アジア連帯講座 2003
新自由主義的グローバリゼーションにNO!を
北朝鮮の民衆は、いま
3月1日に行われたアジア連帯講座「北朝鮮の民衆は、いま」が終了しました。講師の加藤 博さん(北朝鮮難民救援基金事務局長)からは、おもに在中国の脱北者の厳しい状況が紹介され、日本政府は北朝鮮難民を支援する責任があることなども語られました。加藤さんの詳しい報告は今後UPする予定です。
以下の資料は、講座当日に司会者から提起された朝鮮民主主義人民共和国の状況を理解する上での歴史的背景です。
これまでの講座報告はこちら

  今日は3月1日。朝鮮半島の人々にとっては独立記念日にあたる。1919年のこの日にソウルのパゴダ公演に集まった学生ら5千人が発した「独立万歳」の叫びは朝鮮全土に広まり、2ヶ月間に千回をこえる(日本側調査の数値)集会・デモが繰り広げられ日本軍(朝鮮総督府)の徹底した武力弾圧で八千人が死亡、五万人が投獄されたが、独立運動の存在を全世界に知らしめる闘いとなった。
 今回の講演では朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)北部の中朝国境地帯での難民(脱北者)問題がテーマとなるが、この地域(朝鮮半島北東部)の現代史を振り返る中でこのテーマを位置づけておきたい。

 日帝支配時代
 この地域の人ぴとが新たな開墾地を求めて中国東北部やロシア極東部(沿海州地域)に散発的に移住し始めたのは19世紀中頃からとされる。移住が本格化するのは20世紀に入り日本の朝鮮植民地支配が強まる中で農地接収、日本人の半島への大量移入、半島産米の日本輸出などで農民が貧窮化してからである。1910年に韓国を併合した日本はすぐに「土地調査事業」を名目にして農民からの土地強奪を図り、「産米増殖計画」(23ー34年)によって朝鮮を日本への食糧供給基地とし、日本への米の供出を4倍にも増やして農民の営農基盤を破綻させていった。また朝鮮半島に流入してきた日本人(民間人)の多くは朝鮮人への貸金業を副業としていた。返済出来なくなるのを見越して金を貸し付け担保にしていた土地や財産を次々と手に入れていった。「官民挙げて朝鮮を食い物にしていた」のが日本帝国主義の朝鮮植民地支配であり、こうして生活を破綻させられた朝鮮人の多くが中国東北部への移住を余儀なくされた。日本による国策移民として当時の満州に送り込まれた移民者も多く存在する。またロシア沿海州に移住していた朝鮮人17万人は1937年にスターリンによってはるか彼方の中央アジア地域(ウズベキスタン、カザフスタンなど)に強制移住させられている。理由は「朝鮮人は日本のスパイになりやすい」というものだった。こうして中国東北部(吉林省・黒竜江省・遼寧省)に移住した人々の子孫が現在の中国朝族を構成し、人口は約二百万人。北朝鮮からの脱北者を彼ら彼女らがかくまい、支援するのは、かつて自分たちの親が朝鮮の地を追われ、離れざるをえなかった悲しみや怒りを共有するからだと言われている。
 だがこの地域は日帝の朝鮮植民地支配時代には抗日義兵闘争、抗日パルチザン闘争の拠点ともなった。「日帝打倒」「独立」をかかげる朝鮮や中国のゲリラ部隊が縦横無尽に活動していた。1909年に朝鮮人民の憎しみの的であった統監伊藤博文を安重根が撃ち倒したのもこの地域(ハルビン)での闘いだった。

 ソ連軍の進駐
 日帝の敗戦とともに今度はソ連軍が金日成を引き連れて朝鮮北部地域に進駐してきた(1945年10月)。だがソ連軍の振る舞いは決して「解放者」と言えるようなものではなく、新たな略奪者の侵入以外のなにものでもなかった。進駐してきたソ連軍は日本がこの地に遺棄していった工業・発電施設の主要機器類をソ連国内に持ち去った。本来ならこれらの施設は朝鮮の再建・復興に再活用されるはずのものだった。そしてソ連軍はなんと、20万トンの米の供出を朝鮮に命令した。これは当時の朝鮮半島全体の米生産高の4分の1にあたる量である。このために人々は「細民層の大部分が飢餓線上にある」「都市や農村に飢餓が現出する現状」(人民裁判所報告)に追いやられた。新義州では三千人が「コメを返せ」と暴動を起こし数百人の死傷者が出る事態となった。進駐ソ連軍が重視したのは金日成を使った左翼諸勢力の取り込みによる北朝鮮の衛星国化であった。

