『生きること 学ぶこと』

発行日 2000年3月4日(土)

発行 所沢高校PTA生活文化部



                             2000年3月4日
                               所沢高校PTA
                                 生活文化部
         『生きること 学ぶこと』
                            講師 松崎運之助さん

昨年12月4日(土)所高体育館で行われた山田洋次監督の映
画「学校」のモデルの先生、松崎運之助さんの講演内容を報告
いたします。テープおこしをして内容を忠実にまとめたため長
くなりましたが、心を打つすばらしい話を読んで下さい。なお
所高PTA新聞今年度第3号3月8日発行にも講演会に関する
記事がのっていますので、併せてお読み下さい。


 今、僕が勤めている学校は、生徒さんが80人ほどで、年齢の一番高い方で
73歳、一番若い方で16歳です。大家族の勉強っていうか、そんな形でやって
おります。
 生徒さんはみんな、希望して来られます。夜間中学では決心した時がスタ
ートと思っておりますので、「来年4月に来てください」なんて冷たいこと
は言えませんよね。それでいつでも受け入れているわけです。
 70歳ぐらいのご婦人が「ちょっと、あんちゃん、お願いだからこの漢字の
読み方を教えてよ」って、男の子に声をかけたんです。「ひらがなの時はと
んとん拍子に行ったのに、漢字になるとうまくいかないのよね」って言うわ
け。あんちゃんは、本当に分からないんだって納得して、教えてあげるんで
す。
 教えてもらった方は、うれしくってたまらない。「あんちゃんって、本当
に頭のいい子なんだねぇ」って言うんです。こう言われた方もキレたりはし
ません。心から出た言葉だからですよ。
 心から出た言葉は、人の心を打ちます。同じ言葉でも、生活指導上そろそ
ろ褒めた方がいいだろうとかでは、見透かされます。それは、同じことを言
われてもキレることになりますよね。
 で、あんちゃんは気がついてみれば休み時間ごとに、その70年配のご婦人
に教え始めたわけです。ところが三日ぐらいたって、難しい顔して職員室に
入って来たんです。僕の隣りに座って、深いため息なんかついて言うんです
よね。
 「この間から年配の人に勉強教えてるんだけど、こんな半端なオレに深々
と頭を下げてお礼を言われるんだよね。で、オレも気が付けば次の休み時間
が待ち遠しくなってたんだ。だけどその年配の人、きのう勉強したことをき
れいに忘れてたりするんだ。オレの教え方に何か問題があるんだろうか」
 僕は悩んでいる彼の構顔を見て、いい勉強してるなあと思いました。勉強
は知識の量を積み上げればいいってもんじゃない。心が豊かであって初めて
花開くわけでね。
 教育を考えるとき、子供たちの問題だって考えがちだけど、生き方の問題
でもあります。今をどう生きるか、自分を生きているかどうか。こういう目
線を持っていないと、子供にだけちゃんと生きなさい、感動的に生きなさい
と言っても説得力がないですよね。
 みなさんがお母さんの話をされますから、僕も自分のおふくろの話をしま
す。僕は戦争が終わった年に満州で生まれました。兄貴は1歳の誕生日を待
たずに栄養失調で死んで、その時、おなかの中に僕がいたそうです。子をな
くした親の気持ちは、亡くした本人にしか分からないって、おふくろは僕の
誕生日になると毎年その話をするんです。
 僕が小学生になって生意気な口をきくようになると、おふくろは「あんた
が日本に引き揚げてくるまでに、どれだけの人が亡くなったと思っているの
か。あんたはその方たちのお余りをもらって生きているんだ」って言いまし
た。
 僕の親父はどうしようもない親父でね。僕が小学校3年の時に、親父は女
の人を作って出ていきました。出る時に家を売り払っていなくなりました。
 で、お金がないから、長崎市の繁華街を流れる黒いドプ川があるんですが、
その川の中に柱を立てて、板を渡して作った掘っ建て小屋に住んだんです。
畳1枚しか入らないから、便所もありません。橋のむこうの共同便所でやっ
