所高生の自由と教育を考える委員会だより

発行:所沢高校PTA・所高生の自由と教育を考える委員会

発行日:1999年3月6日(土)

所高生の自由と教育を考える委員会だより

                    所沢高校PTA
   1999.3.6         所高生の自由と教育を考える委員会発行

   第3回会合『所高生徒会の歴史をご一緒にたどってみませんか』報告  昨年の12月19日(土)に『所高生の自由と教育を考える委員会』第3回会合が、 「所高生徒会の歴史をご一緒にたどってみませんか」というテーマのもとに開かれま した。所沢高校といえば“自主・自立・自由”な学校と言われますが、その校風はい つ頃から、どのように生まれてきたのでしょうか。どうやら初めからそうだったわけ でもないようです。今回は所高が“所高らしく”なっていった過程を、それぞれの時 期に実際に所高に在籍し、その歴史を作っていく当事者でもあった3人の方々に当時 のお話を伺いながら、所高の“自主・自立・自由”についてあらためて考える時をもっ てみました。当日はPTA会長の君島和彦さんの司会で進められ、保護者の方々だけ でなく、現生徒の皆さんや卒業生も参加され、いろいろな立場から意見交換をするこ とが出来ました。以下にその概要をお伝えします。 ◆所高が民主化された頃       生本隆一先生 (教員)  1967年に所沢高校に赴任した。高校紛争の2年前のこと。担当は生徒指導。当 時の所高は、暴力事件があったり、体育系のクラブ活動での上級生から下級生への体 罰問題があったりと、荒れていた。「こんな学校に来るんじゃなかった」と作文に書 いた生徒もいたくらい。そこで暴力追放キャンペーンを展開したが、なくすのに3年 かかった。その頃は物の言える職員会議になっていたが、4・5年前までは何も言え ない職員会議だったと聞かされていた。  高校紛争は、所高では有志によるハンストから始まった。最終的には“6項目の要 求”が出された。その背景には民主化要求などを出した大学紛争があったと思われる。 普通は職員は押さえる方に動くのだが、所高の職員は生徒の意向をよく聞くべきとい う職員集団だった。生徒会の方ではこれを生徒全体の問題としてよく話し合った。 “6項目の要求”の中では服装・髪型の自由化が代表的。生徒には服装に対して不満 が多かった。論拠は今の日の丸・君が代に似ていて、自由化したい人はすればよい、 一斉に画一的にやるのが問題なのだというものだった。当時保護者は服装の自由化は 「責任を持ちにくい」という理由で反対の人が多かった。職員会議では結局完全自由 化は否決され、今まである制服を残したままで、着用するかは自由というふうに決まっ た。これは大きな前進だったといえる。その他、生徒たちは、女子の家庭科を8単位 から4単位にしたり、所沢駅からの道の舗装を市に陳情して実現させたりと、いろい ろなことに取り組んだ。  所高の自由の校風ができるまでに69年からかなり時間がかかっている。職員会議・ 生徒会の民主化によるところが大きいだろう。とにかく何でも討論した。新旧が対立 したりしたが、新しい伝統を作ろうという中で着々と民主化が進み、現在のように卒 業生も誇りをもてるような伝統ができた。 ◆協議会ができた頃         三宅良子先生 (教員)  子どもの権利条約をすすめる会事務局長。所沢高校では1980年から83年まで 担任をもった。1965年、狭山高校に赴任し、生徒会顧問をした。その当時所高は 所沢に1校しかない高校で、地域に密着した学校だった。飯能、豊岡、狭山、狭山工 業、所沢、聖望学園の6校で入間6校交流会を開いていた。また全県でサマーキャン プを行っていた。以前はそれぞれの学校の刺激になって、お互いに学び合う伝統みた いなものが地域にあったのではないかと思う。  フランスでは、中央教育課程審議会の中に法律で位置づけて高校生委員を3人入れ ている。日本でも戦後すぐには高知で県の教育課程審議会に3人の高校生の委員が入っ ており、また大坂生徒会連合会、京都生徒会連合会があって、子どもたちが要求実現 のために活動していた。フランスの高校生のデモなどを見るとすごいなと感じる。日 本でも戦後教育がそういう方向にいったとしたら、高校生の置かれている立場は、相 当変わったのかなと思う。1969年に文部省の6・9通達というのがあって、すべ ての県の県教委が、高校生の政治活動の禁止を高校に通達し、高校生が集まって何か をするということが難しい状況になった。