Parallels and Paradoxes



音楽と社会







第二章は、二人の音楽談義のなかでは純粋に音楽と演奏そのものを論じている基礎にあたる部分です。ここを読んでおくと後の部分がわかりやすい。

Music and Society
バレンボイム/サイード対談集

Chapter 2-1
New York、1998年10月8日
パフォーマンスの一回性サウンドの一過性楽譜やテクストは作品そのものではないサウンドの現象学

サイード: 文学にはほんとうの意味でのパフォーマーにあたるものがない。書き手が人前で朗読することはありうるだろうが、僕らのしごとの理屈にかなった目的は、沈黙をつくり出すこと──だまって読ませることだ。ところが、君のような演奏をする(performing)音楽家にとっては、自分の仕事の最終の結果はパフォーマンスというものだ。

バレンボイム: そうだね。でも、もの書きにあたるのは、曲を演奏する人間ではなくて、それを作曲する人じゃないだろうか。作家がピアニストに比較できるとは思えない。作家と比較されるのは作曲家でなければならないだろう。とはいえ作曲家にとっても、いろんな意味で最終目標は自分の作品を上演させることだけれど。でも、ある音楽作品を演奏会にむけて準備していく段階と、演奏会そのもののあいだには、きわめてはっきりとした違いがあると思う。演奏会では、なにか予期されない劇的なできごとが割り込んできたというのでもないかぎり、途中でとまることはない。いったん一つの曲がはじまれば、それは最後までいくのだ。だから、音量や、響きや、速度については、そこになにか必然的なものが、論理的な構成がなければならない。そこのところが、リハーサルのように、途中で止めて、もっとよい方法を試すことができるものとは違っている。一回のパフォーマンスには、一つきりの可能性しかない。音というものはもともと、つかの間の存在なのだから、いちど終わってしまえば、それきりなのだ。準備をする段階から、一つのゴールに行きつかねばならぬという事実から発生するいろんな要素を考慮しなければならない。ある意味で、それは人間や植物の一生に等しいものだ。無から始まり、無に終わる・・・。

サイード: 沈黙(silence)から始まり、沈黙に終わる・・・。

バレンボイム:
沈黙から始まり、沈黙に終わる。そして最後まで中断することはできない。現在のような高度技術の時代には、この「一回性」という特徴はかんたんに忘れられてしまう。技術のおかげで、あらゆるものが保存され、再生されることが可能になったからだ。ところが演奏はそうはいかない。ライブ・コンサートを録音して保存したり、テープをつくったりはできるよ。だけどコンサートに参加していた人が体験したものは、二度と戻らない。

サイード: そうだね、そこのところが僕には大きくひっかかる。だって、文学でも絵画でも、時間はいつも前に進むものとはかぎらないからね。僕らはあちこちに立ち寄ったり、立ち戻ったりできるし、いちど読んだところを、また読み返したりもする。そういうものには、公演のような強烈さはない。公演は、君の言うように、始めから終わりまでまっすぐに前進していくという論理を強いるからだ。ある意味で、公演には再現の可能性はない。たとえ録音テープがあったとしても、それは同じものではない。すでに別のものだ。そう思わないかい?

バレンボイム: もちろんさ。たとえ次の日にくり返されたとしても、それは別の演奏だ。

サイード: そうすると、「無になる」か「喪失」というような要素があるおかげで、音楽には「沈黙」による破壊が、あらかじめ組み込まれているといえるのではないだろうか。だが文学の世界では沈黙は保存されている。すべての校正や、(一部の作家の場合は)再校正は、理論上はみなテクストの一部なのだ──これは、編集段階でなんども戻ってきては変更を加えたがるような輩の話だ。評論家でさえも、刊行されているものについては、たえず見直しをする機会を持っている。でも音楽家に与えられているのは、パフォーマンスが終わって沈黙がもどったときの、あの喪失感だけだ。それで思い出すのは、ベートーヴェンの中期作品のいくつかが、例えば第五交響曲とか、『フィデリオ』の終わりの部分などのように、曲の終わりになにかを主張しようとして、一種のヒステリー状態になるということだ。Cメジャー延々とくり返されるように、終わりがくることに対し、それに先んじ、それを延期し、回避しようとする試みなのだ。

バレンボイム: 沈黙に反抗するように・・・

サイード: 沈黙に反抗する手段として、音をながびかせるために。わかる?