てましたよ。
 おふくろは朝早くから、日雇いの仕事に出掛けて行きました。で、疲れて
帰ってくると、すぐ寝るんです。僕らは寂しくって仕方がなかった。ある日、
子供三人で橋のむこうまでおふくろを迎えに行きました。おふくろの姿が見
えると、歓声を上げて走って行っで、前になったり後ろになったりしながら
いっせいに話始めるんです。おふくろは近くの石段を登って、眺めのいい所
まで連れていってくれました。眼下には長崎の夜景が広がっていて…。空き
腹抱えていましたよ。でも、母と子の間にはさわやかな風が吹いていたよう
な気がします。
 おぷくろは一生懸命働いてくれたんですけど、無理がたたって寝込むこと
がありました。その晩は、食べるものがないんです。妹と弟はまだ2歳と3
歳ですから、「かあちゃん、おなかすいたよ」って言って泣くわけです。す
るとおふくろは起き上がって、二人を抱き締めて話を始めるわけです。二人
は大好きなおかあちゃんにだっこされて、そのうち居眠りし始めるんです。
でもおふくろは真剣な顔をして話し続けるんです。その顔を見ていて僕は、
ああおふくろは妹、弟に話してるんじゃなくて、崩れそうになる自分の気持
ちを立て直すために話してるんだなって、思いました。
 世間の人は非常に冷たかったですね。だけど、僕らを励ましてくれる人も
いました。一番心に残っているのは、保育園の保母さんです。僕が妹、弟の
送り迎えをしていると、ふぴんに思われたんでしょうね。桜の木の下に連れ
ていくと、いつもおやつの残ったのをちり紙に包んでくれるんです。僕の目
をじっと見ながら「がんばるのよ」って言われるんです。まあ、この一言に
どれだけ救われたかわかんないですね。
 その保母さんは、僕が中学に入らた時、原爆病で亡くなられました。僕を
励ましてくださってた時はもう、体がポロポロだったんですね。そんな大変
な状態の中で、薄汚れた子供に励ましを送って下さった気持ちを考えると、
54歳になっても背筋が真っすぐ伸びますね。
 僕は中学を卒業して、造船所に就職しました。18歳になって、友達が高校
を卒業するのを見て、僕も一度行ってみたいという気になりました。で、昼
間は造船所で働きながら、定時制高校に通ったんです。ああ、学校っていい
もんだなと思いましたよ。それで大学にも行きました。
 大学を卒業する時に、夜間中学と出会ったんです。教員免許を取ろうとし
て、実習に行ったんです。目を輝かせて勉強されてた方が、パタッと学校来
なくなったんです。指導の先生が「あの方は小さい時から活字を作る工場で
働いて、鉛中毒になって、無理をしてはいけない体だったんだ。でも、学校
に行かないと死んでも死に切れないと言われて、通っておられたが、今は絶
対安静の状態なんだ」と言われました。すごいショックだったですね。あの
目の輝きは、命を削って輝かせていたんだと、その時初めて気付いたんです。
 それで、東京都の採用試験を受けて、夜間中学だけを希望して教員になり
ました。27年前のことです。
 おふくろは去年の一月に77歳で亡くなりました。おふくろの部屋を整理し
ていたら、押し入れからたくさんの絵が出てきたんです。スケッチプックに
色鉛筆で、風景だとかの絵をいっぱい書いてました。死んでから僕にくれた、
おふくろのプレゼントですね。
 プレゼントと言えぱ、僕が40歳の時に、おふくろが生まれて初めてプレゼ
ントをくれましたよ。それは大学ノート三冊にびっしり、自分の生い立ちを
書いたものでした。養子に出されたこと、子守をやっててあまり学校に行け
なかったこと、紡績女工になったこと、いろんなことを書いてます。それを
もらって初めて、今まで断片的に知っていた話がつながってきました。
 僕ら兄弟は、おふくろのことを尊敬しています。そのおふくろのことをで
すね、このたび本にしました。「母からの鰭り物」というタイトルで、つい
この間、印刷所から出たぱかりなんです。もしよかったら、ごらんになって
下さい。ぜひ、おふくろのエンビツの絵を見て下さい。


(Web管理者記)
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