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ホームレスという語につきまとう「自分より劣った、無力で哀れむべき救済対象」という含蓄を批判する一方で、ギルはまた、そのような見方に反発する日本の活動家・研究者の態度にも、裏を返しただけの同じ価値基準の押しつけを見ているようだ。「野宿者がそのような生活を送っているのは本人の弱さや怠惰のせいであり、またそれが彼らの好むところであるという見方に対し、寄せ場にかかわる活動家や左翼研究者の多くは強硬に反発する。この人たちは資本主義の罪のない犠牲者であるというわけだ。もちろん多くの場合その通りなのであろうが、実際の野宿者との会話からは、怠惰であることもまた政治的な意思表明でありうることが示唆される」。富裕で浪費的な現代日本の大都会では、選り好みさえしなければ誰一人飢え死にするようなことはない。なにゆえに集団仕事中毒気味なメインストリームの価値基準を奉じて同じようにあくせくしなければならないというのだろう。はじめから競争条件が圧倒的にこちらに不利に仕組まれているというなら、なおさらではないか
Review
寄せ場におけるオルターナディブな価値観とは

 

Tom Gill, Men of Uncertainty --The Social Organization of Day Laborers in Contemporary Japan, State University of New York Press, 2001

著者は九三年五月から九五年三月までの二年足らずの期間、横浜を拠点として寿地区にあししげく通い、ここを中心に日本各地の寄せ場を訪れ現地調査をおこなった。バブル崩壊直後の建設不況のただなかであったため実際の日雇仕事こそとれなかったたものの、たびたびドヤに宿泊し、日雇労働者たちの日常生活にはいりこみ、酒や賭けごとなどを共にするなかで彼らと語り合い、数百人におよぶ労働者との会話をもとに六十万語におよぶ聞き取り調査資料を作成した。このフィールドノートをもとに書かれ、様々な場で発表された論文(LSEに提出された博士論文を含む)を再構成・編集したものが本書であり、イギリス出身の社会人類学者による「寄せ場」エスノグラフィーの集大成である。

構成を簡単に記しておくと、前半は日本の「寄せ場」空間についての紹介と具体的な描写(第一章 寄せ場の概要、第二章 歴史的背景、第三章 寿地区のエスノグラフィー、第四章 各地の寄せ場)、後半の第五章以降に分析的な考察がテーマ別に展開されている(第五章 寄せ場労働者の出目・素性、第六章 Homeの意味、第七章 寄せ場におけるマージナルなアイデンティティ 第八章 現代日本社会における寄せ場の役割 第九章 拡散する寄せ場空間)。

文化人類学ないし社会人類学的な手法で寄せ場を扱った英語文献としては、本書に先立ってエドワード・ファウラーのSan'ya Blues: laboring Life in contemporary Tokyo, 1996, Cornell University Press, Edward Fowler (邦訳は『山谷ブルース』)とキャロライン・スティーヴンスのOn the Margins of Japanese Society: Volunteers and the welfare of the urban underclass, 1997, Routledge, Carolyn Stevensの二冊がある。このうちギルとファウラーは、現実にドヤに滞在し、寄せ場労働者たちと日常生活を共にし、同じ地平にたって語り合うなかから資料を集めていく(テープレコーダーなどは使わない)というアプローチにおいて、フィールドワークの段階ではきわめて類似している。バブル景気とその崩壊を受けて寄せ場空間の変容・解体が進行する中、直接体験を通じて九〇年代の寄せ場のありようを描く彼らの作品は、英文ならずとも貴重なドキュメントである。両者の比較を手ががりに本書を検討してみよう。

フィールドワークの手法は類似しているが、記述方法となると両者は対照的である。「描写」という高度に構築された作業は書き手の主観というフィルターを通さねば成立しえないという確信から、ファウラーは「研究対象の視点からみた世界を描き出す」という文化人類学者の究極目標とされるものの可能性には懐疑的であり、あえてそのような試みを放棄する(Fowler, pp 237-8)。その結果は「意図は完全にノンフィクションであるが、手法は小説」(ibid. p 231)、すなわちドキュメンタリー風の叙述、山谷で出会った人々の独白、日記という三つのスタイルの混在である。限りなく事実に近づこうとするフィクションという方法には潜在的に怖いものを感じないではないが、彼の場合は書き手の主観を抹消すことの不可能性を強く自覚した、ある意味での潔癖さのあらわれととるべきであろう。

