早尾貴紀氏の《粗訳》(1) Thoughts about America
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★右端のコラムのものは、早尾貴紀氏がご自分の粗訳と称して「パレスチナオリーブ」のウェッブ・サイトに公開している(2003年11月15日現在)ものです。わたくしも同じ原文から翻訳しており、RUR55のサイトに2002年3月5日に掲載しました。掲載と同時に多数の方々に更新通知としてメールで送付しており、早尾氏もそれを受けとっています。それから3〜4週間ほどして下の早尾訳がウェッブで公開されたのですが、早尾さんに送付した拙訳との類似は尋常ではないと思います。

もちろん、一言一句おなじというわけではありませんから、似ていないといわれれば、水かけ論になってしまいます。早尾さんが「使ったといわれるのは心外だ」と主張なされば、それを完全に否定することはできません。議論してもしかたがないので、原文と一緒にふたつを並べてみることにしました。こうすれば、なにが起こったかは一目瞭然だろうと思います。ウェッブで通知したものは推敲を重ねているわけではありませんので不備なところもありますが、比較対照にはこちらがふさわしいと思い、間違いもそのままにしてあります。ひとつひとつの単語のレベルよりも、文章の骨格がほぼ同じであることに注意してください(時間がなければ、黄色くしたセルを見てください)。サイードのようにワン・センテンスが非常に長く、分詞や関係代名詞を多用した文章の翻訳は、どこかで切らざるを得ず、ときには何ヵ所も切らなければ読める日本語になりません。その際の処理の仕方(解釈も反映されます)が他の人間と、ことごとく同じになるということは、偶然ではありえないことです。こんな処理まで全部一緒になるはずがないと思われるところを何ヵ所かハイライトしました。

確かに単語はことごとく言い換えられているのですが、これが早尾さんの「自分で一つ一つ丹念に複数の辞書にあたりながら訳出したものです」という主張の根拠なのでしょうか。とにかく、この程度の参照は特に言及するに及ばないということらしいです。自分では「別もの」と考えて発表したと主張しておられますから、それが著作行為についての早尾さんの一般基準であると受け止めるしかないのでしょう。しかし、このようなものを勉強目的の粗訳と称して自分の名前で公表することがフェアといえるのでしょうか(実際はその後、この翻訳は『現代思想』2002年6月臨時増刊号に掲載されました。その経緯についてはこちらをご参照ください)。


Thoughts about America

Al-Ahram Weekly, 28 Feb.- 6 Mar. 2002, No. 575


アメリカについての考察

(中野が出したサイードオンラインの更新通知)


アメリカの思想.

(早尾貴紀訳として、パレスチナオリーブに掲載されたもの

I don't know a single Arab or Muslim American who does not now feel that he or she belongs to the enemy camp, and that being in the United States at this moment provides us with an especially unpleasant experience of alienation and widespread, quite specifically targeted hostility.

アラブ系やムスリムのアメリカ人で、自分が敵方に属していると現在感じていないような人物をわたしは一人も知らない。現時点で合衆国に住んでいることは、疎外感と幅広い敵意の対象として名指しされるという不愉快きわまりない経験をわたしたちに与えている。

自分がいま敵側に属していると感じていないようなアラブ系やムスリムのアメリカ人など私は一人も知らない。この瞬間にアメリカにいるということが、疎外感と幅広くそして明確に標的とされた敵意を向けられるというとりわけ不愉快な経験を自分たちに与えていると感じているのだ。

For despite the occasional official statements saying that Islam and Muslims and Arabs are not enemies of the United States, everything else about the current situation argues the exact opposite.

政府当局はイスラム教やイスラム教徒やアラブ人は合衆国の敵ではないとの声明をときおり出してはいるが、それを除く現状のいっさいはまさに正反対のことを訴えている。

政府はイスラームやムスリムやアラブ人がアメリカの敵ではないという声明をときおり出してはいるが、それ以外のあらゆる現状はその正反対のことを主張しているのだから。

Hundreds of young Arab and Muslim men have been picked up for questioning and, in far too many cases, detained by the police or the FBI.

何百人というアラブ系やムスリムの若い男たちが警察やFBIによって不審尋問のために逮捕され、しかもやたら多くが拘留されている。

何百人ものアラブ人やムスリムの若い男たちが警察やFBIによって不審尋問のために連行され、しかも拘留されているケースがあまりにも多い。

Anyone with an Arab or Muslim name is usually made to stand aside for special attention during airport security checks.

空港の警備検査では通常、アラブ系やイスラム教徒の名前を持つ者はすべて脇に出されて特別な注意の対象となる。

空港での警備検査では、たいていアラブ系あるいはムスリム系の名前を持つものは全員脇に出させられて特別な注意を向けられる。

There have been many reported instances of discriminatory behaviour against Arabs, so that speaking Arabic or even reading an Arabic document in public is likely to draw unwelcome attention.

アラブ系の人々に対する差別的な行動がとられた事例は数多く報道されており、人前でアラビア語を話すことはおろかアラビア語の文書を読むことさえ、ありがたくない注目を招く可能性が高い。

アラブ系の人々に対して差別的な行為がなされた事例が数多く報道されており、人前でアラビア語を話すことはおろかアラビア語の書類を読むことさえも、ありがたくない注目を引いてしまう可能性が高い。

And of course, the media have run far too many "experts" and "commentators" on terrorism, Islam, and the Arabs whose endlessly repetitious and reductive line is so hostile and so misrepresents our history, society and culture that the media itself has become little more than an arm of the war on terrorism in Afghanistan and elsewhere, as now seems to be the case with the projected attack to "end" Iraq.

そしてもちろん、メディアはテロリズムやイスラムやアラブについての「専門家」の意見を不必要に多く取り上げる。彼らがとめどなく反復する単純化されたセリフは、わたしたちの歴史や社会や文化に対する敵意と虚説に満ちており、あたかもメディアそれ自体がアフガニスタンなどで展開する対テロリズム戦争の一つの武器と化したかのようだ。その鉾先は現在、イラクを「始末」するための攻撃と予想されるものに照準を合わせてたところに向いているようだ。

そしてもちろんメディアは、テロリズムやイスラームアラブについての「専門家」や「解説者」らの見解を過剰なまでに放送し、彼らが際限なく繰り返す単純化したセリフは敵意に満ちており、私たちの歴史や社会や文化を歪曲しており、メディアそれ自体がアフガニスタンその他で展開する対テロリズム戦争の一つの武器になったも同然である。そしていまやそれはイラクを「始末」するために計画されている攻撃についても同じことが言えそうなのだ。

There are US forces already in several countries with important Muslim populations like the Philippines and Somalia, the buildup against Iraq continues, and Israel prolongs its sadistic collective punishment of the Palestinian people, all with what seems like great public approval in the United States.

