フィールドワーク報告

 瀋陽の街
「中国東北部・平和と交流の旅」に参加して(その4)


 
 「その1」 「その2」 「その3」に引き続き「中国東北部・平和と交流の旅」をレポートする。

  瀋陽は東北三省の中心都市である。戦前は奉天と呼ばれていた。

 1931年9月18日、関東軍はこの街で鉄道(満鉄線路)を爆破し中国側の仕業だと宣伝して、東北各地を占拠した。柳条湖事件(満州事変)と呼ばれるものである。中国では九・一八事変とよぶ。ちなみに満州国は日本の傀儡政権なので「偽満州」と偽の字がつけられる。

九一八旧館

九一八新館

  九・一八歴史博物館はこの事件の現場に建てられていた。大きなカレンダーを模した建物が1991年に建てられ、その後展示内容を充実させて奥に新館が作られていた。中には日清戦争からの日本の侵略の様子とそれに対する抗日の闘いが示されていた。写真や模型、絵画、映像、音楽がふんだんに使われていて英語と日本語の説明もあった。最後の部屋には残留孤児と養父母の像が置かれ、壁には最近の日本の動き─小泉元首相の靖国参拝や教科書問題をとりあげた資料が飾られていた。このコーナーが一番肩身が狭かった。

 この博物館は入場無料だそうだ。公的な美術館や博物館は無料化しているという。援助が打ち切られる一方の日本の現状と比べて、ため息がでる。

 日曜日ということもあってか会館前から多くの人たちが周辺で待っていた。家族連れや観光バスで来る人たちも多かった。日本のガイドブックにもここは必ず紹介されているが日本人はどれくらい来るのだろうか。

 瀋陽ではあちこちに高層ビルが建ち並び、夜は病院やマンションまでライトアップされていた。ヘリの発着場付きの億ションが次々に売れているそうだ。高度成長の真っ最中という感じだった。車の排気ガスと工事現場からの粉塵とで街全体がかすんでいる。

 瀋陽駅周辺はまだ戦前の建物があちこち残っていたが、これも再開発を予定されているものもあるそうだ。満鉄の社宅、満州国の中央郵便局、満鉄が経営していた大和ホテルなど新天地を夢見たに日本人の思いも伝わってくるようだった。それは勝手な思い込みだったけれども。



旧満鉄社宅

 日本がこの地を植民地化しようとした頃、ここは軍閥張作霖の本拠地だった。日本や欧米各国との関係のなかで勢力を保っていた張を邪魔にした関東軍は彼の乗った列車を奉天近くで爆破した。(1928年 張作霖爆殺事件)

 息子の張学良は国民党政府に身を投じた。当時中国では国民党政府と共産軍が戦っていた。このままでは日本の侵攻を食い止められないと感じた張学良は周恩来の説得もあり、蒋介石に内戦をやめともに日本と戦うことを認めさせた。(1934年 西安事件 )

 瀋陽にはこの親子の邸が残され公開されていた。門前には張学良の大きな銅像が立てられていた。抗日の英雄としてたいへん人気があるそうで、大勢の人が写真を撮っていた。
初期の邸はいかにも中国風の建物だったが、後に建てたものはヨーロッパ風の豪邸という言葉がふさわしい。



張学良の像

張氏の邸
 
 瀋陽はまた清王朝の古い都で、400年前の宮殿が今も世界遺産となって残っている。瀋陽故宮博物館である。北京故宮の10分の一の広さだが、それでもたっぷりで精緻な建物が連なっていた。かつての江戸城の一部も公開されたら素晴らしいだろうに。
 
Y.A
その5に続く