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主要キャストがほとんど黒人の異色西部劇

黒豹のバラード

Posse 
1993年 マリオ・ヴァン・ピーブルズ監督・主演、

場所:キノ・キュッヘ
日時:2004年4月18日(日)16:00〜

解説:佐々木健

 あらすじ
 1898年米西戦争下のキューバ。ジェシー・リー(マリオ・ヴァン・ピーブルズ)率いる小隊は冷酷な連隊長のグラハム大佐の指揮で常に最前線に送られていた。ジェシーはグラハム大佐の指令でオランダ軍を攻撃するが、そこにはグラハム大佐の陰謀があった。オランダ軍は大量の金貨を運んでいて、それをジェシーに奪わせ、そのジェシーをグラハム大佐が捕まえて、金貨をせしめようという計画だったが、ジェシーは危機一髪で逃れアメリカに戻り、自分の故郷であるフリーマンヴィル(自由の町)を目指した。そこはかつて神父だったジェシーの父がアフリカ系アメリカ人(黒人)が自由に暮せる町を建設しようと努力した町だったが、町を牛耳る白人保安官ベイツ等に虐殺されるという忘れられない過去を持つ町でもあった。ジェシーにとってのフリーマンヴィル行きはそんな父を虐殺した白人たちへの復讐の道程でもあった。町に着くとそこは一見黒人が自由に暮す町に見えたが、鉄道の利権にからみ、ベイツを先頭にした白人たちによって黒人が追い出されようとしていた。その上、奪われた金貨を取り換えそうとするグラハム大佐が殺し屋を雇い執拗にジェシーを追ってきた。白人達の陰謀を知った町の黒人たちは、ジェシーに白人との戦いに対し援助を依頼する。ジェシーは町の仲間(黒人達)とともに、ベイツやグラハム大佐を死闘の元に倒すのだった。

 解説
 19世紀末の西部を舞台に、白人の暴力的な支配に立ち向かった、黒人アウトロー集団の戦いを描いた異色西部劇。これまで西部劇に黒人のガンマンが登場することはなかったが、ピーブルズは初期の西部には8千人以上の黒人カウボーイが存在したという。かつて黒人が土地を手に入れようとすると、白人によてリンチされ、その結果、アメリカの総人口2億6千万人の約12%(3千万人)を占める黒人が所有する土地の割合はわずか全体の0.5%に満たないという。そうした現在に続く不正をピーブルズは西部劇の時代にまで遡って訴えようとした。

 黒人たちの視点に立ち、黒人のガンマンを主人公にした異色西部劇で、これまでの西部劇のエッセンスをふんだんに取り入れた、画期的な西部劇である。

 たとえば、アメリカに鉄道が引かれる話は、ジョン・フォードの初期の名作「アイアン・ホース」で取り上げられたテーマで、東部から西部への大陸横断鉄道建設の苦労話なのだが、ネイティブ・アメリカン達を虐殺しながら、進めたことなどはそんなに描かれていない。しかし、その工事には当時移民として西海岸に住み着いたと言われる中国人や黒人が従事していたことは描かれていて、この「黒豹のバラード」でも中国人がネイティブ・アメリカンと一緒に働いている様子が映しだされている。

 また、無法者が保安官(?)に追われ続けるという話は、アメリカン・ニュー・シネマの名作サンダンス・キッドとブッチ・キャシディの物語「明日に向かって撃て!」を思わせ、列車から馬に乗った追ってが、飛び出すシーンなどまさに「明日に向かって撃て!」のシーンそのものだ。ジェシー・リー率いる黒人アウトローの五人が夕日をバックに馬に乗って歩いてくる姿など、「荒野の七人」や「荒野の決闘」を思わせ、悪徳保安官ベイツを町が迎え撃つという話など、ゲーリー・クーパー主演の「真昼の決闘」にもダブッてくるのだ。そうしたこれまでの西部劇のエッセンスがたっぷりで、エンタテイメントでありながら、黒人の視点から捉えたのは監督マリオ・ヴァン・ピーブルズならではと言えるだろう。

 マリオ・ヴァン・ピーブルスは、1991年に「ニュー・ジャック・シティ」で監督デビュー。そして1993年「黒豹のバラード」1995年「パンサ ー」を撮っているが、非常にメッセージ性の強い作品を作っている。

「パンサー」は「黒豹〜」にも増して挑発的な作品で、1960年代に結成され暴力集団として恐れられた「ブラック・パンサー党」の暴力的なイメージを破壊した作品と言える。ブラック・パンサー党は1965年のマルコムXの暗殺とロサンゼルスのワッツで起った黒人の暴動の後で、ヒューイ・ニュートンとボビー・シールを中心にして出来上がった自衛的組織であり、それに暴力集団というレッテルを植え付けたのはFBIにほかならなかった。。ブラック・パンサー党は、暴力集団ではなく黒人の権利の拡大や集団検診による健康維持の普及、貧しい子供たちへの無料の朝食の支給などに務めたのだ。しかし、ブラック・ パンサー党とそれを支持する黒人社会の拡大化を阻止しようとして、FBIはマフィアを利用し、大量の麻薬を黒人社会にまん延させた。その結果1970年には30万人しかいなかった麻薬患者数は、いまではその10倍にあたる300万人にも増大したのだ。ピーブルズはこうして黒人の側から黒人の視点で作品を作り続けている。彼がこうした映画を製作するようになったのは多分に父親の影響がある。

 父親の名前はメルヴィン・ヴァン・ピーブルズ。1960年代の後半、ハリウッドの大手の映画会社の作品を初めて手がけた黒人監督は、ゴードン・パークスであり、1969年「ザ・ラーニング・トゥリー」を撮り、第二作の「黒いジャガー」は大ヒットした。それと前後してオシー・デイビスが1970年に「ロールスロイスと銀の銃」を監督、同じ年にコメディー映画「ウォーターメロンマン」をメルヴィン・ヴァン・ピーブルズが監督した。メルヴィン・ヴン・ピーブルズはその翌年次回作の監督をコロンビアから依頼されたが、それを断り、製作、監督、脚本、主演まで全てを自分でこなした「スウィート・スウィートバック」を製作。この映画はアース・ウィンド&ファイヤーを音楽に起用し、長いこと白人に虐げられてきた黒人にとり、思わずざまあみーろといいたくなりそうな映画だったらしい。そしてこの「スウィート〜」が当たり、黒人が作ったインディーズ史上に残る興業成績をあげ、この作品の成功によって、ピーブルスは黒人映画人たちから伝説的な存在といわれ今に到っている。1990年には自分の息子である、マリオ・ヴァン・ピーブルズを主演にして「アイデンテティ・クライシス」というコメディー映画を撮り、そのマリオが1991年「ニュー・ジャック・シティ」でデビューし、「黒豹のバラード」では息子の作品に父親のメルヴィンが出演するという道をたどるのだ。

 マリオ・ヴァン・ピーブルズは白人批評家からの受けは良くないらしいが、スパイク・リーに続く黒人映画監督として貴重な存在と言える。

 次回は彗星の様に登場し、アカデミー賞の監督賞に「市民ケーン」のオーソン・ウェルズの26歳での最年少ノミネーションを抜き、23歳でノミネーショ ンされたという、ジョン・シングルトンの「ボーイズン・ザ・フット」を見る予定です。5/23(日)PM4:00からの予定です。