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2003年3月 第21回映画研究会ではケン・ローチを取り上げました。

ケス

ケス/ケン・ローチ/1969年/イギリス

場所:キノ・キュッヘ
日時:2003年3月16日(日)16:00〜

解説:高田絵里

(佐々木さんの解説)
● 2000年「ブレッド&ローズ」、2001年「 ナビゲーターある鉄道員の物語」、2002年「SWEET SIXTEEN」「セプテンバー11」と精力的に作品を発表しているケン・ローチ監督。
1967年に「夜空に星のあるように」を長編劇場映画第一作として発表して以来、ケン・ローチ作品の多くは、同時代のイギリスの労働者(底辺)階級の日常を背景として、社会の諸問題と対峙する主人公のドラマを描いてきた。しかし、社会の犠牲者としての悲惨さだけではなく、どこにでもいる普通一般の労働者階級の人々の姿を冷徹ともいえる視線でとらえている。人々は生活のために仕事をし、いろいろな困難に耐え忍び、わずかに出来る抵抗を試みたりもする。そこには制度や資本主義的な抑圧など巨大な権力の姿が見え隠れする。
ケン・ローチの映画を製作順にたどっていくと、イギリス社会の変貌振りとそこに住む労働者(底辺)階級の生活、奮闘振りが見えてくる。それはまさに日本に住む私たちにとっても他人事ではない。「どう進むにせよ、そこに住む人々が、自分自身の未来を握っているのだ。」とうことを、ケン・ローチは語り続けているように思える。世界中から映画界の至宝ともいわれるケン・ローチ作品にアプローチしてみたい。

● 映画「ケス」はローチの長編第二作目の作品。主人公のビリーはヨークシャーの炭坑町に暮す、母と炭坑で働く兄と三人暮らしの父親不在の15歳の少年だ。母親には関心を持たれず、兄からは暴力を振るわれるといった日常の環境で、小遣い稼ぎに新聞配達をしている。ある時近所の農園にハヤブサの雛がいるのを目にし飼いならすことにする。図書館では保証人のサインがないなら本は貸せないと言われ、町の古本屋で万引きした本で、ハヤブサの飼いならし方を独学で覚え、ハヤブサを飼いならす。そのことにより、何の取り柄もない少年だったビリーを学校や、周囲の人間が認めるようになってくるのだ。
ある日、兄から頼まれた競馬の賭け金を買わずに着服するが、その馬券が当たってしまい、兄の逆鱗に触れ、ハヤブサを殺されてしまう。兄は競馬に勝っていたら、一週間、キツイ炭坑労働から解放されていたのだ。唯一の自分のよりどころだったハヤブサを殺されて、兄をなじり悲しむビリーだが、静かにハヤブサを埋葬する。そうして、すこしづつ大人になっていく。
まあこうした静かな映画なのだが、この舞台となるイギリスの時代背景を考えていくといろんなものが見えてくるのだ。まずビリーを虐待する兄は、町の炭坑で働いている。60年代のイギリスではまだエネルギー資源としての石炭は有効な時代だが、炭坑での労働は決して楽ではなく、もし自分に能力やチャンスがあれば違う仕事に付きたいと誰しもが考えている。しかし、ビリーたちの就職相談では、出来の悪い生徒は、「希望は炭坑への就職」という風に面接官により勝手に記されてしまう。この当時イングランド北部ではビリーの様な少年たちは、熟練を要さない労働の為に必要とされたという。いわゆるビリーの兄弟たちは生涯を炭坑で働くことを期待されていたという訳だ。ビリーがハヤブサを育てる才能を持っていたとしても、社会にそれを受け止める受け皿がない。その上、ビリーがもし炭坑で働かないとしても同じような境遇にいる誰かがビリーにかわるだけなのだ。いわゆる、ビリーたち少年は自分の可能性を受け入れてくれる社会がなく、希望すら持てない社会に暮しているのだ。それでもビリーはちっぽけな万引き程度の悪事を働く程度で、犯罪には走らない。ビリーの兄ですら、弟や母親を虐待するが、犯罪までは手を染めず炭坑で働いているのだ。今という時代を考えるとそこがまだ、60年代という時代が持ち得ていた良心なのかも知れない。
この映画には、バリー・ハインズという小説家の「鷹と少年」という原作がある。そこでは「ハヤブサが中世社会では最下層の人々によって自由に所有できる唯一の動物だった」ことを説明する引用からはじまる。まさにハヤブサが平等主義の象徴的な存在であった訳だ。こうしたモチーフが映画に移し変えられる。あらかじめ将来への希望や想像をはく奪された存在である15歳の少年ビリーのドラマは、イギリスのみならず、あらゆる世界で生活する人々のドラマたりうるのだ。
「ケス」はそうした時代の社会に対する警告でもあるのだが、映画に登場する人物はみな忍耐強くいきていることが描かれている。そうした普通の人々の生きる姿勢に幾ばくかの希望を見い出したい映画なのだ。