合衆国はすでにフィリピンやソマリアのように大きなムスリム人口を持つ国のいくつかに軍隊を派遣しており、イラクへの対抗手段も引き続き増強している。イスラエルはパレスチナ住民に対するサディスティックな集団懲罰を長期化させている。これらはすべて合衆国の一般世論の大きな賛同を得ているように思われる。 アメリカ軍はすでにフィリピンやソマリアのようなムスリム人口が重要な地位を持つ国々に派遣されており、イラクに対する準備の強化も継続している。そしてイスラエルは、パレスチナ住民に対するサディスティックな集団懲罰を長期化させているのだ。これらすべてのことはアメリカの世論の大きな賛同を得ているように思われる。

While true in some respects, this is quite misleading.

だが、一面の真実はあるものの、それは大きな誤解である。

これはある面では真実ではあるが、まったくの誤解である。

America is more than what Bush and Rumsfeld and the others say it is.

ブッシュやラムズフェルドなどがこれがアメリカだと言うものだけがアメリカではない。

アメリカは、ブッシュやラムズフェルドその他の人々が言っているものだけではない。

I have come to deeply resent the notion that I must accept the picture of America as being involved in a "just war" against something unilaterally labeled as terrorism by Bush and his advisers, a war that has assigned us the role of either silent witnesses or defensive immigrants who should be grateful to be allowed residence in the US.

ブッシュや彼の顧問たちが一方的にテロリズムのレッテルを貼ったものとの「正義の戦争」に没頭しているというアメリカ像を、わたしが受け入れねばならぬという考えには強い不快感を持つようになっている。この戦争がわたちに割りふった役割は、物言わぬ証人となるか、または合衆国に住めることをありがたく思わねばならない防衛姿勢の移民となるかのどちらかである。

私がひじょうに憤慨を覚えるのは、ブッシュや彼の顧問たちによって一方的にテロリズムのレッテルを貼られたものに対する「正義の戦争」に熱中しているというアメリカ像を、私が受け入れなくてはならないという考えに対してだ。この戦争が私たちに割り当てた役割は、物言わぬ証人になるか、またはアメリカへの居住を許されたことに感謝すべき防衛姿勢の移民になるかのどちらかなのだ。

The historical realities are different: America is an immigrant republic and has always been one.

だが歴史的な現実はそれとは異なっている。アメリカは移民の共和国であり、建国以来ずっとそうであった。

だが、歴史的な現実はそうではない。アメリカは移民の共和国であり、建国以来ずっとそうでありつづけた。

It is a nation of laws passed not by God but by its citizens.

この国は法治国家であり、その法は神が定めたものではなく国民が定めたものである。

アメリカは法治国家であり、それは神が定めたものではなく市民が定めたものである。

Except for the mostly exterminated native Americans, the original Indians, everyone who now lives here as an American citizen originally came to these shores as an immigrant from somewhere else, even Bush and Rumsfeld.

 ほとんど絶滅させられた先住民すなわちアメリカ・インディアンを例外として、現在ここにアメリカ国民として住む者は一人のこらず素性をたどればどこか他所から渡って来た移民であり、ブッシュやラムズフェルドとてそれは同じである。

ほとんど絶滅させられたアメリカ先住民、つまりもとからいた「インディアン」を除けば、現在ここにアメリカ市民として住む者は誰でも、ブッシュやラムズフェルドでさえも、もともとはどこか余所の場所から移民としてアメリカの海岸に辿り着いたのである。

The Constitution does not provide for different levels of Americanness, nor for approved or disapproved forms of "American behaviour," including things that have come to be called "un-" or "anti- American" statements or attitudes.

 

合衆国憲法にはアメリカ人であることに段階の相違があるとは書かれておらず、「アメリカ人の行動」として許されるものと許されないものなどという規定もない。「非アメリカ的」あるいは「反アメリカ的」言論や態度などと現在呼ばれるようになったものについても同様である。

憲法にはアメリカ人らしさ[Americanness]の段階差の規定は設けられていないし、「アメリカ人の振る舞い」方として認められるものと認められないものという規定もない。「非アメリカ的」あるいは「反アメリカ的」言論や態度と呼ばれるようになったものについても同じだ。

That is the invention of American Taliban who want to regulate speech and behaviour in ways that remind one eerily of the unregretted former rulers of Afghanistan.

 

こういうものは、「アメリカのタリバン」の発明であり、人々の言論や行動を統制したがるその姿はアフガニスタンの誰にも惜しまれなかった前統治者たちを不気味に連想させるものだ。

こうしたものは「アメリカのターリバーン」の発明であり、彼らが言論や行動を統制したがることは、惜しまれることのない前のアフガニスタンの支配者らを不気味なほどに思い起こさせる。

And even if Mr Bush insists on the importance of religion in America, he is not authorised to enforce such views on the citizenry or to speak for everyone when he makes proclamations in China and elsewhere about God and America and himself.

たとえブッシュ氏がアメリカにおける宗教の重要性を強く主張したとしても、彼にはそのような見解を一般市民に押し付ける権限もなければ、皆を代表して発言する(神とアメリカと自分自身について中国などで宣言したように)権限も与えられていない。

たとえブッシュ氏がアメリカにおける宗教の重要性を訴えたとしても、彼にはそうした見解を市民に押しつける権限もなければ、中国などで神とアメリカと彼自身について宣言したように全員を代表して発言する権限もない。

The Constitution expressly separates church and state.

 憲法ははっきりと教会と国家の分離をうたっている。

憲法によって明白に教会と国家は分離されているのだから。

There is worse.

もっとひどいものもある。

さらにひどいのもある。

By passing the Patriot Act last November, Bush and his compliant Congress have suppressed or abrogated or abridged whole sections of the First, Fourth, Fifth and Eighth Amendments, instituted legal procedures that give individuals no recourse either to a proper defence or a fair trial, that allow secret searches, eavesdropping, detention without limit, and, given the treatment of the prisoners at Guantanamo Bay, that allow the US executive branch to abduct prisoners, detain them indefinitely, decide unilaterally whether or not they are prisoners of war and whether or not the Geneva Conventions apply to them -- which is not a decision to be taken by individual countries.

昨年11月に〔反テロ法の〕パトリオット・アクト(愛国法)を通過させることによって、ブッシュと彼に恭順する議会は合衆国憲法修正条項の第一、第四、第五、第八を圧殺・無効化・制限し、個人がきちんとした弁明や公正な裁判に訴える道を与えず秘密捜査や盗聴や無期限拘留を許すような法手続きを制定した。またグアンタナモ・ベイの囚人〔アルカーダ兵〕に対する処置をみればわかるように、この法律は合衆国の行政部門が囚人を誘拐して無期限に拘留し、彼らが戦争捕虜であるか否か、ジュネーブ協定が適応されるか否かを一方的に決定することを許している(そのようなことはそもそも個々の国家が決定するものではない)。

昨年11月に愛国法[the Patriot Act](いわゆる「反テロ法」)を通過させることによって、ブッシュと彼に従順な議会は、アメリカ憲法修正条項の第一、第四、第五、第八項を圧殺・廃止・制限し、個人がきちんとした弁明や公正な裁判に訴える道を与えず、秘密捜査や盗聴や無期限拘留を許すような法的な手続きを制定した。また、アンタナモ湾〔アメリカ軍基地〕の囚人〔アルカーイダ兵〕に対する処遇を考えれば、この法整備はアメリカ行政部が囚人らを捕獲して無期限に拘留し、彼らが戦争捕虜であるかどうか、ジュネーヴ条約が適用されるかどうかを一方的に決定することを許しているのだ。だがこれは、個々の国家が決めるべきことではない。

Moreover, as Congressman Dennis Kucinich (Democrat, Ohio) said in a magnificent speech given on 17 February, the president and his men were not authorised to declare war (Operation Enduring Freedom) against the world without limit or reason, were not authorised to increase military spending to over $400 billion per year, were not authorised to repeal the Bill of Rights.

