校長先生に対する卒業行事に関する

意見書

発行日:1999年1月12日(火)

発行者:卒業記念祭実行委員会



(Web管理者記) お待たせしました。「卒実おたより(仮)No26」で紹介さ
れていた「意見書」です。
 これには参考資料が掲載してありますので、ちょっと長いですが、最後までお読み
下さい。原本には番号はありませんが、項目立ては下記のようになっています。

 1 自由について
 2 所高のシステムから見て
 3 式の意義
 4 校長の裁量権の観点からの校長への意見書
 5 日の丸・君が代の観点からの校長への意見書
 6 高等学校学習指導要領から見て
 7 (あとがき)

          校長先生に対する卒業行事に関する                  意見書                1999年1月12日                卒業記念祭実行委員会 ============================================================================           自由について  所沢高校は自主、自由、自立という校風です。私たちはこの校風が所沢高校の最も 魅力的な所だと思います。これから自主、自由、自立という校風のすばらしさについ て述べていこうと思います。  自主性というのはこれから社会に出て行く中でとても大切なことです。自分のこと は自分で判断し、自分の力で行うということは今多くの若者に求められていることで す。自分自身で考え、行動することで、人間は成長し多くのことを学んでいくのです。 これは人に言われてすぐに身につくことではなく、日常生活の中で一つ一つ自分の体 験を積み重ねていくことで身についていくことです。最近では自分で考え、判断する 機会が少なくなってきています。そんな中で、高校生活三年間で沢山の自主性を養う 場に恵まれた所沢高校に通うことは、大変幸せなことであり誇りに思っています。そ してこのような場を、これから所沢高校に入ってくる人たちのためにも、また私たち のためにも、守っていかなければならないと思います。  自由。所沢高校に入学してからこの言葉を何度も耳にします。そして自由について 考える機会が沢山あります。私たちも自由について考えてきました。まだ自由につい ての完全な考えはまとまっていません。けれども中学校とは大きく異なる点を感じる たびに自由というものを肌で感じることができます。例えば私服で登校し、授業を受 けたり学校生活を送ることです。今までは学校には制服を着ていくことが当たり前で したが、このような環境を知り、学校には自分の好きな格好で通っていいという自由 があるんだなと感じました。私たちは自由であるということは、自由であることを感 じることができて初めて自由であるといえるのではないか、とおもいます。所沢高校 という自由を感じられる場のおかげで私たちは自由について考えることができました。 この自由が所沢高校からなくならないように受け継いでいきたいと思います。  私たちが高校生に一番必要だと思っているのが、自立するということです。他の力 に頼らないで自分の力で行動したりするということは、これから社会に出て行く上で 必要なことです。これから国際社会に対応していくにあたって、最低限必要なことだ と思います。高校時代から、色々な行事などを通じて自立するということを肌で学び、 経験していくことが大切だと思います。  所沢高校での生活や行事などを通して、自主、自由、自立を学び、大きく成長して いきたいと思います。また、多くの人が成長していくためにこの校風を守っていくこ とが大切だと思います。                             卒業記念祭実行委員会 ============================================================================           所高のシステムから見て  私達所高生は、今まで「話し合い」のシステムによって生徒会活動を行ってきまし た。この所高での「話し合い」というのは、単に〔互いに話をする〕とか、〔意見を 述べ合う〕というものではなく、〔話を合わせる〕まで、すなわちいろいろな意見や 考えが一つにまとまるまで、納得のいくまで討議をするということを表しています。  そのシステムによって、私達はこれまで生徒総会やアンケートなどを通し、長い時 間をかけて生徒全員の総意に沿った卒業記念祭や入学を祝う会の計画を立て、ここま で作り上げてきました。その長い過程を通して作り上げてきた所沢高校の生徒である 1200人分の考え、想いが詰まった議決というものは、とてつもなく大きなもので あり、簡単には覆すことのできない重大なものです。所沢高校の生徒総会での議決は それだけ重いものだということを十分に認識した上で、判断を慎重にすべきです。  このことについては、学習指導要領解説〔第3章 内容 第2節 生徒会活動〕の活 動内容の部分にも書かれていることです。 『(3)学校行事への協力に関する活動』 抜粋  学校行事は、全校又は学年の規模によって実施されることが多いので、全校の生徒 を会員として組織している生徒会として、それぞれの行事の内容に応じて、計画や実 施に積極的に協力することが大切である。  また、このような文も書かれています。 『(1)学校生活の充実や改善向上を図る活動』 抜粋  儀式的行事をはじめとする学校行事も、望ましい校風の確立に寄与することが大き いので、特に関連を図る必要がある。  この2つの解説をみるかぎり、現在の校長先生の行動は今まで受け継がれてきた所 高の自主・自立、またその他所高の校風というものを一切否定しているといえます。  私達は昨年、所高生の総意である生徒総会の議決をいとも簡単に覆されてしまい、 式を強行されたことに強い不満を覚えます。  ここに生徒としての意思を表すのは、所高生が1990年11月の生徒総会で制定 した生徒会権利章典を論拠としています。  ≪生徒会権利章典≫ 1、学校は生徒と教職員によって構成されておりその構成員一人一人の個性は認めら   れ、一人一人の主張は尊重される。 2、生活向上のための自治的かつ民主的な活動の自由は保障される。   以下省略  生徒会権利章典は、所高生が自らの権利の価値を認識し、再確認したことを生徒で 形にしたものです。生徒の自由を守るための権利章典の精神を学校生活に生かし、所 高の後輩たちに受けついでいくことは特に重要なことです。