バレンボイム: よくわかるよ。でも僕は、音楽は、いろんな意味で、物理的な法則への反抗だと思っている──その一つが沈黙との関係だ。ベートーヴェンの交響曲とシェイクスピアのソネットを比べてみるといい。台本に並んだ言葉は、シェイクスピアの思考を表記したもの(notation)であり、その点では、楽譜がベートーヴェンの心に浮かんだものの表記(notation)にほかならないのと同じだ。だが両者の主な違いは、シェイクスピアの心や彼の読者の心には、その思考が存在していたということだ。これに対し、ベートーヴェンの交響曲では、サウンドを実際にこの世界に出現させるという付け加えの要素が必要だ。第五交響曲のサウンドは、楽譜の中には存在していない。

これはサウンドの現象学だ──サウンドが一過性のものであるという事実、サウンドは沈黙ときわめて具体的な関係を持っているという事実。僕はよくこれを重力の法則と比較する。物体が地面にひき寄せられるのと同じように、サウンドもまた沈黙にひき寄せられる。逆もまたしかりだ。この前提を受け入れるならば、物理的な必然性のあらゆる側面が、音楽家が逆らうべき対象としてたち現れてくるだろう。だからこそ、勇気というものが音楽をつくるのに不可欠な要素となる。ベートーヴェンが精神的に強かったというのは、耳が聞こえなかったからだけではない。超人的なチャレンジを克服しなければならなかったからだ。音楽をつくるという行為そのものが、自然の物理法則の多くを拒絶しようとするものであるゆえに、勇気ある行為なのだ。

まずはじめにくるのが、沈黙の問題だ。音を持続させたいのならば、そして持続的なサウンドから生じる緊張を創出したいのであれば、関係のはじまりの瞬間は、第一の音とそれ以前にあった沈黙のあいだのものだ。つぎに来るのが、第一の音と次の音とのあいだの関係だ。そうして、これが無限に続いていく。これを達成するために、自然の法則を拒絶することになる。サウンドが消えていくという、ほっておけば自然にそうなることを許さないのだから。そういうわけで、演奏においては、その音楽を知り、それを理解するということとは別に、音楽家がまっさきに理解しなければならない重要なことは、音をこの世界に出現させたとき、この部屋に出現させたときに、それがどのように作動するかということだ。つまり、音の反響はどんなだろう、音の持続性はどんなだろう、というようなことだ。

音を通じて音楽をつくる技術は、僕の考えでは錯覚をつくる技術だ。ピアノを弾く場合、音が一つの音から増殖することができるかのような錯覚をつくり出すのだが、ピアノには物理的にそんなことをする能力はまったくない。弾き手はそれに反抗する。フレージングしたり(句節をつける)、ペダルを使ったり、そのほかいろいろな方法を駆使して、そういう錯覚をつくり出そうとする。一つの音が増殖するという、ありもしないものを錯覚でつくりだし、また音量が低下していくプロセスを遅延させているという錯覚をつくり出すのだ。ただ、オーケストラについては、持続することができる楽器も含まれるために事情はちょっと違う。それでも、この錯覚の技術と、物理法則に逆らう技術が、演奏においてまっさきに僕を感動させる要素だ。それは準備を必要とするし、リハーサルも必要だ──ただし、それは公演のための「公式」に到達するためのものではない。残念ながら、そうなっていることが多いようだけれど。

サイード: トリックみたいなもののこと?