これに対し、ギルはあくまでも分析を志向する。ファウラーが、ある特定の時点の特定の場所に焦点をしぼり、それにより全体を表象させようと試みるのに対し、ギルの構図は俯瞰的である。「日本の日雇労働者および日雇労働市場制度が時代を超えて存続してきた経緯を明らかにし、それにより、今日の日雇労働者の生活を理解し、その役割を日本社会全体のなかに位置づけること」(Gill, p 9)が狙いであると記す通り、歴史的解説にかなりのスペースを割いている。また、寿地区の労働者には案外と長男が多いが、それは戦争と敗戦の負荷が長男に集中した結果であろうという「長男末っ子」説(pp 115-122)や、寄せ場を指して「姥捨て山」、「駆け込み寺」という本来は女性にまつわる表現が使用されることに敏感に(おそらく過敏に)反応している(p 175)ことに見られるように、寄せ場における現状も歴史的な文脈において解釈しようとする傾向が強い。

しかし、もっと面白いのは、「home」という概念を切り口に寄せ場における共同体意識のあり方を探った第六章とそれ以降である。寄せ場空間が、「一般社会」(メインストリーム)がノーマルとみなす生活様式の外側にあることを端的に示すのが、homelessという言葉の適用をめぐる混乱である。日本ではカタカナ語化した「ホームレス」がマスメディアによって(いまでは不適切な表現とされる)「浮浪者」の代用に用いられるため問題が一段と錯綜しているように思われるが、ギルによれば、そもそも英語圏でもこの言葉の定義には異論が多く定説はない(p 126-133)。単純に整理すれば、homeを狭義に「住居」と解釈するか、周囲の人間関係や社会との「絆」と広義にとらえるかにより、homelessとは「宿無し」のことか「根無し」のことかという二極に解釈がわかれるのだが、ギルによれば英米研究者の多くは後者の立場を取る(p 127)。その背景には行政側がでるだけ狭義の解釈を取ることによって問題の範囲を押さえ込もうとすることへの反発もあるようだが、このような広義の解釈(例えば、「homelessnessとは社会からの離脱であり、定住者を結びあうネットワーク社会の構造に積極的につながる絆の欠如ないし希薄化を特徴とする」というCaplowの定義)をあてはめれば、寄せ場労働者はほぼすべてhomelessということになってしまう。だが、寄せ場やドヤ街にはそこに安定した人間関係や生活の場を築いている労働者も少なくないし、野宿する理由が金銭の欠乏だけにあるわけでもない。

このようなズレの背景には、そもそも広義の解釈に内在する偏見があるとギルは指摘する。すなわち、このような定義には、定義者のイメージする「home」に結び付けられた一定の生活様式が「規範」として存在することが前提として想定されており、そこからはみだした生き方に対しては何かが欠落しているという見方をしてしまうのである(p 127)。彼らには、それ以外のかたちで都市における人間の暮らしがなりたちうることが想像できないのだ。このような「一般社会」の硬直した世界観にオルターナディブを突き付けるものとして、寄せ場空間におけるhomeのあり方をギルは考察する。そこには狭義のhomeはなくとも、夏祭りや越冬闘争に代表されるようなコミュニティー(hometown)が存在し、ドヤを「家」とし焚き火を「団欒の場」とするような生活様式がある(pp 133-144)。

homelessという語につきまとう「自分より劣った、無力で哀れむべき救済対象」という含蓄を批判する一方で、ギルはまた、そのような見方に反発する日本の活動家・研究者の態度にも、裏を返しただけの同じ価値基準の押しつけを見ているようだ。「野宿者がそのような生活を送っているのは本人の弱さや怠惰のせいであり、またそれが彼らの好むところであるという見方に対し、寄せ場にかかわる活動家や左翼研究者の多くは強硬に反発する。この人たちは資本主義の罪のない犠牲者であるというわけだ。もちろん多くの場合その通りなのであろうが、実際の野宿者との会話からは、怠惰であることもまた政治的な意思表明でありうることが示唆される」(p 131)。富裕で浪費的な現代日本の大都会では、選り好みさえしなければ誰一人飢え死にするようなことはない。なにゆえに集団仕事中毒気味なメインストリームの価値基準を奉じて同じようにあくせくしなければならないというのだろう。はじめから競争条件が圧倒的にこちらに不利に仕組まれているというなら、なおさらではないか。