また、学習指導要領解説 にも、通常行われる生徒会活動の形態は、生徒会行事など生徒会の直接的な活動の企 画・立案、実施(運営)などの広い範囲にわたるだけでなく、生徒会の規約や改廃、 役員を含む各種委員会の組織における活動すべてが含まれると考えられる、と書いて あり、学校生活の改善向上を図るための生徒会活動に枠などないことを記しています。  それゆえに私達は、所高の校風である自主・自立の精神を生かすための生徒会活動 や、生徒一人一人の主張・考え、そして所高生の総意が十二分に尊重されることを要 望します。  私達がここまで卒業式や入学式に代わる、卒業記念祭・入学を祝う会を主張するきっ かけとなったのは、かつての校長先生の異常ともいえる行動のためです。1997年 度に入学した現在の2年生は、あの混乱してしまった入学式のためにとても動揺して しまい、新しい環境の中、心新たにスタートを切ろうという気持ちには全くなれませ んでした。  その上校長先生は被害者である私達に今だ説明もせず、謝罪もしない上、あの行動 に間違いはないとおっしゃっています。しかし被害者は私達です。その被害者である 私達は混乱の原因は校長先生である、と思っています。この場合、校長先生は私達生 徒に十分な説明をするのが筋であり当然のことです。もし校長先生が「日の丸・君が 代」のある卒業式を行いたいというのなら、私達が納得のできる内容の説明を、一度 だけでなく所高生1200人全員が納得できるまで説明し続け、それから行動するの が筋であり、校長先生の責任です。校長先生は、生徒では責任は取りきれないとおっ しゃっていますが、校長先生本人も責任が取りきれていません。  所高の主役である所高生の立場から、所高生の意見を尊重し、〔話を合わせる〕た めの「話し合い」を要望するとともに、1200人分の気持ちの重さや所高の校風で ある自主・自立の精神、学校生活をより向上させるための自治活動を理解していただ きたいと思います。 ============================================================================             式の意義  校長先生は“儀式的行事のよいところを指導していきたい”とおっしゃっていたが、 本当に卒業記念祭より卒業式の方がよいのか。式のもつ意義を考えてきた。    『別離の感をかみしめ、卒業後に踏み出すべき新しい人生への決意を固める場     であり、このようにいわば人生の一つの節目ともいうべきときに当たるのを     機に、校長はじめ地域社会の諸先輩より祝福並びに有益な助言の与えられる     場である。』(東京地裁昭和54年)    『学校生活に有意義な変化や折り目を付け、厳粛で清新な気分を味わい、新し     い生活の展開への動機付けとなるような活動を行うこと。』(学習指導要領)  上の判例や学習指導要領から見ると卒業式は、一定の形式や礼法があるわけではな く、また校長先生のおっしゃったような校長式辞を述べたり、卒業証書をわたすのが 校長、わたされるのが生徒などといった形式をすることにもなっていない。  式という場は祝福を受ける場であったり、決意や動機付けなど一人一人がいろんな ことを感じ、思う場となっている。このようなことは卒業記念祭でも充分できる。校 長先生は卒業式と卒業記念祭はまったく別のものと考えているが、こうしたことから そうでないといえる。卒業記念祭のプログラムには厳粛で清新な雰囲気を味わえるも のもあり、式に代わるものとしての役割は充分はたしている。  卒業式と卒業記念祭はそれぞれ行う目的はほぼ同じだ。ただ、卒業記念祭は校長先 生のおっしゃる卒業式とちがい生徒が自主的に行うというところで所沢高校の3年間 をしめくくるにふさわしいものができる。  私達は盛り上がりのある楽しい体育祭や所高祭と同じように卒業記念祭を考えてい るのではなく、卒業生の門出を祝い、感謝をこめて送り出すことを第一に考え、行事 の意義をしっかり考えて卒業記念祭をつくっている。よって式の意義にそった卒業記 念祭は式に代わる卒業行事として、役割をはたすことができるといえる。 ============================================================================      校長の裁量権の観点からの校長への意見書 ┌─────────────────────────────────────┐ │ 「式に出なければ入学を許可しない」という内容の文章について       │ │  僕自身の限られた経験からだが、「入学許可候補者」などという呼び方に驚 │ │ いた。合格した受験生には「合格通知」が送られるか、「所定の手続き」等か │ │ 終わった後は入学者の数は「確定」とされ、以後は「新入学生の皆様へ」とな │ │ る。                                  │ │  また、入学式の時に学校長による「○○以下何名、本校への入学を許可する」│ │ ということはやったりする。けれど、「入学式を欠席したら入学取り消しも有 │ │ り得る」ととれるような文書自体は初めて聞いた。文部省や県教委、校長は  │ │ 「学習指導要領」というものをよりどころにしているけれど、いきなり新入生 │ │ にあのような文書を送りつけることが「教育的指導」なの?         │ └─────────────────────────────────────┘  インターネットにこのような意見が載っていた。今年の入学式のことについて書か れた意見ですが、本当に校長先生にこのような権限かあるのかを考えてみた。 …………………………………………………………………………………………………… ■ ところで、高校教育は、中学校における教育の基礎の上に立って、生徒の心身の 発達に応じて、高等普通教育および専門的教育を施すことを目的としている(学校教 育法第四一条、第四二条)のであるから、高校長が前記入学の許否を決するにあたっ ては、入学志願者の学力検査の結果および内申書の成績評価等の諸資料に基づき、志 願者が、右教育目的を達成するために必要と思料される人格・資質・学力・知識等を 有するか否かを、教育的見地に立って総合的に判定すべきものであり、その性質はい わゆる自由裁量行為と見るべきである。しかして、校長のする入学許否の決定は、前 述のごとく、営造物の利用関係の設定を一方的に応諾し、拒否する権限に基くもので、 その処分の性質は、自由裁量であるというべきであるけれども、右応否の処分をする にあたっては、自らが定立した前記のごとき利用条件に合致する場合(例えば、選抜 試験において基準点以上を獲得した場合等)には、特段の事情がない限り、利用の拒 否、すなわち入学不許可処分にすることは許されないところである。