エル・エスパシオ・ラ・ペリクラ

9月の映画研究会「ニュー・ジャーマン・シネマ」第二段は、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督。参考上映は戦後ドイツ史を描く三部作の最初の作品「マリア・ブラウンの結婚」

「マリア・ブラウンの結婚」

"The Mariage of Maria Braun" directed by Rainer Werner Fassbinder  1979
参考上映:
場所:キノ・キュッヘ
日時:2002年9月15日(日)15:00〜

解説:佐々木健

■ニュー・ジャーマン・シネマ

 第二次大戦後のドイツ映画は、惨憺たる状況。ナチス政権と第二次大戦が、ドイツ映画の発展史に大きな溝を刻みつけた。「新」と「旧」の対立。当時デビューした新人監督の誰もが、映画産業から職人的な仕事を学びとることが出来なかった。

 1962年オーバーハウゼンの西ドイツ短編映画祭に集まった26人の若い映画人たちが、現在の映画機構そのものを批判し「祖父の映画は死んだ」というモットーのもとに、全く新しい映画の制作を試みることを高らかに宣言した。(「オーバーハウゼン宣言」)

連邦内務省から映画製作の助成金を引きだすことが出来て、計画が実現への道を歩みだした。

●特徴
 西ドイツの現在の日常生活を社会批判的に描くもの。現実逃避を目的とする「夢の産業」の映画界と決別して、乾いた目で日常を見据えようとする姿勢。

 監督作品の台本を自分で書いている。分業のシナリオライターとは違う映画作家(フィルムアウトーレン)。
「昨日からの別れ」クルーゲ、
「それ」ウルリヒ・シャモニ、
「キツネの禁猟期」ペーター・シャモニ、
「テルレスの青春」シュレンドルフ(ルイ・マル、メルビル、アラン・レネの助手)等

●新人監督の第2世代(「ニュー・ジャーマン・シネマ」)
 ヘルツォーク、ファスビンダー、ヴェンダース、シュレーター、少し遅れてジューバーベルク。

 国際的に非常に高い評価を得て、多くの映画祭で受賞。

■ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー

 ドイツの映画館の困難な状況のなかで他の作家は1度でも財政的に破産すると回復が不可能だったことを考えると、ファスビンダーの予算をぶんどるエネルギーは驚嘆に値する。

「私は他に私と同じやり方をする監督が世の中にいるとは思わない。わたしの場合、前もって動機を見抜いていたりすることはない。前もって何も計画していなかった何かを手に入れていけることが魅力なのだ・・・私がある空間に入って私が想像していた場面を目にした瞬間に、初めて私にとってある姿勢が生まれてくる。新しい空間では、まさに私にとって新しい事が生まれてくる。前もってすでに知っている空間よりもはるかに緊張感がある。」(1)

●彼は撮影の場合に空間の狭さに対して反抗せざるをえないような状況を必要とする。「シナのルーレット」ではストーリーより先にロケの現場を見つけ、空間と演技者から出発してストーリーを発展させていった。 空間から発する狭さ、光さえもっている偏狭さが、初めから彼の監督作品の特色となっている。(1)

●ファスビンダーの数ある作品の中にある一貫した要素を乱暴に要約してみるなら、それは何かある重要なものが失われた、という喪失感であると思う。もっと具体的に言えば、かつてあったある秩序意識や価値観が、いま、実に空しく感じられ、それを埋めるべき他のものも見当たらない、ということであり、それはナチス・ドイツの崩壊後、西ドイツはそれに代わるどんな理想を生み出し得ただろうかという問いかけになる。この問いかけは、ほとんどそのまま、日本人にも当てはまるものである。(「世界映画史」佐藤忠男著)

■「マリア・ブラウンの結婚」(1978)

 ファスビンダーはこの映画によって、西ドイツの歴史をみごとに抽出する彼の作業を開始した。この映画のテーマは、第二次大戦後、経済復興の時代であり、一人の女性が、強い意志力と、冷静な打算で社会的な成功の道を歩んでいくが、自分の愛している男との関係によって破壊する姿を描く。

「ファスビンダーが関心を抱いたのは、ヒロインからさらに発展していくストーリーである。彼は戦後史の中に、断絶よりも、戦前からの小市民性、奴隷根性性が継続していることを追及しょうとしたのである。」(1)

●ファスビンダー・インタビュー
「我々は、ドイツの歴史について本当に少ししか知りませんから、第一次情報に取材していくらか補充しなければならないということです。映画作家としては、つまり、この情報を使って観客に語りかける物語を作るわけです。これはその真実を観客に把握できるようにする以外の何ものでもありません。今日、またも、不安を抱かせるような徴候がいくらでも出ています。例えば、平穏や規律への呼びかけとかね。」(2)

「私はこの作品で現代社会に欠けている、いわば歴史を補充しようとしたのです。我々のデモクラシーというのは当時、西側から与えられたもので、我々自身で闘い取ったものではありません。だから古い体制はつけ入る隙をいくらでも見つけられるわけで、もちろん、ハーケン・クロイツなどを持ち出さずに、ただ、古い教育法を持ってくるだけで十分。再軍備が実にすばやく行われたのには驚いた。若者達の革命の試み(社会への反乱)は全く感動的だった。私も50年代がいかに60年代の人間を作ったか、用意したかを描きたかった。この種をまいた人たちとその結果現れた人たちの衝突が、テロの異常さへと押し進んだわけです。」(2)

「映画館の電気が消え、夢がはじまります。潜在意識の世界になるのです。映画館に足を運ぶ人は、そこで何が起きるかある程度知っています。そういう人に私は更に興奮を期待できるし、その人がそうした興奮に喜びを見いだすということも期待できる、そう自分にいいきかせます。観客に対しては、決して、迎合してはいけません。常に挑戦的であるべきです。」(2)

「最初の頃は、僕も悪い抑圧者や哀れな犠牲者を提示する映画をつくった。しかし、これでは結局うまくいかない。哀れな犠牲者や悪い抑圧者など存在しないのです。犠牲者だってたいてい自己主張できるし、それは場合によっては、社会的には必ずしも喜ばしくない結果にもなる可能性なのです」

「ぼくは、犠牲者が自分の加害者を探し求めるほうが、その逆の場合より多いと思う。政治的には間違っているかもしれないけれど、プライベートな領域ではそうです。抑圧者を探し求めるより、犠牲者を探すほうがはるかに難しい」(「世界映画史」佐藤忠男著))

■「マリア・ブラウンの結婚」(戦争による破壊の後の最初の再建)、「ローラ」(再建のあとの最初の破壊)、「ベロニカ・フォスの憧れ」(第三帝国の過去と西ドイツの未来とのあいだの過渡期の状況、忘却と忘却不可能、固執と断絶による出発がテーマ)の三作品を、戦後ドイツ史の三部作とファスビンダー自身呼んでいた。だが、ファスビンダーは西ドイツ史を現在まで追っていこうとしていた。彼の死後、彼のあとを継ぐような作家も生まれてはいない。

戦後の奇跡的復興を遂げた西ドイツと似た環境を持つ日本を考えた時、日本にファスビンダーのような作家は存在しない。日本の戦前・戦中・戦後史を追うような巨視的な捉え方ができる作家の出現は、あり得ないものかと思う。

 ファスビンダーの早すぎる死が悔やまれる。

参考文献

(1)「ニュー・ジャーマン・シネマ」ハンス・ギュンター・ブフラウム・ハンス・ヘルムート・ブリンツラー
(2)映画「ベロニカ・フォスのあこがれ」のパンフ

(佐々木 健) Contact
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