この点をさらに展開し、寄せ場におけるオルターナディブな価値観を「寄せ場文化」として論じているのが、第七章である。家族と会社という日本社会の二本の柱から切り離されている寄せ場労働者は、これらが推進する階層秩序の外側にあるがゆえに、それに支配されることのない独自の価値観を築いている。Day/Papataxiarchis/Stewartの編集によるLilies of the Field, Westview Press, 1999 は、多様なマージナル集団の国際比較を通じて、そこに共通する「反抗のアイデンティティ」を見出そうとする試みであるが、そこで提唱されている「マージナルな人々は、有力な隣人たちの支配的文化とは対照的な存在、あるいはそれに対抗する存在として意識的かつ系統的にみずからを規定しており、自分たちはこの強力な隣人たちの支配の及ばない領域、オルターナティブな価値体系の世界に住んでいるとみなしている」という分析は、寄せ場労働者にも明らかにあてはまる(p 152)。日雇労働者のライフスタイルを身につけていれば山谷でも寿でも釜ヶ崎でも温かく迎えられるのであり、多くの者にとって寄せ場こそがhometownとなっている。中産階級の没個性的な順応性に覆われた不毛の砂漠の中で、寄せ場は下層文化のオアシスを形成しているのだ。刹那主義、平等主義、気取りのなさといった「自由」の追求を核にからみ合う一連の寄せ場文化の特性は、支配文化に対抗するための有力な武器であり、マージナルな存在の自己表現であると解釈されよう。

以上は、この包括的な研究の中の、ごく一部のトピックスに過ぎない。他にも、従来の議論を発展させたスキドロウと寄せ場の比較(pp 180-185)などのように特筆すべきものもあるのだが、ここでは到底すべてを紹介することは出来ない。

英語で書かれている以上、ファウラーもギルも想定されている読み手はおもに英語圏の読者であろう。特にファウラーの場合はそれがストレートに出ている。欧米メディアが作り上げた日本社会のステレオタイプ(同一化志向が強く、個性のない画一的な人々が機械部品のように役割をこなしていく超効率的で裕福な社会)に異を唱え、一見外からは見えにくい内部の多様性が最も鮮烈に顕在化する場として寄せ場に注目し、これを描写することが第一の目的であると彼は明言している(もっとも、そのようなステレオタイプの責任の一端が、みずから均質性を強調し「単一民族」神話の強化を図る日本の支配層にもあることを指摘することは忘れていない)(Fowler, p xiv)。これに対し、ギルの視点はもう少し複眼的である。本書の基となった論文のいくつかがが、初出は日本語であったことに示唆されるように、彼の批判対象は英米における論調であると同時に、日本の研究者・活動家のあいだにみられるステレオタイプでもある。例えば、寿日労の調査や著者自身の調査による寄せ場労働者のプロフィールは、活動家や研究者による「ステレオタイプ」とは必ずしも一致しない(例えば、国内重工業の衰退による失職者が寄せ場に流れたとされるが、実際には旧炭坑労働者は二人ほど見かけたのみ、鉄鋼や造船などから流れてきた者は皆無であるなど)という指摘(その批判の正当性はどうあれ)が第五章の冒頭にある。あるいは、先述のhomeという概念をめぐる問題提起においても、両サイドに語りかけるギルの姿勢があらわれている。このことがダブルバインドとなってか、ともするとどっちつかずで煮え切らないという印象を受ける場面もないではない。文化・社会人類学が基本的に異文化の観察を通して自らの文化を検証するものであるとすれば、言語や地域による境界線が急速に揺らぎはじめ、「観察者」がそこに寄って立つべき「われわれ」がかつてほど自明ではなくなっている現在、人類学者は批判対象とすべき「われわれの文化」をどこに求めるのであろうか。ギルの複眼的ためらいは、この現実を反映しているのかもしれない。

寄せ場』 第14号 2001年5月30日発行(日本寄せ場学界)に載せた書評
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02/01/31
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