フィールドワーク報告

 平頂山惨案紀念館を訪れて
「中国東北部・平和と交流の旅」に参加して(その1)

「紀念館」の表記については中国語表記に従いました。


 
 沖縄平和ネットワーク首都圏の会(注1)主催の「中国東北部・平和と交流の旅」に参加し、瀋陽・撫順・ハルピンを回ってきた。駆け足ではあったが、多くの方にお会いし心に残るものだった。

(注1) 沖縄平和ネットワーク首都圏の会 http://www.okinawaheiwa.net/metro/  「沖縄平和ネットワーク」は学習活動を基本に、修学旅行などの平和ガイド、戦争遺跡の保存・活用運動に取り組んできた市民グループ。沖縄に関する学習会や戦跡・米軍基地などのフィールドワークを行っている。
 

 今回の旅で私にとってもっとも不安と期待を持った訪問先が平頂山紀念館である。
 あまり知識のなかった私は、事前学習会で紹介された資料や本を読み愕然とした。3000名もの住民を崖下に集め、一斉射撃を行った。さらに生きている者を一人一人銃剣で突き刺して回り、ガソリンをかけて焼きさらにダイナマイトで崖を崩して埋めたという。
 日本軍が行ったことを知らなければならないと思う一方、日本人という負い目がのしかかった。

 平頂山事件について概略を伝えたい。

 平頂山は撫順炭鉱のすぐ近くの町だった。この炭鉱は露天掘りで質の高い石炭が採れることで有名であり、当時は満鉄が経営していた。この炭鉱で働く人々やその家族、商店などで町はにぎわっていたという。


撫順炭鉱

 1932年3月満州国が建てられ抗日義勇軍の活動も活発化していた。9月15日には中国人にとって屈辱的な日満議定書が調印され、大規模な攻勢が予想されていた。日本軍も警備を固めていたが、深夜炭鉱を襲撃され所長以下12名の死傷者がでた。これで面子を潰された日本軍は平頂山の住民が義勇軍の襲撃を伝えなかったためだとして、この町の住民すべての虐殺を決めた。

 16日午前、住民を追いたて蛮行を行った日本軍は、残された家々にも火を放ち集落そのものを消し去った。

 紀念館は2007年にリニューアルされた立派な建物で、ここで館長自らに出迎えていただく。紀念館の日本語ガイドの案内で館内をめぐった。事件の概要がパネルで示され、再現映像がスクリーンに流れる。発掘された被害者の遺品も展示されている。この虐殺を実行した兵士たちの記念写真も残っている。命令に逆らえなかったとはいえ、彼らはその後どうしたのだろうか。


平頂山殉難同胞紀念碑
 
いったん外へ出て丘をのぼると平頂山殉難同胞紀念碑がある。さらに階段を下り惨案遺址(惨殺事件遺跡)紀念館に入る。


惨案遺址(惨殺事件遺跡)紀念館

 ここが実際の惨劇が行われた場所である。

 建物の中には幅5m、長さ80mのガラス張りの箱があった。のぞくとむき出しの土の上は折り重なる遺骨の山。数えられるもの800体、上部のものは焼かれて形を失っていたという。1970年、中国政府によって掘り起こされた現場をそのまま保存し建物が建てられているのだ。目をつむるとさまざまな形の遺骨たちが動き出しそうでただ黙って頭を垂れるのみだった。


発掘された遺骨(赤ん坊の遺体)


発掘された遺骨(三体が重なった遺骨)
遺骨写真はいずれも紀念館のパンフレットより。

 本館にもどり館長と事件の生存者のお話を聞いた。

 館長からは日本政府がこの事件に責任を持たないことは残念であるとの発言があった。今生存者は5名のみ、日本政府が事実を認め中国に謝罪碑を建てることを要求している。ここには年間20万人の参観者があり日本人も増えているそうだ。

 続いて生存者の楊玉芬さんのお話をお聞きした。
 24人の家族のうち16人が殺されたという。86歳とご高齢の上体調も思わしくない中で、数年ぶりにお話ししてくださった。私たちに何が出来るかという問いに「あなたの子どもにこの事実を伝えてほしい」と応えられたのが心に残った。

 戦場では兵士は上官に逆らえない。特にかつての日本軍ではありえないことだった。あのような残虐行為すらロボットとなって行うしかなかったのだろう。

 戦場ではどんなことが行われたのかをきちんと伝えなくてはとの思いをいっそう強くした。
Y.A
その2に続く