そのうえ、デニス・クシニッチ下院議員(Dennis Kucinichオハイオ州の民主党議員)が2月17日のすばらしいスピーチ[注]で述べたように、大統領とその部下たちは範囲の限定も理由もなしに世界に対して宣戦布告(不朽の自由作戦)する権限は与えられておらず、軍事予算を年間4000億ドル超に拡大するような権限も、権利章典(Bill of Rights)を無効にするような権限も与えられてはいないのだ。

そのうえ、デニス・クシニッチ下院議員(オハイオ州選出の民主党議員)が2月17日におこなったすばらしいスピーチで述べたように、大統領とその部下たちは、範囲の限定も理由もなしに世界に対して宣戦布告(「不朽の自由作戦」)をする権限も与えられておらず、軍事予算を年間4000億ドル以上に増額する権限も与えられておらず、権利章典を廃棄する権限も与えられてはいないのだ。

Furthermore, he added -- the first such statement by a prominent, publicly elected official -- "we did not ask that the blood of innocent people, who perished on September 11, be avenged with the blood of innocent villagers in Afghanistan."

さらに彼は、「我々は、9月11日に亡くなった罪のない人々の血をアフガニスタンの罪のない村人の血で償ってくれと頼んだ覚えはない」と付け加えた──高名な公選議員がこのような発言をしたのは初めてのことだ。

さらに彼は、「私たちは、9月11日に亡くなった罪のない人々の血をアフガニスタンの罪のない村人の血で報復することを頼んでなどいない」と加えたが、著名な公選議員がこのような発言をしたのは初めてのことである。

I strongly recommend that Rep. Kucinich's speech, which was made with the best of American principles and values in mind, be published in full in Arabic so that people in our part of the world can understand that America is not a monolith for the use of George Bush and Dick Cheney, but in fact contains many voices and currents of opinion which this government is trying to silence or make irrelevant.

クシニッチ下院議員の演説は、アメリカの信条と価値観の最良のものを踏まえたものであり、これが完全な形でアラビア語で出版されることをわたしは強く推奨したい。そうすれば、アメリカはジョージ・ブッシュやディック・チェイニーの都合にあわせてあつらえた一枚岩ではなく、じっさいには数多くの声や思潮が存在しており、この政府はそれを黙らせるか問題とされぬようにしたがっているのだということが、こちら側の世界〔アラブ圏〕の人々にも理解できるようになるからだ。

クシニッチ議員の演説は、アメリカの理念と価値観の中でも最良の部分によってなされたものであり、この全文がアラビア語で発表されることを私は強く勧めたい。そうすれば、アメリカはジョージ・ブッシュやディック・チェイニーに気ままに使われる一枚岩の存在ではなく、実際には多くの声や意見の趨勢を含んだ存在であり、政府はそれを黙らせるか無関係のものにしてしまおうと企んでいることが、こちらの側の世界〔アラブ地域〕の人々にも理解できるようになるだろう。

The problem for the world today is how to deal with the unparalleled and unprecedented power of the United States, which in effect has made no secret of the fact that it does not need coordination with or approval of others in the pursuit of what a small circle of men and women around Bush believe are its interests.

今日の世界がかかえる問題は、合衆国の空前で比類のない力にどう付き合っていくかということである。合衆国は事実上、ブッシュ周辺の一握りの人々が国益だと考えるものを追求するに際して、他国の協調や承認など必要としないということを隠そうともしない。

現代世界の問題は、アメリカという空前無比の権力にどのように対処するのかということである。アメリカは、ブッシュ周辺の少数の内輪の人々が国益だと考えるものを追求する際に、他国の協力や承認を必要としていないということを、事実上隠そうともしない。

So far as the Middle East is concerned, it does seem that since 11 September there has been almost an Israelisation of US policy: and in effect Ariel Sharon and his associates have cynically exploited the single-minded attention to "terrorism" by George Bush and have used that as a cover for their continued failed policy against the Palestinians.

中東に関するかぎり、9月11日以降、合衆国の政策がほとんどイスラエル化したような事態が起こっていると思われる。実際のところ、アリエル・シャロンと彼の仲間たちはジョージ・ブッシュがひたすら「テロリズム」に注意を集中しているのをいいことに、それをシニカルに利用してパレスチナ人に対する彼らの破綻した政策の続行を隠蔽している。

中東に関するかぎり、9月11日以降、確かにアメリカの政策はほとんどイスラエル化しているように思われる。実際、アリエル・シャロンと彼の仲間たちは、ジョージ・ブッシュがひたすら「テロリズム」にのみ注意を向けていることをシニカルに利用して、パレスチナ人に対してイスラエルが継続させているすでに破綻した政策を隠蔽するのに使っている。

The point here is that Israel is not the US and, mercifully, the US is not Israel: thus, even though Israel commands Bush's support for the moment, Israel is a small country whose continued survival as an ethnocentric state in the midst of an Arab-Islamic sea depends not just on an expedient if not infinite dependence on the US, but rather on accommodation with its environment, not the other way round.

ここで重要なのはイスラエルは合衆国ではないということ、そして(ありがたいことに)合衆国はイスラエルではないということである。差しあたってはブッシュの支持を自由に享受しているものの、イスラエルのような小国がアラブ・イスラム諸国に囲まれて少数民族国家として存続していくにためには、合衆国への当座の(無制限ではないとしても)依存が必要なだけでなく、むしろ周囲の環境に自分を順応させることの方が肝心である。その逆ではない。

ここでのポイントは、イスラエルはアメリカではないということ、そして幸いにも、アメリカもイスラエルではないということである。だから、いまのところブッシュの支持を思い通りに得ているものの、イスラエルは小国であり、アラブ‐イスラーム地域のただ中で自民族中心主義国家として生存しつづけるには、無制限とまでは言わないにせよ便宜的にはアメリカに依存せざるをえないだけでなく、むしろイスラエルが周囲の環境に順応することの方が必要なのであって、その逆ではない。

That is why I think Sharon's policy has finally been revealed to a significant number of Israelis as suicidal, and why more and more Israelis are taking the reserve officers' position against serving the military occupation as a model for their approach and resistance.

