Edward Said Interview

ペンと剣

だから僕は、ジェーン・オースティンの小説は本質的にイングランドだけにかかわるものだという主張に対して、いや、それはカリブ地域についてのものだと、あえて主張しているのです。それを理解するためには、他のカリブ作家によるカリブ地域の歴史記述を理解しなければなりません。僕らに必要なのは、ジェーン・オースティンから見たカリブ地域だけではありません。別の視点も必要です。僕はこのような方法を、「対位法」、すなわち歴史を形成する数多くの声に基づいた読解と名づけています。


Counter Point
対立する視点

DB:[『文化と帝国主義』で]フロベール、バルザック、テニソン、ワーズワース、ディケンズなどの詩人や小説家を分析した箇所では、過去を眺めるレンズに現在のフィルターをかけているという批判を受けましたね。

そうしないように努めているんですよ。僕のねらいは、こういう作家たちのテキストを取り上げて、彼らはこう言ってるぞと僕が主張している通りのことを、実際に彼らが語っている箇所を、正確に指摘することに絞られています。彼らを後世の価値基準に基づいて非難するつもりなどありません。『文化と帝国主義』の冒頭でもはっきり述べていますが、僕は糾弾政治には興味がありません。それが当時の世界のありようだったのです。この人たちは、彼らの思想ともども敗北しました。この本の第三章で扱ったように、植民地解体の大きなうねりのなかで敗退していったのです。

ただ、それと同時に主張しておきたいのは、文化的資料については帝国主義というあさましい経験とのかかわりを一切免除してしまおうというのは間違っているということです。実際、これらの作家の多くは、彼らが英国の海外植民地の存在を認識し、当然のことと受けとめていたという事実によって、ずっと面白く読解できるようになると言いたいですね。

たとえば、ジェーン・オースティンの『マンスフィールド・パーク』 Mansfield Park (1814)について、僕はこの小説に書かれている、あることについて意見を述べました。それは僕がつけ足したものではありません。マンスフィールド・パークと呼ばれる地所を所有するトーマス・バートラム卿は、彼のサトウキビ農園があるアンチグワ〔旧英領の西インド諸島〕に行かなければなりません。このプランテーションの経営は奴隷制に基づいており、それがマンスフィールド・パークの金庫を肥やしていたのは明らかです。したがって、休息と静けさと美を表象する英国の美しい地所は、アンチグワの奴隷労働によって生産された植民地の砂糖に依存していたところがあるのです。

僕のように文学を教える者たちは、これまで、政治や歴史にかかわる部分については考慮の対象外とすることをよしとしてきました。作品を芸術として扱うということです。芸術作品の価値を認めることについては僕は誰にもひけをとりませんし、自分が愛好し賞賛する作家の作品しか取り上げません。だけれど、読解においては、「これらは芸術作品である」と言うだけでは不十分だということも主張しているのです。作品をその歴史的背景に改めてはめ込むことによって――ここが肝心なところです――いかに多くの後世の作家たち、たとえばコンラッドの後に輩出した大勢のアフリカ作家たちが、『闇の奥』を別の立場から書き改めているかということを示そうとしているのです。すなわち、「書くことによる反撃」という動きのことです。

だから僕は、ジェーン・オースティンの小説は本質的にイングランドだけにかかわるものだという主張に対して、いや、それはカリブ地域についてのものだと、あえて主張しているのです。それを理解するためには、他のカリブ作家によるカリブ地域の歴史記述を理解しなければなりません。僕らに必要なのは、ジェーン・オースティンから見たカリブ地域だけではありません。別の視点も必要です。僕はこのような方法を、「対位法」、すなわち歴史を形成する数多くの声に基づいた読解と名づけています。

重要なのは、帝国主義という経験は、じつは相互に絡み合う歴史体験だったということです。インドの歴史とイングランドの歴史は一つのもとのとして考えられなければなりません。分離主義は支持しません。僕がやろうとしているのは、様々な分野の経験を統合することです。それらは従来、分析上と政治上の両面において分断されてきたのですが、それは誤りだ考えています。

DB:E.M.フォスター 〔Edward Morgan Forster 英国の小説家・批評家、1879-1970〕という作家も取り上げられていますね。彼の『ハワーズ・エンド』 Howard's End (1910)にはナイジェリアのプランテーションのことが出てきます。

出てくるだけじゃないんです。ハワーズ・エンド邸の持ち主ウィルコックス一族は、アングロ・ナイジェリアンというゴム会社を所有しています。彼らの富はアフリカから来るのです。しかし、たとえばライオネル・トリリング Lionel Trilling のフォスター研究のように、この小説に対する批評の大方は、この事実を完全に黙殺してしまうのです。本の中には書いてあることなのに。僕の目的は、西洋の偉大な文化遺産のこのような側面を強調することにあります。また同時に、オーストラリア、北アフリカ、中央アフリカなどの文化遺産にも目を向け、そういう資料もまた存在していることに注意を促すことにも努めています。僕らは、この膨大な資料のすべてに取り組まなければなりません。それは極めて重要なことです。『ハワーズ・エンド』の題辞に「オンリー・コネクト」とあったのを覚えていますか。ものごとを互いに関連づけるのは大切なことです。それが、『文化と帝国主義』で僕が追求していることなのです。

DB: すると、時代精神というものを容認するわけですね。それについては批判しないのですね。

それに対する批判は抵抗運動の興隆として出現し、最終的には植民地帝国を打ち負かしました。植民地帝国は第二次世界大戦を生き延びることができなかったのです。1880年に始まったインドの国民会議派運動は、1917年にイギリス人がインドを撤退した後に政権を握った政党と、まさに同一の組織によるものでした。ここで指摘しておきたいことは、アフリカやアジアやラテン・アメリカの偉大な抵抗運動はすべて、その系譜をたどれば白人の侵入に対して最初に抵抗した人々にたどり着くという事実です。抵抗の継続性というものがあるのです。

例えば、1962年にフランスを打倒して独立を達成したアルジェリアのFLN〔民族解放戦線〕は、1930年にアブデル・カーデル(Abdel Kader)が開始したアルジェリアの抵抗運動の継承者であると自認しています。彼らは自分たちが同じ歴史に所属していると見ているのです。それこそ僕が指摘しようとしていることです。継続的な闘争の歴史というものが存在するのです。帝国主義は、一方の見方が他方に押しつけられたというものでは決してありません。立場によって異論のある共通の体験なのです。このことは、しっかり胸にたたんでおかなければなりません。


< 『ペンと剣』(ちくま学芸文庫)>

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