このことは、個 人の幸福追求権および法のもとの平等原則を宣言する憲法第一三条、第一四条の精神 に照らしても、いわば当然の事理に属するところであるし、そもそも、入学者選抜制 度自体の趣旨よりするも、そこには自から一定の客観的準則が存するからである。し かしてその許否処分が著しく裁量権を逸脱し、あるいはその濫用にわたると認められ る場合には、違法の問題を生ずると解すべきであるから、高校長の入学に関する応否 の処分は、権力的作用類似の機能を有するものというべく、国家賠償法第一条の関係 においては、同条にいう「公務員の公権力の行使」にあたると認めるべきである。 〔『行政判例集成 教育・文化編9』より(法務省訴務局編集 株式会社ぎょうせい 発行 一二一〇四頁 最終追録平成9年10月30日)〕 ……………………………………………………………………………………………………  これは、公立学校における在学関係について述ベた昭和四十八年和歌山地裁の判例 である。この部分を見ると、「自らが定立した前記のごとき利用条件〜許されないと ころである。」とあり、今年度の場合入学試験に合格し、合否判定会議でも承認され、 合格発表をされた入学生に対し入学不許可にするという処分は許されないのではない か。入学式に出なかったからといって入学不許可にするのはいくら校長の権限をもっ てしても、不可能ではないか。  私達生徒は生徒の意思にしたがって卒業記念祭・入学を祝う会のみを行いたいと考 える。  まず、校長の権限とは憲法、教育基本法、子どもの権利条約の制約を受け、子ども の権利条約批准後は、子どもの意見表明権、尊重原則、学校運営参加権により条約上 これらを遵守しなければならないという制約が校長に課せられている。  つまり校長の裁量権の範囲とは、生徒の意見表明権などの権利を侵さない範囲のも のである。  ではここで、どのような場合私達生徒の権利が侵されたことになるのか考えてみた い。  私達生徒の意思決定をする場は生徒総会であり、そこで決まったことが生徒の意志 となる。この場合、生徒の意志とは、生徒の持つ意見表明でありその要求に対しその 実現のために最大限の配慮をされるべきものである。また、生徒には学校運営参加権 があるが、この権利は国連子どもの権利委員会において意見表明権と一体とされてい るので、生徒の意思決定は生徒の学校運営参加であり私達の意思は学校運営の中で具 体的に反映されなければならない。そしてこれらのことは当然保障されている権利で ある。よってこれらのことが守られないということはそれは人権侵害である。  具体的にいえば、現在所沢高校の生徒会の意思は卒業・入学に関しては、卒業記念 祭・入学を祝う会一本である。この意思を、一方的に覆すことがあれば、それは私達 生徒の意見表明権、学校運営参加権を無視した行動であり、人権侵害行為である。  ここで、先程述べたように校長の裁量権の範囲とは人権を侵害しない範囲であるの で、人権侵害行為は当然のことながらできない。すなわち、人権侵害行為である「生 徒の意思を一方的に覆すということ」は、校長の裁量権の範囲外でありその様な権限 は校長には無いということになる。裁量権の範囲外で権限を振るうということは本来 できないが、もしそれをするというのならそれは越権行為に他ならず違法行為である。  また、校長が生徒の意志を覆すことが出来たとしても、それが認められるのは、他 の生徒の人権を侵害する態様での活動や、生命・身体に危険を及ぼす態様での活動、 予算、施設管理等の物的な限界がある場合など、極根的な状況にかぎられるし、その 場合でも生徒に対し十分な説明をし、生徒を納得させ理解を得なければならず、説明 と納得の手続きを経ずに一方的に覆すことは裁量権の範囲を逸脱している。  また、現時点において生徒の意志に反し、卒業・入学行事を二部制で行おうとして いるが、それに関して生徒が納得のいく答えは未だ見出せない。  したがって、現段階で校長が生徒の意志を無視し一方的に卒業式と卒業記念祭・入 学式と入学を祝う会の二部制にすることは、校長の裁量権から逸脱した越権行為であ ると言わざるをえない。  よって、私達生徒は生徒の意志に従い、卒業記念祭・入学を祝う会のみを行いたい と考える。  しかしながら、生徒は、学校全体で卒業・入学を祝いたいので、当然のことながら 校長を含め教職員の協力も得たいと考えている。よって、これからも校長を含め教職 員との話し合いを重視していきたい。 ============================================================================       日の丸・君が代の観点からの校長への意見書  まず、卒業・入学に関し、日の丸・君が代に関するあらゆる問題に対処するには卒 業記念祭実行委員会の方針しかない。  その原因は、校長が日の丸・君が代を生徒の意志に反して行うことは、人権侵害で あるということだ。  その理由は、   第一に、日の丸・君が代を一方的に行うということは、思想・信条の自由をおか       している。   第二に、所沢高校には「「日の丸・君が代」に関する決議文」があり、日の丸・       君が代を一方的に行うことは、この決議文を無視することであり、生徒       の学校運営参加権を侵している。   第三に、校長の裁量権は、第一・第二の理由で述べたものを含め、生徒の権利を       侵さない範囲であり、日の丸・君が代を一方的に行うことは、校長の裁       量権を逸脱し、越権行為である。  第一の理由について、なぜこの理由が成り立つか。  まず、日の丸・君が代は思想である。  なぜなら、思想とは「心に思い浮かんだこと。特に、生活の中に生まれ、その生活・ 行動を支配する、ものの見方。」(岩波 国語辞典第四版より)であり、日の丸・君 が代に関しては、’98年度入学を祝う会当日における右派政治勢力の行動、又、左 派政治勢力からの異常な賛同などから、彼らの行動を支配したものの見方があったこ とは明白であり、日の丸・君が代に関し、そういったものは上に述べた文に合致し、 つまり思想であるからである。  ここで、私達に思想・信条の自由があることを確認したい。つまり、思想に関する あらゆる強制を受けないということ、すなわち一つの思想を持ったものに関するあら ゆる強要を受けないということである。  よって、一つの思想である日の丸・君が代を一方的に行うことは、私達の思想・信 条の自由を侵す、明らかな人権侵害行為である。  第二の理由について、なぜこの理由が成り立つか。  