シャロンの政策が自滅的であることを最終的にかなり多くのイスラエル人が理解するようになったのはこのためだろう。そしてまた、次第に多くのイスラエル人が軍事占領への奉仕に反対する予備役士官の立場を自分たちのアプローチと抵抗のモデルととらえるようになってきたのもそのためであろう。

このために、シャロンの政策が自殺的であることが最終的にかなり多くのイスラエル人の目にも明らかになったし、また、ますます多くのイスラエル人が軍事占領地での任務に反対する予備役将校の立場を自分たちのアプローチと抵抗のモデルととらえるようになってきたのである。

This is the best thing to have emerged from the Intifada. It proves that Palestinian courage and defiance in resisting occupation have finally brought fruit.

これはインティファーダから生まれた最良の結果である。これは占領に抵抗するパレスチナ人の勇気と果敢な反抗がついに実を結んだことを証明している。

これはインティファーダから生まれた最良のものである。これは占領に抵抗するパレスチナ人の勇気と果敢な反抗がついに実を結んだことを証明しているのだ。

What has not changed, however, is the US position, which has been escalating towards a more and more metaphysical sphere, in which Bush and his people identify themselves (as in the very name of the military campaign, Operation Enduring Freedom) with righteousness, purity, the good, and manifest destiny, its external enemies with an equally absolute evil.

だが変わっていないのは合衆国の立場である。それはますます抽象的な領域へ向かってエスカレートしており、ブッシュとその配下の者たちは自分たちを(まさしく「不朽の自由」という軍事作戦の名前にあるように)正義、純潔、善、天与の運命と同一視し、外部の敵を同じように絶対的な悪と同一視している。

だが、変化していないのはアメリカの立場であり、ますます形而上学的な領域へ向かってエスカレートしている。ブッシュと彼の部下自分たちを正義・純粋・善・運命顕示と同一視し(まさに「不朽の自由」という軍事作戦の名前にあるように)、外部の敵を同様に絶対的な悪と同一視している。

Anyone reading the world press in the past few weeks can ascertain that people outside the US are both mystified by and aghast at the vagueness of US policy, which claims for itself the right to imagine and create enemies on a world scale, then prosecute wars on them without much regard for accuracy of definition, specificity of aim, concreteness of goal, or, worst of all, the legality of such actions.

ここ数週間の世界の新聞を読んでいれば誰の目にも明らかなことだが、合衆国の外にいる人々はこの国の政策のあやふやさに当惑すると同時にあきれ返っている。その政策が主張するのは、合衆国は想像によって世界規模の敵をつくり出し、それに戦争を仕掛け、敵についての正確な定義も、明確な目的も、具体的な着地点も、さらにひどいことにはそのような行為の法的根拠さえいいかげんなままにしておく権利をもつということなのだ。

ここ数週間の世界の新聞を読んでいれば誰でも分ることだが、アメリカの外部にいる人々はアメリカの政策の曖昧さに当惑し、あきれ返っている。その政策が自ら主張していることは、アメリカが世界規模の敵を想像によって創りだし、正確な定義も、目的の特定も、先行きの具体性も、そして最悪なことに、そうした行動の適法性さえも大した注意を払わないままで、その敵に対し戦争を仕掛ける権利を持っているということだ。

What does it mean to defeat "evil terrorism" in a world like ours?

わたしたちの住むような世界で「邪悪なテロリズム」を打倒するというのは、どういう意味なのだ?

私たちのいる世界で「邪悪なテロリズム」を打倒するということは何を意味するのだろうか?

It cannot mean eradicating everyone who opposes the US, an infinite and strangely pointless task; nor can it mean changing the world map to suit the US, substituting people we think are "good guys" for evil creatures like Saddam Hussein.

まさか合衆国にたてつくものは一人残らず抹殺するなどという無限定で異様に掴みどころのない使命を意味するはずはなし、世界地図を合衆国の都合にあわせて変更し、わたしたちが「善良」だと思う人々をサダム・フセインのような悪党に置き換えることであるはずもない。

アメリカと対立する者は全員抹殺するという無限定で異様に掴み所のない任務を意味するなどということはありえないし、世界地図をアメリカの都合に合わせて書き換え、私たちが「善玉」だと思っている人々をサダム・フセインのような悪玉に置き換えることを意味することもありえない。

The radical simplicity of all this is attractive to Washington bureaucrats whose domain is either purely theoretical or who, because they sit behind desks in the Pentagon, tend to see the world as a distant target for the US's very real and virtually unopposed power.

こういうような極端な単純化はワシントンの高級官僚たちには魅力的なのだ。彼らは完全に理論的な領域を専門としているか、さもなければ国防省に勤務しており、ほどんど敵無しの巨大な合衆国の軍事力の遠く離れた標的としてこの世界を見る傾向がある。

こうした極端な単純化はワシントンの官僚たちには魅力的なのだ。彼らは、純粋に理論的な領域を専門としているか、さもなければ国防総省の机に座ったところから、アメリカの実在のそしてほとんど無敵の権力の遠く離れた標的として世界を見る傾向がある。

For if you live 10,000 miles away from any known evil state and you have at your disposal acres of warplanes, 19 aircraft carriers, and dozens of submarines, plus a million and a half people under arms, all of them willing to serve their country idealistically in the pursuit of what Bush and Condoleezza Rice keep referring to as evil, the chances are that you will be willing to use all that power sometime, somewhere, especially if the administration keeps asking for (and getting) billions of dollars to be added to the already swollen defence budget.

もし周知の悪者国家のいずれからも10,000マイルは離れたところに住んでおり、手許には自由に使える莫大な数の軍用機、19隻の航空母艦、何十隻もの潜水艦があり、それに加えて150万人の軍人がみな喜んで国に奉仕(ブッシュやコンドリーザ・ライス〔国家安全保障担当大統領補佐官〕が悪として言及しつづけるものの追跡)しようという気持ちに燃えているという条件が与えられているならば、いつかどこかでその力を全開させてみたくなるのが人情だろう。とりわけ行政府がすでに膨張した軍事予算に何十億ドルもの積み増しを要求しつづけ(そして承認され)ているような場合にはその可能性は高い。

もしすべての周知の悪者国家から10000マイルも離れたところに住んでいて、自分は自由に使える莫大な数の軍用機と19隻の航空母艦、何十隻もの潜水艦を持っており、それに加えて150万人の軍人が全員自ら喜んで国に奉仕し、理想に燃えてブッシュやコンドリーザ・ライス〔国家安全保障担当大統領補佐官〕が悪と名指しつづけているものを追撃しているとするならば、いつかどこかでこの力をすべて使ってみたくなることも十分に考えられるだろう。とりわけ、行政府がすでに膨張している軍事予算に何十億ドルもの増額を要求し(そして承認され)ているような場合にはそうだ。

From my point of view, the most shocking thing of all is that with few exceptions most prominent intellectuals and commentators in this country have tolerated the Bush programme, tolerated and in some flagrant cases, tried to go beyond it, toward more self- righteous sophistry, more uncritical self-flattery, more specious argument.

