日本の戦後のアジア支配、経済進出の実態

 日本のこの間の急速な右傾化、反動化の「衝動力」を捉える上で重要だと思われる、日本の戦後のアジアへの経済進出の実態を学習した。

[戦後日本のアジア経済進出の歴史]
講和が成立する前後期の、1950年代の日本企業の特徴は、その活動舞台がインド、パキスタン、セイロンといった、今日でいう南アジアやASEANと称される東南アジアに置かれ、戦前の中心であった中国東北、韓国、北朝鮮はその中心とはならなかった。
1952年の対日講和の発効とその後の東南アジアとの賠償交渉の成立は、これらの国々と日本との国交の樹立、貿易の再開を本格化させ、日本企業の活動を東南アジアへと拡大させてゆく契機となった。1955年から始まる東南アジア賠償は、これらの地域を日本企業活動の場にかえることになり、その結果、東南アジア地域は急速に日本市場へと転換していった。1950年代までの賠償は1960年代に入ると借款に引き継がれるかたちで、日本企業の活動はこの地域を中心に展開されることとなった。1960年代になると、日本企業の活動の舞台はさらに広がり、オーストラリア、ニュージーランドとアメリカ大陸を包み込んだアジア・太平洋地域へと拡大した。1965年以降ベトナム戦争が本格化すると、日本の対アジア借款もベトナム戦争がらみで展開されるケースが増加した。
1970年代日本企業の活動は、アジア・太平洋地域にヨーロッパを加えてグローバルな色彩を見せるが、同時に1972年以降の円高の開始は、従来の貿易に加え新たに直接投資活動を日本企業に付与することとなる。その活動は1970年代前半はアジア中心であったが、後半にはヨーロッパへと広がり、80年代に入ると貿易摩擦回避の必要からアメリカへの企業進出が拡大した。
90年代に入ると円高の傾向はますます強まり、日本企業の海外展開は中小企業を含む大規模なものとなり、地域もASEANから中国やベトナムに広がっていった。

[日本のアジア経済進出−戦前と戦後の連続]
 アジア的規模で日本と周辺諸国との企業活動を見た場合、戦前と戦後は連続しているように思われる。敗戦直後の日本人のアジアからの引き上げ自体が、日本の技術や伝統をかなり残したものであった。戦後再開された東南アジアへの貿易を見れば、その出発は戦前から関係を持っていた人脈やかつて存在していた支店の復活であるという場合が非常に多かった。たとえば「日本工営」は1955年のビルマ賠償を手始めに東南アジア各地で賠償事業を手がけ、電源開発事業を行ってきた。その開発の手法の原点は、社長の久保田豊が戦前「満州」で実施してきた電源開発そのものだった。戦前「満州国」の産業部次長として辣腕をふるった岸信介が、戦後の公職追放を経て56年に外相、57年に首相に就任すると東南アジア開発に力を注いだことと無関係ではない。久保田は椎名悦三郎らとともに「満州国」人脈・岸人脈を形成していた。日本的経営という点でも、戦前と戦後の企業進出は技術面で連続し地域面で断絶している。なかでも労働慣行はその最たるもので、1970年代から本格化した日本企業の東南アジア進出の場合、日系各社が採用した労働慣行は戦前からのそれであった。部分的手直しは行われたが、日本的経営の骨格をなす日本人中心の労働慣行そのものは今日まで大きくは変わっていない。