まず、私達には意見表明権があり、この権利は子どもの権利条約の実施に責任を持 つ国連子どもの権利委員会で、子どもの学校運営参加権と一体を成しているとされて いて、子どもに対し、「完全かつ対等のパートナー」として、自分にかかわる全ての 事柄についての決定過程に参加する権利を保障している。又、このことは子どもと大 人が決定を共有する、共同決定の原則を示している。  ここで、所沢高校の「「日の丸・君が代」に関する決議文」では、「今後我校内で の儀式その他における「日の丸」掲揚及び「君が代」斉唱の強制に一切反対します。」 となっている。この事はすなわち、生徒が学校行事の行ない方、つまり学校行事の運 営の一部に関っているということであり、生徒の学校運営参加権の表れである。又、 現行の学習指導要領でも学校行事において、「可能な限り生徒の自主的な活動を助長 することが大切」とされているため、子供の意見表明権・学校運営参加権は最大限尊 重されるべきものである。  よって、所沢高校において生徒の決議を尊重する処置も無しに無視し日の丸・君が 代を一方的に行うことは、生徒の意見表明権・学校運営参加権を侵した人権侵害行為 であるとともに、学習指導要領にも違反していることは明白である。  第三の理由について、なぜこの理由が成り立つか。  まず、校長の裁量権(権限)は憲法、教育基本法、子どもの権利条約の制約を受け、 子どもの権利、基本的人権を侵害する裁量権行使は許されないということを確認した い。  このことを踏まえた上で、日の丸・君が代を一方的に行うことは第一、第二の理由 で述べたように人権侵害行為であるので、このような行為は校長の裁量権の範囲を逸 脱していると言わざるをえない。  又、学習指導要領を遵守するのなら、第二の理由で述べた通り私達の意見を尊重せ ねばならず、日の丸・君が代を一方的に行うことは学習指導要領からも逸脱した行為 である。  よって、日の丸・君が代を一方的に行うことは、校長の裁量権を大きく逸脱した越 権行為である。  つまり、卒業・入学に関し、日の丸・君が代に関する問題を解決するには、すなわ ち前に述べたような第一、第二、第三の人権侵害を無くすためには次のことが必要で ある。  第一に、生徒の人権を守り、個人の思想・信条を守る。  第二に、生徒の学校運営参加権を守る。  第三に、校長による越権行為は許されない。  それではなぜこれらのことを満たすためには卒業記念祭実行委員会の方針しかない かというと、まず、「「日の丸」・「君が代」に関する決議文」は個人の思想・信条 の自由を守るために創られたものであることを確認しておきたい。つまり、「「日の 丸」・「君が代」に関する決議文」を守ることは日の丸・君が代に関して所高生の思 想・信条を守ることである。  次に、「「日の丸」・「君が代」決議文」は、生徒の学校運営参加権の一つの形で あるので、これを守ることは、生徒の学校運営参加権を守ることである。  さらに、これらのことは生徒が持つ当然の権利であるため、これらの権利を侵すよ うな行為はできないのである。  又、上の文から分かるように、これらは生徒が採択した「「日の丸」・「君が代」 に関する決議文」によるところが大きい。  よって、その「「日の丸」・「君が代」に関する決議文」を活動の根拠とした卒業 記念祭実行委員会の方針が、卒業・入学に関する日の丸・君が代に関する問題を解決 する手立てである。 ============================================================================        高等学校学習指導要領からみて *卒業式・入学式は行わなければならないものではない。*  「卒業式・入学式」は行わなければならないものではない。“高等学校学習指導要 領”(以後学習指導要領)というのは、教育課程の基準として学校教育法48条に関 係して編集された冊子である。文部省はこれを、文部省告示として公示され、法規命 令として法的拘束力を有し、教師の遵守が義務づけられるとしている。しかし、この 「法的拘束力を有する」という部分に関しては、学説・判例の多数が教育基本法第1 0条の趣旨の元にその法的拘束力を否定し、国家の教育課程に対する基準決定権は教 科の種類、授業時数など『大綱的基準』に限られるべきであるとしている。次ページ に挙げる判例にも「教育課程の規則にかんする条項に関しては法的拘束力があるが、 教科、科目の目標、内容、指導計画作成及び留意事項は、指導助言として訓示規定で ある。」と具体的に示してある。学習指導要領の卒業式、入学式(以後「卒業式」で 両方の意味を表す)に関わる部分は「高等学校学習指導要領 第三章 特別活動 第 二 内容」及び「〃第二 指導計画の作成と内容の取り扱い」のところで、まさに上 記の判例で指導助言であるとされる、内容と指導計画作成の部分である。従って卒業 式を行わなけれぱならないという法的根拠はない。確かに憲法第26条の等しく教育 を受ける権利を守るためにも学習指導要領には守らなければならない部分があると考 えるのが適当かもしれない。しかし上記のとおり卒業式にかんしては守らなければな らない部分ではないので、校長先生がおっしゃったような全ての学校が同じように実 施しなくてはならない部分だとは考えられない。加えて言うならば、国旗・国歌にか んする部分も同じである。  また、卒業式というのは学習指導要領に“行わなけれぱならない”という明確な位 置づけがないことは校長先生も認めたとおりである。校長先生は特別活動第3の6 「入学式や卒業式においては、その意義をふまえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を 斉唱するよう指導するものとする。」の文から判断して卒業式は行うものであるとい うことをおっしゃったが、それは絞長先生の解釈であり、国旗・国歌の文から卒業式 は行うべきものであるという解釈が正しいという確かな根拠がなく、校長先生の個人 的な“意見”である。その文があるからといって卒業式は行うものという文はない。 だからやらなくてもよいという解釈も可能なわけで、そう解釈したからこそ、昨年の 四者会議は卒業記念祭を主張したわけである。そしてそれは今年の卒業記念祭実行委 員会も同様である。さらに、その国旗・国歌の文が書いてある学習指導要領自体に各 種行事・内容を精選して実施することと書いてある(特別活動 第3の3)。卒業式 を行うか行わないかは学校や地域及び生徒の実態に応じて決めることであり、学習指 導要領によって決められることではない。  もう一つ、卒業認定について。