わたしに言わせれば、これらすべての中で最もショッキングなことは、わずかな例外を除いてこの国の著名な知識人や評論家のほとんどがブッシュの計画を大目に見ていることである。大目に見るだけでなく、一部の目に余るようなケースでは、さらにその先をめざし、もっと独善的な詭弁、もっと無批判な自賛、もっと見かけ倒しの議論を提唱するものさえある。

私見では、これらすべての中でもっともショッキングなことは、ごくわずかの例外を除いて著名な知識人や評論家のほとんどが、ブッシュの計画を容認していることだ。しかもいくつかのはなはだしいケースでは、容認するだけでなく、その先を目指し、さらに独善的な詭弁、さらに無批判な自賛、さらにもっともらしい議論に向かう者さえもいる。

What they will not accept is that the world we live in, the historical world of nations and peoples, is moved and can be understood by politics, not by huge general absolutes like good and evil, with America always on the side of good, its enemies on the side of evil.

こういう人たちが拒絶しているのは、わたしたちが住むこの世界、諸国や諸民族の歴史の世界は、政治によって動かされ、政治によって理解されるものであり、善や悪のような巨大な一般抽象概念を用い、アメリカは常に善、敵はいつも悪と決めつけることによってではないということだ。

これらの人に受け入れがたいのは、私たちが住むこの世界、諸国家・諸民族の歴史の世界が政治によって動かされ、政治によって理解されるものであり、アメリカはつねに善の側、敵はつねに悪の側というような善や悪といった巨大な一般的な絶対原理によるのではないということだ。

When Thomas Friedman tiresomely sermonises to Arabs that they have to be more self-critical, missing in anything he says is the slightest tone of self- criticism.

トーマス・フリードマンはアラブに対し、もっと自己批判的であるべきだとうんざりしたように説教するが、御本人の言葉にはどこを探しても自己批判のかけらもみられない。

トーマス・フリードマンはアラブに対して、もっと自己批判的であるべきだと、うんざりしたように説教をしているが、彼自身の言葉の中にはほんのわずかな自己批判の響きさえも見当たらない。

Somehow, he thinks, the atrocities of 11 September entitle him to preach at others, as if only the US had suffered such terrible losses, and as if lives lost elsewhere in the world were not worth lamenting quite as much or drawing as large moral conclusions from.

彼は9月11日の惨劇によって他者に説教する資格が自分に与えられたと考えているようだが、それではまるで、このような恐ろしい損失を被ったことがあるのは合衆国だけであり、世界の他のところで失われた人命は同じ程度に悲嘆するには値せず、同じように重大な倫理的結論を導くものでもないといわんばかりだ。

彼はどうしたものか、9月11日の惨劇によって他人に説教する資格を手にしたと思っているようだが、それはあたかもただアメリカだけがこのような恐ろしい損失を被ったかのようであり、あたかも世界の他の場所で失われた生命は同じように悼むに値せず、また同じように重大な倫理的帰結を導くものではないかのようである。

One notices the same discrepancies and blindness when Israeli intellectuals concentrate on their own tragedies and leave out of the equation the much greater suffering of a dispossessed people without a state, or an army, or an air force, or a proper leadership, that is, Palestinians whose suffering at the hands of Israel continues minute by minute, hour by hour.

同じような矛盾と理解の欠如は、イスラエルの知識人がもっぱら自分たちの悲劇にのみ注目し、国も陸軍も空軍も適切な統率者もない追放された民、すなわちパレスチナ人が味わっているずっと大きな苦しみを、考慮の対象から外していることにも認められる。イスラエルによって加えられるパレスチナ人の苦しみは時々刻々と休むことなく続いているのだ。

同様の矛盾と無分別さが見られるのは、イスラエルの知識人自分たちの悲劇ばかりに注目し、国家も陸軍も空軍も適切な指導者もない追放された民族、つまりパレスチナ人が被っているずっと大きな苦しみを、問題の外に放り出している点である。イスラエルの手によって加えられるパレスチナ人の苦しみは、この瞬間瞬間にもずっと継続しているのである。

This sort of moral blindness, this inability to evaluate and weigh the comparative evidence of sinner and sinned against (to use a moralistic language that I normally avoid and detest) is very much the order of the day, and it must be the critical intellectual's job not to fall into -- indeed, actively to campaign against falling into -- the trap.

この種の倫理判断の欠如、罪を犯したものと犯されたもの(こういう倫理的な言葉は大嫌いでふつうは避けるのだが)の相対的な証拠を値ぶみして計りにかける能力の欠如が当世の風潮となっているが、その罠に陥らぬようにすることが──いやむしろ、それに陥ることに反対する運動を積極的に推進することが──批判的な知識人のつとめであるはずだ。

この種の倫理的な無分別さ、罪を犯した者と犯された者とを比較する証拠を評価し天秤にかける能力の欠如(このような倫理的言葉は私は普段は避けているし嫌いなのだが)が、時代の風潮となっており、その罠に陥らないようにすることが――それどころか罠に陥ることに反対する運動を進めることが――批判的知識人の責務であるはずなのだ。

It is not enough to say blandly that all human suffering is equal, then to go on basically bewailing one's own miseries: it is far more important to see what the strongest party does, and to question rather than justify that.

すべての人の苦しみは平等であると当たり障りのない発言で済ませておいて、その後は基本的におのれの不幸を嘆き悲しむというようなことでは不充分だ。最強の陣営の所業に目を開き、それを正当化するのではなく疑問視することの方がはるかに重要だ。

すべての人間の苦しみは平等であると当たり障りなく言って、その後は基本的にはそれぞれ自分の不幸を嘆き悲しむということでは不十分だ。もっとずっと重要なことは、最強の一団がいったい何をしているのかを見極め、それを正当化するのではなく異議を唱えることなのだ。

The intellectual's is a voice in opposition to and critical of great power, which is consistently in need of a restraining and clarifying conscience and a comparative perspective, so that the victim will not, as is often the case, be blamed and real power encouraged to do its will.

巨大な権力はそれを抑制し明確化する判断力と相対的な視点をつねに必要としており、知識人はそれに異を唱え、それを批判する声となって、犠牲者が(しばしば起こりがちなように)非難され、強大な権力が意志を通すことが促されることのないようにしなければならない。

知識人の声は、強大な権力に対抗して批判をするものである。権力はそれを抑制し明確化する良心と相対的な視野をつねに必要としており、知識人の声によって、犠牲者が責められ(よくあることだが)、実際に権力を持っている側が意志を通すことばかりが助長されるなどということがないようにしなければならない。

A week ago I was stunned when a European friend asked me what I thought of a declaration by 60 American intellectuals that was published in all the major French, German, Italian and other continental papers but which did not appear in the US at all, except on the Internet where few people took notice of it.