バレンボイム: いや、必ずしもトリックというわけではなくて、一定の結論に達するための公式のようなものさ。バランスについて、テンポについて、フレージングについてのね。そうして、気に入らないところをみんな修正して、満足するものが達成されると、夕方からのパフォーマンスでもただ同じことをくり返そうとするだけなのだ。まったく誤解していると僕は思う。

サイード: パフォーマーというのは、書物を解釈する人間と同じように、自分が上演しようとしているテクストについて、特別なスタイルを持った人々といえるのではないだろうか。僕が本を読むときには──そうだな、たとえば、シェイクスピアの戯曲を読み、それからディケンズの小説を読んだとしよう。これらは、まったく別種の作品だ。かたや一六世紀にから一七世紀はじめに書かれ、もう一方は一九世紀の中ごろから後半に書かれている。でも、それを読む僕は同じ人間だ。僕は本を読むときに自分が特定の興味のパターンを持っていると自覚しているが、それは他の読者のものとは必ずしも同じではないだろう。自分の読解のスタイルには一定の連続性があり、自分が読み、解釈を試みる作品のすべてに及んでいることには気がついている。ここで陥りたくないのは、容易に先を読まれてしまうようなものになってしまうことで、「これは『テンペスト』の神話的な読解であり、サイードは例によって、ディケンズの小説『大いなる遺産』の神話的な読解を行なっている」なんて言わせてしまうことだ。でもその一方では、どんな作品を読んでいようが、他とは違う自分独自のスタイルを持ちたいという願望もある。言いかえれば、それがシェイクスピアだろうが、ディケンズだろうが、ポープだろうが、そこにはそれと識別できる知性や個性が解釈を行なっており、それは保持したい。そうすると、そのバランスは──君が公式について言おうとしていたことがこれにあたると思うけれど──他とは違う特徴的なスタイルと、まったく変わりばえのしないものとのあいだにある、ということになる。言いかえれば、ただむやみに同じことを何度もくり返すのではなく、この演奏、あるいはこの解釈が、他の誰かのものではなく自分ものだということを人々に確実に理解させたいということだ。

バレンボイム: そんな方向ではあまり考えてはいなかったな。リハーサルとパフォーマンスの相違について僕が考えていたのは、それがフレージングであれ、強調であれ、まずいと思うことがパフォーマンスで起こらないようにするために、リハーサルを使うというようなことだ。つまり、いっさいがっさいアルコール浸けにして保存しておいて、夕方にビンを開けてそっくりそのまま取り出すなんてできないのさ。リハーサルにおいては、音響の現象学の研究と観察がきわめて大切であり、特にオーケストラについてはそれが言えると思う。ソロ演奏の場合にも確かにそれは言えるのだけれど、オーケストラという環境では、僕の言わんとすることが特にわかりやすい。結局のところ、作曲家による記譜は、ある意味で、人々が期待するものよりずっとアバウトなものなのだ──だから、表記されたものへの忠実さの問題なんて、ほんとうは存在しないのさ。

サイード: どうして?

バレンボイム: 楽譜は真のものではないからさ。楽譜は曲じゃない。曲とは、それを実際にサウンドにしたときに現れるものだ。

サイード:
すると君は、曲と呼ばれる絶対的なものが存在するとは思わないのだね?

バレンボイム: そうだよ。

サイード: 批評の世界にも、安定したテクストというものなど存在せず、すべてのものは、読まれたり、上演されたり、解釈されたりするたびに新たに創造されるのだと主張する一派がある。ここで厄介な問題は、楽譜かテクストかという表記の方法だが──ここではそれをテクストと呼ぶことにしよう。だって僕たちは印刷されたものについて話をしているのだから。パフォーマンスを行なうために必要な最低のラインは、どこに求めたらよいのだろう?「作者はこう書いている。ゆえに、すべてその通りに実行しなければならない」と言うのであれば、それは極端な字句の尊重、すなわち原理主義になってしまうだろう。

バレンボイム:
楽譜の可聴性の問題だろう。ベートーヴェンがクレッシェンドを記すとき、ある一点でフルートのために、その二小節後にはクラリネットのために、その次には弦楽器のために、そしてフォルテの一小節手前ではトランペットとティンパニーのために、なんていちいち書き込んだりはしない。

サイード: しないね。ぜんぶ一緒になっている。

バレンボイム: その通り。だが、もしこれらすべての楽器にいっせいにクレッシェンドをやらせたら、第二小節にいくころには、もう何も聞こえなくなるだろう。当然、ティンパニーとトランペットが、ほかの楽器をかき消してしまう。第二フルートなどは、そうなったらもう出る幕がない。従って、解釈の問題にはいる前に、そこにはすでにバランス、あるいは可聴性というきわめて単純な問題が控えていることになる。「解釈」という言葉が、そういうものに関わってくるとは思えない。可聴性や透明性を、どのようにつくりだしたらいいのか?きこえるようにしようとすれば、トランペットとティンパニーにクレッシェンドの開始をずっと遅らせてもらい、クライマックスにはいる直前の最後の刺激になるようにしなければならないのだが、それではテクストに忠実とはいえないのだろうか?ある意味では、忠実ではない。実際にそれを変更しているのだからね。