 朝鮮戦争(1950−53)
 解放(光復)後の1945-50年の間には、地主階級解体(土地没収)・土地再配分が実施されて貧農層にもかすかな光明がさしこもうとしていた矢先に朝鮮戦争が勃発した。そしてこの戦争は北朝鮮の国土と国力を百パーセント破壊し尽くし、荒廃させ、無力化させてしまった。南北あわせて死傷者は三百万人を越え、朝鮮半島北部を中心に日本に投下された爆弾の三倍が投下され、戦争末期には米軍爆撃手が「もはやこの地域には攻撃目標とするものなど何もない」と言うほどに徹底的に破壊しつくされた。朝鮮戦争では日本空襲で使用された焼夷弾よりもはるかに殺傷力の強いナパーム弾が使用されている。また夜間の作戦行動をとる中朝軍に対して米軍(国連軍)は重火力砲の無制限砲撃(24時間継続)で対抗し、米国内ではマスコミが「弾薬の使用量が異常に多く浪費だ」と書き立てるほどのものだった。
 朝鮮半島全域を南に北にと双方の主力軍部隊が2度にわたって往来して全土を戦場化し、全住民をも巻き込んだこの戦争の破壊と殺戮の実相はまだまだ闇の中にある(とりわけ北朝鮮において)。 

 戦後復興(1953ー70年)
 北朝鮮における復興プロセスは「ゼロからの出発」どころか「マイナス値からの再建」であり、この時期は最低限の衣・食・住ラインを確保するための大規模な労働力動員の連続であった。金日成は晩年に「朝鮮戦争そのものよりもその後の復興事業の方がはるかに大変だった」とこの時期を回顧しているがこれは率直な指摘である。そしてその期間は1960年代いっぱいまで続いたと見るべきだろう。かつて日本が高度経済成長に入り「もはや戦後は終わった」と自信を持って内外に宣言したのは終戦から20年後の東京オリンピック開催時であった。北朝鮮にとって朝鮮戦争休戦から20年と言えば1973年になる。ちょうどこの時期からピョンヤン市内にはポツリポツリと高層建築物が建ち始めている。そしてこの後に訪れた1970年代の数年間が北朝鮮の人民にとっては唯一の「相対的安定期」だったのではなかったかと推測される。

 
金父子による失政と今日の食糧難(1980年代ー今日)
 1973年は金正日が労働党中央要職へと進出した年でもある。以降、金正日は金日成になり代わって「指導」にあたるようになり、三大革命小組という紅衛兵 をまねたような組織と運動を展開、「百日間戦闘」「速度戦」など称した運動を生産ラインで繰り広げ確実な成果を上げたと賞賛されれたりしたが、実際にはまったく逆効果で金日成が急きょやめさせたとも言われている。また金正日登場とともに軍重視の徹底化が図られ、ピョンヤン市内には民生向上とは縁もゆかりもない巨大記念碑や高層建築物の建設が相次いだ。こうした政策が徹底して優先され民生向上のための長期プランは、現実を無視した増産計画や「ザル勘定」の成長目標達成報告によってないがしろにされた挙げ句に80年代から食糧不足・食糧難の兆候が現れ始めた。これは北朝鮮脱出者のだれもが共通して指摘している。ソ連・東欧の崩壊によって今日の経済難がもたらされたのではない。