一週間前、わたしはヨーロッパの友人から60人のアメリカ知識人による共同声明についてどう思うかと聞かれて面食らった。この声明はフランス、ドイツ、イタリアなど大陸ヨーロッパの主要各紙に発表されたのだが、合衆国のメディアには全く登場せず、インターネットを通じて少数の人々がそれに気づいただけだったのだ。

一週間前、私はヨーロッパの友人から60人のアメリカ知識人による声明についてどう思うかと聞かれて唖然とした。この声明はフランスやドイツ、イタリアなどヨーロッパ大陸の主要な新聞に発表されたのだが、アメリカでは、ごく少数の人々がインターネットで気づいた以外は、まったく目に触れることがなかった。

This declaration took the form of a pompous sermon about the American war against evil and terrorism being "just" and in keeping with American values, as defined by these self-appointed interpreters of our country.

この声明は、悪とテロリズムに対するアメリカの戦争は「正義」に基いており、アメリカの価値観に沿ったものであるということを大仰に説教するものであり、そこで言うアメリカの価値観とはわたしたちの国を解釈する役割を勝手に引き受けた者たちが定義したものである。

この声明は、悪とテロリズムに対するアメリカの戦争が「正義」であり、アメリカの価値観に沿ったものであるということを尊大に説教するものである。このアメリカの価値観とは私たちの国を解釈する者を自称する彼らによって定義されたものだ。

Paid for and sponsored by something called the Institute for American Values, whose main (and financially well- endowed) aim is to propagate ideas in favour of families, "fathering" and "mothering," and God, the declaration was signed by Samuel Huntington, Francis Fukuyama, Daniel Patrick Moynihan among many others, but basically written by a conservative feminist academic, Jean Bethke Elshtain.

これに資金と後援を与えたのはインスディチュート・フォア・アメリカン・ヴァリューとかいう団体で、その主な(そして多額の寄付を集める)目的は、家族や「父親らしさ」・「母親らしさ」や神などを重視する考えを広めることにある。この宣言にはサミュエル・ハンティントン、フランシス・フクヤマ、ダニエル・パトリック・モイニハンをはじめ多数の署名が載せられているが、基本的には保守派フェミニストのジーン・ベスキー・エルシュタインという学者によって書かれたものだ。

彼らはアメリカ的価値観協会(the Institute for American Values)とやらに資金提供と後援を受けているのだが、この団体の主な(財政的に多額の寄付を受ける)目的は、家族つまり「父になること」「母になること」や神を持ち上げるような理想を広めることである。この声明には、サミュエル・ハンティントン、フランシス・フクヤマ、ダニエル・パトリック・モイニハンなど多くの人々が署名をしているが、基本的にはジーン・ベスキー・エルシュテインという保守的なフェミニスト学者によって書かれた。

Its main arguments about a "just" war were inspired by Professor Michael Walzer, a supposed socialist who is allied with the pro-Israel lobby in this country, and whose role is to justify everything Israel does by recourse to vaguely leftist principles.

その中の「正義の」戦争についての主な議論を吹き込んだのはマイケル・ウォルツァー教授で、社会主義者とされるこの人物はアメリカのイスラエル・ロビーと手を組んでおり、その役割りはどことなく左翼風にひびく信条に訴えてイスラエルのあらゆる行為を正当化することなのだ。

その中の「正義」の戦争についての議論を吹き込んだのはマイケル・ウォルツァー教授であり、この社会主義者とされている人物はこの国の親イスラエル・ロビーと結託しており、彼の役割は、なんとなく左翼的な信条に訴えてイスラエルの行為のあらゆることを正当化することなのだ。

In signing this declaration, Walzer has given up all pretension to leftism and, like Sharon, allies himself with an interpretation (and a questionable one at that) of America as a righteous warrior against terror and evil, the more to make it appear that Israel and the US are similar countries with similar aims.

この声明への署名によって、ウォルツァーは左翼気取りを返上し、シャロンのように、アメリカはテロや悪と戦う正義の戦士であるとする(疑わしい)解釈と手を結び、それにより一層イスラエルと合衆国は似たような目的を持つ似たような国だという印象を強める役割りを果たしているのだ。

この声明に署名することで、ウォルツァーは、左翼気取りを捨て去り、シャロンのように、アメリカはテロや悪と戦う正義の戦士であるという(疑わしい)解釈と手を結び、それによってますますイスラエルとアメリカは似た目的を持つ似ている国家だと見られるように仕向けているのだ。

Nothing could be further from the truth, since Israel is not the state of its citizens but of all the Jewish people, while the US is most assuredly only the state of its citizens.

これほど真実からかけ離れたことはない。合衆国は間違いなくその市民のための国家でしかないが、イスラエルはそこに住む市民の国家ではなく、ユダヤ人の国家だからである。

これほど真実からかけ離れたものもないだろう。イスラエルはその市民の国家なのではなくすべてのユダヤ人の国家であり、他方アメリカは疑いなくその市民の国家でしかないからだ。

Moreover, Walzer never has the courage to state boldly that in supporting Israel he is supporting a state structured by ethno-religious principles, which (with typical hypocrisy) he would oppose in the United States if this country were declared to be white and Christian.

その上、ウォルツァーは、イスラエルを支持するからには自分は民族・宗教的な原則で組織された国家を支持しているのだと大胆に述べる勇気を持ったことないが、もしそのようなことがこの国で起こり、合衆国は白人とキリスト教徒の国だなどと宣言されたならば彼は反対するはずだ(典型的な偽善だ)。

そのうえウォルツァーは、イスラエル支持においては自分が民族‐宗教的原則によって組織された国家を支持しているのだと大胆に述べる勇気を持ったためしがない。もしこうした原理によってアメリカが白人とキリスト教徒の国であると宣言したならば、彼はこの原理に反対するだろうに(典型的な偽善だ)。

Walzer's inconsistencies and hypocrisies aside, the document is really addressed to "our Muslim brethren" who are supposed to understand that America's war is not against Islam but against those who oppose all sorts of principles, which it would be hard to disagree with.

ウォルツァーの無定見と偽善はさておき、この文書は本当に「わたしたちのムスリムの同胞」に宛てたものであり、ムスリムたちは、アメリカの戦争が敵としているのはイスラムではなく、あらゆる信条に反対する者たちだということを理解するものと期待されている。それに異を唱えることは難しい。

ウォルツァーの無定見と偽善はさておいても、この文書は本当に「私たちのムスリムの仲間」に宛てたものであり、アメリカの戦争はイスラームに対するものではなく、あらゆる種類の信条に反対する者に対するものだということを、ムスリムらには理解してもらえると期待されている。これに異を唱えるのは困難だ。

Who could oppose the principle that all human beings are equal, that killing in the name of God is a bad thing, that freedom of conscience is excellent, and that "the basic subject of society is the human person, and the legitimate role of government is to protect and help to foster the conditions for human flourishing"?

