桜が満開の4月8日、『こどもの国』のフィールドワークを行った。
  「こどもの国」は横浜市青葉区に存在する広大な緑地公園である。1965年に現天皇の結婚記念事業として開業した。しかしここは旧日本軍最大の弾薬製造・貯蔵施設であった。その面影は今でもはっきりと残っている。

 親子づれが弁当を広げたりボール遊びをするその場所が、旧日本軍の軍事施設であったことを知る人はほとんどいない。

フィールドワーク
軍都−相模原と『こどもの国』

換気口?弾薬庫の上部にある

 『こどもの国』の歴史をたどると、そこは100万uの広さをもつ旧日本軍の国内最大規模を誇る弾薬製造・貯蔵施設(東京陸軍兵器補給廠田奈部隊・同填薬所)であった。
 1931年の満州事変に始まった戦火は拡大の一途をたどり、日本はその総力をアジア侵略に注ぐようになっていた。支配領域を拡大し、維持するためには強力な軍事力が必要で、弾薬の種類・量も必要となっていたが、従来の弾薬庫は地上に水平に展開する建物で、事故や空襲などの万一時の誘爆すると被害も甚大になる恐れがあるものであった。
 この地が選ばれた理由は@相模原(相模原は「軍都」と呼ばれていた)に近く、長津田から橋本経由で当時軍事線だった相模線を使えたこと。また長津田は万一、米軍が相模湾から上陸した場合、首都防戦の拠点となりうるため、A地表近くまで粘着性のある固い地盤があり、落盤の心配が少なく、完成後、内部で爆発しても被害が最小限ですむこと。B地形が細かな谷戸(低い丘陵と谷が入り組んだ地形)のため防空上優れていたことなどである。

「こどもの国」全体図

「神奈川の中の朝鮮」明石書店 刊より

軍事施設であった『こどもの国』

『こどもの国』の歴史

 軍の調査後1938年に、国家総動員法を盾に全戸買収と立ち退きが半年間でなされ、すぐに工事は開始された。工事の全体は2期にわかれ、1期は現存する第1・第2トンネル以西の西谷の施設・兵器学校等を完成させ、1941年に部隊が発足した。第2期工事ではトンネル以東の東谷の施設・引き込み線等を完成させた。その後も朝鮮人による恩田倉庫や谷戸に無数の素掘りの貯蔵庫を掘り続けたと言われている。
 工事の受注は東京・新橋の松村組を中心に行われた。動員人数は松村組だけでも1000名以上といわれている。日本人は鳶や大工など100名ほどで、残りはすべて土木作業に従事する朝鮮人であった。石井組、佐井組という朝鮮人親方が子請けし、さらにもっと小さい朝鮮人親方の組が孫・ひ孫請けしていた。また人数は少ないが彼らの家族である女性や子供もおり、女性は各飯場の炊事をしていた。これらの人々は、近辺に建てられた寮や飯場、または農家の物置を借りて住んでいた。
 朝鮮人親方の小さな組を通じて集められた人々は「畑で働いているところを無理やりトラックで----」というような強制連行ではなかったようだが、これだけの数の朝鮮人を、過酷な労働条件の職場に集中して集められること自体が異常なことである。
1910年、日本は朝鮮を植民地化し、あらゆる収奪をおこなった。特にこの頃日本はすべてを戦争へ集中するため、朝鮮本土はすべて対中国戦への「兵站基地」とすべく、朝鮮人を労働力として動員する計画がすすみ、日本本土へ移入すべく法整備も進められた。特に軍関係の工事には便宜が図られ、田奈部隊建設に集められた朝鮮人の背景には、そのような時代背景があったことを忘れてはならない。

白鳥湖に水没した弾薬庫
弾薬庫を守る高射砲台跡
閉ざされた扉の横の換気口から中を覗く

 戦後、施設は米軍に接収され完成弾の貯蔵庫になった。その後、朝鮮戦争の時ふたたび活況を呈したが、休戦に向かうと部隊の機能は逗子の池子に移され、1960年には事実上閉鎖された。
 その後、地元の接収解除の気運が高まり、市民運動が行われ、最終的には現天皇の結婚記念事業である「こどもの国」候補地に選ばれたことが接収解除をもたらし、東京オリンピックの翌年1965年5月5日に開園した。 


参考文献:「神奈川の中の朝鮮」明石書店

 神奈川県は沖縄県に次ぐ米軍基地の多いところである。
日常的にも、厚木基地の夜間発着、横須賀基地の原潜や空母の入航、池子弾薬庫跡地の米軍住宅建設と新聞記事やTVニュースに取り上げられる機会が多い。
 相模原の軍都化の歴史は2.26事件のあった1936年からはじまった。座間、新磯、大野、麻溝の各村長へ第1師団より陸軍士官学校用地と練兵場用地として買収するとの提示がなされ、翌年の1937年には1300名もの士官学校生徒が東京・市ヶ谷より新校舎へ移って来た。
その後も、陸軍施設の増強がなされ、同年に臨時東京第三陸軍病院、相模原造兵廠、翌年1938年には陸軍兵器学校、電信第1連隊、陸軍通信学校、相模原陸軍病院、陸軍機甲整備学校が作られた。
 このような軍事施設が多数移転してくる中で、相模湖ダム建設を含む「相模川河川統制事業」が神奈川県で可決され、1939年には相模原地域での早急な軍都建設事業を行うよう方針を決め、1941年に8町村(座間・大野・相模原・上溝・田名・大沢・麻溝・新磯)が合併して、当時としては日本一大きい町の相模原町が誕生した。
 戦後は米軍がこれらの施設を継続使用したため、現在でも相模原周辺は基地の町のままであり、神奈川県が基地県となっている原因の一つでもある。

軍都「相模原」と神奈川県の基地

参加者の感想
平和を祈る碑