これは、ささやかな一例だ。これを持ち出したのは、ひとえに、音楽の表記におけるアバウトな性格をはっきりさせておきたかったからだ。一つの音符は、一つの音を示す。それは明らかだ。けれども、明らかなのはそこまでだ。もしそこに、強弱の表示──フォルテがあったとして、それは「もっと大きく」という意味だが、いったい何と比較しての話なのだろうか?

これが、「サウンドの現象学の観察」と僕が読んでいるものだ。サウンドはどのように積み重なるのか。一つのサウンドが望んだより長引いたという幻想は、どうしたらつくり出せるのか。どこからともなくサウンドが始まるという幻想は、どのようにつくり出すことができるのか。客観的にはありえないことだが、音楽つくりではまさにこれがエッセンスだ。ブルックナーの交響曲で、管弦楽のトレモロがどこからともなく始まるのを聞くとき、そこには幻想がつくられている。純粋に物理的なものさしで計れば、そのサウンドはどこか一点で始まっているのだから。ブルックナーの第四や第七交響曲の導入のトレモロは、どこからともなく始まり、サウンドが沈黙から忍び出てきたかのような錯覚をつくりだす。あたかも、海から這い出てくる獣が、姿をあらわす前にそのけはいを漂わせるかのように。

ずいぶんと詩的でメタフィジカルに聞こえるかもしれないけれど、それは抵抗なのだ。物理法則に抵抗するためには、その物理法則を理解せねばならないし、ものが一定のひびきを持つのはなぜ、どのようにしてなのかを理解しなければならない。そこから今度はフレージングの問題に進むことになる、だが、そこでも時間と空間の問題はつきまとう。調性音楽では、和音は、緊張の解放を達成するために、それに先立って緊張をつみ上げるという重要な機能を持つが、一つの和音はどれだけの時間を必要とするのだろか。逆にいえば、それをするためには一定の時間が必要なのだ。そしてこれこそが、リハーサルされねばならないことなのだと思う。これがリハーサルというものの目的だ。オーケストラはすでに音符を知っており、どのように演奏するかも、どのような種類のサウンドが望まれているかも、そういうようなことはすべて承知しているのだから。基本的に、シカゴ交響楽団やベルリン交響楽団やウィーン交響楽団のような素晴らしいオーケストラ──レパートリーを完全に理解しているオーケストラ──を指揮するときには、まさにそれがあてはまる。サウンドの関係についての、だれもが認める一連の観念が、基本的に音楽の創造を可能にさせるものなのだ。これが音楽の創造を、ただのばらばらなサウンドの生産から区別するものだ。この有機的な要素が、それだ。こういうものを経て、ようやくパフォーマンスの瞬間が来る。こうしたことをすべて観察し、あるクレッシェンドは一定水準を超える必要がない、なぜなら二小節あとにもう一つのクレッシェンドがあり、さらに二ページあとにもまた現れるからだ、ということや、テンポには一定の役割があり、びみょうなテンポの修正はたんに容認されるばかりではなく、音楽の旋律がはっきりと現れてくるためには、実際のところ「必要」である、というようなことなど、そういうものをぜんぶ了解してしまえば、あとはパフォーマンスに向かうだけだ。その興奮は、ただ人前で演じるということによるものだけではないし、はじめと終わりの拍手によるものでもない。もちろん、舞台用の特別な衣装をつけているからでもない。それは、ある曲をはじめから終わりまでぶっ通しで、一度も止まらずに、演じきるとができるということの興奮にほかならない。ある意味で、僕には人生でこれに匹敵するようなものは他にない。
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『バレンボイム/サイード 音楽と社会』(みずず書房 2004)からの抜粋 All Rights Reserved


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Posted on 19 July, 20041