人はすべて平等であり、神の名のもとに殺すことは悪いことであり、良心の自由は結構なことで、「社会の基本的な主体は人間としての個人であり、政府の正当な役割は人類が繁栄する条件を守り育むことである」などという信条にだれが反対できようか?

あらゆる人間が平等であり、神の名のもとで殺すことは悪であり、良心の自由はすばらしく、「社会の基本的主体は人間個人であり、政府の正当な役割は人類が繁栄する条件を守り育むことである」、などの信条にいったい誰が反対できようか?

In what follows, however, America turns out to be the aggrieved party and, even though some of its mistakes in policy are acknowledged very briefly (and without mentioning anything specific in detail), it is depicted as hewing to principles unique to the United States, such as that all people possess inherent moral dignity and status, that universal moral truths exist and are available to everyone, or that civility is important where there is disagreement, and that freedom of conscience and religion are a reflection of basic human dignity and are universally recognised.

だがこれに続く部分では、アメリカこそが被害者であるということになっている。それが犯した政策上の誤りも一部は手短に(しかも何ひとつ具体的な事例は挙げずに)認められはするものの、合衆国はその独特の信条──例えば、すべての人々は生まれつき道徳的な尊厳と地位を所有している、普遍的な道徳的真理は存在しすべての人々に開かれている、意見の不一致があるときには礼儀を尽くすことが大切だ、良心と信仰の自由は基本的な人間の尊厳の反映であり、普遍的に承認される、など──を遵守しているとして描かれている。

 だがこれに続く箇所では、アメリカが被害者であるということになっており、アメリカの政策上の誤りのいくつかがごく簡単に認められはしても(しかも特定の誤りの事例には詳しく言及することなく)、アメリカはその特有の信条を遵守しているものと描かれている。その信条とは例えば、すべての人々は生まれながらに倫理的尊厳と地位を有しているとか、普遍的な倫理的真理が存在しすべての人に開かれているとか、意見の不一致があるときには礼節が大切であるとか、良心と信教の自由は基本的な人間の尊厳の反映であり普遍的に承認される、などである。

Fine. For although the authors of this sermon say it is often the case that such great principles are contravened, no sustained attempt is made to say where and when those contraventions actually occur (as they do all the time), or whether they have been more contravened than followed, or anything as concrete as that.

結構なことだ。なにしろ、この長たらしい説教の著者たちは、こうした素晴らしい原則が破られることも稀ではないと述べているくせに、そのような違反が実際にいつどこで起こったのか(いつでも起こっているように)、違反される方が遵守されるよりも頻繁なのかどうか、あるいは何もよいからその程度は具体的なことを述べるつもりはないのだから。

よろしい。この説教の著者たちはこれらのすばらしい原則が破られることもしばしばあると言っているのに、そのような違反がいつどこで実際に起こったのか(実はいつだって起きているのだが)、守られるよりも破られることの方が多いのかどうか、あるいはどんなものでもその程度しか具体的ではないのか、そういうことを述べるつもりはずっとないようである。

Yet in a long footnote, Walzer and his colleagues set forth a list of how many American "murders" have occurred at Muslim and Arab hands, including those of the Marines in Beirut in 1983, as well as other military combatants.

それにもかかわらず、ウォルツァーと同僚たちは長い脚注をつけて、ムスリムやアラブ人の手によるアメリカ人の「殺害」が何件起こったかというリストを掲げている。そこには1983年のベイルートにおける海兵隊員のケースやその他の軍隊戦闘員のケースも数え上げられている。

しかし、その声明につけられた長い脚注の中で、ウォルツァーと同僚たちは、ムスリムとアラブ人の手によるアメリカ人の「殺害」が何件起こったかというリストを示している。それには1983年にベイルートで起きた海兵隊員のケースやその他の軍事戦闘員のケースも含まれているのだ。

Somehow making a list of that kind is worth making for these militant defenders of America, whereas the murder of Arabs and Muslims -- including the hundreds of thousands killed with American weapons by Israel with US support, or the hundreds of thousands killed by US- maintained sanctions against the innocent civilian population of Iraq -- need be neither mentioned nor tabulated.

この種のリストを作成することは徹底したアメリカ擁護者にとっては値打ちがあるのだが、アラブ人やムスリムの殺害 − 合衆国の支援のもとにアメリカ製の武器によってイスラエルに殺された何十万という人々や、合衆国の制裁措置の継続によって殺されたイラクの何十万という無実の一般住民たちを含め− については言及する必要も表にまとめる必要もないというわけだ。

どういうわけかこの種のリストを作成することは好戦的なアメリカ擁護者にとっては価値があるのだが、それに対して、アラブ人やムスリムの殺害については言及する必要も統計をとる必要もないというわけだ。アメリカ製の武器によってアメリカに支援されたイスラエルに殺された何十万人という人や、アメリカの制裁措置の継続によって殺されたイラクの何十万人という無実の一般市民もいるというのに。

What sort of dignity is there in humiliating Palestinians by Israel, with American complicity and even cooperation, and where is the nobility and moral conscience of saying nothing as Palestinian children are killed, millions besieged, and millions more kept as stateless refugees?

アメリカの共謀と協力のもとにイスラエルがパレスチナ人に屈辱を与えることにどのような尊厳があるというのか?

パレスチナ人の子供たちが殺され、何百万というパレスチナ人が包囲され、さらに何百万人ものパレスチナ人が国籍のない難民のままに置かれていることに対し一言も言及しないことのどこに気高さと道義的な判断があるというのか?

アメリカの共謀とさらに協力によってイスラエルが屈パレスチナ人に辱を与えることには、いったいどんな尊厳があるというのか?

パレスチナの子どもたちが殺され、何百万人ものパレスチナ人が包囲攻撃をされ、また何百万人もが国家を持たない難民のままにされているのに、これについて何も言わないことのどこに気高さと倫理的良心があるというのか? 

Or for that matter, the millions killed in Vietnam, Columbia, Turkey, and Indonesia with American support and acquiescence?

そのことについては、ベトナムやコロンビアやトルコやインドネシアでアメリカの支援と黙認のもとに殺された何百万の人々についても同じことが言えるのではないのか?

こうしたことなら、ヴェトナムやコロンビアやトルコやインドネシアでアメリカの支援と黙認のもとに殺された何百万もの人々についてもやはり同じことなのではないか?

All in all, this declaration of principles and complaint addressed by American intellectuals to their Muslim brethren seems like neither a statement of real conscience nor of true intellectual criticism against the arrogant use of power, but rather is the opening salvo in a new cold war declared by the US in full ironic cooperation, it would seem, with those Islamists who have argued that "our" war is with the West and with America.