卒業認定は学習指導要領 第1章総則 第7款に 「校長は高等学校の全課程の修了を認定する」とはあるが、決して卒業式において行 わなければならないとは書いていない。入学についても同様に、入学式で入学許可を しないとならないとは書いていない。卒業式・入学式が無くても生徒は入学もできれ ば卒業もできるのである。  以上三つの理由 (1)学習指導要領の卒業式が関わる部分には法的拘束力はない。          (2)学習指導要領には卒業式を行わなければならないとは書いてい           ない。          (3)卒業式、入学式が無くても、卒業・入学はできる。 より、卒業式は学習指導要領をみる限り行わなくてはならないものでは無い。よって、 校長先生の主張する「日の丸・君が代のある厳粛で清新な卒業式」は行わなければな らないものではない。学習指導要領は校長先生の主張の理由にも根拠にもならない。 入学式についても同様である。 …………………………………………………………………………………………………… ■ 学習指導要領 (英)courses of studies 【意義】 元来は教育課程の手引きとして編集された冊子であるが、1958(昭和 33)年度の改訂以来、文部省は教育課程の基準として法的規範性を有するものと主 張している。日本教職員組合(以下「日教組」とする)、日本教育学会はこれに対し て反対の意見を表明している。  現行学習指導要領の種類は、小学校・中学校・高等学校・盲学校・聾学校・養護学 校に分かれており、文部省告示として公示されている。内容構成は総則・各教科・道 徳・特別活動の章からなっており、総則では教育課程一般・道徳教育・体育の基本が 項目的に説明されている。各教科については、目標・各学年の目標および内容・指導 計画の作成と各学年にわたる内容の取り扱いが説明され、道徳と特別活動も同様の要 領で説明されている。従前に見られた学習指導の方法に関する事項や参考事項は教育 課程の法的規準の関係上省かれているが、それは教師用の指導書や手引きに移されて いる。教育課程の基準といっても、基準の全てを含んでいるのではなく、たとえば各 教科や道徳の授業時数は学校教育法施行規則に定められている。『教育学大事典1』 (S54.2.20 第一法規出版株式会社) …………………………………………………………………………………………………… ■資料 学校教育法に関する判例(『行政判例集成 教育・文化編9』より。   法務省訴務局編集 株式会社ぎょうせい発行 最終追録平成9年10月30日)        ……………………………………………………………… 〔高等学校の学科と教科〕  第四十三条 高等学校の学科及び教科に関する事項は、前二条の規定に従い、監督        庁が、これを定める。  一 本条の趣旨    ○学校教育法三八条、二〇条、四三条、同法附則一〇六条の規定は、文部大臣     に対し教育課程の第一次的、包括的な編成権を与えたものでなく、教育課程     の編成について文部大臣が大綱的な基準を設定すべきものとする趣旨である。     〈旭川地昭和四一年五月二五日判、昭和三六年(わ)四六六・四六七号、      下級刑集八巻五号七五七頁〉     〔編注、本節三八条関係一一一九一頁の本判決をみよ。〕                          〔以上、12107・7頁〕        ………………………………………………………………  二 高等学校の学科及び教科に関する事項    (1)監督庁の決定の範囲    (イ)監督庁の決定権限の範囲    (ロ)学校教育法施行規則の定め    (A)高等学校の教育課程    〔一〕学習指導要領    〔1〕性質    ○学校教育法二〇条、三八条、四三条にいう学科及び教科に関する事項を定め     る監督庁の権限は、初等、中等教育における全国的画一性を維持するのに必     要な極めて大綱的な教育課程の国家的基準を設定することに限られる。     〈大阪地昭和四一年四月一三日判、昭和三六年(わ)五七〇六号、昭和三七      年(わ)一八五五号、下級刑集八巻四号六二六頁〉     〔編注、本節二〇条関係一〇七五二頁の本判決をみよ。〕    ○文部大臣が定めた学習指導要領のうち、教育課程の編成についての大綱的な     基準の限度を超える事項については、法的拘束力がなく、単に指導・助言的     な効力を持つにとどまる。     〈旭川地昭和四一年五月二五日判、昭和三六年(わ)四六六・四六七号、      下級刑集八巻五号七五七頁〉     〔編注、本節三八条関係一一一九一頁の本判決をみよ。〕    ○高等学校学習指導要領(昭和三五年文部省告示第九四号)の規定中教育課程     の構成要素、各教科、科目及びその単位数、卒業に必要な単位数及び授業時     数等学校制度に関連する教育課程の規則に関する条項については法的拘束力     があるが、教科、科目の目標、内容、指導計画作成上及び指導上の留意事項     は、指導助言事項として訓示規定である。     〈福岡地昭和五三年七月二八日判、昭和四五年(行ウ)五〇号(茅嶋洋一ほ      か二名対福岡県教育委員会)、判例時報九〇〇号三頁〉     〔編注、一章一節一〇条関係二二七頁の本判決をみよ〕                            〔以上、12108頁〕        ………………………………………………………………    ○学校教育法二〇条、三八条、四三条にいう学科及び教科に関する事項を定め     る監督庁の権限は、初等、中等教育における全国的画一性を維持するのに必     要な極めて大綱的な教育課程の国家的基準を設定することに限られる。     〈大阪地昭和四一年四月一三日判・昭和三六年(わ)五七〇六号、昭和三七      年(わ)一八五五号、下級刑集八巻四号六二六頁〉     〔編注、本節二〇条関係一〇七五二頁の本判決をみよ。〕    ○文部大臣は、学校教育法三八条、一〇六条による中学校の教科に関する事項     を定める権限に基づき、中学校における教育の内容及び方法につき、教育に     おける機会均等の確保と全国的な一定の水準の維持という目的のために必要     かつ合理的な基準を設定することができる。     〈最高昭和五一年五月二一日大法廷(村上・藤林・岡原・下田・岸・天野・     岸上・江里口・大塚・高辻・吉田・団藤・本林・服部・坂本)判・昭和四三     年(あ)一六一四号、刑集三〇巻五号六一五頁・判例時報八一四号三三頁〉     〔編注、一章二節二三条関係一〇九三頁の本判決をみよ。