 帰国事業について
 北朝鮮からの脱北・亡命者の中に、かつて1959年から開始された日本から北朝鮮への帰還事業で北朝鮮に渡った在日朝鮮人、その日本人配偶者らが含まれ、その中の40人ほどがすでに日本に帰国していることが伝えられている。この中で帰還事業そのものが問題視され、当時の「帰国熱を煽った」マスコミ、そして朝鮮総連の「責任」が論じられている。こうした一面があったことは事実であろうが、この一事をもって帰国事業そのものを論難するのは木を見て森を見ない暴論だ。
 日本帝国主義敗戦時(45年8月)の在日朝鮮人は200万人に達していたが、その中の140万人は46年2月までに帰国、あと60万人の人々は米ソ両国の朝鮮半島への進駐、独立・再建をめぐる左右諸派・民族主義諸派の対立と抗争などの本国の政情不安、帰国時の財産持ち出し制限などを理由に早期の帰国を断念した。この残留朝鮮人60万人の存在に業を煮やしたのは日本政府だった。46年3月には「強制送還を認めてもらえないか」「朝鮮人を可能な限り多く送還することは日本政府の最も希望するところだ」(00年外務省公開文書)と、希望者の減少を理由に帰還事業を中止しようとしていたGHQ(連合軍総司令部)に執拗に迫った。また内務省も「送還が中止になれば多数の朝鮮人が残留し治安警備に重大な支障を来す。朝鮮人送出を積極的に進めるべきである」(46年3月の通達)と排外主義を煽った。これが当時の国策(在日朝鮮人政策)の基本であったとすれば、地域社会での在日朝鮮人迫害・差別・蔑視がどれほどひどいものであったかは推して知るべしだろう。
 また北朝鮮との間で1959年からの帰国事業の仲立ちをしたとされる日本赤十字社の「人道主義」はどこまで誠実なものであったと言えるのか。当時の日赤外事部長・井上益太郎は言い放っていた。「日本政府ははっきり言えば厄介な朝鮮人を日本から一掃することに利益を持つ。もしポーランド政府がプロイセンから一切のドイツ人を追い払ってしまったように日本政府が第二次大戦後の領土変更に従い日本にいる朝鮮人を全部朝鮮に強制送還できたならば紛争の種子を予め除去したことになり日本としては理想的なのである」と。そしてそこまでやらないのは日本が自由主義の国なのだから朝鮮人は帰国問題で騒ぐべきではないと、強制連行の歴史すら棚に上げて逆に「恩を売ろう」とさえしていたのだ。
 1959年に北朝鮮への帰還事業が開始された当時、終戦後も日本にとどまっていた朝鮮人の多くは戦後14年間に差別と迫害に立ち向かいながらこの地で人生と生活の基盤を築き始めていた。だから58年に金日成が「みなさんを祖国の立派な公民として温かく迎え入れる」と帰国熱烈歓迎の呼びかけを発した時には誰もが軽挙して応じたわけではない。誰もが未知の祖国朝鮮と生活基盤形成途上の日本との間に引き裂かれながら苦悩したはずだ。「自分はともかく子供や孫の世代にまで日本での迫害や差別の屈辱を味わわせたくはない」と未来への希望を託して帰国を決断したというのが実情の大半だったのではないだろうか。そして当時の在日朝鮮人のこうした苦悩と葛藤を、今日の北朝鮮脱出者の置かれている境遇に重ね合わせてみていく視点こそがいま問われている。

 金日成と金正日の意図せざるメッセージ
 晩年の金日成は毎年の新年のメッセージで「白米と温かい肉のスープを食べて、絹の織物を着て、かわらぶきの家に住むことが朝鮮人民の世紀の願いであります」と語り続けていた。そして金正日は昨年9月に「いまだに人民の生活は困難であり領袖(金日成)の意図を貫徹することができない」でいることを明らかにした。いずれの発言も北朝鮮のメディアが公式に伝えたものである。
 北朝鮮の独裁的執権層が10年以上の長きにわたる民への失政を公に認めているのだ。ピョンヤン市周辺に密集する200万人の特権市民層の対極に衣食住すらままならない住民層が放置され続け棄民化されている実情の一端が他ならぬ北朝鮮メディアを通して明らかにされたのだ。金王朝支配体制への従順度を基に「10年以上にわたって選別的に優遇し、選別的に棄民化する」という強権統治は「失政」ではなく意図的な「迫害」そのものである。「政治的意見などの理由で迫害を受けるおそれのある」とする難民条約の中の難民認定条項は、北朝鮮のこうした身分制差別社会システムにピタリと符合する。もはや「飢餓難民」だとか「経済難民」だとかの概念規定遊戯に明け暮れるべき時ではない。「食べるために」「生き延びるために」「子供の将来のために」と脱北してくる人々をとりあえずは国際的合意の下で受け入れるための機関設立は急務の課題となるだろう。



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