Edward Said Interview

ペンと剣

要するに、僕たちはいつも、「反対の側」の反対側なのです。このことによって、パレスチナ人の主張は一貫性を奪われてしまいます。僕のように公衆に向けて発言しようとする者は、いつだって一部始終を最初から繰り返さねばならないという状態です。さらには、このことによって、パレスチナ人という存在は支離滅裂で、人間らしくないという印象が生じます。ちゃんとした一つの歴史を持った民族ではないと思われてしまうのです。これはまた、チョムスキーの言う「合意の捏造」(マニュファクチャリング・コンセント)を意識した、考え抜かれた戦略でもあります。

Recognition
歴史の承認

DB:元エルサレム市助役のイスラエル人メロン・ベンヴェニスティとの論争をはじめさまざまな場面で、あなたはイスラエルによってパレスチナ人に対する「不正」の事実が承認されなければならないと主張し続けています。なぜ、そのことにこだわるのですか。

まず第一に、過去三、四〇年にわたって僕らを潰してきたものが、イスラエルが「不正」を否認し続け、それに対して責任をとらないという事実であったからです。そのおかげで僕らは、あたかも孤児のように、民族としての起源も、物語も、系譜もいっさい持たないように映るのです。パレスチナ人の系譜は、イスラエルがそれに対して何を行ったかが認知されて初めて筋の通ったものになるというのが僕の意見です。つまり、これは歴史の承認の問題なのです。

第二は、その承認により、少なくとも僕らはイスラエルと対等の立場になるということです。なぜなら、僕らは彼らの存在を認めているのですから。「君たちはここに存在する」と僕らは彼らに言っています。君たちは僕らの社会を破壊し、僕らの土地を奪ったけれど、僕らは事実上、君たちが民族・国民であることは認めている。そして、次のようなかたちで君たちと平和的に暮らすことをのぞんでいる。僕らはヨルダン川西岸地区とガザ地区にパレスチナ国家をつくり、民族自決を実現する。君たちは1967年以前のイスラエル領土に君たちの国家を持ち、自治を行なえばいい。

でも、彼らは決して僕らに承認を与えようとしないのです。民族・国民としては決して。もちろん個人としては承認することに抵抗のない人々もいますが、それを公然と発言することはありません。1988年までの10年間は、イスラエル人たちは僕のところに話し合いに来て、君たちの承認が欲しいのだと申し入れたものでした。君たちが国連安保理決議242を受け入れイスラエルを承認すれば、どんなに助かるだろう。そうすれば、いっさいの状況が変わるだろうと言うのです。そこで、僕らは承認しました。だけど何ひとつ変わりません。むしろ事態は悪化しました。

この二つの理由から、僕らは認知される必要があるのです。否定と沈黙、そして最後は無関心という、特にアメリカのユダヤ人に顕著な態度は、僕らに大きなダメージを与えているのです。

DB:その認知がなされれば、あなたの言う「物語る許し」 が与えられるのでしょうか。

大きな違いになると思いますよ。それがなされれば、僕らは同じ歴史を共有することになります。僕らが自分たちの物語を語る力は格段に膨らむでしょう。欧米でパレスチナの歴史を物語ろうという試みには、必ずイスラエルによる組織的な攻撃が加えられてきました。それを理解することが重要です。

その一方で、西岸地区とガザ地区に住むパレスチナ人にとっては身の安全こそが当面の大問題であり、とても自分たちの物語を語るようなリスクはとれないという現実もあります。生きていくだけで精いっぱいなのです。このような状況は、レバノンでもどこでも、迫害を受けているパレスチナ人については共通しています。生き延びるための課題が大きすぎて、物語などにかかわっている余裕がないのです。ただ日々をつないでいくことに汲々としているのです。

国際的な舞台では、パレスチナ人が物語ろうとするたびに──パレスチナの物語の中断と、そのイスラエルの物語との関係を劇的に描き出そうとするたびに、組織的な攻撃を受けるのです。パレスチナについてメジャーな長編映画が作られたことはありません。それをドラマとして提示しようという試みがあれば、必ず批判を浴びせられ、阻止されるのです。最近のことでいえば一九八八年、パブリック・シアターのプロデューサー、ジョー・パップが 、西岸地区の劇団ハカワーティ座の公演契約をキャンセルした事件がありました。