子どもの権利条約の政府報告に対する国連 の子どもの権利委員会の審査でも、6・9通達その他についてさまざまな質問が出さ れたが、日本の高校生に与えられているのは“制限付きの自由”というのが今の流れ の中では主流かな、と思う。本当の意味でひとりひとりの人間が尊重されて子どもも おとなと同じように1個の人間なんだと、どう具体的に保障されていくのかというこ とが問われていると思う。  当時の生徒会本部にとって、所高祭の改革が大変だった。参加はクラス単位、部活、 有志、というシステムを作り、教員側の実行委員会と生徒の実行委員会とで、話し合っ て取り組むことになった。この頃、体育祭の縦割りも始まった。門出式は、3年生が 送ってもらいたいということを1、2年生に申し入れして始まったこと。生徒が参加 して作る行事というものを、ひとつひとつの場面でどう実現していくかが生徒会が取 り組んだ一番大きなことだった。  二者協議会は、生徒の職員会議を傍聴させてほしいという要求が認められないかわ りに、生徒と職員会議とをつなぐものということでできた。生徒会が決めたことが職 員会議で通らない場合もあり、それには子どもの納得できる理由がなければならない し、また職員会議で1回決めたことは二度とひっくり返さないということはやめよう というその両面で、民主的な生徒と職員会議をつなぐルール作りとしての第一歩だっ たと思う。そういう民主的なルールがあって初めて、お互い納得のできるような話し 合いができるのではないかと思う。しかし、今思えば、生徒の生活に深く関わる部分 について、職員会議の決定を生徒会にはかる、ということが抜けていた。また、二者 協議会を作る時、父母の参加まで思いいたらなかった。長野の辰野高校では、三者協 議会をやっているし、高知県でも広がっている。京都の桂高校にはPTS(parent, teacher & student)がある。三者での学校づくりというのが、今までのことを土台 にしてこれから発展していくのかな、と考えている。 ◆生徒会権利章典が生まれた頃  須賀力哉氏(元所高生徒会長)  権利章典を作った当時の生徒会長で、現在は大学院の学生。生徒会の役員を務めて いたのは、1989年の“30分退出問題”から1991年の“自転車問題”まで。 (その間に“日の丸・君が代に関する決議文”も“生徒会権利章典”も生まれた。)  どのような考え方、精神、雰囲気が当時の自治活動、さらには生徒会権利章典を生 み出すことにつながっていったのか。「所高には自由がある」、「自由、自由」と言 われるが、自由とは、“守り育てる”ものであって、ただあるものではない。それは 自分たちで努力して育てていかなければ失ってしまう、取り上げられてしまうもの。 自由を当然であると思ってしまうと、例えば掃除をしないとか、自分の義務を放り出 してしまう。今自由があるということはどういうことか。過去の流れの中でつかみとっ てきた自由、先輩たちの苦労、活動のもとに成り立ってきた自由だということを忘れ てはいけない。だから、「自分達のことは自分たちでしよう、自分達のことすら自分 たちでできないものが何を主張しても説得力はない、私達はそのことを踏まえ努力す るので、私達に人としてあたりまえの自由、権利をください」というのが、権利章典 の精神。(それを生み出した背景にはむしろ「このままではいつか自由を失う」とい う危機感があった。)  権利章典制定当時も、自治活動は決して活発ではなかったし、また制定後も自治活 動は何ひとつ出来ず、実際には何も変わらなかった。(そこで権利章典制定に全てを 捧げていた元生徒会長(=須賀さん)は、大きな挫折感を味わう。)今では、当時が 生徒活動も自治活動も非常に活発で、そうした中だからこそ権利章典が生まれたのだ と思われがちだが、実はまったくそんなことはない。そこを勘違いして、「あの頃は すごかった」「あの頃だから出来た」と思ってしまうと今現在を見誤る。  このようにして出来た権利章典だが、それをただの机上の空論で終わらせるのでは なく、所高にはそれを実践する場、機会がたくさんあった……体育祭、所高祭等など。 その実践、体験を通して身体で学ぶことが出来る。その中には失敗、挫折、時には間 違いもあるだろうが、それが社会に出て、大人として踏み出すときにすべて役立つ、 糧になると思う。ここに所高の教育的価値があると思う。  “クリーニングキャンペーン”(有志による教室の壁のペンキ塗り)もそうした精 神で起した行動。教育とは何かを考えさせる大事な活動だったと今は思う。