[1990年代の日本産業と東南アジア−自動車産業を中心に−]
 東南アジアは日本企業の「聖域」、日本製造業の「独壇場」であった。1990年代半ばにそうした状況がかわりつつある。欧米企業の進出と韓国、台湾などのNIES企業の参入による国際競争が激化したからである。タイでは韓国現代自動車が乗用車部門に参入した。商用車の日本企業シェアは相変わらず98%を占めているが、乗用車部門で現代が4.6%シェアを確保したため日本企業は一挙に10ポイント以上下落して70.5%となった。インドネシアでは96年に日本メーカは商用車で96.6%シェアである。やはり韓国の現代の進出で日本車全体は93年の83.4%から48.8%に落ち込んだ。こうした状況に日本企業も必死で対抗している。ホンダを例にとってみよう。タイを四輪車生産の拠点、インドネシアを二輪車生産拠点とした。タイに4社、マレーシアに2社、インドネシアに2社、フィリピンに3社の生産拠点を有し、シビックとアコードを組み立てている。96年タイでアジア・カーを生産、96年中にアジア・カーのシティを、台湾、インドネシア、マレーシア、フィリピン、パキスタンで、97年にはインドで生産を開始した。本田はシティの生産のために日本から同社系列の15社をタイへ呼び寄せた。エンジンカバーやブレーキペダルのユタカ技研、樹脂、金型の森六、クラッチ部品のエフ・シー・シー、駆動系部品のエフティック、ステアリングホイールや内装品の東京シート、カーエアコン部品のサンデンなど。かつて60年代に味の素が圧倒的シェアを誇ったが韓国・台湾の類似メーカが低価格で攻勢をかけてきたとき、味の素は日本からの輸出を現地素材による現地生産に切り替えて市場を取り戻した。自動車でも同じ方法が追求されたのである。

[日本部品メーカの進出」
 日系部品メーカの生産拠点がアジア展開するのは1986年以降90年までの時期。なかでもタイへの進出はめざましく、全体の半分を占める。タイがASEANにおける日本の部品メーカの拠点となる理由は、ここがASEAN最大の自動車市場だったことにある。年間50万台の自動車販売実績を持つタイ市場はいうまでもなくASEAN最大。タイはASEAN自動車産業の中心であり、日本企業にとっては「絶対“死守”しなければならぬ」(『週刊金属』No.73 1996年)“要”なのである。

[90年代の中国市場争奪戦]
 中国は90年代に入って「開放政策」を一段と推し進めた。それに応じて、日米欧資本、さらに、韓国、台湾、シンガポールの資本が中国市場に殺到した。最先端エレクトロニクスの固まりといわれる携帯電話では、中国が世界最大の市場になるのは時間の問題だといわれている。中国政府は99年9月この携帯電話分野で60%以上の輸出と50%以上の部品現地調達という外資規制を打ち出した。これに伴い、各社は生産拠点の中国シフトを一挙に加速させ、松下電器を筆頭に中国での圧倒的シェアをもつ日本企業も大増産に乗り出した。

[製造業全般で生産拠点の中国シフト]
 最先端エレクトロニクスだけでなく、製造業全体で広範囲にわたって、生産拠点の中国シフトが90年代中頃から加速している。90年と99年で比較すると、中国に進出した日系企業数(現地法人数)は3.3倍、香港を除けば約8倍である。この間、東アジア全域では約2倍であり、全世界では約1.5倍である。日本企業の対中投資額は、89年に4.38億ドル、92年に10億ドル台になり、94年25.65億ドル、95年44.73億ドルと飛躍的に増大した。その後アジア危機で低迷したが、米・欧に匹敵する投資額を維持している。対中国直接投資累計(残高)では98年末時点で、米・英に次いで日本が第三位である。それにドイツが加わって、激しい投資合戦が行われている。自動車産業ではドイツがトップを走っている。
 現在、中国の市場規模は、日本を除く東アジア全体の約1/2である。97〜98アジア危機によっても、中国市場争奪戦は少しトーンダウンした程度で、アジア危機以降、中国のWTO加盟を前にして、競争はいっそう激化している。日本企業は、中国以外の東アジアを犠牲にしてでも対中国投資を優先させている。中国市場争奪戦での敗北は、東アジアでの敗北、したがって世界での敗北を意味するからである。

[参考文献「日本企業のアジア展開」小林英夫著 日本経済評論社