つまるところ、アメリカの知識人が彼らのムスリムの同胞に宛てたこの信条と不満の宣言は、真の良心の表明であるようにも傲慢な力の行使に反対する真の知的批判であるようにも思われない。

むしろこれは、アメリカによって布告された新しい冷戦の火蓋を切る一斉射撃のように思われる。それが皮肉な形で完全に同調しているのは「われわれの」戦争は西洋やアメリカとの戦いであると主張しているイスラム主義者たちだ。

結局のところ、アメリカの知識人がムスリムの仲間に宛てたこうした信条と不満の声明は、真の良心の表明とも、傲慢な力の行使に対する真の知的批判とも思われない。

むしろこれはアメリカによって宣言された新しい冷戦の火蓋を切る一斉射撃だ。皮肉にもこれと完全に連携しているように見えるのは、「われわれ」の戦争は西洋とアメリカとの戦いであると主張しているイスラーム主義者たちである。

Speaking as someone with a claim on America and the Arabs, I find this sort of hijacking rhetoric profoundly objectionable.

アメリカにもアラブにもその一員としての資格を持つ人間として、わたしはこの種のハイジャック的なレトリックにきわめて不快なものを感じる。

アメリカにもアラブにも主張する権利のある人間として語るならば、私はこの種のハイジャック的なレトリックはひじょうに不快なものだと思う。

While it pretends to the elucidation of principles and the declaration of values, it is in fact exactly the opposite, an exercise in not knowing, in blinding readers with a patriotic rhetoric that encourages ignorance as it overrides real politics, real history, and real moral issues.

それは信条の説明と価値観の表明を装いながら、実際にはその正反対を実践している。「知ろうとしないこと」の実践、愛国的なレトリックで本物の政治や本物の歴史や本物の道徳問題を覆い隠すことによって無知を助長し、読者の目をふさごうとするものなのだ。

それは信条の説明と価値観の宣言を装いつつも、実際にはその正反対で、知ろうとしないことを実践しているのだ。愛国的なレトリックで読者の目をふさぎ、真実の政治、真実の歴史、真実の倫理問題を覆し、無知を助長させているのである。

Despite its vulgar trafficking in great "principles and values," it does none of that, except to wave them around in a bullying way designed to cow foreign readers into submission.

偉大な「信条と価値観」の下品な密売にもかからわらず、この声明文は外国の読者を脅して服従させるための威張りくさったやり方でそれらのものを振り回しただけだ。

偉大な「信条と価値観」の下品な密売にもかかわらず、この声明は威圧的なやり方でそれらを振り回して、外国の読者を服従させるべく脅かしている以外のなにものでもない。

I have a feeling that this document wasn't published here for two reasons: one is that it would be so severely criticised by American readers that it would be laughed out of court and two, that it was designed as part of a recently announced, extremely well-funded Pentagon scheme to put out propaganda as part of the war effort, and therefore intended for foreign consumption.

この文書がアメリカで公表されなかった理由は二つあるのではないかと思う。第一に、公表すればアメリカの読者からこっぴどく批評され、問題外のお笑い種とされてしまうだろうということ、第二に、この文書は、戦争遂行の一環としてプロパガンダを流すという最近発表された国防省の莫大な予算のついた計画の一部として作成されたものであり、したがって外国人に読ませることが目的だということだ。

この文書がアメリカで発表されなかった理由は二つあると思う。第一に、もし発表すればアメリカの読者から厳しく批判され、問題外の笑い種にされてしまうだろうということ。第二に、この文書は最近公表された莫大な予算のついた国防総省の計画の一部として作成された、戦争遂行の一環としてプロパガンダを流すためのものであり、したがって外国人に読まれることが意図されているということだ。

Whatever the case, the publication of "What are American Values?" augurs a new and degraded era in the production of intellectual discourse.

いずれにせよ、「アメリカの価値観とはなにか?」の公表は、知識人の言説の生産における新たな堕落の時代の前兆となるものだ。

何が本当だとしても、「アメリカの価値観とは何か?」の発表は、知識人の言説生産における新たな堕落の時代の前兆である。

For when the intellectuals of the most powerful country in the history of the world align themselves so flagrantly with that power, pressing that power's case instead of urging restraint, reflection, genuine communication and understanding, we are back to the bad old days of the intellectual war against communism, which we now know brought far too many compromises, collaborations and fabrications on the part of intellectuals and artists who should have played an altogether different role.

というのも、世界史上最も強力な国の知識人たちが、その権力と紛れもなく手を結び、自制や反省や本物のコミュニケーションと理解を強く要望するどころか、その権力の主張を押し進めるようになったとき、わたしたちはかつての知識階級の反共闘争という不快な体験の時代に戻ることになるからだ。この反共闘争が、いかに多くの妥協と対敵協力とでっち上げを、本来まったく別の役わりを果たすはずの知識人や芸術家のあいだにもたらしたかということは現在では周知のことである。

というのも、史上最強国家の知識人たちがその権力と目を覆わんばかりに手を結び、その権力の主張を推し進め、逆に自制や反省や本物のコミュニケーションと理解は捨て置いてしまうときに、私たちは知識人らの反共闘争という嫌な昔の時代に戻ってしまうからだ。この反共闘争があまりにも多くの妥協と対敵協力とでっちあげを、本当ならまったく別の役割を果たすべきだった知識人や芸術家の側にもたらしたことは、現在では周知のことである。

Subsidised and underwritten by the government (the CIA especially, which went as far as providing for the subvention of magazines like Encounter, underwrote scholarly research, travel and concerts as well as artistic exhibitions), those militantly unreflective and uncritical intellectuals and artists in the 1950s and 1960s brought to the whole notion of intellectual honesty and complicity a new and disastrous dimension.

政府の助成金や寄付を受け(特にCIAは、Encounter のような雑誌に助成金を出し、学問的な研究や旅行、コンサート、展覧会などへの寄付も出している)、1950年代から1960年代の徹底的に無反省で無批判な知識人や芸術家たちは、知的な誠実と共謀という概念全体に破滅的な新側面をもたらした。

政府から助成金や補償を受けて(とくにCIAはEncounterのような雑誌に補助金を出し、学術研究や旅行、コンサート、展覧会などの費用負担もしている)、過激なまでに無反省で無批判な知識人や芸術家たちは1950年代と1960年代に、知的誠実さと共謀という考え全体に新たに破滅的な次元をもたらした。

For along with that effort went also the domestic campaign to stifle debate, intimidate critics, and restrict thought.

というのは、そのような努力に平行して、討論に蓋をし、批評家に脅しをかけ、思想を制限する国内の運動が繰り広げれたからである。

というのは、そうした努力に沿って、討論を抑圧し、評論家を威圧し、思想を制限する国内のキャンペーンも展開したからである。

For many Americans, like myself, this is a shameful episode in our history, and we must be on our guard against and resist its return.

私自身を含め多くのアメリカ人にとって、これはわたしたちの歴史の恥ずべきエピソードである、そのようなものが復活することに対しては警戒を怠らず抵抗しなければならない。

私のような多くのアメリカ人にとって、これは歴史上恥ずべきエピソードである。そして私たちは、こうしたものが復活することに対して警戒し抵抗しなければならない。