テレビ映画やドキュメンタリー番組となると、いつだって「審議会」 (パネル)が必要だということになるのです。PBS制作のジョアン・トロートによる「怒涛の日々」Days of Rage のように、例はいくらでも挙げられます。数週間前に、ボストンのインスティチュート・フォア・コンテンポラリー・アートでパレスチナの近況を扱ったビデオ・ドキュメンタリー・シリーズが上映されました。でも、この上映には横槍が入って、「反対の側」からの代表も含めたパネルを設けない限り、企画は中止だというのです。

要するに、僕たちはいつも、「反対の側」の反対側なのです。このことによって、パレスチナ人の主張は一貫性を奪われてしまいます。僕のように公衆に向けて発言しようとする者は、いつだって一部始終を最初から繰り返さねばならないという状態です。さらには、このことによって、パレスチナ人という存在は一貫性を欠き、人間らしくないという印象が生じます。ちゃんとした一つの歴史を持った民族ではないと思われてしまうのです。これはまた、チョムスキーの言う「合意の捏造」(マニュファクチャリング・コンセント)を意識した、考え抜かれた戦略でもあります。

これは僕らにとって大きな重圧となっていますが、パレスチナ人には欧米に暮らす者が少ないので有効に対処するだけの人材がありません。従って、この障壁を取り除くことは至難の業なのです。

DB:パレスチナ人のように植民地支配におかれている人々にとって、覇権者 (へゲモニック・パワー)によって自らの歴史を葬り去られてしまうことは、どんな作用をおよぼしているのでしょう。それについては、どのような隠喩がふさわしいのでしょう。また、どうすれば葬られた歴史が回復されるのでしょう。歴史を「掘り起こし」ますか?

歴史についてもっとも重要なのは、それを掘り起こすことではなく、それを表象し、それについて語ることでしょう。また、その語り手の誠実さが絶え間なく攻撃にさらされるような状況を決して許さないことだと思います。また、隠喩については、ドラマにおける具現化がそれにあてはまると思います。この人たちは、描き出され《レプリゼント》てもよいはずです。それを何よりも強く感じます。物語の欠如こそが、きたるべき和平交渉〔マドリードの中東和平国際会議〕にパレスチナ人が自らの代表を送る《レプリゼント》 ことができないという、まさに『ガリバー旅行記』的な状況を可能にしているのだと思います。

パレスチナ人は、アメリカを後ろ盾とするイスラエルの否認の網目をかいくぐってしか、自分たちの代表を送れないのです。それゆえ、いろいろと条件がつきます。東エルサレム出身者が代表として認められないだけでなく、西岸地区とガザ地区の住民であっても、PLOと接触があってはいけないのです。PLOに指名された者はもちろん、その指示のもとに活動していると認識された者も排除されます。PLOの誰かと会ったというだけでもいけないのです。しかも、政治的に自立していることさえ認められず、ヨルダン代表団の一部でなければならないのです。自分たちの国旗を掲げることはできません。自分たちの言葉で発言することは許されません。こんな条件は、多国間交渉の場では前例がありません。それでもアメリカは、イスラエルの望みだからといってこの条件を容認したのです。

その背景には、パレスチナ人が代表される度合いは、彼らがどの程度人間として認識されるかに比例するという考え方があります。したがって、代表権を阻止すれば、彼らを人間として認識する必要はないということになるのです。それが、今日に至るまでイスラエル側、特にリクード党やシャミール のような人たちが、パレスチナ人を「居留外国人または居住民」と呼ぶのを好んできた理由です。この者たちは、ここパレスチナにおける歴史を持っていない、と彼らは言いたいのです。

シャミールはつい先日、シュテルン創設50周年の記念式典でスピーチを行ない、正義のためのテロリズムなら容認できると述べました。出席していたジャーナリストの一人が、では、パレスチナ人のテロリズムについてはどうなのかと訊くと、シャミールは、パレスチナ人の大儀は不正なものだ、なぜなら「彼らは自分のものでもない土地を要求して闘っている」からだと言い放ちました。というわけで、これらの問題はすべて歴史に関わってくるのです。


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