〕                            〔以上、11197頁〕        ………………………………………………………………    (ロ)学校教育法施行規則の定め    (A)中学校の教育課程    〔一〕学習指導要領    〔1〕効力    ○文部大臣が定めた学習指導要領のうち、教育課程の編成についての大綱的な     基準の限度を超える事項については、法的拘束力がなく、単に指導・助言的     な効力を持つにとどまる。     〈大分地昭和四〇年四月一三日判・昭和三四年(行)五号(藤野準一郎ほか      二名対大分県教育委員会)、行裁例集一六巻五号八五五頁〉     〔編注、本条関係一一一九四頁の本判決をみよ。〕    ○同趣旨     〈旭川地昭和四一年五月二五日判・昭和三六年(わ)四六六・四六七号・      下級刑集八巻五号七五七頁〉     〔編注、本条関係一一一九一頁の本判決をみよ。〕    ◎文部大臣の定めた学習指導要領(昭和三三年文部省告示八一号)は、全体と     してみた場合、教育政策上の当否はともかく、少なくとも法的見地からは、     教育の機会均等の確保等の目的のために必要かつ合理的基準の設定として是     認することができる。     〈最高昭和五一年五月二一日大法廷(村上・藤林・岡原・下田・岸・天野・     岸上・江里口・大塚・高辻・吉田・団藤・本林・服部・坂本)判・昭和四三     年(あ)一六一四号、刑集三〇巻五号六一五頁・判例時報八一四号三三頁〉     〔編注、一章二節二三条関係一〇九三頁の本判決をみよ。〕    ◎同趣旨     〈最高昭和五一年五月二一日大法廷(村上・藤林・岡原・下田・岸・天野・     岸上・江里口・大塚・高辻・吉田・団藤・本林・服部・坂本)判・昭和四四     年(あ)一二七五号、刑集三〇巻五号一一七八頁・判例時報八一四号七三頁〉     〔編注、一章二節三五条関係七二一四頁の本判決をみよ。〕                            〔以上、11198頁〕        ……………………………………………………………… 〔中学校の教科〕  第三十八条 中学校の教科に関する事項は、第三十五条及び第三十六条の規定に従        い、監督庁がこれを定める。  関係条文=学校教育法施行規則       第五十四条の二 中学校の教育課程については、この章に定めるものの               ほか、教育課程の基準として文部大臣が別に公示する               中学校学習指導要領によるものとする。              (昭二八文令二五、全改、昭三三文令二五、昭三七文令               二八、一部改正)  一 本条の趣旨    ○学校教育法三八条、二〇条、四三条、同法附則一〇六条の規定は、文部大臣     に対し教育課程の第一次的、包括的な編成権を与えたものでなく、教育課程     の編成について文部大臣が大綱的な基準を設定すべきものとする趣旨である。     〈旭川地昭和四一年五月二五日判、昭和三六年(わ)四六六・四六七号、      下級判集八巻五号七五七頁〉      さらに重要なことは、本件学力調査が日常の学校教育活動に及ぼすべき影     響という点である。このような調査が、全国的に全生徒を対象として実施さ     れた場合、教育の現場において、その調査の結果が各学校または各教員の教     育効果(成績)を測定する指標として受け取られ、これを向上させるため、     日常の教育活動が調査の実質的な主体(とくに問題作成権者)である文部省     の方針ないし意向に沿って行われる傾向を生じ、教員の自由な創意ある活動     が妨げられる危険がある。とくに、学力調査の問題は学習指導要領に基づい     て作成されるといわれ、その学習指導要領には法的拘束力があるという行政     解釈が行われている等の事情から、学校関係者の間に、個々の教員が好むと     好まざるとにかかわらず、調査の結果に関心を持たざるを得ないような空気     がかもし出される危険があることに注意すべきである。これは、文部省によ     る教育内容に対する統制を意味するだけに、重要である(ちなみに、これは、     文部省の主観的な意図に関する問題ではない。文部省の意図のいかんにかか     わりなく、客観的に、右のような教育統制の危険を結果することが問題なの     である。)。      この点、文部省は、学校教育法第三八条(第二〇条、第四三条)、同法附     則第一〇六条が「中学校(小学校、高等学校)の教科に関する事項は文部大     臣がこれを定める。」と規定していることを根拠として、文部大臣は、中学     校等の教育課程につき第一次的、包括的な編成権をもつから、当然に教育内     容に介入できるとの見解にたち、本件学力調査が教育内容に影響するところ     があるとしても、それは文部大臣の権限として許されたものであり、なんら     不当な介入を意味するものではないと考え、さらに、前記学校教育法の諸規     定および同法施行規則第五四条の二(第二五条、第五七条の二)の規定によ     り、文部大臣の定めて公示する学習指導要領には当然に法的拘束力があると     解すべきところ、本件学力調査の問題は右学習指導要領に準拠して作成され     ていることでもあるから、何ら問題を生ずる余地はないとしているようであ     る。      しかし、教育関係法全体を総合的に検討すると、右学校教育法第三八条等     による文部大臣の「教科に関する事項」を定める権限には重大な制約が内在     すると認めざるを得ない。      まず、教育基本法第一〇条は、「教育行政」と題して、「教育は不当な支     配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの     である。教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸     条件の整備確立を目標として行われなければならない。」と規定しているが、     同法の制定過程、ことに同法が戦前、戦中における文部、地方内務官僚や軍     部等による強力なる中央集権的、画一的、形式的教育統制に対する反省を基     礎としていること等の事情に照らしてみると、同条は、教育内容について国     家の行政作用(とくに強権的な作用)の介入を抑え、教育活動の独立を確保     し、教員の自由な、創意に富む、自主的な活動を尊重するという理念を基礎     としつつ、教育行政の任務を教育条件の整備確立においていることが明白で     ある。      