きれいに しようと思って壁のペンキ塗りを考えたが、校長は壁は公共物だから塗ってはいけな い、ペンキ塗りも落書きも同じだ、と言い、許可がでず。でも最終的には生徒たちは どのようにして塗ることを認めさせ、塗って何を感じ、喜んだか、またそれを伝えた か……忘れられない体験。  “日の丸・君が代に関する決議文”は、あくまで強制に反対しているだけ。日の丸 を揚げるということと、強制はされないということも対立することではなく、民主的 な話し合いを通して共存可能。お互いの主張を認め合い、個性を尊重することは可能 だと思う。それを文章化したものが“日の丸・君が代決議文”であり、それを所高の 自由な精神にからめたのが“生徒会権利章典”といえる。自由な校風とは「日の丸を 国旗と認める人もいるし、認めない人もいる」ということを認めるということ。立場 の異なる者同士が自由に論じ合える環境を守るということ。  今の入学、卒業問題については「共生、共存」を強く訴えたい。権利章典も決議文 も対立するためのものではない。権利章典はそんな低次元のものではなく、立場、意 見を異にする双方も取り込める(=お互いに尊重できる)懐の深いものであるはず。 大事なのは、対立ではなくて、「共生、共存」の姿勢。考え方の違う人達とどうやっ て一緒の場所で気持ちよく暮らしていくかということも、権利章典を通じて考えられ るものだと思う。  そして、最後に付け加えるならば、我が子は大丈夫だと信じてあげられる親の強さ、 自信が子どもが所高でのびのびと学んでいける何よりの要素ではないかと思っている。 ◆意見交換から ☆今でこそPTAが活発に動いているが、所沢高校で父母参加が始まったのは“単位  制導入問題”からといえるのでは。(それ以前は生徒と教職員という二者の関わり  が中心で父母参加はほとんど見られなかった。)         (三宅先生) ☆(当時活動して)無関心層にどう訴えるかが一番つらかった。(むしろ反対意見を  言われる方がまだやりやすかった。)              (須賀さん) ☆“30分退出問題”の時に危機を感じた。            (生本先生) ☆自由が奪われそうになった時に、“生徒会権利章典”はその存在価値を発揮するの  ではないか。                         (生本先生) ☆(所高問題は)ここまで大きくなってしまって、県教委も深く関わっているし、ま  た、その後ろには県議会の存在もある。反論も多いと思うが、この問題には政治的  解決も必要なのではないか。                   (保護者) ☆政治を変えていかなくてはとあったが、今の所高生をほっといて政治だけというの  は出来ないと思う。一番基本的なこととして何が出来るかと言えば“権利章典”。  これは特別なことではなく、当たり前のこと、確認されたこと。それを子どもたち  に「お前たちにはこのような権利があるんだよ」と教えていかなくては。親が個人  として県の政治にいくことは大事かもしれないが、子どもにもっと働きかけていく  こと、知らせ、守っていくことも親の大事な務めなのでは。     (卒業生) ◆終わりに  所沢高校の問題は大変な問題だが、学校は教育の場なので教育の場としての解決方 法を探っていくのが大切なのではと思っている。学校だから生徒が入学して3年経て ば卒業し、それが繰り返されていく。その中でいろいろなことが起こる。権利章典制 定時も、何が変わったかといったら、何も変わらなかったというよい話を聞いたと思 うが、まさに今の所高でも何もないと思っている人も何人かいると思うし、生徒総会 も1200人が全員出ているわけではないし、そういう状況を100%としていける ように生徒間で出来て議論が展開されていけば、校長に対してもいろいろ話していけ る道が開けるのでは。生徒総会に出た人も出ない人も所高生だというところをきっち りと守りながら、“権利章典”や“決議文”をどう具体化していくかを生徒自身が考 えていくことを大切にしていくのが、学校なのではないかと思う。学校での教育とい うのは、時間がかかるし、待つこと。辛抱強くやっていくのも民主主義の一つだと思 う。                                (司会)
(Web管理者記)  所高の歴史が語られていますが、1997年9月の所高祭で配布された資料に記載 があります。  まだ、お読みになっていらっしゃらない方は、「所高の歴史 1969〜1997」 をご覧ください。

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