭い対立が生じ、世界大会は双方の大動員合戦ともなった。
 こうして第9回世界大会を期に運動はさらに大きく分裂した。分裂の最大の原因は原水禁運動の当然の基本的原則である「いかなる意味でも核実験・核兵器を認めない」との立場が貫けるかどうかであった。さらに、1963年の9回大会直前(8月6日調印)米英ソ3ケ国が締結した部分的核実験禁止条約の評価をめぐって、これをごまかしとする人達と、大気圏核実験によって多くの人が「死の灰」の被爆で苦しんでいる現状のなかで部分的な前進と評価しようとする人たちとの対立もあった。

5.分裂のなかでの共同行動
 原水爆禁止広島県協議会(広島県原水協)は、1954年9月7日、原水爆禁止の署名運動のなかから結成(結成当時は原水爆禁止運動広島協議会)され、1956年6月27日には広島県原爆被害者団体協議会が結成されたが、地方から、行動から、大衆から始まった原水爆禁止運動は、中央から、組織から、政党から分裂した。広島では1964年6月全く同名の原水協が、続いて1県1被団協組織の原則を崩して同名の被団協も広島に結成され、「いかなるを原則として堅持しようとする人たち」を分裂主義者、アメリカ帝国主義の手先などといい、共同行動を行うのは分裂の固定化になるとして、一切の行動が行われなくなった。
 しかし、事態は急を要していた。中央の締め付けにもかかわらず、広島では当面する課題での共同行動が困難ななかで生まれ始めた。禁・協との別れた両組織が分裂以来も始めて同一のテーブルについたのは、1972年6月2日結成の「被爆二世問題連絡会議」だった。
 ついで1973年7月20日のフランスの核実験に反対する慰霊碑前の座り込み行動のあと、被爆二世連絡会議は「広島被爆者団体連絡会議準備会」となり、被爆者援護法獲得を最大の目的とし、必要に応じ原水爆禁止運動をおこなうことを申し合わせた。(準備会は74年2月、14団体で正式になり)、のち18団体となって広島の共同行動の母体となった。今日の広島での被爆7団体に通ずる。
 共同行動は、1977年の「森滝・草野合意」を経て77年の統一世界大会となり、77年7月31日〜8月2日開催のNGO被爆問題国際シンポジュウム実行委員会への広範な結集となった。広島ではシンポジュウム終了後も、被爆国際シンポ広島継続委員会として継続し、さらにミッドウエイ核空母日本寄港反対を契機に81年5月18日「原水禁運動ヒロシマ連絡会議」の共同行動組織を結成、82年3月21日の「82年・平和のためのヒロシマ行動」に20万人を結集する共同行動となって続いた。また78年・82年・88年の国連軍縮特別総会には市長を先頭に市民あげての派遣行動が取り組まれた。

6.統一大会はなにをもたらしたか、そしてなぜ再分裂したか。
 統一世界大会は、1977年から85年までの8年9回続いた。しかし大会は大会中に行われた核実験の抗議行動に対して会議優先として殆ど参加しなかったり、原発問題にあいまいなため具体的行動が組織できず海外代表が異議をとなえての大会ボイコットがあり、とくに統一世界大会の重要な決議事項であった被爆者援護法制定行動でさえ中央では統一行動がとられないなど、統一の名のもとに、当面の緊急課題に対処できない不満がつのった。
 さらに大会を広範な市民参加とするために大会前の行進では組合旗・政党旗を遠慮してほしいなどの市民団体の要望をいれ自粛で一致していたのに一部政党が強く反発して合意事項を破るなどのトラブルが続き、統一大会をますます形骸化させた。また原水協内部の内紛もあり大会への参加資格問題で毎回紛糾し、ついに1986年より統一世界大会は開かれなくなった。
 
7.再分裂後の共同行動
 以上のような経緯によって、形式的な「統一世界大会」は行われなくなったがそれぞれの団体個人による運動はますます多様に行われた。そのなかで、とくに原子爆弾被爆者援護法制定を求める行動は、広島では国家補償の援護法を求めて大きな共同行動として行われた。援護法は1959年に提出以来35年たって1994年12月9日全政党賛成のもと(広島長崎選出の一部社会党議員が国家援護法でないと反対したが)国会で成立した。
 しかし真の国家補償法ではないと改正要求が続いている。このようにとのわけ被爆者問題については中央の締め付けにもかかわらず、広島における共同行動は殆ど絶えることはなかったといえよう。

8.多様な運動、そして大胆な共同行動を。
 今日、分裂の最大原因となった「例え理由があろうとも、いかなる意味でも核実験、核兵器は絶対否定する」という原水爆禁止運動の基本原則はどのように受け止められているのだろうか、かってそれを否定した人たちや政党からはいまもってなんの態度の表明はない。最近、共同行動は分裂の固定化だとして決して行動を共にしなかった人たちから「過去にこだわらず」との呼びかけがされている。そして2000年紀を契機にして「なぜ統一しないのか」の質問を受ける。統一とは一体何なのか。分裂とは何なのか。何のために何を求めているのか。かって長く統一して核実験に反対した慰霊碑前の抗議の座り込みからいつのまにか離れた人たちが、離れた理由について(座り込んでも組織が統一できなければ意味がない)と主張したことは消し去ることはできない事実である。核実験に抗議するために座り込んでいたのではなかったのかと。
 結局、統一世界大会というものは、大会参加の資格問題や、課題の優先度の果てしない議論、具体的行動の先送り、はては事務局の主導権争いや、大会での採決を要求しての多数決決議とそれを可能にするための大会参加者の動員合戦などなど、表面上の形ばかりの大会となり、とりわけ海外代表の不信を増幅し、一般大衆の参加の道を閉ざした。
 原水爆禁止運動を、特定政党のプロパガンダと勢力拡大に利用する限り、大衆的国民的運動の性格は色あせていく。いまや時代は多様性を尊重し、創造的で自立的な運動を求めるようになっている。残念なことに原水禁運動の「分裂」のダメージは大きく、それを理由にあげつらって運動に距離をおく人もある。だからといって、かっての「統一」の呪縛から抜けられないほど、核兵器廃絶に向けた事態と時間は止まってはいない。
 21世紀を前にして、とりわけ広島は「ヒバクシャ〜核の人間に与える悲惨さに目を向けた〜」立場を貫き、あらためて「核兵器絶対否定の揺るぎなき意志」を世界に強くアピールし、核も戦争もない非核・平和の21世紀の扉を切り開く「希望のヒロシマ」を世界に呼びかける使命がある。大胆で具体的な共同行動を準備しょう。

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