● 「ケスから SWEET SIXTEENへ」
23年後の2002年、ローチは「SWEET SIXTEEN」を製作する。ビリーと同じ、15歳の少年リアムが主人公の映画だが、この23年の間にイギリスの社会も大きな変貌があった。労働党と保守党という2大政党間には70年代に到るまで、具体的目標や手法の違いは別にすると、広いコンセンサスが存在した。しかし、アジア諸国の独立による植民地支配の終焉、イラン、エジプトからの撤退という風に軍事的な支配も終わりを遂げた。国内では50年代から続く経済危機、国鉄の再建合理化政策、西インド諸島からの移民の増大による失業の増大、社会サービスへの圧迫、人種差別をめぐる紛争などがあり、産業近代化政策による石炭産業が削減され、炭坑労働者数は60年代の10年間に半減したといわれる。また、イギリス経済の疲弊の原因は労働組合にあるという認識のもと、規制政策が取られ、70年代終盤のサッチャー保守党政権下では、労働関係の法規制が相次ぎ、公共事業の民営化が次々に行われた。90年代に入り、労働党は政権の座についたが、労働組合や党内の戦闘的な左翼勢力やそうした路線を排除し、民営化の規制事実を認めて、市場原理に基づく経済を認めていった。その結果貧富の差が広がり、富の分配の不平等は健康、教育の不平等につながり、福祉国家政策も最下層の非熟練労働者の救済にはつながらなかった。
そうした状況下での、15歳の少年リアムは、麻薬の売買をしている愛人の肩代わりで刑務所生活をおくっていた母親が自分の16歳の誕生日に出所してくるお祝いに、母に家をプレゼントしようとする。いままでは、望遠鏡で子供に星をみせたり、パブでタバコを売ったりして小銭を稼いでいたのだが、そんなお金では家を買う頭金にすらならならない。いまだかつてなかった家族を少年は求めたわけだが、この映画でも父親は不在だ。家庭の経済的基盤である稼ぎ手の父親の不在がもたらすひずみが両方の映画に通底しているように見える。
リアムは結局母親の愛人がやってたのと同じ麻薬の売買に手を染めてしまうのだ。そうなると胴元の麻薬組織との関係が生まれ、その世界に引きずり込まれる。どんどん麻薬を売りさばき、組織の首領から家を貸してもらえるまでになる。そうまでして用意した家で母が出所してきた晩にお祝いのパーティを開く。しかし、翌朝母はいなくなり愛人の元へ行ってしまっていた。愛人に依存し帰ろうとしない母親に、「一緒に新しい生活を始めよう!」と説得するリアムだったが、母は帰ろうとしない。リアムを小馬鹿にする母の愛人に逆上したリアムはナイフで彼を刺してしまう。
呆然として浜辺を歩くリアムの携帯電話に唯一彼のことを心配している姉から「今日はあなたの16歳の誕生日よ、あなたを愛しているわ」というメッセージが届く。新たな家庭を築こうとした夢がもろくも崩れ去り16歳になったリアムに、その一言は、生きていくかすかな希望を与えた。
二つの映画を並べてみると、その生きている時間が現代はとても早く過ぎていく事に気づく。「ケス」のビリーの生きる時間には、ハヤブサを飼うという自分自身を確立させる時間が存在していたように思えるのだ。それに比べ「SWEETSIXTEEN」のリアムはすごく生き急いでる様にみえる。母親と暮すという希望を失い、殺人を犯してやっと自分自身を取り戻すことが出来たというのでは、あまりにもその代償は大きいではないか。しかし、そうした喪失をスタートラインにするしかない時代にリアムも我々も生きているのかもしれない。

●「ケス」はレンタル屋さんにありますが、「SWEET SIXTEEN」はまだビデオ化されてないみたいです。また「ケス」の中で、ビリーが食べる「フィッシュ&チップス」はイギリスでは古くから食べられている料理です。キノ・キュッヘで、日替りのお薦めメニューになることもあります。