この理念は、教育関係諸法に具体的な形で規定されているが、教育行政の     組織についても、いわゆる教育委員会制度がとられ、地方自治が徹底された     ことが重要な意味をもつ。このようなことの結果、文部省の主要な権限が、     教育委員会等に対し、指導、助言および勧告を与えることにおかれ、法律に     別段の定めがある場合を除いては、強制的な作用を行ない得ないとされたこ     とに注意しなければならない(昭和三一年に教育委員会法が廃止され、これ     にかわって地教行法が制定される等、一連の重大なる変遷が認められるが、     前記教育内容についての国家権力介入の排除、教育行政における地方自治等     の基本理念に変化があったとは認められない。)。      以上のような法体系の中で、前記学校教育法第三八条等の規定をみると、     同条が文部大臣に対し教育課程の第一次的、包括的な編成権を与えたものと     はとうてい解されず、同条により文部省が学校教育の内容や方法について詳     細な規定を設け、教員の教育活動を拘束するというようなことは、法の予想     しないところだといわなければならない。むしろ、同条は、初等、中等教育     が義務教育であること等を考慮し、その教育課程の編成について、文部大臣     が(前記の教育の独立および教育行政の地方自治等を尊重しつつ、)大綱的     な基準を設定すべきものとした趣旨に解するのが相当である。したがって、     学習指導要領のうち、右のような大綱的な基準の限度を超える事項について     は、法的拘束力がなく、単に指導、助言的な効力を持つにとどまると解すべ     きである。                         〔11191〜11193頁〕 …………………………………………………………………………………………………… *卒業式に代わる行事である卒業記念祭を主張する理由*  卒業式が行わなければならないものではないということは前に述べたとおりだが、 卒業記念祭だって行わなければならないものではないということについては同じであ る。ではなぜ僕らは卒業式ではなく卒業記念祭を主張するのか。学習指導要領からみ れば、一つは日の丸・君が代のことである。学習指導要領には、「入学式や卒業式に おいては、その意義をふまえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導す るものとする。」とあり、卒業式に日の丸・君が代を行わないという形式は、前述べ たとおり法的には問題ないが、学習指導要領には沿わないものとなる。(仮に日の丸・ 君が代を国旗・国歌と考えれば、の話だが。)昨年度当初は、生徒側も日の丸・君が 代のない卒業式を主張したわけだが、校長先生はこれに学習指導要領を理由に反対し た。校長先生が反対したので、四者会議が両者の意見を採るために考えたのが卒業記 念祭である。卒業式で日の丸・君が代を行わなければ学習指導要領にそぐわないもの となるが、卒業式でなければ学習指導要領に沿ったものである。校長先生が理由にし た学習指導要領を守れることになる。本来卒業記念祭はすでに校長先生の主張を最大 限尊重した柔軟な対応策なのである。  校長先生の主張する「日の丸・君が代のある卒業式」には穴がある。校長先生は、 日の丸・君が代を儀式的行事で行うことの意義は「日本人としての自覚」「国を愛す る心を育てる」「国旗国歌に対する正しい認識を持ち、それを尊重する態度をそだて る」ことであることを挙げられた。これは、高等学校学習指導要領解説 特別活動編 (以後学習指導要領解説)にも同じようなことが挙げられている(→P8,P102 など)。問題はここである。今の所沢高校で日の丸・君が代を行っても、日の丸・君 が代を儀式的行事で行う意義は達成できない。「日の丸・君が代に関する決議文」が 今まで承認され続け、特に今年は「決議文の解釈は、校内でいっさい日の丸・君が代 を行わない。」という意味で生徒総会出席者の過半数という多数が賛成する決議文が 承認されている中、日の丸・君が代を行うことは、「国を愛する心を育てる」どころ か、国に対する嫌悪感を育てるだけではないか。「日の丸・君が代に関する決議文」 は、日の丸・君が代そのものを非難したものではないが、それが所沢高校で承認され ているうちは所校生は校内において日の丸・君が代が行われることについてよいイメー ジではない。そんな中で日の丸・君が代を行っても「日本人としての自覚」は育てら れるかもしれないが、「国を愛する心」「国旗・国歌を尊重する心」を育てることは 到底不可能である。つまり今の所沢高校で日の丸・君が代を行っても、その意義は達 成できず、「その意義を踏まえ」の部分で学習指導要領に沿うことはできない。もし、 所沢高校で日の丸・君が代を行って「学習指導要領解説」や校長先生の考えにある意 義が達成できるとすれば、それは校長先生らの指導などによって生徒が意識を変え、 「日の丸・君が代に関する決議文」が承認されなくなってからである。日の丸・君が 代を行わず、学習指導要領を遵守したいなら方法は2つしかない。卒業式に代わるほ かの卒業行事をやるか、卒業行事をやらないか、である。このような今の所沢高校の 現状を考え、またPTAを地域社会の一部と考えればPTAも生徒の活動に賛同して いることから、「学校ごとにそれぞれの実状を生かした特色ある活動」(→学習指導 要領解説P76)というのは卒業式のことではなく、卒業記念祭のことを指すと考え るべきである。このことは学習指導要領 第3章特別活動 第3の2の(4)にもあ るとおりで、所沢高校の今の実態を考えれば卒業記念祭を行うべきである。  校長先生が考えの根拠とした高等学校学習指導要領解説にこんな文がある。                                 (→P52) ┌─────────────────────────────────────┐ │ ところで、生徒の自発的、自治的な活動であるということと、教育課程の一環と│ │して学校の一貫した指導体制の下にあるということは、ややもすれば、矛盾するも│ │ののように対立的に考えられがちであるが、むしろ教育的に価値の高い生徒の自発│ │的、自治的な活動としての本質が十分発揮されるよう、学校の一貫した指導のあり│ │方が要請されていると解すべきである。                   │ └─────────────────────────────────────┘  これは生徒会活動の内容としてかかれたものだが、卒業記念祭を実行委員会という 生徒会組織が企画していること、また、「学習指導要領 第3章特別活動 第3の2」 に書かれているように学校行事と生徒会活動の関連から見て、今回の卒業行事のこと にも当てはまる。今まで述べたとおり、校長先生の主張する「日の丸・君が代のある 厳粛で清新な卒業式」には少なくとも学習指導要領からみて法的な根拠も、合理的な 理由もない。だとすれば校長先生の主張する卒業式よりも、生徒の自発的、自治的な 活動である卒業記念祭をやるべきなのである。  こんな文もある。(→P26) ┌─────────────────────────────────────┐ │ 学習指導要領第1章総則6款の6の(3)で、「教師と生徒及び生徒相互の望ま│ │しい人間関係を育て、生徒が主体的に判断、行動し積極的に自己を生かしていくこ│ │とができるよう、生徒指導の充実を図ること」と示しているが、この趣旨は、特別│ │活動そのもののねらいであるといっても過言ではない。            │ └─────────────────────────────────────┘  また学習指導要領第3章特別活動の目標も以下の通り。 ┌─────────────────────────────────────┐ │ 第1  目   標                           │ │   望ましい集団活動を通して、心身の調和のとれた発達と個性の伸長を図り、│ │  集団の一員としてよりよい生活を築こうとする自主的、実践的な態度を育てる│ │  とともに、人間としての在り方生き方についての自覚を深め、自己を生かす能│ │  力を養う。                              │ └─────────────────────────────────────┘  このように、学習指導要領の目的・目標は生徒の主体的・実践的態度を育てること が一番であって、意義を達成できるかどうかも分からない日の丸・君が代を行うこと ではない。卒業記念祭は学習指導要領に沿った行事である。生徒が主体的に主張して いる卒業記念祭を否定して(卒業記念祭は卒業式に代わるものとして主張している。 二部制では否定されたことになる。)、日の丸・君が代のある卒業式を行うことは学 習指導要領に反している(僕らの主張が否定されたという点、意義を踏まえない日の 丸・君が代を行うという点など)。本当に学習指導要領を遵守するのであれば、僕ら の主張する卒業記念祭を認めるべきである。それは校長先生の考えである「学習指導 要領を守る」ということを達成することなのだから。 ============================================================================  卒業式に代わって卒業記念祭を行うということは、今の三年生が一から考え出し今 まで築き上げてきたもので、三年生はその卒業記念祭で送り出されることを望んでい ます。僕たちは、今までお世話になった三年生に感謝の気持ちを表し、また三年生の 感動の涙と笑顔をみるために、是非卒業記念祭を成功させたいと思っています。  このことは在校生、先生方、PTAなどの所沢高校を構成する大多数の人も賛成し ています。所沢高校のよき伝統である自主・自由・自立の校風を守るため、卒業式の 意義、また校長先生の立場や日の丸・君が代、学習指導要領からいっても僕たちの主 張する卒業記念祭を行うべきだと考えます。校長先生は、「日の丸・君が代のある厳 粛で清新な卒業式を行う」と言います。しかし三年生の気持ちを考えれば絶対に卒業 記念祭を行うことの方が大切なことであるはずです。  僕たちは卒業記念祭のみを行いたい。校長先生が、三年生の気持ちと、この意見書 で述べたことをしっかり受け止めて、誠意ある判断をしてくれることを期待していま す。                             1999年1月12日
(Web管理者記)  「卒実おたより(仮)No26」には「生徒全体の承認は時間がなかったのでされ ていない」と記載されています。ということで、この意見書は生徒全体の承認を得た ものではなく、1・2年生で構成される卒業記念祭実行委員会のメンバーが校長と交 渉するための資料として作成したものです。ただ、各クラスには配布してあるという ことです。  そうなんです、卒実の委員というのは1・2年生なのです。これを1・2年生が自 力で作成したのですから驚きです。と言ったら彼らには失礼かもしれませんが。この 意見書を渡された校長なども「誰かの指導があったのか?」と問い質したそうです。 この資料原本を見れば明らかですが、章によってワープロ印字の書体・ポイントが違 いますし、文体もちがいます。また、切り張りをしたと思われる部分もありますので、 数人で分担執筆したように推測されます。  このような力が育ってほしいものです。一見して受験には関係ないことと思われま すが、このように「自分で考え、自分で調べ、自分でまとめる力」を養ってほしいも のです。  ところで、校長はこの「意見書」に対して、どのように答えたのか知りたいですね。 その答えが『「卒実おたより(仮)」第26号「校長先生と話したよ!」』なのでしょう か。とすれば、こちらを先にアップできればよかったのですが・・・  私、「卒実おたより(仮)」第26号の中で気に入ったところがあるのです。(^-^) ---------------------------------------------------------------------------- 【卒】「【協】の決定は学校の決定ではない」という意見ですが、【協】というのは   生徒と教職員が話し合いをする。で、校長先生は指導していくことが大切だとおっ   しゃったが、それだったら、【協】でできると思う。教職員が指導するなら【協】   で生徒を納得させないといけない。納得させないような指導っていうのは正しい   指導とは言えないんじゃないですか。 ----------------------------------------------------------------------------  校長はちゃんと生徒を納得させられなかったようですね。  あっ、最後に一つ。  「卒実おたより(仮)」第26号の中にインターネットに掲載されていた記事のことが 書いてありましたが、これを読むと私ではなかった。 ホッ & (;_;)。
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